第30話 「掌返しの一手」
ミレーユ・マーシャルは己が持ち得るすべての魔力をその術式に充填した。
周囲に渦巻く"支配領域"に、最大限に効力が記述された術式が伝播していく。
残存魔力量を考慮すると、これが最後の一撃になるだろう。随分と苦戦を強いられていたが、ここで決着をつける。
「全属性複合術式――」
扱う魔法の範囲を設定する。もう分身体は一人も逃さない。よって、ミレーユは迅が逃げられないほどの広範囲をまるごと射程距離に入れた。
どうせこの場に本体はいないが、分身体を殲滅すれば、勇者の動きを抑制することはできるだろう。
その理由として、ミレーユは迅のスキルをこう推測していた。おそらく、そう何体も軽々と分身を生み出せるような代物ではない。これだけの戦闘能力を宿した分身だ。消費魔力は並のスキルの比ではないと長年の勘が告げている。そもそも消費魔力が少ないのであれば、形勢不利だと分かった時点でもっと戦力を投入するはずだ。
その推測の正当性を保証するものは何もないが、どのみち近距離型の戦士である迅を何体も相手に逃げ切れはしない。
だから、ミレーユは賭けに出た。
体内を巡る魔力を振り絞り、一滴残らず出し尽くす。眼前の分身体を一体残らず殲滅するために。
「――"虹之断罪"」
静謐な声音が空気に響いた。
直後。"支配領域"に広がるミレーユの魔力が七色に変化する。突如として宙空に描かれた魔法陣から、火、水、風、土、光、闇、氷などを代表とする多種多様な属性の魔法が展開されていく。
魔法の複数同時発動。それは、ある程度修練を重ねた魔術師であるならば、そう難しいものでもないはずだ。
だが、ミレーユの扱う"虹之断罪"はそのような生易しいものではない。
魔法の複数同時発動――それが、すでに一つの術式となっているのだ。
それだけではなく、展開される魔法のすべてが上級魔法に匹敵する複雑な術式群。魔術師の頂点と呼ばれた"支配者"の異名は伊達ではなかった。徹底的なまでに効率化された術式。見るものが見れば、その術式には戦慄を禁じ得ないものだろう。
"虹之断罪"は迅に襲いかかる前に、中央で合流して収束した。竜巻のように回転する。七色に輝く魔法の奔流が戦場の中心で渦を巻いて鎌首をもたげた。
一瞬の硬直。ミレーユは術式の操作に細心の注意を払った。
直後。収束していた魔法の奔流は凄まじい勢いで爆散した。七色の断罪の光が周囲に無差別な暴虐を撒き散らす。
爆発的に効力を及ぼした魔法は一瞬で草原を焼き尽くし、それを水流が鎮火したかと思うと直後に凍りつき、唸りを上げて風の刃が吹き飛ばしていく。
無差別に放たれた魔法の群れに、迅は持ち前の反応速度で対処したようだが、呆然としていた四人のエルフ族は魔法の直撃を受けてそのまま吹き飛んだ。
ミレーユは完全に気を失ったエルフ族達を一瞥すると、烈火の如き眼光で迅の分身体を睨みつける。
改めて眺めると、ミレーユの切り札は絶大な効力を及ぼしていた。一人、二人、三人と逃げ惑う迅の分身体は徐々に対処しきれずに攻撃を受け、足が止まった瞬間に凄まじい数の魔法が集中して炸裂。後には何も残さずに消えた。始末に成功した三人は、"焦熱地獄"によって火傷を負っていた分身体だ。だから動きが鈍く、仕留めるのは容易だった。
「……ぬぅ」
迅の呻き声が耳に届いた。
残りは二人。
つまり、今までバラバラに散開していた分の魔法を二箇所に集中できることを意味している。ミレーユは魔法の範囲を狭めた。気を抜かずに"虹之断罪"を発動し続ける。四人目の迅が魔法を大剣で捌きながらも苦渋に顔を歪めた。
四人目が炎に焼かれて灰燼に帰す。最後の一人はせめて一矢報いようとばかりにミレーユに迫った。致命傷になりそうな魔法を選択して捌いていたが、ミレーユの"支配領域"はその程度で逃れられるほど甘いものではない。代償として湯水のように魔力が消えていく。
ミレーユは枯れそうな魔力に焦燥を浮かべながらも集中は絶やさなかった。
土の散弾が迅を転ばせ、動きが止まったところに炎の竜が食らいつく。そうなれば、もう勝ったも同然だ。逃れようと暴れる迅の脊髄を光魔法が貫いた。断末魔の叫びが轟く。最後の分身体はギロリとした眼でミレーユを睨んだが、ついに力尽きたのか淡い光となって消えていく。小さな舌打ちが響いた。
「…………」
戦闘終了を確認して、ミレーユの緊張の糸が切れる。
気がつけば、草原は消えていた。ところどころに亀裂が入った無残な荒れ地が形成されている。ミレーユは空になった魔力を補うために魔力袋から魔力回復薬を取り出すと、一息に飲み干した。ないよりマシとはいえ、焼け石に水である。
ミレーユほどの魔力量になると市販の魔力回復薬程度では総量の一割も回復することができないのだ。体への負担を無視すれば連続服用できるが、あいにくミレーユは一本しか手持ちがない。悠長に購入している場合でもなかった。
「……リリスちゃんを、追わないと」
ミレーユは今にも消え入りそうな声音で呟く。身に纏っている淡い水色の魔術師用ローブは、今やただのボロ布にしか見えなかった。
魔力量は心許ないが、いざとなればこの身を犠牲にしようとリリスだけは逃してみせる。それは超級冒険者としてではなく、ちっぽけな新米教師としての覚悟だった。重い足をひきずって森の奥に足を進めようとするが、少し気を抜いた瞬間にがくりと膝が落ちる。
魔力もそうだが、それ以上に身体的な疲弊が激しい。後者の原因は分かりきっている。冴えない顔と眠たそうな目をしたあの青年だ。彼は雰囲気とは裏腹に恐ろしいまでに強かった。百戦錬磨という形容が相応しい神業的な技術の数々。もしも万全な状態だったならば、ミレーユなど歯牙にもかけられなかったはずだ。
ただ、その強さを考えると少しばかり疑問が残る。
「あんな男の存在は、まるで聞いたことがないのですよ……」
ミレーユは元超級冒険者だ。超高難易度の依頼を実行するために世界中を回っていた。よって、そのツテは多い。
情報が知られにくい悪魔側の存在とはいえ、あれほどの強さがある『人間』が悪魔に味方しているというのに、まったく噂が立たないことには違和感がある。
(……いや、待つのですよ)
ミレーユは戦闘中に、迷宮都市から信号が打ち上がっていることに気づいていた。おそらくは悪魔側が青年に向けて合図をしたものだろう。それは暗号になっているのだが、ミレーユには長年の経験から、少しだけ知識がある。
その暗号には、信号を上げる対象者の名前が記されていた。
(……確か、クサナギとというはずなのです。どこかで聴いたような……あ――英雄クサナギ?)
――英雄、か。
――何です?
――いいや、立場が変われば、こうも違うのかと思ってなぁ。
――……?
――何でもねぇよ。ただの戯れ言だ。
戦闘前に交わした何でもないことのような会話が、妙に耳に残る。
そのとき脳裏に蘇ったのは、子供の頃に聞かされた百年前の戦争のお話だった。その一節には、悪竜殺しの英傑が登場する。
命を懸けて国を護り、伝説に名を刻んだ男の名は英雄クサナギ。
剣と魔法を組み合わせたオーソドックスな戦い方を極め、王国に侵攻した災厄の龍魔王ウォルフを死闘の果てに屠ったとされている。
「流石に……ない、ですよね」
ぽつりと呟く。
仮にあの男が伝説の英雄クサナギだとすれば、己の手で殺した龍魔王ウォルフを復活させようとするはずがない。
そうだ。そもそも百年も前の人物が生存しているはずがないだろう。気が動転でもしていたのか。
ミレーユはそこで考えを打ち切り、森林の奥へと足を踏み入れた。
◆◆◆
夜が明けるのはまだ先のようだった。
とはいえ、騒ぎの影響で多くの民衆は目を覚ましている。
ララ・フェルシアは大通りから僅かに外れた路地裏で、小さな雑貨屋の壁に背を預けていた。
薄桃色のふわりとした髪をたなびかせ、柔らかそうな双丘をシャツ一枚で覆っただけの無自覚な美女は周囲からちらほらと注目を浴びていたが、当の本人に気づいた様子はない。
「クサナギさん……。やられちゃったんじゃないでしょうね」
憂鬱げに呟く。
ララは少し前にこの場所から、魔王軍にだけ通じる信号を打ち上げた。
対象人物を指定して『私はここにいますよ』というだけの合図だが、草薙には意図が通じるはずだ。確かに激しい戦闘をしていたが、あの草薙が信号を見ていなかったということはないだろう。
一分近くは打ち上がっていたし、あの男はぐーすかと寝こけている間はともかく、普段は尋常ではないほどに観察力に長けている。
そこまで考えて、ララは首を振った。
冷静になってみると、いくら重傷とはいえ化物が服を着て歩いているような草薙がやられるはずがない。
何より草薙が戦場を離脱してから、まだ数分しか経っていない。気が早かったのだろう。待っていれば来るはずだ。
流石の草薙もあれだけの傷を負ったまま戦えるとは思えない。ララのもとで回復せざるを得ないはずだ。そうでなければ本格的に体がおかしい。
そんなことをつらつらと考え込んでいると、後方からじゃり、と足音が聴こえた。草薙かと思って振り向くと、目の前には薄暗い通路が広がるばかりで他の何も見当たらない。
気のせいか? と思った。
その瞬間。
「よう」
真後ろから、囁くような声。
ララは己の失策を悟ると同時に後方に向かってぐるりと回転。力任せの後ろ回し蹴りを放った。鞭のように足がしなる。刹那、後ろに立っていた人物がララの足をガードしようと腕を構えたの確かに窺えた。
だが。
その直後に、自分が宙を舞っていた理由はまるで理解できなかった。
「ごほっ!?」
土の地面の衝撃が胸の奥へと直接響く。思わず咳込むと、その隙に首筋に刀の鋒が突きつけられた。ララは敗北を確信する。せめてもの抵抗とばかりに、顔を上げて相手の姿を垣間見た。
背後に佇んでいたのは、冷酷そうな瞳が薄ら寒い印象を与える背の高い少年だった。この世界には少ない、黒髪黒目の人間。しかし、ララはその特徴が一致する者達を知っていた。
「転、移者……!?」
「ご明察だよ、中位悪魔」
少年が不敵に笑みを浮かべる。その背後から白銀の狼が姿を現した。狼はララの動向に意識を光らせる。まだ警戒しているのか。油断のない少年だった。
「――さて、いくつか聞きたいことがあるんだ。答えてくれるよな?」
首筋にひやりとした金属の感触。薄く肌が斬り裂かれたのか、僅かに血が滲み出る。ララは一瞬だけ逡巡したが、少年の冷徹な眼差しを見据えると、観念したように体から力を抜いた。
◆◆◆
夜空はどんよりとした分厚い雲が覆っていて、裂け目から星を覗くことすらできなかった。
草薙は僅かに息を吐く。
状況が動き始めてから数時間が経った。夜はまだ明ける気配はないが、迷宮都市ローレンは混乱の最中にある。東区の住宅街が壊滅状態であるからだ。奇術師と勇者が衝突したときの爪痕だろう。
とはいえ、領主の行動の素早さのおかげなのか、被害の規模と比べて人々は落ち着いて行動していた。
東区の方面にある草原では原因不明の大規模な戦闘が行われていたので、衛兵が冒険者と協力して東区の住民を避難させているようだ。
「何が起きてるんだ?」
「分かんね。魔物でも襲ってきたんかね? とりあえず聞いた話によると勇者様が街を守ったらしいぞ」
「ほう。あの人はやるときはやる人だと思っていたよ」
「えー、怖いんだけど。私3階から見たけど、とんでもない戦いだったよ。きっと人型の魔物じゃないかなあ」
口々に憶測を並べ立てながら、安全な西区へと雪崩込んでいく民衆。
草薙はそんな人の流れに逆らうように、東区の大通りへと向かっていた。
ララが信号を上げた位置は把握している。後はそこに向かうだけだ。
店主の避難した雑貨屋の角を曲がって狭い路地裏に顔を出す。薄暗いその通廊では、ララが神妙な表情で壁に背を預けていた。彼女は草薙に気づくと僅かに表情が揺れたが、これ以上なく疲弊している草薙が気づくことはなかった。
「……あ、クサナギさん。来ちゃったんですか」
その言い回しに妙な引っ掛かりを覚えたが、草薙に細かいことを気にしている暇はない。ララに近づき、口早に頼む。
「すまん、時間がねえんだ。急いで治してくれると助かる」
「……分かりました」
そう言って、ララが近づいてくる。
これでようやくこの激痛もマシになるだろう。草薙は安堵した。
その刹那。背後に誰かが立っていると気づいたとき、肌が粟立つような感覚を覚えた。
「……っ!」
「動くな」
凛とした声音が耳に届く。草薙の背中にはすでに、剣の切っ先が突きつけられていた。一瞬で殺気が充満していて、草薙は動けない。続いて、前方から白銀の狼が姿を現す。隷属された魔物だった。『鑑定』によるとウルフェンというらしいその狼は、ただ冷や汗を流しているララの方向へ爪を向ける。
"自分はいつでも殺せるぞ"と告げているのだろう。つまりは人質だ。草薙は罠に嵌められたようだった。思わず舌打ちをする。
状況は袋小路。手詰まりだった。
草薙一人だけだったら、脱出の手段もなくはなかったが、ララまで人質に取られてはどうすることもできない。見捨てるにも惜しい人材だ。
そもそも、どうやって草薙の背後を取ったのだろうか。これでも周囲の警戒には長けていると自負している。いくら痛みを堪えて意識が朦朧としているとはいえ、接近する気配に反応すらできないことはないはずだ。
己の感覚を信じるならば、この状況を作り出したのはこの男の固有スキルか。
刀を無視して顔を向けると、冷徹な瞳をした少年がこちらを見据えていた。チャキ、と僅かに波紋が煌く。これ以上は動けない。
少年の顔は見たことがなかった。だが、黒い髪に黒い瞳に東洋風の顔立ちは明らかに日本人の特徴を備えている。
加えて、この街にいる転移者は勇者と草薙本人を除けば、一人しかいないことは掴んでいた。
「……ハズレ術師、か。まさかテメェがこの局面で動くかよ」
「そんなに意外か? 勇者と一戦交えたし、こっちの思惑は知られてると思ってたんだけどな」
「霧崎からの情報を考えても、テメェは冷静に状況を判断できる奴だと思ってた。戦力状況を見れば、おそらく手を引いて傍観すると予想してたんだが……どうやら俺たちが思ったより馬鹿だったみてえだな」
「確かに状況は厳しいが、俺は頑固者でな。自分で一度決めたことを破るつもりはないんだ」
「ハッ。それで、手始めに俺を始末しにきたと?」
「――おいおい、別に俺はお前に喧嘩を売りに来たわけじゃないさ」
「……?」
「今の状況は、だいたいそこの悪魔から聞いてる。その上で、尋ねよう」
神谷士道はいったん言葉を切ると立ち尽くす草薙の耳に、提案を流し込むように囁いた。
「俺と手を組まないか?」
「何……?」
草薙の思考に、空白が生じた。




