第21話 「それでも立ち上がる理由」
――前提として。
神の領域に達するほどの神力を得た獣王は、魔法に弱い獣人族を視界に捉えるだけで支配下におくことができる。
だから、獣王の眼前に立ちはだかったレーナ・ランズウィックは格好の獲物である。
そうなるはずだった。
獣王が雄々しき叫び声を上げる。ビリビリとした振動が地の底から響いてくるかのようだった。
その身から莫大な神力が解放され、レーナの肉体を締め付ける。
しかしレーナは獣王の支配に抗い、倒れない。
「わたしは……勝算もなく、姿を見せたりはしません……!」
レーナは息を切らしながら、予想が当たったことにニヤリとした笑みを浮かべた。
『神獣化』の固有スキルを扱うガレスは、神に功績を認められた初代からそれを引き継いだ。
つまり、血筋によってスキルを手に入れたわけだ。ならばガレスの娘にあたるレーナが、『神獣化』を使えない理由が何処にある。
――以前より、片鱗はあった。
この里に帰ってきてからのガレスとの特訓により、段々と体に不思議な感覚が満ちていった。
もちろん力と技術は格段に上がっていたが、それだけではなかったのだ。
思えば、あの時すでにガレスは『神獣化』をレーナに引き継がせようとしていたのだろう。
「はあぁ……!!」
レーナは体に満ちる感覚に逆らわず、雄叫びと共にその力を外に放出する。
その肉体がガレスと同じ、雄々しき虎の姿に変化していく。凄まじい力が体に付与されていくような気がした。これまで感じていた不思議な感覚の延長線上のものだ。
これが神力と呼ばれるものなのだろう。
それを実感したレーナは、四肢を持って大地を踏み締めると、己を遥かに上回る神力を宿している獣王と睨み合う。
この時。
習得者が二人に増え、『神獣化』は固有スキルではなくなった。
それでも"神格化"の術式の効果を考えれば、レーナ一人で対抗するのは難しい。
そんなことは理解した上で。
「絶対に……ここは通しません」
レーナは決意を言葉にした。
獣王は支配することができないレーナに苛ついたように唸ると、姿勢を低くして臨戦態勢を取る。
♢
神谷士道は優勢だった。
『魔力炉の腕輪』により通常の三倍にも昇る魔力量を手に入れた士道は、多彩な戦術を駆使して大友慎也を翻弄する。
「"風槍"」
士道の技名発動。その言葉に反応し、大友は瞬時に距離を縮めて肉薄する。士道が魔法を準備している隙を突く魂胆なのだろう。
だが、そもそも士道は魔法など構築してはいなかった。先ほどの言葉は演技。呟いただけだ。
士道の口元に薄い笑みが浮かぶ。
これが道化の芝居だと気づいたのか、大友は奇術師の領域に踏み込んだことを悟ったようである。
士道は逃さない。その瞳が『魔眼』の発動により、悪魔のように赤く染まった。
急停止して後退しようとした大友に向けて、士道は刀を抜いて斬り掛かる。
鋭い剣閃を大友は体を右に振って躱した。そのまま転がると、流れるような手捌きで構えた小銃が火を吹く。
だが、剣を振り抜いた士道は最初から幻影だ。つまり大友は避けなくても問題ない攻撃に気を取られていたのだ。青き一条の光線が幻影を消し飛ばす。
本物の士道は、木の上に密かに飛び移っていた。その視線の先には大友の背中がある。
奇襲を仕掛けられるか、否か。士道は思考する。大友は今、奇術師の舞台に立っている。だが、士道が構築する戦術の網から逃げ出されてしまえば、この優位は簡単に揺らぐだろう。
その前に決着をつけたい。
『瞬間移動』は警戒している。この距離だと『雷撃』も躱されるだろう。
どうする。士道が高速で思考を回転させていると、足場にしている大木の枝が僅かに揺れた。
ユラ、と木の葉が舞い落ちる。
瞬間。士道の判断は迅速だった。咄嗟に真上に飛び上がる。大友が振り向きざまに放った銃撃が足裏を掠めた。
士道は背筋を凍らせながらも『風の靴』で飛翔し、銃撃を何とか躱しながら木々の間に再び潜り込み、地面に着地する。
いつの間にか舞台は里の前の広場から少し外れた森の中に移行していた。
銃撃を回避する為に、慌てて大友から距離を取った士道は木陰に身を隠す。だが、同時に大友の姿も見えなくなってしまった。
木々のざわめきだけが周囲に響いている。氷のような緊張感に、士道は冷や汗を垂らしていた。
大友の着ている迷彩柄の魔導服は、この森の中ではひどく見破りにくい。潜んでいるのが現役の自衛官となれば尚更だ。
士道は木陰から動けない。動いた瞬間に思いもよらぬ角度から撃ち抜かれそうな気がしていた。
追い込んでいるつもりが、士道は知らぬ間に銃兵の領域に追いやられていたのだ。
(……何処から出てくる)
ゆっくりと辺りを見回す。何が起ころうと即座に反応できるように集中力を研ぎ澄ます。
その準備をしてから、数秒後。
士道が潜む木陰の奥から、コン、という音が響き渡った。士道は反転して飛び出す。すでに剣を下段に構えていたが、その直後に失策に気づく。
石だ。士道を誘い出す為に石を投げたのだろう。考えてみればひどく単純な手。だが、集中力を研いでいた士道にはそこまで頭を回す余裕がなかった。
絶望的な危機感を覚えた士道は『瞬間移動』で離脱しようとする。
だが自らが作り出した明らかな隙を、あの大友が逃がすはずもなかった。
ゴッ!! と、鋭い閃光が士道の腹を貫いた。
「がっ……!?」
血飛沫が舞う。同時に士道は思考を曲げず、激痛の中で『瞬間移動』を行使した。
士道の姿が掻き消える。その刹那、心臓があったはずの場所を蒼き閃光が軌跡を描いた。
♢
大友慎也は無言だった。初撃で仕留める予定だったが、予想よりも士道の反応が速かったのだ。
それに加えて、腹を貫かれた状態での二撃目に対する反応が尋常ではない。
冷静かつ大胆。少し戦闘経験が浅いが、危機を感じ取る嗅覚にも長けている。端的に言えば、強い。
大友は決して油断をしないように気を引き締めながら、木陰から匍匐で移動を開始した。
それでいて、音は立てない。大友はゆっくりと移動しながらも周囲をつぶさに観察している。
『瞬間移動』した士道が何処に潜んでいるか、それをだいたいは予測していた。
士道は大友の居場所を把握していない。銃撃の方向から多少の推測をしている程度だろう。
だとするなら、まずは高所から見下ろして大友を探すことを選択するはずだ。
(……見つけた)
多少の崖がある丘陵。その木々の隙間から、士道が纏う黒の魔導服が見えた。対する士道は匍匐して草むらに紛れる大友にいまだ気づいていない。
士道は屈んで、見当違いの方向を睨んでいる。その顔色は悪い。銃撃の影響だろう。筋力で血を抑え込んでいるようだが、そう長く持つものではない。
もう一撃当てればそれで終わりだ。
大友の固有スキル『魔銃』は、一撃が致命傷になりうるほどに強力なものである。
(本当に、気づいていないのか?)
大友はスチャ、と小銃を構えながら、胸中に僅かな懸念を抱えていた。
あれは幻影ではないのか。本来の士道は近くで身を潜めてはいないか。あれが本物だったとしても、大友はあえて泳がされているのではないか。この考え自体が奇術師の網に嵌まっているのではないか。
考えうるすべての可能性を考慮した上で、大友は銃の引き金を引いた。蒼き光線が士道の胸部に炸裂する。
だが、それは幻影だった。
大友はそれを悟った瞬間、即座にその場から飛び退いた。一瞬遅れて『雷撃』が足場を崩す。
大友は崩れる足場を連続で蹴り抜いて地面に着地。小銃の引き金を引きつつ、さらに後退した。
士道は『瞬間移動』で現れたのだろう。これは大友の推測だが、おそらく幻影はいくつもあった。そのうちのどれかに大友が反応するのかを、最も安全そうな場所に隠れて見ていたのだ。
銃撃を回避した士道が突き出した『天魔刀』が伸びて、大友の小銃を弾き飛ばす。危機を悟った大友は咄嗟に拳銃を引き抜いて牽制に何発か放つが、士道は縦横無尽に木々を跳ね回って躱した。その直後に木陰に入ったかと思えば、二方向から士道が飛び出してくる。つまり片方は幻影だ。
大友はそう思っていた。
己の背中が異様な熱を帯びるまでは。
「ぐあああああああぁぁぁぁぁ!!」
激痛。大友は鋼の精神力でそれに耐え抜くと、振り向きざまに拳銃を撃った。士道は首を振ってそれを躱す。『魔眼』が大友の動きを先読みしているのか。つくづく厄介なスキル群である。
大友はたたらを踏んで表情を歪めた。そして失策を悟る。今のは引くべきだった。これは明らかな隙であると自覚する。
対する士道は思い切り剣を振るった。無理やりに身を捻るが、この速度は躱せないだろう。
直撃すれば大友はもう立ち上がれない。極めて優れた自衛官として実戦でも結果を残してきた大友には、その事実が一目で見抜けてしまった。
そして。
立ち上がれなれば、大友は敗北する。
勝つことに誇りがあるわけでもない。別にそれ自体はどうだっていい。
だが、その結果として獣人族の戦力化が果たせなければ、大友は元の世界には帰れない。
大友に楔のように打ち付けられた目的。
それを叶える為に、世界で唯一の"世界渡り"の魔法を扱える女神に与えられた五つの"試練"。
それらは反吐が出るような仕事だった。だが、大友は心を殺してその全てを忠実にこなしてきた。
この計画が最後の"試練"なのだ。ここで失敗すれば、今までのすべてが水泡に帰す。
大友が許容した犠牲のすべてから意味が消える。
元の世界に帰ることができず、己の命よりも大切だと思ったあの女から笑顔が消える。
それだけは、認めるわけにはいかなかった。
「――お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
大友慎也は絶望的な状況で、己を穿つ剣に向けて深く、強く、一歩前へと踏み込んだ。
剣撃が肩口から大友の肉体へとめり込んでいく。視界が赤く染まる。五感が消えてなくなったような気がした。それでも、硬く握り締めた拳銃の銃床を、思い切り士道の頭部へと叩きつける。
ゴン!! という、凄まじい音が炸裂した。倒れ伏した士道の額から濁流のように血が流れる。肩口に突き刺さった剣を引き抜いた大友は、夥しい量の血を流しながらも士道にのしかかり、拳銃の引き金を引こうとする。だが、士道は銃口を掴んで力ずくで方向を曲げた。見当違いの方角に光線が迸る。ギリギリと、お互いに拳銃を握って力比べをする。だが、大友には律儀に付き合う必要はない。競っているのは右腕だ。大友は左腕を振りかぶり、士道の顔面に肘打ちを叩きつけた。
「ごはぁぁっっ!!?」と士道が苦痛に呻く。それでも士道は拳銃を離さない。大友は何度も何度も肘打ちを叩きつけた。馬乗りの態勢を維持しながら、徹底的に士道を追い込むように。
鈍い音が連続して響き渡る。士道は頭部に何十回もの打撃を受けて、それでもその手には力を宿していた。血が流れていない箇所を探すことも難しいような状況で、士道はまだ戦おうとしているのだ。
大友は表情を歪める。こんな男を殺して、己は先に進まなければならないのか、と。だがそれは戦闘前に士道が口にしていた。それを理解した上で、地獄の道を歩むと大友は返答したはずだ。
その覚悟はこの世界に舞い降りたときから、硬く、固く築いたものである。
ならば譲らない。譲るわけにはいかない。
大友の攻撃は止まない。何を叫んでいるのかも分からないままに、大友は士道を肘で殴り続ける。
♢
失敗したな、と士道は思った。
大友の戦術は、己が想定していた動きより遥かに合理的で、それでいて予測がつかないものだった。
それは当然かもしれない。大友は現役の自衛官だ。実戦に対する訓練を積み上げ、この世界に来てからもその技術を活かすように戦い続けてきたような人間だ。
対する士道は普通の高校生である。
古賀玄海に戦いの術を学び、ある程度の技術を身につけたとはいえ、結局のところ戦い慣れしていない少年に過ぎない。現に、奇術師としての才能と優秀な固有スキルを持ちながら、それらを活かしきれずに負けそうになっている。
馬乗りの状態で、何度も何度も大友の肘が振り下ろされた。視界は靄がかかっているようで、連続する激痛にもはや感覚が麻痺していた。
朦朧とする思考。『瞬間移動』を行使するような余裕もない。士道は薄い意識の中でぼんやりと大友を眺めていた。その瞳に宿っているのは、どれほどの犠牲の上であっても絶対に掴みたいものがあるという断固たる意志だ。
彼は、凄い人だと思う。譲れないほどの戦う理由。研鑽され抜かれた戦闘技術。茨の道を歩み続けるという絶対的な意志。
そんな人間に負けたのなら、誰も士道を責めることはない。むしろここまで奮闘したことに、褒めてくれる人だっているだろう。
士道は所詮はただの高校生なのだ。大友のような崇高な戦う理由なんてない。守りたいものを守ろうとする、それを信念と呼んだ男がいた。その生き様に憧れた。それだけなのだ。
そんな理由にもならないような、ちっぽけな憧れが士道を動かしていた。
なら、もういいじゃないか。
諦めたって、いいじゃないか。
もともと士道になんて誰も期待してはいない。ハズレ術師、ハズレ術師と蔑まれ、そんな評判は意識しないようにしてきた。最初は優秀なスキル群があり、決して他の転移者に劣るものではないと思っていた。確かにそうかもしれない。戦闘面では決して劣るわけではなかった。だが、それでも士道の意識の奥には確かな劣等感があった。
彼が知る転移者は誰もが皆、何かの為に戦っていたからだ。それが善にせよ悪にせよ、目的に向かって純粋に。
護りたいものを護るなんて、そんな曖昧な目的を信念と呼んでいる士道とは大違いだ。
もう、何度鈍痛が頭に響いたのだろう。時間の感覚すら曖昧だった。大友はいつの間にか肘ではなく、拳を振り下ろすようになっていた。
彼は泣いていた。
雄叫びを上げて、堪えきれずに涙を零し、それでも拳を振り下ろしていた。
その姿はまるで敗者の慟哭のようだった。
おかしな話だ。なぜ勝者がそんなにも苦しそうな顔をする。どうして望まない道に命を懸けて進もうとする。そんなものは士道には理解できない。
士道はもう負けたのだ。そう思っていた。そういう現実を認めようとしていた。しかし、焦点の合わない視界のなかで、士道は理解のできないものを一つだけ見つけてしまった。
己の右手が、大友の拳銃を離していないのだ。
あくまでも銃口をこちらに向けない為に、全力で力を込めて大友と拮抗している。
「……意味、わからねぇ……」
掠れた声音で呟く。
意志はもう、折れてしまった。
もう戦わなくてもいいのだと、そんな台詞を誰かにかけて欲しかった。
そのはずなのに。
士道の右手は、拳銃を離さない。己の命を確実に奪うものだけは絶対に阻止し続けていく。
それは何の為に? それは誰の為に?
朦朧とする思考の中で浮かんだものは、レーナとガレスが並んで歩く姿であったり、ルナールがギラン達と共にいる姿や、あの里の子供たちが遊んでいる光景だった。取り留めのない、この世界のどこにでもあるような、なんの変哲もない光景。
何で、そんなものが浮かんだのかは分からない。
それでも負けたくないような気がしていた。
負けられない理由があったような気がしていた。
――ああ、そうか。
あの里には、笑顔が咲き誇っていた。まるで向日葵が立ち並ぶ花畑のように。
だから、護りたいと思ったのだ。
士道の意志は確かに、もうとっくに折れていたのかもしれない。
だけど。
それでも。
折れていたのなら、修復すればいい。
倒れたのなら、また立ち上がればいい。
そんな簡単なことが、なぜ理解できなかったのだ。大友の拳銃を抑えていた両腕が片腕になり、それでもギリギリで押し留める。もう片方の腕はのろのろと動き、初めて大友の拳を受け止めた。
士道は結局、皆の笑顔が見たいだけなのだ。誰一人として失いたくないだけなのだ。
そんなことは理想論だと分かっていて、それでも戦い続けることで他の誰かの未来を切り拓けるのならば。
神谷士道は立ち上がる。
失いかけた信念を、掌の中に握り締めて。




