第十五話 満開の桜に降る雪。
無事合格し、後は卒業式を待つばかりとなった私の頭の中は、春休みをいかに優希君と楽しく過ごすかでいっぱいだった。
今まで勉強ばかりだった週末も、これで思い切り遊べる。
とはいってもしょせんは小学生。
貰えるお小遣いなんて少しだし、必然的に、お互いの家に遊びに行くことになる。
そのことに不満があるわけではない。
優希君と一緒にいられるのなら、公園だろうが図書館だろうが、どこだってかまわない。
問題は、相も変わらず参考書を広げ勉強をしている、ということだ。
優希君曰く「中学に入って舞子が苦労しないため」だそうだ。
優希君の言い分はわかる。
「入試はあくまでも通過点であり、ゴールじゃない」その通り。
最も過ぎて、反論の余地なんてない。
でも入試が終わったのにデートのたびに勉強なんて、悲しすぎる。
まあ試験前に比べれば、格段時間は短くなったものの、それでもやっぱり悲しい。
入試が終わって一月近くが経つ。
いつまでこの状態が続くんだろう。
もしかして一生!?
頭の良い優希君とお付き合いするということは、こういうことなのだろうか。
寂しい思いに胸は痛み、気持ちがどんどん沈んでいった。
無意識のうちにため息の数が多くなる。
そんな中、突然「今度の土曜日、電車で出かけよう」と告げられ、私は驚きに持っていたシャープペンを落としてしまった。
コロコロと転がったシャープペンが、優希君の指先で止まる。
ほんのりと頬を染め、ちょっと怒ったような表情で俯く優希君の姿が可愛かった。
もちろん私は場所を聞くことなく、二つ返事でOKした。
二人で電車に乗って出かけるのは初めて。
考えてみたら、デートらしいデートはプレゼントを買いに行った、あの時一度だけだ。
二月近くの間、額が触れ合うほどの距離で勉強を教えてもらっていたというのに、いざ並んで座ると妙に意識してしまう。
電車の振動と心音が重なり、自然と頬が熱くなった。
「勉強だけど」
「はい?」
突然話しかけられ、素っ頓狂な声が出てしまった。
その声に驚いたのだろう。
優希君の肩が跳ねたのが、はっきりとわかった。
「あっ……ごっ……ごめんなさい」
「いや、ちょっとびっくりしただけだから」
「ごめんね。ぼんやりしていたものだから」
驚く優希君に身振り手振りを加え、あたふたと言葉を発した。
「それより、勉強がどうかして」
「うん。もう大丈夫だと思うから」
言葉の意味がすぐには理解できず、目を瞬かせる私を、優希君の瞳がまっすぐに見た。
「中学に行っても、困ることないと思う」
「……大丈夫かな」
「うん。今まで無理させて悪かったな。一緒にいても楽しくなかったろう」
「そんなことないよ!」
と言いつつも、完全に否定しきれない自分に胸がツキリと痛んだ。
「優希君の方こそ大変だったでしょう」
全てを見透かすような真摯な眼差しに焦りを覚え、慌てて言葉をつなぐ。
一緒にいられることは楽しかった。
それは嘘じゃない。
ただ勉強ばかりでちょっぴり寂しかったのも事実。
だから優希君の言葉は正直痛かった。
「大変だと思ったらやらないよ」
そんな私の心中を知ってか知らずか、優希君は薫るように柔らかく笑った。
その姿に、優希君との勉強を憂鬱だと思った自分が恥ずかしくなった。
誰だって勉強が楽しいはずなどない。
ましてや自分のためではなく、人に教えるための勉強だ。
何の得にもならないのに、貴重な時間を費やしてくれたのだ。
感謝するのが当然であって、憂鬱に思うなんて失礼極まりない。
「……ごめんなさい」
ようやく気付いた自分の愚かさに、自然と謝罪の言葉が落ちた。
情けなさと恥ずかしさに、涙が零れそうになった。
堪えようと膝に置いた手をギュッと握り締める。
不意にうなだれる私の頭を、優希君の手が撫でた。
驚く私に、信じられないくらい優しい眼差しの優希君が微笑みかける。
「春休みは、楽しい思い出たくさんつくろうな」
聡明な優希君のことだ。
謝罪の言葉の意味は、言わなくてもわかっただろう。
それなのに、何事もなかったかのように接してくれる優しさが胸に沁みた。
「ありがとう、優希君」
溢れる感謝の気持ちを、一体どうやったら全て伝えることができるのだろうか。
おそらくどれほどの言葉を重ねても、伝えきることなど不可能だろう。
それくらい優希君の思いは優しく、その眼差しは慈愛に満ちていた。
薄緑色のビンの中でジュースを飲む少年。
ハートを手にしたテディイ・ベア。
寄り添うカップル。
その周りをキラキラと銀色の雪が舞う。
「きれーい」
壁一面に所狭しと並べられたスノードームを前に、私は感嘆の声をもらした。
「東京に、こんな素敵な所があるなんて知らなかった」
「俺もネットで検索してて、偶然見つけたんだ」
優希君が連れてきてくれたのは、大好きなスノードームが展示された、小さな美術館だった。
掌にすっぽり収まってしまうような小さな物から、トロフィーのような大きな物。
スノードームとは丸い物、という認識をもっていた私には驚きの連続だった。
夢のような空間の中、私は時間が経つのも忘れ、作り上げられた一つ一つの世界を丹念に見て回った。
「ごめんなさい、優希君」
一階にあるお土産物売り場に併設されたカフェで、私は対面して座る優希君に思い切り頭を下げた。
「なにが?」
「退屈だったでしょう」
千差万別のスノードームは、いくら眺めていても飽きることはなく、気付くと一時間以上が過ぎていた。
「楽しかったよ」
「嘘!」
スノードームに興味のない優希君が、楽しいはずなんてない。
「ほんと、ほんと。一つ一つの作品ごとに、違う表情を見せる舞子を見てるのは、凄く楽しかった」
悠然と微笑む優希君の姿に、頬がカッと熱くなった。
つまり優希君は、スノードームではなく、鑑賞する私を見て楽しんでいたというわけだ。
それって結構っていうか、かなり恥ずかしい。
火照りを鎮めようと両頬に手を当てる私の前に、苺のショートケーキと紅茶が置かれた。
優希君にはなぜかケーキセットの他に、美術館の名前の入った手提げ袋が渡された。
「なに?」
「んっ? 秘密」
秘密って優希君。
目の前でそんなに大胆に受け取ってたら秘密にならないし、さすがに気になるんですけど。
「……お母さんにお土産……とか?」
「まあ、そんなところ」
でも、スノードーム選んでるところなんて見なかったし、ケーキにしては小さい。
なんだろう。
とっても気になる。
けど、あまりしつこく聞くのも失礼だしな。
とりあえず見なかったことにしよう。
紙袋から視線をそらし、生クリームの上にのった真っ赤な苺を口に含む。
春だというのに苺は少し酸味があって、軽く眉をひそめた。
自分がこんなにも心が狭いなんて思ってもみなかった。
案外、独占欲が強いということも。
恋をして初めて知った。
優希君が他の女の子にプレゼントを買うなんて、絶対にありえない。
わかっていながらも、お母さんへと断言しなかった優希君の姿に、この三日、美術館で見た紙袋が頭からはなれなかった。
私って、こんなにも嫉妬深い性格だったんだ。
知らなかったよ、本当に。
「どうしたんだ、舞子」
下校途中、前を歩く優希君が足を止め振り返った。
「なっ、なにが?」
悶々と浅ましいことを考えていた私は、急に声をかけられ、焦って声が上擦った。
「ここのところ元気がない」
「そっ、そんなことないよ」
慌てて笑顔で言葉を否定する。
だが、どこかぎこちないものがあったのだろう。
無言のまま自分を見据える優希君の眼差しに耐え切れず、視線を落とした。
あの紙袋の中身はなに?
誰に渡したの?
本当にお母さん?
自分ではどうにもならない醜い感情が渦となって、頭の中をぐるぐると回りだす。
私ってなんて嫌な性格なんだろう。
優希君の言葉が信じられないなんて。
「風邪でもひいたのか」
押し黙ってしまった私の前髪を、優希君の掌がそっと払い額に触れた。
冷たい手の感触が、波立つ心を静めてくれるようで心地よかった。
ちらりと視線を上げる。
心配そうな眼差しで自分を見る優希君の姿に、胸がツキリと痛んだ。
私の胸の中を優希君は知らない。
こんなに暗くてドロドロした私の気持ちを知ったら、どう思うだろう。
呆れるかな。
嫌われるかな。
「熱はないみたいだけど、大丈夫か」
更に心配そうな眼差しになる優希君の姿に、私は小さく頷いた。
私なんて優希君に心配してもらう価値なんてない。
溢れ出そうになる涙を、私は唇を噛み締め必死に堪えた。
「またこの次な」
今日は優希君の家に招待されていた。
夏に公開された映画のDVDを観る約束だったのに。
「……ごめんなさい」
本当は優希君といたかった。
でも今の状態では一緒にいても、優希君に心配をかけるだけだ。
それに私自身も辛い。
好きな人と一緒にいることが辛いなんて、考えたこともなかった。
「いいよ。体調が悪いんじゃしかたがない」
小さな笑みと共に掌がゆっくりとはなれてゆく。
その距離が、優希君と私の心の距離のように感じられて切なかった。
このままはなれてしまうのが怖い。
思い切って聞いた方がいいのかも。
でも聞いて嫌われるのも怖い。
どうしたらいいんだろう。
「じゃあこれは、今渡そう」
考えすぎて軽い浮遊感に襲われた私の目の前に、桜色の紙袋が差し出された。
「念のために持ってきてよかったよ」
笑顔で受け取るよう促される。
わけのわからぬまま手にした紙袋は、ズシリと重かった。
「なあに?」
「なにって、ホワイトデー」
あっさりと告げられた言葉に、私は目を見開いた。
今日ってホワイトデーだったの!?
やだ、変なこと考えてたから全然忘れてたよ。
もしかしてそれで今日、優希君、私を家に呼ぼうとしてくれてたの?
どうしよう。
「舞子?」
名前を呼ばれ我に返る。
「大丈夫か」
「うん。大丈夫」
大丈夫だけど……大丈夫だけど……全然大丈夫じゃない。
「家まで送るよ」
よほど酷い顔をしていたのだろう。
優希君はそっと私の手を取ると、ゆっくりと歩きだした。
一体なにがどうなってしまったのか、全くわからなくなってしまった私は、引かれる腕のままに、ただ呆然と前を歩く優希君の背中を見つめていた。
家に戻るとすぐに手渡された紙袋を開けた。
中から美術館の名の入った包装紙に包まれた、十㎝四方の小箱が現れた。
これってあの時、お土産だって言ってた物じゃ……はやる気持ちで包みを開け、小箱の蓋を取る。
中から現れたのは、銀の雪の舞う中、満開の桜を手をつなぎ、見上げる男の子と女の子の入ったスノードームだった。
緑色の土台には、銀色のプレートに流れるようなスペルで、一つの単語が刻まれていた。
その意味を理解した瞬間、私はスノードーム片手に部屋を飛び出した。
足の遅い私が、ほんの数分全力疾走しただけで、すぐに優希君に追いついた。
心なしか後ろ姿が寂しそうに見えた。
しっかり者の優希君のこと。
きっとホワイトデーのプランを、色々考えていてくれたに違いない。
その思いを私は踏みにじったのだ。
申し訳ない気持ちと情けない気持ちが入り混じり、全力疾走した息苦しさに拍車がかかる。
「優希君!」
なにをどう伝えればいいのか考えは全然まとまっていなかった。
ただ遠ざかる後ろ姿が切なくて、胸が痛くて、気付くと私は優希君の名を思い切り呼んでいた。
振り返った優希君は驚きに目を見開くと、なんの迷いもなく私の元へと駆け寄ってきた。
「どうしたんだ、舞子!」
肩で荒い息を吐く私の二の腕を、優希君の手がしっかりとつかむ。
「これ……」
驚きと困惑の入り混じった眼差しの優希君に、両掌で包み込んだスノードームを差し出す。
「これって……私と優希君だよね!?」
スノードームの中の女の子は髪が長くて、男の子よりちょっぴり背が高かった。
「そう。注文すると、オリジナルのスノードームを作ってくれるんだ」
私の手から優希君の手へと、スノードームが移ってゆく。
「メールでイラスト送って、口頭で伝えただけだから、どんなふうになるか心配してたんだけど、結構いい感じにできてるな」
満足げにスノードームを見つめる優希君の姿に、それまで堪えていた涙が両目から一気に溢れ出した。
「まっ、舞子?」
「ごめんなさい、優希君!」
戸惑う優希君に私は深々と頭を下げた。
「私……ずっと考えてたの。美術館で受け取った包みは、誰に渡すんだろうって。もしかしたら……別の……」
女の子になんて恥ずかしくて言えなかった。
だって、優希君はこんなにも私のことを思っていてくれたのだ。
その優希君を疑うなんて、なんて愚かで浅はかだったんだろう。
こんなんじゃ、優希君に嫌われてもしかたがない。
「本当に、ごめんなさい」
絶望と後悔に立っていることができず、その場に座り込み号泣した。
頭上から深く長いため息が聞こえてきた。
やっぱり呆れてる。
もうだめかもしれない。
どうしよう。
混乱し崩れそうになった身体を、膝を折った優希君が優しく抱きとめてくれた。
「それでこのところ元気がなかったのか」
「ごっ、ごめんなさい」
それ以外の言葉がみつからなくて、私は泣きじゃくりながら、ひたすら同じ言葉を繰り返した。
「ばかだな、舞子は」
優希君の手が震える背中を優しく撫で下ろす。
「俺は舞子が思っている以上に、舞子のこと、考えてるんだぜ」
そうだ。
優希君は、いつだって舞子のことを一番に考えていてくれた。
そんなこと考えなくたってわかることなのに。
「ごっ……ごめんなさい」
「俺も中途半端な言い方したからな。不安にさせて悪かった」
「そんなことない。舞子が……舞子が……」
「スペルの意味、わかるか」
優しく尋ねる優希君の声に、私は大きく頷いた。
「そうゆうことだから、なにも心配するな、舞子」
耳元で囁かれた包みこむような柔らかな声音に、私はただ涙を流し頷くことしかできなかった。
刻まれたスペルは「TOGETHER」
スノードームの中の二人のように、満開の桜を今年も来年も再来年も、ずっとずっと「一緒に」見られたらいいと、心から思った。