黒猫のブローチ・前編
「先生、おはようございます」
「先生、これは何ですか?」
「先生、雨が降っていますよ。洗濯物が溜まっちゃいますね」
「先生、部屋のお掃除ですか? 私もお手伝いします」
「先生、疲れてませんか? 私に出来ることなら何でもおっしゃって下さい」
あの演劇を見に行った日以来、カトリとの会話がかなり増えた気がする。
元々口数の多い子では無かったと思うが、最近は用事がない時でもよく私に話しかけてくる。
勉強を教えている時など、「はい」と「分かりました」しか言わなかった彼女が今ではよく質問をしてくるし、何故か終始ご機嫌の様子で私の言葉に耳を傾けている。
行動も自主的になってきていて、私が何かをしようとすると進んで手伝ってくれるし、ソファーで寛いでいる時などコーヒーを淹れてくれたりする。
これら自体は良い傾向であってとても喜ばしいことだと思うのだが、一つ気になっていることがある。
その、何というか彼女の行動原理が私に対してばかりなのだ。
彼女の口からあれが欲しいとかこれが食べたいとか、自分のことに対しての話を聞いたことがない。もっとわがままを言っても良いのだが。
それを彼女に伝えると、彼女は決まって肩を落として「あの、ご迷惑だったでしょうか…… 申し訳ありません……」と俯いてしまう。
そうなると私は「そんな事はない、助かっている」と言うしかなく、その言葉を聞くと彼女は毎回すぐに顔を上げて微笑む。
なんだか良いように扱われている気がする……
ともかくこうしてカトリが元気になってくれているのは嬉しいが、何となくモヤモヤした気持ちを残したまま私は日常を過ごしていた。
…
ある日のこと、私が診療所で備品をチェックしていると突然ドアがバンッと大きな音を立てて開かれ、中に入ってきた男が大慌てで叫んだ。
「先生!!! 子供が馬車に引かれて大変なことになってる!! すぐに来てくれ!!」
この世界は自動車のような近代化した乗り物はなく、移動手段は専ら徒歩か馬車だ。そしてこの馬車というものは自動車と同じように大変な事故を起こす事がある。
子供は道に飛びだして巻き込まれてしまったのだろうか、ともかく私は急いで準備を行い、自宅にいたカトリに声を掛ける。
「カトリ、聞いていたな? 行ってくる。留守番を頼むぞ」
私の声を聞いて顔を出した彼女が神妙な面持ちで首を縦に振る。それを見届けた私は男に案内をして貰いながら急いで現場まで向かった。
「どいて下さい! 私は医者です! 怪我人はどこですか!?」
辺りは既に人だかりが出来ており、その真ん中には血まみれになった男の子が倒れていた。
私は急いで子供の服をはぎ取り緊急診断を行う。
「腹腔内出血……? 内臓もやられてる…… くそっ! 近くの診療所まで運んでる時間がない、誰か手伝ってくれ!」
既に子供の内臓はいくつか潰れているのに加えて、重要な動脈も破れてしまってこのままでは出血多量で死ぬ可能性がある。
「センセ! アタシに手伝えることがあるなら言ってちょうだい!」
たまたま通りかかっていた馴染みの洋服屋の店主が名乗り出る。
ありがたい、周りの人と店主に手伝って貰い、子供を打ち捨てられていた馬車の中に運び、手袋とマスクをつけて治療を開始する。
鞄から生理食塩水の入った点滴袋と血圧向上用の薬を取り出し、大腿静脈から輸血を行う。店主には脈を取って貰うように頼み、私は子供に麻酔をかけメスでお腹を切開する。
お腹から血が噴き出して私の顔や服を真っ赤に染める。その様子に店主がヒッと怯えた声を出すが私はそれを無視して治療を続ける。
「脈は!?」
何とか破断した太い動脈が数本ある問題の部位まで辿りつき、私は怒号を飛ばす。店主は怯えながら口を開く。
まずい、かなり脈が弱い。
「鞄から青色の薬を取ってくれ!!」
急いでドーパミンに似た効果のある薬を投与する。
そのまま問題の血管の修復に掛かるがこのままでは間に合わない。
「クソッ!!!」
私は急いで血管を縫合して心臓マッサージと人工呼吸を行う。しかし子供の脈はどんどん弱くなっていき、呼吸も止まってしまう。
「死ぬなっ!!!」
何度も心臓マッサージと人工呼吸を繰り返す。子供の脈拍が完全に止まる。
「死ぬなっ!!!」
心臓マッサージと人工呼吸を繰り返す。
「死ぬなっ!!!」
私は立ち竦む店主に肩に手を置かれるまで、それを止めることは出来なかった。
…
「センセのせいじゃないわよ…… 仕方なかったんだわ……」
店主が沈痛な面持ちで口を開く。私たちは今、騒ぎを聞きつけてきた治安部隊に連れられて詰所の中にいた。
分かっていた。本当は分かっていた。
あの怪我では初めから助からない。救急車のように治療しながら移動でき、専門の医師が準備して待機している元の世界の病院のような大型治療施設のある世界とは違う。
この世界での致命傷はまさしく抗えない死に至る傷になるのだ。
しかし、もしかしたら助けられたのではないか?
近くの診療所までもたないと判断したが、それが間違いだったのでは?
私が出しゃばらず、もっと高位な医師の到着を待ったほうが良かったのでは?
そんな考えが頭から離れない。頭の中でぐるぐるとループする。
私は付き添ってくれる店主に対して何も言葉を発することが出来ないでいた。
暫く俯いていると奥の部屋からコツコツと歩く音が聞こえてくる。
「先生、このたびはご愁傷さまでした。後はこちらで対応します」
ここの責任者だろうか。部屋から出てきた壮年の男性が抑揚のない声で私に向かって口を開く。
「不幸な事故だったのですよ先生。子供が道に飛び出し、馬車に巻き込まれる。
こう言っちゃなんですが珍しくない事案です。あまり気になさらないことをお勧めします」
見慣れているとでも言う気なのか、とても励ましているように聞こえない声で男は言う。
「あの、あの子の両親は……?」
私は顔を上げて質問する。あの子の最後を看取ったのは私だ。
たとえどれだけ罵倒されようと力が及ばなかったことを謝らなければいけない。
「ああそれなんですがね。どうも浮浪孤児だったらしく両親とも不明でしてね。言い方は悪いですが貴族の子供とかでなくて良かったですよ。ですのでその辺りは気にしなくて結構です」
あの子は両親を知らずにこの世から去ってしまったのか…… そしてその手を下したのは自分。
「そんな訳でもうご帰宅頂いて結構です。本日はどうもお疲れさまでした」
そう言って男は踵を返して奥へと足を進めていく。
「浮浪孤児……」
何故かその言葉が私の耳にいつまでも残っていた。
…
「あっ、おかえりなさい先生」
自宅に着いたのはもう日が変わってしまうくらいの深夜だった。
カトリはここを出る前と同じ格好なまま出迎えてくれた。
「なんだ、風呂にはまだ入ってなかったのか? あぁすまない、遅くなってしまったが食事の用意をしないとな」
彼女には一人でキッチンに立つなと言ってある。夕食はまだ食べていないだろう。
お腹空いてるだろうに、申し訳ないことをした。すぐに用意をしなくては。
「あの……先生、あの子どうなったんですか……?」
カトリが沈痛な表情で訊ねてくる。
「……死んだよ」
私にはこう答えることしか出来ない。事実、あの子は亡くなったしその命を奪ったのは私だ。
「そう、ですか……」
彼女はその表情を変えないまま答える。
それ以来私たちの会話は止まってしまった。
…
食事を終え、いつものようにカトリと一緒に手を繋ぎながら眠る。
「あの…… 先生……」
「……どうした?」
彼女の言葉に私はユラユラと揺れるランプの灯りを見つめたまま答える。
「いえ…… 何でもありません…… おやすみなさい、先生」
そう言ってカトリは口を閉ざす。私ももう口を開くことはなかった。
ただ左手から伝わる彼女の体温が、いつもより少しだけ冷たく感じた。
後編は今週中にでも。