第15話 「神の領域に踏み込んだ怪物」
"神格化"の術式を有する魔法陣が起動した。
士道はその瞬間、僅かに意識が逸れた集の眼前へと飛び込み、渾身の『雷撃』を叩きつける。
ひどく驚いたように目を瞠る集だが、動揺しながらも判断は機敏。
「――火の精霊よ」
一言、紡ぐ。
直後に雷の鋭い一撃が集の腹部を抉る。だが、ダメージを与えたはずの士道は驚愕で言葉を失くした。
抉られた腹部から血が流れていない。その断面から垣間見えるのはめらめらと燃え盛る灼熱の炎だった。
端的に言えば、集の体そのものが炎と化していた。
「なんだ、そりゃ……!?」
雷に削り取られた腹部は、煌々と燃えながらゆっくりと人の形を取り戻す。やはりダメージは無いようだ。
「く、そ……!?」
「……これは、あんまり使いたくなかったんだがな」
悠然と佇む集が鬱陶しげに呟く。
絶好の機会を逃した士道は、舌打ちしながら表情を歪めていた。
今のは切り札のようなものだろうか。そう願いたいところだ。
あの技に回数制限がないのだとしたら、集の魔力を削り切るまで勝つことができない。
だが、事態はそれどころではないらしい。
魔法陣から放たれる光の奔流が辺りを埋め尽くす。獣王ガレスを中心にして謎の圧迫感が徐々に広がっていく。
カイザーは思惑通りだと言いたげな笑みを浮かべているが、"神格化"を行使した後も、ガレスを助けられないという証明は何もない。
まだ希望はある。
ガレスから放出されていた光は、淡い輝きを灯しながら段々と消えていく。眩しくて視認が不可能だった魔法陣が鮮明に見えるようになる。
レーナが、足を止める。呆然とした様子だった。
「お父さん……」
何故なら、魔法陣の上に立っていたのは、虎のような姿に翼を生やした異形の怪物だったからだ。
『神獣化』を行使した際のガレスは確かに虎の姿に変貌するが、あのような怖気の立つ翼を生やしてはおらず、毛皮の色は黄金色のはずである。
だが、眼前に佇む獣王の全身の毛皮は漆黒。金色に輝く瞳に意思は見えない。
圧倒的なまでの威圧感は士道達に本能的な畏怖を呼び起こす。
四足歩行で大地を踏む、先ほどまで獣王だったモノは、迷宮の天井に向けて雄々しき咆哮を上げた。
鼓膜に、衝撃が炸裂した。
「がぁっ……!?」
咄嗟に耳に魔力防御を施さなければ、鼓膜など簡単に弾け飛んでいただろう。それでも平衡感覚が揺らぐほどの莫大な声量。
それだけではない。
神が宿すような馬鹿げた神力を身に纏ったその雄叫びは、
「なっ……」
難攻不落なはずの迷宮の天井を破壊する。
あれだけの強者達が暴れても無傷のまま君臨していたこの迷宮が、耐えきれずに段々と崩れていく。
信じ難い光景だった。
ガレスはいくらレベルオーバーだったとはいえ、そこまで驚異的な結果を叩き出せるほどのステータスではなかったはずだ。
それが"神格化"ひとつでこの破壊力。
――あれが獣王なのか。
否。これが、神の領域に踏み込んだ者の力なのか。
士道は戦慄を禁じ得ない。
迷宮は古の時代に魔神ゲルマが創造したとされている。ならば、人には崩せずとも同じ神ならば崩せるのもまた道理。
周囲に数々の瓦礫が降り注ぎ、各所で発生していた戦闘が止む。
それどころではなくなったのだ。
士道は莫大な音量に顔を顰めながらも耳を塞いで耐えていると、やがて獣王の咆哮が止んだ。
いつの間にか天に向かって一直線に、天井に巨大な穴が開いている。獣王が佇む位置に太陽の光が降り注いでいた。穏やかな陽だまりは神聖な気配すら携えている。
それが意味しているのは、獣王が放った咆哮は十五層もの迷宮の壁を撃ち抜いたという端的な事実である。
あまりにも圧倒的な神力。それが為した世界の記述の改変。
神の所業を前に、誰一人として言葉を発さずに呆然としていた。
そこで、
「く、くく……」
黒い翼に身をくるませて音響から身を守っていたカイザーが、堪えきれないというふうに笑いを漏らした。
呻くようなそれは途中から、狂ったような哄笑に変わる。
「はははははははははははははははは!! これです、これなんだ、私が求めていたモノは!! 神にしか成し得ないこの所業!! これさえあれば私は天使に戻れます!!」
「……」
これがカイザーが求めていたモノか。
確かに凄い力だと感じる。
だが、このような無理やり底上げされた悍ましいだけの力が、あの穏やかな里を総べていた獣王――ガレスという一人の男を犠牲にしてしまうというのは、ひどく哀しいことだと思った。
もはや意識はない虎の怪物は、しかし何処か瞳に哀しい光を携えているように思える。
その光景を見て。
不安に駆られるレーナの表情を見て。
神谷士道は、一歩前へと踏み込んだ。
「お前が天使に戻れようが戻れまいが、俺たちにはどうでもいいがな」
言葉にすることで、己が覚悟を見せつける。
我が身、我が信念は決して『力』ごときに歪められたりはしないと。
揺るぎない意志を掌に握り込んで。
「ガレスは、返してもらうぞ」
「ほう」
カイザーは面白いものでも見つけたかのように愉悦の笑みを深める。
「丁度いいですね」
まるで蟻でも踏み潰すかのような気軽さで。
カイザーは、端的に告げる。
「手始めです。あの男を排除しなさい」
地獄の釜が開いた。
♢
「…………?」
そう思っていた。
しかし何も起こらなかった。
士道は極限まで集中力を研ぎ澄まして臨戦態勢へと移行していたが、獣王は先ほどの咆哮を最後に動く気配すら見せなかった。
「どうしたのですか獣王!? あの奇術師を排除しなさい! さあ、はやく殺すんだ!!」
カイザーは重ねて命じるが、翼を生やした虎の怪物は微動だにしない。虚ろな瞳のまま、天井に開けた穴を見つめている。
「……どういう、ことですか…………?」
カイザーは呆然としたまま呟いた。
まさか、と士道は周囲に目を走らせた。
士道と相対している集は僅かに目を細めて獣王を観察し、棒立ちのレーナに対して、実体化したままの影山が仕掛ける気配はない。
アイザックは不思議そうに腕を組み、ミレーユは状況の推移を見据えている。ギラン達とルナールの戦いには決着がついているようで、ルナールが意図したような無表情で眺めていた。
「何だぁ? 失敗なのかよカイザー?」
「いや、そんなはずは……理論値は達成しているはず、となれば……」
どうでも良さそうなアイザックの質問に、カイザーは焦燥を浮かべながらブツブツと呟くと、
「カゲヤマ……あなたの役割である洗脳術式が上手く働いていないのではないですか!?」
睨めつけるような視線が影山玲に向いた。
だが、影山は無言。冷めた視線を送るだけで反応を示さない。
士道は状況を掴みかねている。
どう動くべきか。その判断材料が足りなかった。
「…………ようやくか」
ポツリとした集の呟きを、士道は聞き逃さなかった。
何かが起こる。その予感があった。
次の瞬間。
「――は?」
黒き翼を持つ堕天使――カイザー・エッフェンブルグの腹部に風穴が開いた。
士道は目を見開く。
(……そういうことか……!!)
血飛沫が舞う。濁流のように赤い河が流れ始めた。カイザーは理解できないというふうに目を見開き、激痛に絶叫を上げる。
「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
今のは獣王が天井に開けた穴から届いた一条の青白い光線だ。あの軌跡は一度見たことがある。間違いなく大友の銃撃。
予想外の方向からカイザーを一撃で貫いた光線は、そのまま地面に着弾。ごう、と砂煙を吹き上げた。
「なんだ、これは……」
「ご苦労だったな。カイザー・エッフェンブルグ」
血に塗れた手を眺めながら、よろよろと地面に膝をついたカイザーに、上空から生真面目そうな声がかかる。
獣王が貫いた大穴から、十人を越える人影が降りてくる。逆光でその姿はよく見えないが、その神聖なシルエットは把握が容易だった。
空中でゆったりとした白い翼を羽ばたかせながら降りてくるのは、
「天使、だと……」
呆けたように呟くカイザー。
そして、その中央に君臨しているのは、
「天使長、イリアス……!」
そう呼ばれた厳格そうな顔つきの男は、かつて士道が『白い空間』で見たときと変わらない硬い口調で再度カイザーに話しかけた。
「お前のおかげで、実験のコストが大分削減できた。"神格化"も上手く働いているらしい。これなら調整も必要ないだろう」
「だから、あなた、方は……いったい、なにを――!?」
「何だ。存外鈍いんだな。これでも術式を完成させたことは評価しているというのに。まだ分からないのか?」
狼狽えるカイザーに、数十もの侮蔑の眼差しが向けられる。
そうして、決定的な一言が突きつけられた。
「お前は利用されていただけだ。女神様が試したい実験の下準備にな」
「な……っ!?」
「まさかとは思うが、お前程度が女神様の思惑を越えられると本気で思っていたのか? 冗談にしても笑えないほど稚拙で幼稚だ。仮にも、かつて貴様に百人長を任せていた私の立場が危うくなる」
イリアスが淡々と語ると、カイザーは二の句も告げなかった。腹部から流れる血の河も気にせずに呆然と座り込んでいる。
気の毒とは思わなかった。
同情してやれるような人間性ではない。
「天使は生命力が高いというが、良いことばかりではないな。まあ良い。そこで死ぬまで結末を眺めていろ」
イリアスは無表情のまま告げながら、そのまま降りてきて地面に着地する。周囲を固める数十人の天使も続々と降り立った。
そのまま首を回して周囲を睥睨する。
その注目は、士道へと向いた。
「……ハズレ術師か。そんな扱いにくい天職で、よくもまあそこまで戦えるものだな」
「……余計なお世話だ。そういうお前は、またくだらない陰謀を回してるようで何より」
「女神様の慈悲だよ。あまりにもこの男の行動が無意味だったのでな。せめて実験の役に立つならと、わざわざ意味を与えてくださったのだよ。お優しいことだろう」
「悪いが、そういうのは好きじゃない」
「何だと?」
ぞくりと、士道の背中に怖気が走る。
イリアスの無機質な金眼から放たれる光に、士道は本能的な恐怖を抱いた。
『鑑定』は当然のように弾かれ、洗練された動作のひとつひとつに実力差が垣間見える。
かつてイリアスが『白い空間』で現れたときには分からなかったことだ。なまじある程度の戦闘力を身につけてしまったが故に、お互いの間にある天地ほどに遠い距離を理解してしまう。できてしまう。
腕を滑る冷や汗が手の甲を濡らした。
(他の天使も『鑑定』を弾くか……女神が開発した技術らしいしな。そのお膝元には通じなくて当然ではあるのか)
とはいえ、彼らにイリアスほどの実力があるようには思えない。それでも絶望的な戦力差があることに変わりはないが。
そして"神格化"により膨張した筋肉と黒ずんだ体を持ち、灰色の翼を生やした虎の怪物――『神獣化』状態の獣王は、ただイリアスの方を向いて座っている。
どうやら支配権はイリアスが持っているようだ。
士道は知る由もないが、これはカイザーが集のアドバイスを鵜呑みにして、その意味を理解せずに術式を完成させた結果である。
イリアスも獣王の様子を見て、納得したようにひとつ頷いた。
「上手くやったようだな、葉山集。影山玲。多少無理があるのか姿形は醜くなったが、確かに神に近づいている。洗脳も効いているらしい」
「……フン。この堕天使があまりにも騙しやすかっただけだ」
「ふむ」
集は不快そうに鼻を鳴らす。影山は落ち着いた様子で言葉を返した。レーナにナイフで刺されていた影山は、いつの間にか駆け寄った一人の天使に治癒魔法をかけられている。
やはり集は天使側だったか。それについて疑う理由はない。この男が心酔している女神に逆らうなど想像もつかない。
影山の方は大して知らないが、もしかすると集と似たような事情でも持っているのかもしれない。
(だとすると、やはり大友もか)
大友はカイザーへの一撃を放ったが、天使達のように迷宮の内部に降りてきてはいない。
天使とは異なり、空中の移動手段がないのだろうか。それとも上空から先ほどのように不意打ち狙いか。
士道が迅速に思考を回す間にも、状況は勝手に動いていく。
「なぁーんだかよく分かんねぇんだけどよぉ」
天使の登場により異様な緊張感を孕んだこの空間に、妙に気の抜けた声が響いた。
超級冒険者たるアイザックのものだ。彼の表情からすると、集や影山のように天使と内通していたというわけではなさそうである。
「結局さ、その状態の獣王は強ぇのかよ? それさえ分かりゃ後は勝手に持っていくだけだが」
「……"赤鬼"のアイザックか。そうだな。意図しなかったとはいえ、お前はかなり我々の力になってくれた。その恩の分は答えるべきといえるか」
イリアスは顎に手をやると、
「……仮にも神の力を手にしているのだ。理論上は相当なものになっているはずだな」
「女神よりも?」
「いや、それはあり得ない。そもそも"神格化"の本来の目的は強くなることでも神の力を手にすることでもない。それは副産物に過ぎない。カイザーは本質を勘違いしている。そうさせた」
「あぁ? それじゃあ駄目じゃねえか。つーか、そもそもテメェらの目的ってのは何なんだ?」
アイザックの苛ついた様子の質問に、イリアスは律儀に返答する。元々そういう気質なのだろう。
「それに関しては見せた方が速いな」
嫌な予感がすると士道は思った。
イリアスはやはり淡々とした調子で、
「ルナール・リーフィア。本当に予定通りでいいんだな?」
ギラン達を倒した狐耳の少女に声を投げかけた。
いつの間にか地べたに座り込み、暗い表情をしていたルナールは、ただ首肯することで返事とする。
倒れ伏し、傷だらけのギランが何かを問いかけた。ルナールは寂しそうに微笑みを浮かべる。
(あいつもカイザーではなく、もともと天使側だったのか……?)
士道はその哀しそうな笑みに疑問を抱きながらも、倒れたギラン達のことが気になり、彼らのもとに向けて駆け出す。
集はそれをちらりと見たが、もはや止める気配はなかった。
イリアスが隣に立つ痩せた男の天使に視線を向けると、彼は極めて事務的に声をかける。
「では、始めます」
その言葉の直後。
イリアスの命令に従い、獣王が咆哮を上げる。
それに応じるように。
ルナールの体が、地面に叩き伏せられた。
まるで神威に畏怖を抱き、平伏すかのように。
書き溜めがそろそろ切れるので更新速度落ちます。