第7話 「次元移動の使い手」
ヴァリス帝国の名もなき迷宮の一角には、さっそく不死魔王の私室が設けられていた。
部屋の主たるリーファが豪奢な椅子に身を埋め、霧崎翔が椅子の横にある膝掛けに腰を下ろしている。
魔王を崇拝している悪魔達が見れば目を剥くと思われる不敬極まりない光景だ。そして、この部屋にはもう一人。
「なるほど。試したいって言ってたのは、この子の固有スキルなんだね」
翔は納得したように頷いた。
眼前に佇んでいるのは、薄汚れた服を身に纏い、常に何かに怯えているような様子の童女である。
首元には奴隷の首輪が括りつけられていて、それに使われている高度な魔導刻印からは性能の良さが窺える。それだけの首輪を扱う価値を認めているのだろう。
固有スキル『次元移動』。
その有用性は、遥か彼方の新魔王ルシアの居城から、この帝国のアジトに出現した時点で証明されている。
彼女は、どれほど距離が離れていたとしても、異なる次元を繋げることによって破格の速度で移動することが可能なのだ。
(士道の『瞬間移動』とも似ているけど……即座の転移はできない代わりに移動距離には雲泥の差がある)
ただ、やはり魔力消費は尋常ではないようだ。彼女は転移者なので、まだ幼いとはいえ、それなりの魔力量を保持している。それでも、一日に数度の使用が限界らしい。
「名前は?」
「……よ、吉野、楓、です」
年齢は一桁の後半ぐらいだろうか。
『白い空間』に集められた百人の転移者には、老人や子供も二十人ほど存在していた。
翔は、そのような連中は余程スタート地点に恵まれてない限り確実に死んでいるだろうと考えていた。
この年齢の少女がたった一人で異世界に飛ばされて、それでも生きているというだけで恵まれているのかもしれない。
たとえ、悪魔の奴隷になっていたとしても。
「……そっか。ありがとう」
「は、はい……」
彼女は今も翔の言動を観察し、何か挙動を見せる度にびくりと反応している。それだけの恐怖を刻みつけられたのだろう。
憐憫の情が湧き、翔はそんな自分を嫌悪した。
「……魔力消費が激しいとはいえ、確かに有用だ。人間だからと殺さなかったのは正解だったよ。新魔王様は僕たちが思っているより融通が効く相手なのかもしれないね」
翔がそう告げると、リーファは特に表情を変えないまま頷く。
「む……一日に三回が限界、か。とはいえ『転移魔法陣』の役割を個人で担えるとはな。確かに有用なスキルだ。女神側がこれだけの使徒を放っておく意図が分からないが……まあいい」
「……は、はい」
「で、早速で悪いんだけど。僕を新魔王様のところに連れてってくれるかな? 何かこんな僕に用があるらしくてさ」
楓はこくこくと頷き、自分に触れるように告げた。どうやら他人を共に移動させるときの発動条件のようだ。
「ちなみに何人まで飛ばせるの?」
「魔力消費がすごく増えますが、それで、10人……が、限界です」
「へぇ」
楓は懐から小さな水晶を取り出した。透き通るその球体に、ぼんやりと何らかの風景が浮かび上がる。
「それは?」
「私は、場所の正確なイメージがないと移動できない、ので……。向こうの方に力を貸してもらって、その、風景を映し出しています」
翔は感心して頷きつつ、リーファに向けてひらひらと手を振った。
「それじゃ、リーファ。また後で」
「む……そうだな」
「寂しいかい?」
「そんなはずがないだろう」
リーファはそっぽを向いて呟く。どこか拗ねたような様子に、翔は苦笑を浮かべながら、
「そう。……じゃあ楓ちゃん。お願い」
「は、はい……!」
翔が頭を撫でて、優しげに微笑む。
すると、今まで恐怖しか映していなかったその瞳が、ほんの少しだけ、光を宿したように思えた。
擦り切れたような服に、整えられていない髪。ところどころに、あざが残っている体。
この少女が、今のように無口になった理由が垣間見える状態だった。
「……」
翔は、笑みを絶やさなかった。
どれだけ激情で顔を歪めたくなったとしても。
こんな年端のいかない少女に魔王軍はどんな仕打ちをしてきたというのだと、拳を握り締めたくなっても。
そして。
翔が最も怒りを宿していたのは。
そんな少女すら、心の何処かで冷めた視線で眺めている、徹底的に冷徹に作り変えられた己の魂であり。
血に染められ、これ程までに歪んだ心と目的を持つ自分が、同情という気持ちを抱いたことそのものに対してだった。
(僕は……)
「あ、あの……」
「……ん? ああ、ありがとう」
気づかぬうちに『次元移動』の行使は完了していたらしい。
翔と楓は、見知らぬ狭い部屋に佇んでいた。
煉瓦造りの壁に、地面は土だ。
「手、大丈夫ですか……?」
「え?」
翔は気づいていなかった。
己が拳を強く握り締めていたことに。鋭い爪が肌に食い込み、僅かに血が滲み出ていたことに。
「あー……ちょっとね。それで、ここが本国の魔王城なのかな? 随分と狭い部屋だけど」
「は、はい。すみません……ここは……私の部屋です。よく知っている場所の方が、次元のイメージが作りやすいので」
「ここが、君の部屋だって?」
家具は何一つとしてなかった。
日本の絵本が一冊、隅に置かれているだけだ。その内容は、日本人なら誰でも知っている、古い童話である。
「……そう、か」
翔が目を細めて呟くと、楓が不安のなかに、僅かな希望を持ったような瞳で見上げてきていた。
「あの、もしかして……私と同じ、日本に住んでいた人、なんですか?」
「うん。そうだよ。だから、安心して。僕は君に、危害を加えたりはしないから………ね?」
「――!!」
楓は急に表情をくしゃくしゃに歪めると、押し倒すような勢いで翔に抱き着いた。嗚咽混じりの声にならない声で、必死に言葉を紡ぐ。
「わ、私……おんなじとこに住んでた人、ずっと探してて……でも……駄目で……だから、ずっと、あの……」
翔が同郷の人間だと分かって、安心したのだろう。
そのうえ、ここは魔王城だ。周りにいるのは、悪魔ばかりで人族はいない。
この国では、人族は蔑視の対象だ。有用な固有スキルを持っていたから生かされていただけで、きっと、常に張り詰めた日々を送っていたのだろう。
女神による異世界転移。
しあわせな日々。あたたかな家庭。
その全てを奪われた少女が。
翔に抱き着きながら、涙を流す。
「おうちに、帰りたい………」
それは誰よりも純粋な願い。
混じり気のない涙は、どうしても『あの日』を鮮明に思い出させる。
翔が戦い続ける、その理由と共に。
「お母さんに、会いたいよ……!」
その言葉に、顔を俯かせた翔は、ただ、ただ、立ち尽くしていた。
楓が泣き止むまで、ずっと。
◇
翌日。
獣人族の里の入り口では、戦士団の精鋭が十人ほど武装し、物々しい雰囲気を醸し出していた。
そのなかには、士道たちの姿もある。
昨夜、サッカーを楽しんで満足していた士道は、リリスから相談を受けた。レーナの手伝いをしたい、と。
この里の居心地の良さもあり、少しばかり名残惜しかったが、ミレーユも混ぜて話し合った結果、ガレスの護衛をしつつ、次の街に向けて出発することにしたのだった。
「シドー兄ちゃーん! 俺も将来冒険者になるからなー!」
「ぼくも! 立派になってシドーさんに会いに行くんだ!」
すっかり馴染んだ子供たちの声を聴き、苦笑を浮かべながら、士道達は『大森林』に足を踏み入れた。
すると、木の上からウルフェンが飛び降りてきて合流した。
獣人族戦士団の面々は中央の馬車を中心にして広がり、馬車の内部にはもちろんガレスが寝転んでいる。
そして馬車とはいえ『大森林』を進む関係上、現在は熊獣人の怪力自慢達が担いでいる。
感染症の類を疑われたようで内部には外界を途絶する結界が敷いてある。つまりガレスとの接触は不可能だった。
士道は周囲を警戒しながら、気丈に振る舞いながらも、やはりどこか不安そうなレーナに目をやる。
(レベルオーバーになるほどに頑丈な肉体を持つ、ガレスですら患う病気か……)
何か嫌な予感がする。
きな臭いと感じるのは、果たして気のせいだろうか。
『鑑定』が使えれば、もしかするとステータスの表示に病気に関しての項目が追加されていたのかもしれないが、面会ができないのでは仕方がない。
「……魔物だ! 総員、戦闘準備!」
戦士団を纏めるギランが声を張り上げ、勢い良く剣を引き抜く。戦士達が士気を示すように咆哮を上げた。
何にせよ、今はやるべきことをやるしかない。
視線を鋭くした士道は、ゆっくりと『天魔刀』を構えた。
◇
「いいのか? 護衛には神谷士道のパーティがいるようだが」
葉山集は端的に尋ねた。
『大森林』の奥地にある迷宮。
その転移魔法陣が存在する区画には、集が諸事情から協力している面子が勢揃いしていた。
「この際、仕方がないがないやんかぁ。これ以上引き伸ばしても、ガレスに『鑑定』をかけられたら、すぐに対処法がバレてしまうし。流石のうちも里ではそろそろ怪しまれとる」
訛りのある緩い声音は、『九本の尾』をたなびかせる狐獣人のものだ。
ふさふさの狐耳に鮮やかな赤髪が特徴的な、スレンダーな体つきの少女。
ルナール・ミーフィア。
「ふむ。まあ『鑑定』対策で結界を張るためとはいえ、そもそも治癒術に精通しているわけでもないルナールが、あの里で感染症の危険性があると言い出している時点で無理があるからな。外界と途絶する結界を貼り続けることも、そのうち根を上げそうだ。魔力消費も激しい」
冷静に状況を分析していたのは、幽霊のように存在感が希薄な中年の男だった。若白髪を生やしていて、東洋風の顔立ちは、転移者であることを端的に示している。
影山玲。
「ま、どのみち計画の第三段階は動き出してんだ。今さら止めることもできねえだろ。なぁカイザー?」
ニヤニヤと愉快そうに嗤っているのは、"金剛"や"赤鬼"の異名を取る、世界にたった三人の超級冒険者の一角だった。
燃えるような赤の短髪。その間に生える異様な一本角。そして、巌のように頑強な肉体。着ているのは魔導服ですらない、ただの布服だ。彼は常に、そんな格好で数多の戦場を潜り抜けてきた。
アイザック・クライン。
そして。
「そうですね。それに、そろそろイリアス達が我々の目的に気づく頃でしょうし。延期は不可能です」
どこにでもいる平凡な顔立ちと背丈をした青年。彼は柔和な笑みと共に笑う。
だが、その背中には絶望を色濃く現したかのような黒い翼が対になっていた。
ただし、その本質は天使の翼。
本来は純白のはずのそれが意味しているのは、"墜ちた"天使。
カイザー・エッフェンブルグ。
「――何としてでも、女神様に認めてもらわなければならない。私達の研究の成果を。貴女のために費やした時間を。私が天使たる証を」
その為に、この日まで待ったのだと。
カイザーはこの部屋の中央にある魔法陣を眺めつつ呟いた。
その幾何学的な紋様の円陣は、すでに転移魔法陣特有のものではない。それ以上の、全く別の何かに変質していた。
禍々しさを伴うそれが辺りに渦を巻く。
葉山集も含めてたったの五人の計画がついに最終段階に入っていく。
ハズレ術師の存在を除けば、完璧な形で。