第1話 地下通路
一人の子供が泥まみれになって走っている。
どれだけの距離を走ってきたのか、足をもつれさせて何度も倒れるが、立ち止まろうとはしない。暗く、先を見通せない地下通路を泣きながら走り続ける。
背後から追ってきているモノがいるのだ。
振り返る余裕もないが、確実に迫ってきていた。せめて、この先がどうなっているのか分かれば。せめて、この先に光があれば。その祈りが通じたのか、走る先が少しずつ明るさを増し、薄明かりの広場へ出た。わずかな光が目に眩しい。広場に足を踏み入れた子供が、その先の光景に息を呑んで立ち止まった。
蔓延する粉塵が煌めき、細く差し込む光が一人の少女を照らし出していた。壊れた彫像の上に片膝を立てて座り、彼女自身も彫像のようで動く気配もない。
だが、わずかな隙間から落ちていた光が薄れ、少女の身体が薄闇に包まれると同時に目を見開き、闖入者を睨みつけた。一瞬の間をおいて叫ぶ。
「お前、何してやがる! 勝手に入ってくんじゃねぇ! しかも、連れて来やがったな」
少女が俊敏に跳ね起きると同時、
ゴウ!
と、闇の奥から、立ち止まっていた子供に向かって飛びかかるモノがあった。
一瞬早く少女が動き、子供を蹴り飛ばした。
入れ替わった少女目掛けて黒い影が襲い掛かり、少女は空中で身体をねじって後方へ跳んだが、影の中から伸びた白く長い手が少女の首を掴んだ。
その手を少女がナイフで切断するが、血を吹き出すこともなく、手首から先だけとなった手は力を弱めることなく、その首を絞め続けるのだった。
黒い影の中から、別の白い腕が伸ばされる。
それが少女に届く寸前、どこに潜んでいたのか、細身の男が割って入った。その体に長く伸びた腕が捲きつき、蛇のようにギリギリと締め付けはじめる。
しかし、その締め付けに耐え、一歩、二歩、腕の持主である黒い襤褸のような小さな人影に向かって進み、がっしりと抱きかかえた。襤褸の中から風の抜けるような声が聞こえる。
「貴様、普通の人間ではないな。面倒なことだ」
その言葉に耳を貸すことなく、男が叫ぶ。
「シュー! 私ごとやりなさい!」
「余計なことすんな!」
と言いながら、シューと呼ばれた少女は首元にぶら下がる手首をもぎ取ると、背中から青い金属製の鉾を抜き、その柄を強く握り締めた。銀色に輝く刃先を男の背中に、その向こうの人影に向けた。躊躇うような様子を見せた少女に、男がもう一度叫ぶ。
「早くなさい! 詠唱させてはなりません」
「いいから、どけ! ビドゲル!」
「どきません。自由な状態の魔人には誰も勝てない。例え貴方でもです」
その時、静かな声が襤褸切れの奥から響き始めた。男が魔人と呼んだモノ。それが洞窟を吹き抜ける風のような、湿った、くぐもった声で歌う。
我が声を聞け、心の病みしものよ
我が声を聞け、心の腐れしものよ
贄をささげよう
宴をはじめよう
ああ、彼の者の死肉は汝のもの
ああ、彼の者の腐肉は汝のもの
さあ、我が声をきけ
さあ、我が声をきけ
洞の奥より来たりて……
と、不意に歌がやんだ。戸惑ったように周囲を見渡す魔人の赤い目が子供を捉え、一瞬、怒りを、次には面白そうに笑みを浮かべた。
その隙を見逃さず、鉾を構えたシューがビドゲルの背中ごと魔人を貫いた。襤褸切れの奥から白い頭蓋骨が弾き飛ばされ、地面に転がる。ビドゲルの体を締め付けていた腕が、力を失って地に落ちた。シューがビドゲルの元に駆け寄って声をかける。
「また無茶しやがって。そういうことは止めろと言ってるだろう」
「あの子を助けたいようだったのでね」
と言いながら、不意に途切れた詠唱のことを思い出していた。あの子供が詠唱を妨害したのでしょうか。魔人の目は、あの子を見ていましたが。ビドゲルが視線をやると、子供は、ひっとばかりに体をすくめた。それもそのはず。背中から胸にかけて鉾で貫かれながら何気なく立ち上がったその胸には大きな穴が開いてごぼごぼと血が流れ続けていたのだ。おっと、これは失礼と言いながら手を穴に当てると、すっと血が止まり、穴も塞がった。
「そうか。貴様も不死者か」
風の吹き抜けるような乾いた声がする。地面に落ちた頭蓋骨が楽しげに笑っていた。




