第9話 魔人
恐れていた日がきた。
今夜、魔人がアリを連れ去りに来るだろう。逃げても無駄だが、そもそもシューは逃げない。迎え撃つつもりでいる。アリも、戦う覚悟、守られる覚悟を決めたようだ。だが、易々と勝てる相手ではない。
ビドゲルは、人をやめる覚悟を決めていた。
であれば、勝つ可能性も出てくる。少なくとも、シューとアリを守り、数十年は回復不能なダメージを与えてやる。自分の中に、まだそれだけの火をともす何かがあることに驚かされた。
街の地下通路に、それは現れた。暗闇の中に、さらに暗い人影として。風のような声が言う。
「よく逃げずに待っていたな。逃げても無駄だと分かっていたのか。それとも、まさか戦おうと思っているわけではあるまいな」
乾いた笑い声が響くと同時、シューが突きかかっていった。しかし、本体に届く前に、見えない壁に弾かれてしまう。
「くくく、前回は不覚を取ったのでな。今回は、防護壁を纏ってきたのよ。我は臆病ゆえ」
「へっ、引き籠りの骸骨野郎が考えそうなこった」
シューは跳びのくと、上下左右、様々な角度から剣戟を振るった。その全てが弾かれ、魔人は、ゆっくりと散歩するようにアリの元へ向かうが、その前にビドゲルが立ちはだかった。アリが詠唱を始める。
我らが王よ
不遜なる者に一撃を
剣の王、槍の王、弓の王よ
汝の僕たる同胞の誇りを知らしめよ
汝の仇たる不義の誇りをおとしめよ
影に隠れし者は明るみに
日に隠れし者は暗がりに
不遜なる者に一撃を
不遜なる者に一撃を
知らしめよ
おとしめよ
アリの詠唱が終わると同時に、魔人を覆っていた圧が消えうせ、シューの剣戟が通り始めた。身体中を突かれ、斬られながら、魔人は、歩みを止めずにビドゲルの前に立った。
そこをシューの鉾が貫く。
左のわき腹から串刺しにされながら、手を叩いて拍手をしてみせる。
「なかなかどうして。やるじゃないか。躊躇のない太刀筋もいいし、冷静な詠唱もいい。だが、我も不死者よ。ビドゲルと言ったか、貴様のような出来損ないと違って、力も知性も欲望も持ち合わせているがな。この程度のことで、どうしようというのだ」
鉾を無理やりに抜き取って、一閃、シューが魔人の首を斬り飛ばした。地面に転がって何か喋ろうとしたその首を叩き割る。崩れ落ちた身体も、切り刻むようにして止めを刺した。
「独り言は、独りでやってろ」
シューは、砕けた頭蓋骨を蹴り飛ばした。割れた眼窩の奥が赤く光り、わらって見せた。と、不意にビドゲルの体から血しぶきが上がった。誰かに切りつけられたように。左のわき腹から串刺しにされたように。
シューは、ビドゲルの首が斬り飛ばされ、地面に落ちて砕ける様を見た。まるで自分がビドゲルの首を切り落とし、砕いたかのような錯覚がする。砕けた頭が、蹴り飛ばされたように転がっていく。
呆然とするシューの背後では、ばらばらになっていたはずの魔人が、何事もなかったかのように立ち上がっていた。砕けた頭蓋骨も元通りになっている。
「シュー! 後ろ!」
アリが叫ぶが、シューは魔人に背を向けたままで、問いかけるようにつぶやく。
「これは、あたしがやったのか」
「そうだ。一番面倒なのは不死者だからな。事前に呪詛式を仕込んでおいたのよ。受けたダメージを特定の者に返すようにな。我は臆病ゆえ。だが、どれだけバラバラになっても、いずれは蘇ろう」
「ここまでのダメージ。忘れてしまう。これでは、大事なことを全て」
「くくく、そうだな。人格と記憶にはダメージも大きかろう。忘れているかも知れぬが安心せよ。蘇った時には、もう貴様もおらぬ」
シューの取り落とした鉾を拾い、頭上に振りかざした。避けようともしないシューを助けようと、アリが駆け寄るが、魔人に蹴り飛ばされてしまった。
「貴様はおとなしくしておれ。なに、我の実験動物として大切に飼ってやろう」
気を取り直したように、もう一度、鉾を構える。背を向けて座り込んだまま身動きしないシューの頭に振り下ろす。
その刹那、鉾を掴む者があった。
ばらばらになったはずのビドゲルが立っていた。魔人が驚愕の声を上げる。
「馬鹿な! あの状態から、この短時間で! そうか、貴様も呪詛式を仕込んでおったな」
ビドゲルは、無言のまま応えない。その身体に付着していた血が赤黒い霧となり、魔人の身体を覆った。
時計を巻き戻すように魔人の首が落ち、砕け、壁際へと転がる。同時に、魔人の身体も崩れ落ち、粉々になった。割れた頭蓋骨の奥に、怒りに満ちた赤い光が見えたが、その輝きも消えた。
見届けると、ビドゲルもその場に倒れ伏した。シューとアリが駆け寄る。抱き起こされて、虚ろに宙を見つめながら言う。
「私の名は、ビ・ド・ゲル」
「そうだ、ビドゲルだ。くそ野郎だ」
「貴方の名は?」
「なんだと? 忘れちまったのか。シューだ。小便たれだよ」
「ふむ、小便たれですか?」
「そうだよ、父さん。父さんが、いつもオシメを変えてくれたんだろ。忘れっちまったのか。小便たれのシューだよ。思い出せよ」
泣きじゃくるシューの頬に手を当て、ビドゲルが笑いながら言う。
「ふふ、冗談です。覚えていますよ。父さんだなんて、久しぶりに聞きましたね」
「こ、この……!」
シューがビドゲルを放り出し、何度も殴りつけ、蹴り飛ばし、放り投げた。わ、忘れる、本当に忘れますよと声を上げるビドゲルに、知るか、と泣き笑いの表情で応じる。そのシューを不意に引き倒したと思うと、ビドゲルの体が横薙ぎに断ち切られていた。




