第十六話 その手は放さない。
「絶対に放さないでね、優希君!」
「放さないから、ちゃんと前向いてろよ!」
「うっ、うん」
俺の言葉に舞子は不安げな眼差しを残し正面を向いた。
強く握り締められたハンドルはフラフラと激しく揺れ、ペダルを漕ぐ足も恐々で何とも危なっかしい。
卒業式を終えた俺達は、いかに春休みを楽しく過ごすかが課題だった。
そんな中でピクニックに行きたいと言い出したのは舞子の方だった。
「隣町にある公園でシートを広げて、お花を眺めながら二人でお弁当を食べるのが夢だったの」
大輪の花のような笑みに、頬がカッと熱くなるのを感じた。
舞子の笑顔の前では、どんな花も色褪せて見えるだろうなんてキザな台詞、口が裂けても言えない。
だから俺は平静を装い「いいよ」と短く告げた。
「お弁当は任せて!」
ウィンクしながら胸を叩く舞子の姿が可愛かった。
「わかった。じゃあ明日、自転車で迎えに行く」
次の瞬間、舞子は驚きの声と共に目を見開いた。
心なしか口元が引きつっているように思えた。
「舞子、自転車なんか乗れないよ」
「はーっ? だったらどうやって行くつもりだったんだ」
「どうって……バスで」
「そんなのピクニックって言わないだろう」
「だって――」
「よし、わかった。ピクニックの前に自転車に乗れるよう特訓だ」
俺の言葉に舞子が反論するはずもなく、翌日、親の承諾を得て二人で自転車を買いに行った。
可愛いピンクの自転車を欲しがったが、高校生並みの背丈を持つ舞子が、子供用の自転車に乗れるはずもなく、渋々大人用の自転車を選んでいた。
そのまま河川敷のグラウンドに行き、即、練習を開始したわけだが、俺はある重要なことを思い出した。
舞子は超の付く運動オンチだ。
なんせ50メートルを10秒切ったことがなく、バスケットボールをヘディングで返すなどという、コントまがいの芸当を見せてくれた逸材だ。
丁度、同じ頃に練習を始めた小学校低学年と思われる女の子が、俺達の脇を風のように走り抜けていった。
それに引き換え舞子は、支えなしでは走れない、止まれない、曲がれないの、ないないづくしだ。
それでも舞子は、決して弱音を吐くことはなかった。
両手に豆を作っても、女の子なのに頬に擦り傷を作っても、それでもやめるとは言わなかった。
「もうやめよう、舞子。おまえ、お嬢様なんだし、自転車なんか乗れなくたっていいじゃないか。公園にはバスで行こう」
見るに見かねて言葉を発した俺に、舞子は今まで見せたことのない、きつい眼差しを向けた。
「だめ! だって優希君と自転車でピクニックに行くって決めたんだもん。一緒に風を感じたいんだもん。だから絶対にだめ!」
力強い言葉に胸がキュッと痛くなった。同時に安易な気持ちで「風を感じられて気持ちいいぞ」なんて言ったことを後悔した。
それ以来、俺は何も言わず舞子の練習に付き合った。
東の空から昇った太陽が、西の空に傾き沈むまで。
最初は思い切り荷台をつかんでいた手も、今では添える程度になっていた。
そろそろ大丈夫だろう。
確信を覚えゆっくりと手を放す。
フラフラと不安定に揺れながらも、倒れず進む自転車の後ろを、小走りに付いて行った。
俺が支えていることを信じ、茜色に染まる空に向かって、懸命にペダルを漕ぐ姿が愛おしかった。
何より高い位置で括られた揺れる長い黒髪と、まっすぐに伸びた背筋が美しかった。
「本当に放してない?」
正面を見据えたまま、不安げな声が問いかけてくる。
「大丈夫だよ」
たとえ荷台を持つ手は放しても、その手は決して放さないから。