第22話 「覚醒」
(…………何だ?)
バーン・ストライクは倒れ伏している士道の雰囲気に違和感を覚えた。
今までとは決定的に何かが違う。
しかし、この槍が喉笛を貫けばこの命は潰える。結末は何も変わらない。
そう思っていた。
刹那。
氷の槍は士道を透過して地面に突き刺さった。
バーンは驚愕で身体を凍らせた。
士道の位置が変わった訳ではない。
端的に言えば、その場に実体がなかった。煌々と輝く紅い瞳を見て、バーンは直後にその正体を悟る。
(まさか……幻影!?)
絶句する。彼はこれまで、士道の幻影術に引っかかったことは一度たりともなかった。
少しでも妙な魔力を捉えたら、体内の耐性を高めて跳ね飛ばしていたならである。
だが、今回はその違和感に気づくことができなかった。
まるで意識の隙間に潜り込んでくるかのような、静かなスキルの発動。
バーンは痛烈に舌打ちしながら魔力を流し、耐性を高めて幻影を跳ね飛ばす。
同時に周囲を索敵。士道の位置を探り当てる。
彼は後方二メートルの位置に立っていた。バーンは多少の危機感を覚えて振り返る。
士道は今まさに剣を振りかぶっていた。鋭い剣閃が唸りを上げる。
バーンは即座に槍を構えて打ち返そうと力を込めた。
だが。
槍は再び虚空を通り抜けた。
二度目。バーンは冷や汗を垂らす。
一体いつの間に再び幻影を見せられたのか。
間違いない。雰囲気に違和感を覚えたあの時、明らかに士道は変わった。
まるで、身に潜む猛獣が顔を出したかのように。
「よぉ」
後方から肌が粟立つような声が届く。
バーンが咄嗟に振り返ると、そこには泥だらけの士道がフラフラになって立ち尽くしていた。
ただし、それは一人ではない。
全く同じ立ち姿の人間が五人いた。
幻影術を行使しているのだろうが、まるで見分けがつかない。
バーンは士道の紅い瞳を忌々しげに睨みつける。
士道は最早まともに歩けるような状態ではないはずだ。
それは攻撃したバーン自身が理解しているし、そもそも士道は戦闘前から右腕に深い傷を負っていた。
今は魔力を使って血を堰き止めているようだが、それで痛みが和らぐ訳ではない。
眼前に立っているのはそんな状態の人間だ。決して上位悪魔にしてレベルオーバーたるバーンに勝てるような相手ではない。
だというのに。
あの不気味な笑みは何だ。
バーンは植え付けられた恐怖を誤魔化すように咆哮した。
士道を威嚇するように魔力を爆発的に解放し、更なる身体強化を実行する。
だが、士道は反応を見せない。
ゆらゆらと揺れながら、不気味に口角を釣り上げる。
紅い瞳はこれまで以上の輝きを見せ、彼の表情からは感情が読み取れなかった。
貼り付けたような笑みを浮かべる士道は、おどけたように両手を広げる。
直後に、さっと人差し指を立てた。
ゆっくりと前後に振る。
勿体ぶったその動きにバーンは思わず注目した。
そして、当然それは隙となる。
幻影から一人が姿を消す。
つまりはそれが本物だった。
『瞬間移動』した士道がバーンの背中を急襲する。
だが、如何せん速度が遅すぎる。
士道の気配を察知したバーンは烈拍の気合と共に跳躍した。
士道は剣を空振り、態勢を崩して転倒する。それを見てバーンは嘲笑した。
その直後。
耳元で囁くような調子で、死神の鎌が突きつけられた。
「おいおい、油断するなよ」
冗談抜きに心臓が止まったかのような感覚だった。
これが本物の士道なのか。
そう仮定すれば、先ほどバーンに攻撃したあの一体すらこの状況への布石ということになる。
いったい何手先を読んでいるのか。
バーンは戦慄に身を竦ませる。
今度は回避が間に合わない。特大の『雷撃』がバーンの肉体を正確に捉えた。
紫電の龍が咆哮を上げてバーンの身体に食らいつく。
天地を揺るがす爆音が炸裂した。
明滅する視界の中でバーンは二発目の『雷撃』を捉えた。
だが、躱すような余裕はない。
激痛が火花を散らして身体中を駆け巡った。同時に熾烈な怒りが噴出する。
(何でだ……!? なぜ俺が追い詰められる!?)
バーンは黒い翼をはためかせ、宙で一回転して姿勢を整えた。
悪魔である自分に対して、人間である士道は空中では身動きが取れない。
その筈だった。
だが、士道は悉くバーンの予想を越えていく。
『風の靴』に魔力を込めた士道は、宙を滑るようにバーンに肉薄した。
バーンは迎撃しようと槍を構えるが、直後に先ほどまでの空振りが脳裏を過ぎった。
まさか、今回も幻影ではないのか、と。一瞬でも考えればそれが隙となる。
士道の剣がバーンの肉体を袈裟斬りにした。
バーンは己の失策を悟り、返す刀で斬り飛ばそうとする。だが、士道は既に距離を取っていた。
彼の表情に焦りはない。ただ、感情の読めない瞳がバーンを冷静に分析している。
バーンは苦痛を堪えながら、士道に悪態をついた。
それは安い挑発だった。
「何だテメェは……!? 猿みてぇにちょこまかと動きやがって」
対する士道はチッチッと眼前で指を振る。彼は泰然とした様子で肩を竦め、
「俺は猿じゃない。奇術師、神谷士道――おっと」
片目を閉じて自己紹介した士道が驚いたように左を向いた。
思わず振り向きそうになるほどの演技力。成程、奇術師とは言い得て妙だ。
だが、その視線誘導にはもう引っかからない。バーンは愚かではないのだ。
敵の戦い方ぐらいは既に見抜いている。
それでも、気に入らない戦い方であることには違いない。
苛立たしげに槍を握り締め、全力で振り抜く。
どれが本物か、などと考えてしまうことは既に士道のペースに乗せられている。
ならば、片っ端から突き殺すまでだ。
爆発的な速度で士道に接近し、氷の槍を振り抜いた。
魔法も多少は扱えるが、バーンが最も自信を持っているのはこの槍術だけだった。故に、自らの得意分野に相手を引き込んで殺す。
バーンが狙いをつけた一体はどうやら本物だったらしい。だが、『瞬間移動』により姿を見失った。
この移動術により幾度となく後ろを取られたバーンは、本能的に振り返る。
だが士道は見つからない。
索敵を行うが、士道の気配は空中を羽ばたくバーンの更なる上方に佇んでいた。
士道は悠然とバーンを睥睨する。不気味に口元を引き裂いて稲妻を叩き落とした。
一秒が引き伸ばされた時間の中で、全力で翼を動かして躱す。
だが安堵も束の間。
バーンの意識の隙間を縫うように投げナイフが放たれている。
休む暇がなかった。
「…………無駄な小細工を……!」
「小細工? これはトリックだよ」
勿体ぶった調子で士道は肩を竦める。
バーンは苛立ちに歯を噛みしめた。
強い。
やはり、戦闘前に感じた危機感は正解だった。
こいつは危険だ、と。
圧倒的な戦闘のセンスに組み上げられる戦術の妙。数々のスキルに質の高い魔道具。独特の剣技と体捌き。
何より、揺らがない精神力。
まだレベルは45と未熟だが、逆に言えばその程度のステータスでレベルオーバーであるバーンを圧倒しているのだ。
それは果たして、成長すればどれほどの怪物となるのか。
戦慄と恐怖がバーンの肌を震わせた。
やはり、生かしてはおけない。
バーンは気炎万条、獣のように咆哮する。
もう相手のペースに乗せられはしない。ここからは自分が戦場を支配する。
そんな風に気合を入れ直した。
それすらも掌の上だと気づかずに。
士道の声が、意識という名の水面に静かに潜り込んだ。
水面に波紋は立たない。
すなわち、バーンは無意識のうちにそれに魅入ってしまった。
「例えば、こんなものはどうだ?」
士道は『風の靴』で浮遊しながら、道化師のように勿体ぶって指を鳴らした。
バーンは即座に槍を構えて警戒する。
だが、五秒が経過しても何の現象も起きない。
バーンは眉を顰めた。そして、心に隙ができる。
次の瞬間。
士道の姿が掻き消えた。
バーンはそれに対しての反応が一瞬遅れる。その刹那は致命的だった。
士道が死に物狂いで放った"雷鳴斬"がバーンの肉体を斬り裂く。
己の身体が両断される感覚。バーンは自らの敗北を悟った。
目の前の奇術師は安堵したように、大地へ落下していく。
やはり、今までの悠然とした態度は演技だったようだ。
危険な男だ、とバーンは改めて思った。
激痛を感じて身体を眺める。
確かにこれは致命傷だ。おそらく数秒も経たないうちに死ぬだろう。
だとしても。
バーンは獰猛に笑った。
「術式起動」
士道が目を剥く。
バーンの呟きにより、戦場の中央付近にて踊りを演じていた妙な魔物達が光となって掻き消えた。
士道は焦燥を浮かべて叫ぶ。
「何を、する気だ!?」
だが、身体はすでに限界のようだ。
藻掻くことすらまともにできていない。その士道の慌てぶりを見てバーンは「良い気味だ」と笑った。
この危険分子が排除できなかったことだけが心残りだが、もはや目的は達成した。
この任務に、己の命など関係ない。
「初めから言ってんだろ。俺は『水天の輪』を貰いに来た。ただそれだけだってな」
彼からすれば、時間さえ稼げれば何でも良かったのだ。
古代魔法の儀式を行っている魔物達の邪魔さえ防止できれば、その他の命は関係がない。
だからこそ、レーナが戦場中央に近づいたとき、周囲の魔物達に集中攻撃されたのだ。
その場所にだけは近づかせる訳にはいかなかったから。
「…………っ!」
「すべてはこの儀式召喚のための布石に過ぎねぇ。街の襲撃なんて茶番だ」
バーンは燃え尽きようとする命に逆らうように、饒舌に語る。
踊りによって実行されるその古代魔法は召喚魔法と解呪魔法を合成された複雑な術式。
冒険者側がそれに気づけなかった理由は単純。古代魔法を知らないからだ。
魔法は魔法陣の展開によって行うものという前提を持つ人間達にとって、儀式や詠唱で実行される古代魔法など理解できる筈もない。
戦場中央付近の儀式場にて莫大な光が渦を巻いた。
踊っていた魔物達も生贄に捧げたので、ついに儀式魔法が実行される。
それを見て、小さくバーンは笑った。
「魔王様よ。仕事は果たした。後は……頼んだぜ」
その言葉を最後に、意識が闇に閉ざされる。その顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。
そして。
もう二度と目を覚ますことはない。
♢
「やられた…………っ!!」
そのとき。
アクアーリアの邸宅では、伯爵の慟哭が響いていた。
ノーランド・サザルーフは魔力に包まれて消えてしまった魔道具を思い返し、顔を手で覆う。
ノーランドに魔法の知識はないが、奪われたという事実だけは認識できた。
ギリギリと歯を噛みしめる。
薄い頭髪を掻きむしった。
残る希望は一つしかない。
「頼む……! 早く来てくれ、お前だけが頼りだ……!」
♢
――そして、『水天の輪』が戦場に君臨する。戦場の中央は眩く光り輝いていた。
神谷士道はバーンが遺した言葉から必死で状況を推測する。
だが、意識を保つだけで精一杯だった。身体中に激痛が駆け巡っている。
魔力で押し留めていた右腕の血は、魔力の枯渇と共に再び流れ出した。
「がぁっ………!?」
復讐の目的は果たした。
命を救ってもらった玄海に何一つとして恩を返すことができなかったが、それでも仇は討った。
これが、自分なりのけじめだった。
だが仇は殺しても、その企みが成就するのは気に食わない。
「仕事は果たした」というバーンの言葉が脳裏を過ぎる。
バーンの目的は『水天の輪』の回収。その魔道具に封印されている魔王の復活の筈だった。
前提条件が間違っていない限り。
仕事を果たした。
その言葉が意味するものは――
光り輝いていた儀式魔法は召喚段階を終えて『水天の輪』の解呪段階に移行していた。
宙から落ちて地面に叩きつけられた士道は、苦痛に呻きながらその光景を眺めていた。
もう動く力は残っていない。
士道は自嘲的に笑う。
その間に、周囲の魔物が全て『水天の輪』に吸収され始めた。
まさか、初めから生贄にするためにこれだけの数の魔物を集めたのか。
竜種ですら反抗することは敵わない。強引に『水天の輪』へと引き寄せられ、光となって消えていく。
魔物と死闘を演じていた冒険者達は困惑した様子でそれに魅入っている。
その。
直後の出来事だった。
「これは…………」
魔王が顕現する。
世界が夜に染まった。