風邪
最近カトリの調子がおかしい。洗い物の途中で食器を落として割ってしまったり、本を片付けるときに右側から一巻、二巻と並べていったり些細なミスをよく起こす。
それに勉強を教えているときに、私と不意に目が合うと彼女はすぐにそれを逸らす。以前のままだったらその無機質な瞳をそのまま向けてくるだけだったのだが。
意識されているのだろうか、よく分からない。
まぁ彼女の中で私がただの新しい飼い主から、同居人のお医者さんにランクアップしたのだとしたら、それは喜ばしいことだ。
このままのペースで行けば、もしかしたら笑顔や怒りといった感情を見せてくれるかもしれない。
この時の私はまだ、楽観的にこんなことを考えていた。
――――トントンと自室のドアをノックする音が聞こえる。
「どうぞ」
私が声を掛けると、ドアが開かれた先には寝間着の姿になったカトリがいた。
「あ……おやすみなさい、先生」
「ああ、おやすみ」
私は机で最近買った医学書を読んでいた。彼女は毎日寝る前に、律儀に私の部屋へ就寝のあいさつをしに来る。
私の患者は夜に急患として突然運びこまれてくることが多い。曰く組織の金に手を出してやられただの、曰く手を出した女がギャングの娘だっただの禄でもない患者が多いのだ。(当然として外傷治療ばかりだ)
その為、基本的に私はいつも遅くまで起きているが、それを彼女に付き合わせる義理はないため先に眠るように伝えてあった。
彼女はいつものようにあいさつを行ったが、何やら今日は少し勝手が違っていた。
「あ、の……先生……」
何かの癖なのだろうか、彼女は以前何処かで見たように右手を軽く握り、少しもじもじした様子で口を開く。
私は彼女の様子を不思議に思って、どうしたと聞いた。
「あっ……いえ……何でもありません……」
そう言って目を伏せ、もう一度おやすみなさいと言ってから自室へと戻っていく。
私はそんな彼女の言動の理由が分からず、首を傾げるだけだった。
…
最近カトリの調子が輪にかけておかしい。些細なミスを連発するようになったり、呼びかけても無反応で3回目でようやく返事をしたり、どうも変だ。
この前のこともあるし、どうしたのか疑問に思った私は彼女に声を掛けた。
「カトリ、最近どうした? 何処か調子が悪いのか?」
彼女はいつもの様子で大丈夫です、何でもありませんと答える。何でもないわけないだろうと思いながら彼女の顔を見ると、顔がほんのり赤く染まり、目元が潤んでいることに気が付いた。
私は思わず彼女の額に手を当てる。
「ひゃっ……せ、先生?」
私の行動に驚いた様子の彼女に対して、私は彼女の体温の高さに驚いていた。
「熱が出ている。風邪を引いているじゃないか」
額に手を置かれながら上目遣いに私を見ていたカトリだったが、自覚はあったのか黙って俯いてしまった。
「暫くベットで寝て安静にしていなさい。後で薬と消化のいいものを持っていくから」
(お医者さん失格だな)
自らSOSを出さない人間の体調不良を察することは大変だが、それでもこれだけ近くにいて気付かなかった自分に恥じつつ彼女に言うと、何故か彼女は私の服のすそをぎゅっと握って固まってしまった。
「カトリ?」
私が怪訝に思って口を開くが、彼女は固まったまま動こうとしない。
「私なら大丈夫です、先生にご迷惑をお掛けるするつもりは……」
「カトリ、風邪なんて誰でも引くんだ。迷惑だなんて考えなくていい。
今はしっかり体を休めることが大切なんだよ」
「……でも」
「カトリ? どうしたんだ?」
普段一切口答えをしない彼女が強情に休むことを拒否する。
何かがおかしいと思った私は少し強い口調で彼女に尋ねた。
「……」
彼女は暫く俯いたままだったが、次第に泣きそうな顔になりながら小さく口を開いた。
「……怖いんです……眠ることが……
夢の中で、以前のご主人様が、私を鞭で叩くんです……
その時のご主人様の顔と、鞭の痛みが思い出されて……」
その言葉は私に衝撃を与えた。
カトリの様子が変わってきた? 何を言っている、私は大馬鹿だ。
彼女は依然変わらずトラウマに苦しんでいた。そんな彼女の表面だけ見て安心していた私は、自分を殴ってやりたい気持ちになった。
(本当に医者失格だよ馬鹿野郎)
自分の馬鹿さ加減に呆れてものも言えないが、それでも熱が出ている彼女をそのまま放置はできない。
私の服を掴んだまま俯いている彼女の頭にそっと手を置きながら私は口を開いた。
「カトリ、君が寝てる間、私がずっと君の手を握っているよ。
人間誰かと触れていると安心するものだ。だから今は風邪を治すために休もう?」
私にされるがまま頭を撫でられていた彼女だったが、次第に小さく首を縦に振った。
私は彼女のことを不憫に思いながらこれからのことを思案した。
自室のベットに入り、カトリは横になりながら右手で私の手を握る。
風邪を引いているからか、彼女の手から伝わる体温は高く、それが自分をどうしようもなく無力に感じさせ私は一言も発することが出来ないでいた。
「あ、の……先生、お願いがあるんです……」
暫くそのままでいると、彼女が小さな声で呟くように口を開く。私は顔を上げ、どうしたと出来るだけ優しく聞こえるように返答した。
「……さっきみたいに、頭を撫でてくれませんか……?
わがまま言ってごめんなさい」
そう言って彼女は目を瞑る。それくらいならお安い御用だと、私は座っていた椅子を引き彼女の頭に手を触れる。
「……」
彼女は少しだけ安らいだ表情になり、暫くすると静かに寝息を立て始めた。
それを見届けた私は頭から手を放し、彼女の表情を見ながら思案した。
(虐待の夢を見る、か……私は元々外科医で心療治療のノウハウは持っていない、
しかし彼女は今だトラウマの事実に苦しんでいる。私に出来る事とは……)
私が出来ること、それは何なのか、思考の渦に沈んでいった私は、握ったままだった彼女の右手がピクリと動いたのを感じて、はっと顔を上げた。
「……お母様…何で死んじゃったの……?」
寝言だろうか、彼女は眉を顰め、目元から一筋の涙を流しながらそう呟いた。
その言葉を聞いた私は、空いていた右手を握りしめ唇を噛みしめる事しか出来なかった。
…
数日でカトリの体調も回復の兆しが見え、私たちはいつもの日常に戻っていった。
元々体力が落ちていた所に流行り病に掛かっただけだったのだろう、特に悪化することも無くカトリは回復していった。
彼女はこの間、私が世話をするときに何度も頭を下げ、申し訳なさそうしていたが、私としては彼女の世話をすることで何となく気が紛れていたため問題はなかった。
「先生、ご迷惑をお掛けしてごめんなさい。もう大丈夫です」
体調が完全に回復した彼女はそう言って、私に何度目になるか分からない頭を下げる。
私はその様子に少しだけ安心して声を掛けた。
「そうか、でも今後は体調が悪くなったら必ず言うように。一人で無理しゃダメだぞ」
そう言ってついこの前のように私は彼女の側により、低くなっていた頭を撫でてしまった。
「……」
「……」
彼女は撫でられながら微動だにしなくなってしまい、私は何となく辞めるタイミングを見失ってしまった。
…
――――トントンと自室のドアをノックする音が聞こえる。
「どうぞ」
私が声を掛けると、ドアが開かれた先には寝間着の姿になったカトリがいた。
「おやすみなさい、先生」
「ああ、おやすみ」
いつものように彼女が就寝のあいさつに来る。そう言って彼女が踵を返す前に私は口を開いた。
「カトリ、こっちに来なさい」
彼女はキョトンとした顔で側に寄ってくる。私は彼女を自分のベットに座らせて頭に手を置く。
「……? 先生? どうしたんですか?」
なすが儘になりながら頭に疑問符を付けた彼女が、上目遣いに私を見ながら聞いてくる。
「カトリ、今から眠るところだろう?
この前みたいに手を握っててあげるから安心しなさい」
私がそう言うと彼女ははっとしたように目を開き、だが暫くして俯いてまった。
「先生にそこまでご迷惑をお掛けすることは……」
「風邪を引く前に私の部屋に来たときは、そういう意図だったんだろう?
別に迷惑なんかじゃないさ。安心できる方法があるならそれがいい」
風邪を引いてた時に手を握っていた時の彼女は、時折母親を思い出して泣くことはあったが魘されることはなかった。
誰かと触れ合っていることで、それで少しでもトラウマが解消されるならそのほうがいい。
私はそう思って彼女を横にさせ、上に布団を被せてやった。
「あっ……」
右手で手を握り口元まで布団を被り、ひょこっと目元だけ外に出していた彼女が何かに気が付いたように声を出す。
暫く私を見つめていた彼女だったが、ありがとうございますと一言しゃべり、安心したように目を閉じ寝息を立て始めた。
その様子を見た私はほっと一息ついた所で、あることを思い出した。
(そう言えばここって私の部屋で、彼女が寝ているのは私のベットじゃないか…)
これはセクハラなのだろうか? と言うか私はどこで寝ればいい?
性懲りもなく私はそんなことを考えた。