第26話 「英雄」
神谷士道は、迷宮の第三層を駆け巡っていた。上層へ昇る階段を探しているのだが、迷宮に潜った経験の少なさが災いして、思いのほか時間がかかっている。
途中で湧き出てくる魔物は簡単に殲滅できるが、そんな腕を持っていても一筋縄ではいかない。これが迷宮が迷宮たる所以であり、真骨頂なのだろう。
(……マズいな。また『瞬間移動』してもいいが、視界外への転移はリスクがデカすぎる。何回もやりたくはない)
士道は冷静さを心掛けながらも、無駄な時間を浪費している現状に密かに苛立ちを覚えていた。勇者達と潜ったときはサクサクと進んだものだが、この辺りが経験の差なのだろう。
だが、その点に文句を言っても仕方がない。時間がないのだ。さっさと迷宮から脱出して、エルフ族や勇者の手からリリスを救出しなければならない。
そう思いながら回廊の角を曲がる。足でブレーキをかけて、方向を変える。
その瞬間。
ずっ……っ! と、足元が沈み込む音が聴こえた。ひやりとした感覚が背筋を走り抜ける。視線を落とした刹那、予想が確信に至った。
(落とし穴――!?)
士道はいつの間にか宙に放り出されていた。真下は底の見えない暗闇だ。四方は断崖に囲まれており、三メートルほどの距離がある。
慌てながら手を伸ばすが、側面の壁には届かない。魔力をかなり消費するが、仕方がない。『風の靴』に魔力を込めて強引に風を引き起こす。それに乗ることによって、元の居場所へ舞い戻ろう。
だが、その案は失敗した。
何故なら。
「なっ!?」
がくん!! と、凄まじい重力に襲われたからだ。落下速度が加速する。耳元を通る風の音がさらに激しさを増した。
混乱を押さえつけながら『風の靴』に更なる魔力を込める。
だが、宙を飛べることはなかった。もともと無風状態の迷宮に無理やり風を起こしたのだから、多少の火力不足は覚悟していたが、まさか重力のせいで浮遊できなくなるとは思っていなかった。
これ以上は無駄に魔力を消費するだけだと判断した士道は、仕方なく浮遊を諦めて落とし穴から落ちていく。
少し経てば四層か五層あたりに落ちるだろうと考えていたのだが――この落とし穴、いつまで経っても底が見えない。
速度は加速するばかりだ。士道は顔を青くした。このままではマズい。
しかし、状況を変える手もない。重力は弱まるどころか強まるばかりだ。
これは魔法なのだろうか。それとも迷宮の罠にもともとある仕掛けなのか。
分からないが、もしこのまま深層まで落下するというのなら、あまりに凶悪すぎる罠である。
それでは脱出に時間がかかりすぎる。
『瞬間移動』を使うべきか。
(今更使ったところで……三、四回は行使しないと元の場所に戻れない、か)
それでも、この状況から脱出する手段は固有スキルしかない。
士道は『瞬間移動』を使おうとした。
その瞬間。
地の底から響き渡るかのような、凄まじい咆哮が炸裂する。
これは魔物の叫び声か。それにしてはあまりにも雄々しく、竹を割ったかのように清冽な声音。その響きはもはや神々しさすら伴っていた。
しかし。
「……?」
耳に残る違和感。
士道にはその叫びには、何かしらの意味があるように聴こえていた。
「――呼んでいる。……俺を、か?」
困惑したように、ポツリと呟く。
その声に応えるかのようにもう一度、凛洌な咆哮が響き渡った。
間違いない。この魔物は士道を呼んでいる。まさかとは思うが、重力が格段に跳ね上がった理由は、この魔物のスキルなのだろうか。
推測と同時に確信する。
士道はこれまで落下速度と距離を計算して、自身の大体の居場所を把握している。その感覚が告げているのだ。
士道を呼んでいる魔物。それが待っている場所は――この迷宮の第三十層。
つまり、最下層である、と。
「鬱陶しいことを……。迷宮のボスだが何だか知らないが、邪魔をするなら吹き飛ばすまでだ」
士道は転移を諦めた。この調子だと『瞬間移動』したところで、更に重力を強められて魔力を消耗しすぎてしまう。
それに加えて、もう一つの脱出の道が見えてきたからだ。
だいたいの迷宮の最下層には、偉大な踏破者のために、一気に最上層まで戻れる古代魔法陣が記されていると云われている。今回はそれを信じたい。
『瞬間移動』で賭けに出るよりは、最下層の魔物を叩き潰して、魔法陣を通って地上に上がった方がマシだろう。
士道はそう判断して迷宮の奥へと落ち続ける。ひたすらに、暗闇の先を見据えながら。
――死亡率100パーセント。引っかかった者を凶悪無比な最下層まで叩き落とす、ローレン大迷宮の最悪の罠。
『断罪の落とし穴』。
ハズレ術師は、その絶望的な確率に牙を剥こうとしていた。
「――ま、待ってよ、先生!」
見晴らしの良い草原に、冷気が染み入るかのような寒風が通り抜ける。
百年前の英傑たる草薙竜吾と超級冒険者のミレーユ・マーシャルが対峙して睨み合う中、声を上げたのはリリス・カートレットだった。
ミレーユは慌てた様子の教え子を見て、困惑したように声を漏らす。
「……どうしたのです? リリスちゃん。あいにくと、今は話している暇はあんまりないのですよ」
対する草薙は、青い顔を隠し、片膝をつきながら二人を眺める。
ふらつく体を押さえつけて、ミレーユの隙を狙っていた。
「こ、この人はエルフ族からあたしを助けてくれたのよ」
「ええ、状況は理解しているつもりなのですよ。その上で言います。そこの男はリリスを利用しようとしているだけなのです。今すぐに離れるのですよ」
「あたしを、利用……? どうやって? あたしなんか、嫌われ者のハーフエルフなだけで……」
リリスが困惑しながら草薙を見た。草薙は僅かに逡巡する。ここで適当に嘘をつけば、リリスはこちら側についてくれるかもしれない。
保護者代わりのミレーユの言よりは信憑性は薄いだろうが、試してみる価値はあるはずだ。
「リリスちゃん。あなたは、魔王を復活させようとしている集団にとって、非常に重要な『モノ』なのです。そこの男は、あなたのことを『モノ』としてしか価値を認めていません。私はそれが気に入らないですし、そんな連中にリリスちゃんを利用されるわけにはいかないのです」
急に情報を提示されてリリスは困惑しているようだった。
確認を求めるように、リリスの瞳が草薙を捉える。その目には信じたいという思いと、疑念が渦巻いていた。
「ほん、とうに……?」
視線が交錯する。
適当にはぐらかせばいい。
そう思っているのに。
「……」
なぜか、草薙の口は寡黙を保って動かなかった。
リリスの疑惑が確信に変わり、泣きそうな表情になる。目尻に涙を貯めながらミレーユのもとへ走っていった。
その光景を見て草薙は自嘲的な笑みを浮かべる。何が英雄だ、と。
――覚悟はしていたつもりだった。
己はもう英雄ではないと。魔王に手を貸す以上、そうは決してなりえないと。
理屈では分かっていた。だというのに、小さな少女に逃げられた事実を認めようとするたびに、かつての誇りのすべてが失われていくような気分だった。
百年前なら、あのような少女の悲しい運命に憤慨して、その理不尽に牙を立てたことだろう。小さな笑顔を護るために、命を懸けたことだろう。
それが、今はどうだ。
草薙は、こんなにも理不尽な運命に囚われた少女を、己の手で追い詰めようとしている。ミレーユの言を何ひとつ否定することができない。
リリスという少女の泣きそうな顔が脳裏に回帰する。
草薙は顔を苦渋に歪めた。
――そうか。
ようやく理解した。
これが、覚悟か、と。
その重みを、確かに噛み締めた。
その上で。
「……リリスはウォルフ復活のために必要な『モノ』だ。悪ぃが、邪魔をするならテメェでも消すぜ。ミレーユ・マーシャル」
――草薙は、立ち上がる。
まさに悪役だと自嘲しながら、悪化するばかりの体調を捻じ伏せて無理やりに大地を踏み締める。
どんな犠牲を払ってでも、己の目的を達すると決めたのだ。
ウォルフの復活がなければ目的から一歩遠さがる。それだけは認められない。たとえ、少女を利用しようとも。
だから、揺らがない。
揺らぐわけにはいかない。
それが、それこそが――覚悟だ。
「……英雄か」
「何です?」
「……いいや、立場が変われば、こうも違うのかと思ってなぁ」
「……?」
「何でもねぇよ。ただの戯れ言だ」
そう言って、草薙は足を踏み出した。
その瞳には感情を殺した冷酷な光が宿っている。
「……だから、テメェはこの俺から逃れる術だけを考えとけ。でないと、死ぬぞ?」
「……仮にも"支配者"と呼ばれた魔術師を、舐めないでください」
その言葉の直後の出来事だった。
二人の怪物は莫大な魔力を何の躊躇もなく解放する。
草原が――焦土と化した。




