第22話 「人と神」
――空が、闇に染まった。
夜ではない。不死魔王リーファが操るスキル『夜天化』のような、そんな生易しいものではない。もっと禍々しい紫の入り混じった黒い空が顕現した。
それは『魔神』ゲルマが力を解放した合図。
無造作に周囲へとばら撒かれる莫大な魔力は、それだけで人の動きを阻害した。そう、厳密に言えばこれはスキルですらない。ただの、圧倒的な魔力密度の証明。
神の一動作は、攻撃の意図がなくとも人への影響は甚大だ。これは存在としての格の差であり、人が無意識に蟻を踏み潰すのと同じようなものだった。
丹波静香が魔力にあてられて思わず膝をつく中、榊原迅はぴくりと眉を動かす。
それは、今まさに発動しているスキルの違和感によるものだった。
榊原迅の固有スキル『分身』。その分身体との繋がりが途切れたような感覚。
分身体を配置していたはずの場所に目をやると、ちょうど消えていくところだった。
「発動が阻害されたか」
迅の独り言に、アルバートが反応する。
「スキルだけじゃない、魔法も同じだ。こんな魔力溜まりでまともに使える気がしない」
撒き散らされたあまりにも莫大な魔力は、スキルや魔法の発動を阻害する。
「ミレーユ・マーシャル級の魔法技術があればまた別だとは思うが」
「現実的ではないな。転移者だと葉山や草薙なら何とか及ぶかどうかってところか」
これが魔の一文字を冠する神の力。
人の身で抗うのが間違いだと告げているかのようだった。
「何を驚いている? これはただの準備運動だぞ」
呆れたように『魔神』ゲルマは言う。
実際に、体の動きを確かめるように肩をぐるりと回しながら。
「ワシらが驚いただと? 馬鹿を言え。むしろ、神にしては大したことがないな」
「良い度胸だな、人間。そういうのは嫌いではない」
ゲルマはそう言いながら、その背に生えた六対の翼を羽ばたかせた。
人間大の影が、一気に大きさを増す。
迅の目にはそこまでしか見えなかった。しかし、すでにゲルマは真横に存在していた。
「――っ!?」
「神の速度に追い付けるとでも?」
ゴバッ!! というすさまじい音が炸裂する。
ゲルマがドアをノックでもするかのように叩いた拳は、迅をおそろしい速度で吹き飛ばした。そのまま家屋を何軒もなぎ倒してようやく勢いが止まる。
ゲルマの移動に耐えきれず、周囲の地面も舗装がすべて剥がれ、削れていた。
激痛を意識的にシャットダウンし、迅は怪我の度合いだけを即座に確かめる。肋骨が折れているものの内臓の邪魔はしていない。吹き飛ばされた影響で体中が軋んではいるが、魔力で補強すれば何とかなる。出血も多いけれど、しばらくは持ちそうだった。
それを確認した迅は無理やり体を起こす。
実力差を見せつけられた形だが、そんなものは最初から分かっている。勇者としての責務を果たすためには、この程度で諦めるわけにはいかなかった。
迅の仕事は『世界の敵』を討ち滅ぼすこと。
世界を滅ぼすとされた『魔神』ゲルマは、まさに『世界の敵』そのものだ。
揺れる視界に映ったのは、ゲルマに挑みかかるサイラスとアルバートの姿。だが視認した直後に、彼ら二人は迅と同じように吹き飛ばされた。
力と速度。根本的な身体能力の差。あまりにも基本的な差であるがゆえに、覆す手段が数少ない。しかもゲルマの本気はおそらく、この二倍も三倍もあるはずだ。
さて、どう対処するか。
迅はあくまで冷静な思考を意識しつつ、ひとまずサイラスたちに加勢した。
大剣を振りかざし、撃ち出された砲弾のような勢いで突貫する。背中を向けたゲルマに思い切り大剣を叩きつけた。ドゴォ!! と、地響きが鳴るほどの威力。
実際にゲルマの真下の地面には亀裂が入る。しかし、それだけの重圧を真っ向から食らったはずのゲルマは眉一つ動かさない。
――体が、硬すぎる。
迅の武器はその大柄で頑強な肉体を利用した圧倒的な膂力。それが通用しないとなると迅に打てる手は少なくなる。とはいえ、弱点がないと決まったわけではない。攻撃が通用しない場合は、攻撃が通用する場所を探すか、敵の防御手段を壊すかの二択だと相場は決まっている。ただ『魔神』であるゲルマは特別な防御手段を構築しているようには見えない。あるがままに存在しているだけでも、人の攻撃などと通さない。それが神と人の差。
なら考えられる手としては、たとえばゲルマを神から人に堕とす? もちろん純粋な剣士である迅にそんなことはできない。まったく現実味はないけれど、この場にいるのは迅だけではない。優秀な魔術師など、使える駒はたくさんいる。
そんな風に思考を回している間にも戦闘は続いている。今この瞬間に殺されたら意味がない。攻撃に移ったゲルマの腕を、迅はギリギリでかわしていく。
もとよりその速度で動くと分かってさえいれば、予備動作を見てかわすことは不可能ではない。神とはいえ体の造形は人型。可動範囲には限りがあるのだから。
「ふむ……勇者を名乗るだけのことはあるが、それだけか?」
だが、先読みされたと分かれば当然、ゲルマとて行動を変える。フェイクを入れるだけで選択肢は相当増え、速度で劣っている以上、読みを外せば迅の反応はより遅くなる。
「食らえ……!」
しかし迅も一人で戦っているわけではない。
迅をカバーするように左から斬りかかったのは丹波静香。
迅より膂力で劣るとはいえ、仮にも勇者の一撃。その矛に宿る能力によっては神に届きうる可能性もないとは言えない。だが、それでもゲルマは頓着しなかった。
静香の攻撃を体で受けつつ、迅の脇腹を蹴りぬく。再び視界がぐるりと回転した。気づけば地面に叩きつけられ、喉にこみあげてきた血を吐き出す。
対するゲルマは当然のように傷一つなかった。
(やはり、避けないか)
迅は思う。
油断と捉えてもいいだろう。
人の攻撃が神に届くはずがないという、それは驕りだ。
現にその通りではあるが、勝機を見出すなら、この驕りの隙を突くしかない。
「アルバート」
「ジン。君の言いたいことぐらいは分かっている」
ライン王国最強の竜騎士であるアルバートは、言わずとも迅の意図を理解していた。
「だが、どうする? 具体的な手段を構築する必要がある」
「おい人間ども、耳を貸せ」
相談する二人に小声で話しかけてきたのは、『天軍』一番隊隊長マルクだった。
迅が無言で促すと、彼は端的な口調で言う。
「一つ、手がある。『女神』様より教わったものだ。協力する気はあるか?」