まどろみの病
「なんだかやけにねむたいなあ。」
それが和仁君の最後の言葉。最後になるのかな。
和仁君はあれからずっと目覚めない。ある朝、あなたは眠りに沈んだ。
特注のセミダブルベッドと、浅葱色のふっくらした毛布に包まれて。私たちはいつもふたりよりそって眠った。ベッドライトに照らされたヘデラヘリックスの薄みがかった葉緑体。書棚に並べられた、私には読めない外国文字のペーパーバック。その古めいた香りだけは好きだった。
結婚してから二十年、ふたりで四十歳を迎える朝。奇しくも同じ日に生まれた私たちは、間違いなく死ぬ時も一緒だと思っていた。学生結婚と、当時は周囲からいろいろといわれたけど、私たちはそんなことまったく気にしなかった。私にはあなたしかいなかったし、あなたもきっと同じよね。子供に恵まれなかった私たちは愛情の流し口を詰まらせて、お互いに依存して。
きっと周りからみたら理想の夫婦像だったよね。
「ねえ、和仁君…」
返事はきっとない。
黄色いや赤のチューブで電子表示の機械に繋がれたこの人はもう自分では呼吸できない。
「あなた…もう目覚めないんだってさ…」
おそらく五感のなんかも存在していないんじゃないかな。
ふたりで大事に育てたヘリオトロープの匂いも、苦手だと言いながらも食べてくれた私の得意なミートローフの味も、きっと二度と思い出せない。
欄干でふたり肩を寄せ合って、スローで落ちていく桃と紫の花びらを朧げに映した川面を眺めた光景も、残影としてすら失われるの。
はんだ耳のあたたかな味も、瞳の奥に広がる極彩色も、愛の確かさも全部。全部。全部。
「私達、もう四十よ。約束したじゃない…ねえ…。」
ずっと昔のことだけど、あなたが私に言ったことを覚えている?
「僕たちさ、四十になったら、自由に生きてみない?」
「なにそれ。離婚宣言?」
「いや、そういう意味じゃなくてさ。いろいろ新しいことをはじめてみようかなって。」
「仕事やめちゃうの?あ、でも今もフリーみたいなものね。」
「もうフリーライターなんて副業でやる時代だからね。」
「おかげさまで私はいまだにキャリウーマンをやらせていただいております。」
「稼ぎの少ない夫でごめんな。」
「自覚があるならよろしい。…どんなことがしたいの?」
すると夫は子供が途方もない夢を語りだすように唇を浮かせた。
「ふたりで何か、店でも開いてみない?喫茶店とか生花店とか。」
「あら素敵。ファンシーね。手芸店とかもやってみたいかも。」
「いいね。どう、楽しそうじゃない?それまでにお金をためておくんだ。」
「ならまずタバコをやめなきゃね、あとお酒も。」
「うーん。まあ努力してみるよ。」
記憶の中の和仁君は生きていて、目の前のこの人は動かない。ふたりとも同じはずなのに、いまの和仁君は空蝉みたいになっちゃった。
ピアスの穴がズキズキ疼いて、その部分が損なわれた気がした。
「あなたはきっと眠りたかったのね。」
病室のリノリウムの部分的な黄ばみが目について、不随意に流れた涙が藍色のスカートに落ちた。シミのような跡が膝のあたりにぽつり、ぽつりとにじんでゆく。肌寒い秋麗な気持ちもすっかりなく、遠くでゴロゴロなったいなびかりと私の情動が連動して、彼の肩にそっと頬をあてた。医薬の匂いとあなたの動物みたいな匂いがとても懐かしくなって、気が付くと私は眠りに落ちていた。
「私も眠りますね。」
眠りから覚めたら私、店でも開こうかしら。
夢の中のあなたに向かってそういうと、あなたはただ、ニヒルな瞳を輝かせた。
たまにでいいから、私に会いに来てくださいね。
秋霖を伴った鈍色の空が、磯の香りに包まれた街に覆いかぶさった。