トラウマ
少し残酷な表現があります。苦手な方はご注意下さい。
時刻は午後になり、昼食を終えた私とカトリは診療所に戻った。
服越しに見える傷跡は完全に風化しており、欠損している左腕は生来のものだったのだろうか、完全に塞がっている。
彼女の傷跡は直ちに影響を及ぼすものでは無さそうだったが、それでも無視できるほど軽いものではなく、きちんとした診察を行う必要があると判断したからだ。
「それじゃここに座って服を脱いで」
診察用の丸椅子に彼女を座らせボロの服を脱ぐように言う。服はワンピースになっており、肩紐を外せばストンと重力に沿って落ちる簡易で粗末なものだ。
彼女はその無表情を崩さないまま片手で器用に服を脱ぐ。そして上半身が裸になった彼女の姿は、医者の私をして絶句せざるを得ないものだった。
鞭打ちの拷問でも受けていたのか、体中に無数の裂創が残っており、特に左の肩甲骨から右の腰辺りに掛けて大きく抉れた跡が付いていた。
「……」
彼女は診察のためとは言え裸を見られたことも傷跡に対しても何も言わず、ただ私を見つめていた。
「…よく効く薬がある。これを塗っておこう」
一部ケロイド状になってしまっている傷を完全に塞ぐことはここでは不可能だ。皮膚移植の手術を行う必要がある。
それを行うための施設も整備もこの世界には無かった。
「……私は見ての通り、体も細く左手はありません。肉体労働も出来ない役立たずです。
だけど先生の言うことに逆らうつもりはありません。私を使うときはお手柔らかにして頂けるとうれしいです…」
傷口を消毒し、薬を塗っていると彼女は目を伏せながら怯えた様子で口を開いた。
先ほどの彼女の言葉を思い出す。彼女は依然仕事と呈して何をされていたのだろうか…
「…大丈夫、何も怖いことはしないよ」
震える彼女にそんな月並みな言葉を掛けることしか、私には出来なかった。
彼女を自宅に戻し、私は診察に来る患者の相手をしていた。
最後の患者の診察が終わり自宅に戻ると、彼女は命令した通りリビングの椅子に座ったまま宙を向いて物思いにふけっていた。
「……あっ、おかえりなさいませ先生」
私の存在に気が付いた彼女がいそいそと立ち上がり、深くお辞儀をする。
「ただいま、お腹空いただろう。すぐ食事に取り掛かろう」
昼食からもう大分時間が経っている。自分もお腹が空いたし彼女もそうだろう、会話もそこそこに私はキッチンに向かい夕食の準備に取り掛かった。
「…あの、私にも何かお手伝いできることはありませんか?」
私がフライパンを回していると、後ろからおずおずといった様子で彼女が話かけてきた。
「そうだな、じゃあこれでテーブルを拭いて食器を出しておいてくれ」
そう言って彼女に濡れたフキンを渡す。
それを受け取った彼女は分かりましたと軽く頭を下げ、リビングに戻りテーブルを拭き始めた。
今日一日で彼女の感情の起伏を感じられる場面はほとんどなかったが、悪い子ではないのだろう。
片手で一生懸命テーブルを拭く姿は年相応のただの少女であり、痛めつけられた傷を持っていていい子でない。
医者としては良くない感情なのかも知れないが、私は彼女への同情の念を抑えることが出来なかった。
…
夜も更け、そろそろ眠る時間になったが、そう言えば彼女の部屋を用意していないことに気が付いた。
幸い急患用に用意してあった空き部屋はある。少し狭いが問題はないだろう、そう思い連れていくと彼女は突然部屋の前で正座をし頭を下げ始めた。
突然の行動に私が困惑していると、土下座の姿勢になった彼女は消え入りそうな声で話し出した。
「私、あんなに美味しいお食事を頂けたのも、お腹いっぱいになった事も初めてです……
前のご主人様は、私を鞭で叩くのがお好きでした…先生を楽しませることが出来るか分かりませんが、お手柔らかにお願いします…」
食事を与えた対価として、これから以前の主人のように虐待を行うと考えているのだろうか。私が何も言うことが出来ずに硬直していると、次第に怖くなってきたのか彼女の体が小刻みに震えだした。
私は思わず震える彼女の手を引き立たせると、そのまま部屋の中に招き入れ、ベットの上に彼女を座らせ口を開いた。
「今座っているベットで眠るんだ。しっかり体を休めること。いいね?」
震えたまま硬直している彼女に矢継ぎ早に命令すると、次第に私の言葉の意味を理解できたのか、コクリと彼女の頭が小さく動いた。
「うん。それじゃおやすみ」
そう言って私は部屋から出てドアを閉めた。彼女は最後まで私の目を見ることはなかった。
恐らく強烈なトラウマを想起している今の彼女に何を言っても無駄だろう。彼女にとって今の私はただの新しい飼い主であり、どんな言葉を繕おうと信じられないはずだ。
これは時間をかけて解決していくしかない。
「……はぁ…」
閉じたドアにもたれ掛かりながら、私は自分の無力さに嘆いて思わずため息が出た。