Prologue 「この世界が――好き」
その男は信じていた。
世界を平和にする為には、人々の上に君臨する絶対的な支配者が必要である、と。
人間を従わせるには、恐怖を与えることが一番効率が良いはずだ。
だが恐怖を以って相対すれば、当然のように勇気を持って反発する者が現れる。
そうでなくとも人々は徒党を組み、皆の力で乗り越えようと努力する。
恐怖を以って支配するだけでは、世界は平和にならないのか。
もしそうならば、人々を従わせる為に最も必要なものは何か。
男は考え、思考を重ね、そして結論を出した。
――信仰だ。
上に立つ指導者が腐敗しなければ、宗教は人々を平和にすると思った。
そして男は実際に新興宗教の教祖となった。
ある程度の信者がつき、彼らは男が言うことならば、嬉々として従った。
だが、彼らは自分にとって不利益になりすぎることまでは従わなかった。
これは世の為、神の為になるのだと男が幾度となく説教しようとも従うことはなく、それどころか男から離れていく者すら現れた。
男は考え、思考を重ね、そして結論を出した。
そうか。
信仰だけでも足りないのか、と。
ならば。
恐怖を以って人々を支配し、信仰によって人々からの尊敬を得る。
それを確実な形で実行し、尚且つ人々の上に立つ指導者が世界の為に身を捧げる人間であるなら、世界は平和になるのかもしれない、と。
――争いのない平和な世界を願って。
それが、男の身を支える信念だった。
♢
ミラ王国。
『四強』と呼ばれる人間が主軸となって築いている大国の一角であり、女神ミラを信仰するミラ教を国教としていて、教会や天使族との繋がりも強い。
亜人排斥の傾向があるレーノ共和国や、弱肉強食のヴァリス帝国などとは異なり、ミラ王国は全種族平等を謳っていて、穏健な人々が多い。
立憲君主制であり、ミラ教会の協議により憲法が作られるので、実質的な主権は王家と教会とに二分されているといっても過言ではない。
だが権力闘争にまでは発展しておらず、実に平和的に協調路線を歩んでいた。
余談ではあるが、ミラ王国がユーレンザラート大陸の中域を占める大国へと成り上がった理由は、第一次魔王戦役の際に、人間を護り抜いた初代勇者の召喚をしたからである。
そのおかげで、当時の『人間連合』と呼ばれた対魔王軍の為に手を結んだ同盟国の中で最も損耗が少なく、そのまま影響力を強めていったのだ。
加えて、全体的に四季がはっきりしていて、肥沃な土地が広がっている木々や穀物が育ちやすいという恵まれた環境により、食糧が比較的安価。そのおかげなのか、比較的平和を保っていて、軍は国の広さの割に小規模だった。
そんな恵まれた大国の王都。絢爛かつ堅牢に造られた中央の城のテラスで、頬杖をつく少女がいた。
「……あたしね」
アイリス・ミラーリン。
ミラ王国の第三王女。
輝くような金色の長髪。まだ十五歳という年齢で、端正ながらもあどけない美貌が窺える。その透き通った碧瞳には、海が広がっているような錯覚すら覚え、控えめな装飾がなされた純白のドレスが良く似合う。シミ一つない肌が、彼女の絶世とすら呼べる美しさを強調していた。
「……どうしたの?」
優しげで温和な声をかけたのは、明るい茶髪に目鼻立ちの整った顔立ち、中肉中背の体格に、白を基調とした魔導服を身に纏う少年である。
白崎大和。
ミラ王国に降臨した"光の勇者"だ。
大和が不思議に思って首を傾げていると、アイリスはしばらく眼下に広がる賑やかな町並みを眺めた後に、ゆったりとした口調で答えた。
「好き……なんだ」
「……へ?」
「……ここから見える、この景色が」
大和の心拍数は一瞬だけ跳ね上がったが、その後に続く言葉に、僅かな落胆と共に安堵を覚えた。
ホッとしたように息を吐く。
「そういえばアイリスは、この場所にいることが多かったなぁ」
大和が男にしては高い声でそんなことを呟く。
優しげで、だけど頼りなさそうな声音だな――大和にはそういう自覚があった。
アイリスの後ろ姿は儚げで、触れたら、今にも壊れてしまいそうで、だけど、抱き締めてほしい、護ってほしい、助けてほしい、と、そんなことを伝えているような気がしていた。
「……ここからだと、皆のことが見えるんだ」
「……」
「朝は、忙しそうに商人たちが駆け回っていて、昼は、鍛冶屋のおじさんが武器を打っていてね、夜になったら、冒険者の人がギルドに帰ってきて、楽しそうにお酒を飲んでいるの」
「そっ……か」
「もちろん、本当はここから見える良い面ばかりじゃないことも、分かってるけどね?」
アイリスの金の長髪を、さぁっ、と、そよ風が背中へと流した。
いつの間にか、山脈の彼方に夕陽が落ちていた。
黄昏の空には、鮮やかに色づいた雲が浮かんでいて、それらはアイリスの儚げな美しさを強調する額縁と化している。
「……うん」
大和はなぜか、哀しいという感情を抱いた。
「……それでも、さ。ここから見える景色だって、確かに皆の生活にある一面なんだよ。確かに笑顔を浮かべて暮らしていた人が、ここにいるんだよ」
彼女はいま、どういう顔をしているのだろう。
大和は、小さくて脆いアイリスの華奢な体を、不意に抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
そんな自分に苛立った。嫌気が差した。一歩を踏み出したところで立ち止まり、強く、血が滲むほどに拳を握りしめた。
そんな資格は、大和にはない。
「あたしはね、この街が好き」
歌うように、アイリスは言う。
「この国が好き」
想いの丈を込めて。
「この世界が――好き」
くるりと、アイリスは大和の方に振り向く。
普段は幾百もの星の瞬きを内包している彼女の瞳は、いまや黒に塗りつぶされている。
「……ごめん。異世界に住んでいたヤマトに、こんなことを言ったって分かんないよね」
「……想いは伝わるよ」
「そっか。良かった……の、かな?」
分かんないや、とアイリスは笑う。
そして、ゆっくりと噛みしめるように呟く。
「だからね、あたしは戦うよ」
「……戦うと、必ず誰かを傷つける。それは、怖いことだ。……僕は、それに耐えられない」
「あたしも、戦いなんて嫌いだよ。……でも、大切なものが危機に晒されていると知って、あたしはそれを見逃せないことに気づいてしまったから」
強い覚悟を秘めた言葉だった。
アイリスは息を吐くと、大和の横を通り過ぎ、王城の内部へと戻っていく。
「……ヤマト。君には何の義務もないし、責任もないから。本当に、気にしなくていいんだよ」
そんな呟きを残して、アイリスは姿を消した。
「……」
白崎大和は異世界の人間だ。
この世界に勇者として呼び出され、祀り上げられたが、見たこともない人々の為に戦いたいなんてことは、決して思わない。
自分の命が危機に晒されることが怖い。
たとえ誰かを護る為だとしても、別の誰かを傷つけることが怖い。
そもそも命懸けで人々を救ったところで、いったい自分に何の得があるのか。
魔王軍と戦争して、悪魔を殺し続けることが、本当に正しいことなのかすら分からない。
――それでも。
どうにかしてやりたいという想いがあった。
切ないような、苦しいような、この淡い感情の正体は分からないけれど。
彼女の理想を、叶えてやりたいと思った。
――そんな台詞を臆面もなく言えるような人間ではないと理解していても。
「なにが、勇者だ……」
呟きが風に乗って、中空へと消えていく。
山の稜線にいまだ残る夕陽は、天を鮮やかに焦がし、雲の下腹を焼いている。
そんな幻想的な光景は、儚く、脆く、美しい、その光景は、それでいて、どこか大和を糾弾しているかのような気がしていた。
♢
「……戦う為の、理由か」
己の信念を貫く為に。
ならば、信念とは何だ。
「……己の内から湧き出る感情に従い、助けたい者を助け、護りたい者を護ること」
ならば、その助けたい者を助ける為に、その他の誰かを殺さなければならないとする。
「……殺さなければならない相手も、どうにかして助けてやりたいと思ったとしたら?」
いったい自分はどうするのだ、と。
自問自答を、繰り返す。
理屈では分かっている。
そんなものは夢物語である、と。
ならば、どうやって妥協するのか。
何を護り、何を切り捨てるのか。
その天秤の基準はいったい何だ。
「ちくしょう……」
結局のところ、自分の視界の中で、涙を流している人を見たくないだけなのだ。
誰もが幸せな笑顔を浮かべた未来――そんな、今にも崩れてしまいそうな理想に向けて、一歩でも近づきたいだけなのだ。
不意に、見上げている夜空にあの男の大きな後ろ姿が映った。堂々たる足取りで、全てを救い上げて凱旋する男の姿が。
「――俺は、英雄なんかじゃない……!!」
夜空に向けた、少年の咆哮があった。
大和とアイリスは実は初登場ではありません(小声)




