異世界
開いて頂いて感謝を。よろしくお願いします。
「先生、ありがとうございました」
元の世界で言う還暦を超えた年齢の男性が私に向って礼を述べる。
「もうお年なんですから無理をしてはいけませんよ。今回は軽度のぎっくり腰でよかったですが……」
彼は大工の職人であり、鉋で木材を削っていた所で腰をやってしまったらしい。高齢の方の腰痛は腰椎椎間板ヘルニアなどの疑いもあるが、今回は軽い症状で本当に良かったと思う。
「分かっていますよ先生。でも弟子の野郎が物覚えが悪くてどうにも心配でいけねぇ、さっさと一人前になってくれりゃ俺も楽できるんですがね」
彼が苦笑しながら愚痴を零す。昔ながらの職人気質な人間のようだ、まだまだ弟子に仕事を任せるつもりはないのだろう。私としてはあまり無理をして欲しくないのだが。
「先生こそいい年なのに嫁さんを貰わないんですかい? 先生ほどの器量良しなら引く手数多でしょうに」
「私はまだ一人身で結構ですよ。自分自身でこの仕事を一人前になったと思えたら考えようと思います」
「先生は十分に一人前だと思いますがねぇ。てか先生も仕事一筋で人のこと言えないじゃないですかい」
「ははは、そうかもしれませんね」
患者と適当に雑談をする。暫くして彼は家に帰って行った。
…
「ふぅ……」
夜になり診療所のランプに火を灯す。カルテを書き込みながら先ほどの患者との会話を思い出した。
「嫁を貰わない理由ね…… この世界の地に足を付けるつもりには、まだなれないかな……」
患者に話した内容は嘘ではないが、100%すべての本音ではない。
私こと岡部誠治はこの世界の人間にとっては異世界人だ。この世界に来てもう5年。年齢は29になるか、地球で生まれそこで医者をやっていた。
「あの日からもう5年もたつのか……」
一人言を呟く。あの日から私の世界は一変してしまった。
原因は分からない。分かることは極めて理解不能な突拍子も無い話だと言うこと。
あの日、いつものように往診に向かう途中、病院から一歩足を出した瞬間、それは起こった――――
――――「は……?」
とぼけた声が出た私を責められる人はいないだろう。目の前の景色は病院前の駐車場ではなく新緑の広がる森であり、前後左右見まわしてみても元の病院の姿かたちもなかった。それほどに予兆もなく意味が分からない突然の出来事だった。
始めは気が狂ったかと思い呆然としていたが、一向に変化は訪れないため次第に危機感が募ってきた。
とにかく人がいる場所をとがむしゃらに森を彷徨ってみたが、どれだけ移動しようと景色に変化はなく焦燥感だけが募る一方だった。
「一体何なんだ…… どうしてこんな目に合わなきゃいけないんだ……」
日も暮れ、体力も落ちてきた私は途中で見つけた川べりに佇み、体育座りの恰好で一人ごちた。
「……うぅ…… がぁ……」
「――――!?」
しばらくそうしていると不意にうめき声のようなものが聞こえた。警戒しながら声のほうに寄ってみると、そこには一人の男が倒れていた。
男は40歳くらいの年齢で黒のトレンチコートのような服を羽織り、そして足から血を流していた。
「大丈夫ですか!?」
思わず駆け寄ってみたが男の目は何故かこちらを警戒しているようで、キッと睨み付けてきた。
「大丈夫、私は医者です。足を怪我しているようですね、治療しますからじっとしていて下さい」
往診用鞄はそのまま持っていたので簡易だが治療は可能だ。患部を見てみると、なるほどナイフのような鋭利なもので切り付けられたゆえの怪我だろう。こんな場所で一人で倒れていたこともあり、一目で訳ありと分かってしまう怪我だった。
男の素性は分からないが怪我人である以上、まずは治療を優先しなくてはならない。
私はなんとか患部を止血し治療を終えると、その様子を訝しげな眼で見ていた男と目が合った。
「これで大丈夫です。見た目より深い傷でなくてよかったですが、念のため病院に行ったほうが良いでしょう」
私が微笑みながらそう言うと男は「……俺の恰好を見れば何者か分かるだろうに、あんたも物好きだな」と怪訝な様子でそう言った。
これは後に知ったことだが、夜に黒のトレンチコートを着ている人間は麻薬取引、人身売買なんでもござれの闇商人の証なのだそうだ。
そんなことは全く知らなかった当時の私は、首を傾げるだけでそれ以上何も言わなかった。
「まぁいい、とにかく助かった。しかし俺の姿を見られた以上、はいさようならって訳にはいかねぇ。悪いがあんたには付いてきて貰うぞ」
闇の世界を渡り歩いてきた男の凄みなのだろう、有無を言わせない眼光で睨まれ私は何も言うことが出来なかった。
しかし結果として男との関係は互いに利益があったため険悪になることは無かった。
この世界の医療水準は元の世界に比べて著しく低い。「病原菌の感染を防ぐため清潔にする」という概念すら無いたこと知ったときは開口してしまったものだ。
そんな中この世界の住人にとっては怪しげに見えても、確かに効果のある治療を行える人間は、闇の世界で生きる男にとって重宝しただろう。そんな私もこの世界についての知識は0だ。国の名前や文字の読み方すら分からない状態にあって、この世界の常識を教えて貰えることは非常に助かった。
そんな胡散臭い私を何も聞かずに置いてくれた男には感謝している。まぁ私がただの役立たずだったら殺されていたかもしれないが。
突然の転移は確かに不幸だったが、それでも男に出会えたことは運があったのだろう。
その生活を4年ほど続けたある日、男は言った。
「もう十分に金は溜まった。そろそろ隠居しようかと思っているが先生はどうしたい?」
その頃の私の立場は男から与えられた診療所のような場所で、何処からか連れてくる訳ありの患者を診る闇医者的なものになっていた。(と言うか闇医者そのものだった)
男の言葉はそれまで考えなかったことでは無かった。元の世界に戻るための探索を行いたい、しかしこの仕事をしながら得た情報では、この世界には魔法のような超常的な技術がある訳ではなく、私が何故やってきたのか原因は完全に不明だった。そう簡単に戻る方法が見つかるように思えない。
そして何より私は医者だ。男との生活は特に縛りがあった訳ではないが、それでもこの世界で無免許で医療を行っていることに蟠りはあったため、すんなり答えることができた。
「そうですね、それならば私は正式に免許を取得し、医者となりたいです」
医者の仕事をしながら元の世界に戻るための方法を模索する。その真意を隠して言葉にすると、男は特に驚いた様子もなく「そうかい、それならそうすればいいさ」と軽く話し、出て行った。それきり男と会うことはなかった。
そう言えば名前も知らなかったなと後から気が付いた。なんともストイックな関係であったなと我ながら思う。
ともかくそうして正式に試験を受け、免許を取得し、この世界で正しく医者と認められた私だったがそれでもまだ地に足が付いたと言える心境ではなく、元々診察していた訳あり患者が持ってくる怪しげな黒魔術の本を購入しては、元の世界に帰る方法はないかと探索をしていた。
そんな私の元に彼女がやってくるのはその三か月後の話であった。