とある少女の気持ち
「先生、お茶の用意をしてもいいですか?」
テーブルの席で鈴蘭の花を見つめていたカトリが私に尋ねる。
そうだな、沢山話してもらう事になりそうだし、喉を潤すものがあったほうがいいかも知れない。
私が許可を出すと彼女は微笑んで席を立ち、キッチンへと向かいポットに水を入れ始める。
「…………」
緊張しているのだろうか、その背中は少し硬くなっているように感じる。
これから彼女にはトラウマの過去を話してもらわなくてはいけないのだ、緊張しないほうがおかしいか。
――だが、私はもう決めたのだ――前に進むと、もう逃げないと――
私の勝手な思いかも知れない、しかし彼女はそれに答えてくれるつもりだと思っている。
先ほど見せた彼女の真剣な瞳は、彼女自身も前に進む決意をしてくれたように感じた。
それはきっと、私たちのこれからを考えても必要な事なのだと思う。
「私は――」
彼女がコンロに水の入ったポットを火に掛けながらゆっくりと話出す。
私はテーブルに座ったまま、それに静かに耳を傾けた。
……
「私は――元々ここよりもっと辺境の田舎にあった貴族の生まれです。ただその家は既に没落して離散してしまいました。
このカトリと言う名も貴族位を剥奪されたときに付けた名前で、もう名乗る事は出来ませんが、本当の名前は他にあります。
私の父は男爵の位だったそうで、母はそんな父に見初められて結婚した庶民の出だと聞いています。
――私はそんな家に、第一子の長女として生まれました」
彼女はキッチンの前に立ったまま話出す。
その視線はポットに向かったままだ。
貴族、か……。
既に没落してしまったらしいが、彼女はやはり高貴な生まれだったようだ。
彼女の育ちの良さは――奴隷であった過去を差し置いても――一般的な教育を超えていると感じていた。
生来の性格もあるのだろうが、それでもやはり彼女はこの歳に対して、普通の家庭で育ったとは思えない落ち着きを醸し出している。
それにしても彼女は別に本当の名前があったのか、それに少し興味を向けつつも、私は彼女の話の続きに耳を傾けた。
「貴族なんて言っても大したものでは無く、むしろ私の家は度重なる敗戦続きによって、既に没落寸前だったそうです。
家はとても貧乏で、家臣に払うお給金にも困窮するほどだったと。そんな中、私が生まれました」
家の事情はあまり良くなかったらしい。
当然か、裕福な家だったら彼女はその身を落とす事無く、そのまま貴族として生活する事が出来ただろう。
「父も母も家の皆も、その事をとても喜んでくれたそうです。それは単純に初めての子供と言う意味以外にも、私が有力な他家と婚姻を結ぶ事が出来れば、家はまた復興出来ると言う意味も含んで。
――ただしそれは、生まれた私の姿を見るまではの話でした」
彼女は抑揚の感じられない声色で話を続ける。
コンロの上から火で温められたポットのコトコトと揺れる音が室内に響いてくる。
今この部屋の中に聞こえる音はそのポットが動く音と彼女の声だけで、それが余計に彼女の話を強調しているように感じてしまう。
「生まれた私の体には、既にこの左手はありませんでした。
私は、父や母や家の皆が望んだ土俵に、初めから立つことすら許されない体で誕生してしまいました……」
彼女の声が段々と震えてくる。
やはり彼女の左手は生来のものだったようだ。しかし、それは決して彼女が悪い訳ではない、強いて言うなら運と、当時の風向きが少しだけ悪かった。
その話を聞いた彼女の、その心情は察して余るものがある。
私が口を開く事が出来ないでいると、彼女はそのまま続きを話しだした。
「家の皆はそれに落胆し、私を無かったことにしてしまえとの声も上がったそうです。ただそんな中、母だけは私の味方でいてくれました。生まれた子供に罪は無いと、家の事情とこの子は関係無いと……。
私は母の助けが無かったら、こうして生きることすら許されなかったと思います」
彼女の視線が鈴蘭の花に移る。
母親の事を思い出しているのだろうか、その声色が少しだけ優しくなったように感じた。
「ただそれで家の事情が良くなる訳ではありません、いえ一層落胆が強くなったと言うべきでしょう。
没落寸前の辺境のただの男爵の、さらに体の一部が欠損した子供の女など誰が欲しがると言うのでしょうか……。
ある種の諦めの心境が家内に流れつつも、私はまだ母の助けによって生きることが出来ていました。
そんな中更なる不幸に襲われました――父が戦争で殉職してしまったのです」
彼女が既に湯気が出始めたポットから私のコップに紅茶を注ぐ。
そう言えば父親の話は初めて聞いた。あまり印象に無いのだろうか、その声はまるで他人の事を話すように聞こえた。
「母は元々体が強くなく、生まれた子供は私一人だけでした。父の事はあまり覚えていませんが、母を愛していた事は知っています。父は他に妾を作らず母一人だけを正妻として迎えていました。
――それは人として尊敬出来る事だと思いますが、貴族しては良くなかったのでしょう。
父の死によって、家に残されたものは幾ばくかの私財と、体の弱い母と使い道の無い私だけになってしまいました。
――こうして私の家は没落し、終焉を迎えました」
彼女は次に自分のコップに紅茶を注ぐ。
幼い当時の彼女はその時にどんな事を思ったのだろう。
もしかしたらあまり覚えていないのかも知れない。
彼女の声は先ほど少しだけ見せた陰りは消え失せ、まるで小説の物語のあらすじを話すように淡々とした口調で話を続ける。
「母は父の死によって更に体調が悪化し、誰かの世話になる以外では生きる事が出来ないほどになってしまいました。
私と母はその後、母が嫁ぐ前に懇意にしてもらっていたある男性の家に世話になりました。
――その人が私の前のご主人様……私を虐待していた人間です」
お互いのコップに紅茶を注ぎ終わった彼女は、テーブルの自分の席に腰を下ろす。
とうとう話が前の主人の事に移るようだ。
目の前の紅茶から良い香りが漂ってきて、彼女はそれに少し緊張した面持ちで手を付ける。
私もそれに倣い一息つく。
これまでの彼女の話は、とても幸せな幼少時代を送れたとは思えないものだった。
幼い彼女が、自分が期待に応えられない欠陥品だと知ってしまった時の悲しさは、とても言葉に出来ないものだっただろう。
しかし、それでも母親は確かに彼女を愛していたようだ。
前の主人の話がどうなるか分からないが、その事を考えればまだ幸せだったのかも知れない。
お互いに紅茶を飲む幽かな音だけが室内に響き渡る。
暫くして、その紅茶に視線を落としたまま彼女がポツポツと話出した。
「あの人が何故私を虐待したのか今でも分かりません。母と一緒の頃は良くしてくれて、そんな素振りはありませんでした。
ただ、きっかけは覚えています。母の体調がとうとう戻る事無く亡くなってしまい、私一人が残されてからの事です。
――ある日、私がコップの水を零してしまった時……あの人は初めて私に手を上げました。
私がその事に怯えていると、あの人は私を抱いて謝りました、「ごめん」と、「もうしない」と。
私はそれを許しました。あの人が自分の行った事に対して、私以上に怯えていたように見えたからです。
ただそれ以来、あの人は何かある度に私を叩くようになりました。
段々とそれはエスカートしていき、最終的に私を監禁して鞭で叩くようになりました」
虐待の記憶……。
その時の記憶が呼び覚まされて恐ろしくないのだろうか。私が最も身構えていた話に対して、予想外に彼女の様子は依然変化が無く、ただ他人事のようにそのまま話続ける。
「あの人は私を叩き終わった後、必ず泣きながら治療して謝るのです。
私は意味が分かりませんでした。あの人が何をしたいのかさっぱり分かりませんでした。
いえ、それは今でも分かっていません。ただ私は、これは自分の仕事なのだと思うようにしました。
叩かれる事によって――あの人の嗜虐の対象として――生きる事を許されているのだろうと。
だけどそうやって、鞭の痛みに耐えながら、同時に自分の生きる意味が分からなくなっていき――私は自分の心を閉ざしていきました」
虐待の理由――被害者である彼女は理解出来ないだろうが――私は共感は出来ないが理解は出来てしまった。
その男は嗜虐趣味などでは無く、もっと悍ましい何かに取りつかれていたのかもしれない。
「そんな日々が続く中、鞭の当たり所が悪く私は一度死にかけました。
虐待の意味は分かりませんでしたが、私を殺すつもりは無かったのは分かっていました。
殺すと嗜虐する対象が無くなるのを恐れていたのでしょうか、よく分かりませんが、あの人は叩いた後は必ず死なないように治療するのですから。
ともかく、私は三日三晩意識が無くってしまい、ようやく目を覚ました私の目に飛び込んできたものは――お腹にナイフが突き刺さっているあの人の死体でした。
何故いきなり死んでいるのか、全く意味が分かりませんでした。
結局、あの人の事はその全て――その死でさえも――何もかも分からないままでした。
だけど、私には――どうでもいい事でした。
ただ冷静に、その死体を暫く眺めていたのを覚えています。
そしてただ何となく――私はそのお腹に生えているナイフを抜いてみました。すると真っ赤な血があの人から流れ出してきました。
それを呆然と見つめている所に、あの奴隷商の方がやってきて、私は彼に引き取られました。
その後の事は、先生の知っての通りです」
そう言って彼女は口を閉ざす。
目の前の紅茶からは、もう湯気が消えてしまっていた。
私は彼女に何と声を掛けていいか分からなかった。
私が勝手に想像していたよりも、ずっと彼女は辛い過去を歩んできたようだ。
所詮私は恵まれた世界からやってきた町医者でしかなく、彼女と気持ちを共感してあげることも出来ない。
私がどんな言葉を繕っても、それはただの陳腐で軽いものになってしまうような気がした。
お互いに無言になりながら、暫く時間が流れる。
もうすっかり冷めてしまった紅茶に再び口を付ける。
その温度はまるで、私と彼女の距離を代弁しているように思えてしまった。
「あ、の……先生」
暫くして、彼女が何故か顔を赤くしながら口を開く。
右手は軽く握られ、少しもじもじした様子だ。この様子は確か彼女が言いにくいことを話す時の癖だったな。
どうしたのかと思いながら私は顔を上げて、彼女の言葉を待つ。
「わ、わたしは……先生のことが好きです」
……えっと、それはどう言う意味で?
突然の告白に私は固まってしまった、いや元々固まっていたがさらに硬直してしまった……。
そんな私を無視して彼女はリンゴのように顔を真っ赤にしたまま話を続ける。
「初めて会った時は、何も感じていませんでした。
ただ主人が変わっただけだと。どうせこの人も私を叩いて遊ぶのだろうと……」
――初めて彼女と出会った日の事を思い出す。
あの時の彼女は、深海のように深く、何の希望も持たない瞳で、ただ私を見つめていた。
「おいしい食事と綺麗なお洋服を頂いても、その思いは変わりませんでした。
あの人のように、何かのきっかけがあればすぐに変わってしまうのだろうと」
――初めて彼女の洋服を買った日。
ただ彼女は私の後ろを付いてくるだけだった。
「だけど先生は、ずっと変わらずに私に優しくしてくれました。
それが私の中で疑問となり、その思いは私の中でくすぶり続けました」
――彼女の様子が変わってきたと思ったのは、何時からだっただろうか。
「それはあの喫茶店でお菓子を初めて食べた日も――」
「風邪を引いて、頭を撫でてくれた日も――」
「演劇を見ながら、力強く手を握ってくれた日も――」
「私が料理をしようとして失敗した日、先生が子供の事故で傷ついた日、母のフラワーベースを買って頂いた日……。
いくらでも思い出せます。いくら思い出しても、先生は優しかったです。
私の事を大切に、真剣に思ってくれていました」
彼女が真剣な瞳が私に突き刺さる。
――私はそんな崇高な人間じゃない、始めはただ君に、同情心を向けて自分が満足していただけだ……。
「何時からだったでしょうか、その疑問が想いに変わったのは。
先生の優しさは、例えそれが何かのヴェールで覆われたものだったしても、嬉しかったです。
本当に、嬉しかった……。
先生の存在によって、私は満たされる思いでした」
彼女の視線が不意に柔らかくなる。
その顔を再び真っ赤に染めながら、優しく微笑む。
「先生はいつもその優しさで私を包み込んでくれます。
そんな先生のことを考えると胸がドキドキします、お腹がきゅうっと切なくなって、気持ちがぽかぽかしてきます」
彼女の瞳は幽かに潤んで私を見つめたままだ。
えっと、私はどんな顔をすればいいのだろうか?
「先生は今の話を聞いて、きっとまた真剣に私の事を考えてくれるのでしょう。
それはとても嬉しく思います。心が満たされる気持ちになります。
でも今の私には――お母様の事以外は過去の事なんてどうでもいいのです。こうやって先生と一緒に過ごしている毎日のほうが、よっぽど大切です。
先生がもし、この話で気を病んでいたのだとしたら、それは間違いです。
私は先生にそんな顔をして欲しくありません。もっと笑顔でいて貰いたい、幸せでいて貰いたいと思っています」
そう言って彼女は席を立ち、私の胸に飛び込んでくる。
「私は先生の事が、好きです……。
どうしようもなく、大好きなんです……。
先生、ずっと一緒にいて下さい。お願いですから、私を捨てないで下さい……」
私に抱き着いたまま、彼女は涙を流す。
彼女はきっと、誰かから愛される経験が乏しいのだろう。
だからこうして私に捨てられる事を恐れている。
しかし――彼女の告白はそれだけの意味では無いと、馬鹿な私でもちゃんと分かっている。
この気持ちに答えたい、答えてあげたい。
私に抱き着いている彼女に視線を落とすと、綺麗な黒髪と水色のリボンが目に入ってくる。
私はそんな彼女の頭を、いつものように優しく撫でる。
「カトリ、よく話してくれたね、ありがとう。
辛かったね、寂しかったね。
もう大丈夫だよ。私は決して――もう君を一人にはさせないから」
彼女は私の胸に顔をうずめたまま、少しだけ嗚咽を上げて首をコクリと小さく振る。
そんな彼女に私もまた、どうしようもなく愛しさを感じている。
彼女の暖かな体温を感じながら、私たちはお互いもう言葉を発する事無く時間は過ぎていった。
……
とある地下の一室。
そこは厳重な扉で閉ざされており、その鍵を持つ男以外はねずみ一匹入れないほどだ。
中には鉄格子が組み込まれた独房のような部屋が横並びに並んでおり、その中には様々な人種の人々が敷き詰められるように座っていた。
或いは始めは反抗していたその者たちも、今ではその殆どが瞳に生気を宿さず、ただ胡乱な瞳で下を向いて佇んでいる。
そんな独房の様子を満足気に見つめながら、コツコツと靴底の音を鳴らして歩く一人の男がいた。
「ふふふ、もうすぐですよ先生。もうすぐ迎えに行きますからね」
不穏な影はすぐそこまで迫っていた。
※ カトリの心理描写を少し修正