第十三話 今日という日。
試験は二日間に渡って行われた。
お守りのおかげで私は緊張することもなく、試験に臨むことができた。
何より優希君に教えてもらったという事実が、勇気を与えてくれた。
算数はやっぱり難しかった。
けど鉛筆が止まるたびに、優希君の教える声が聞こえるような気がして、何とか全て埋めることができた。
だからといって合格できるかといえば微妙。
私ができたくらいなんだから、他の皆だってできたに違いない。
試験が終わり、プレッシャーから開放された同級生達が、嬉々とした表情で帰路を急ぐ姿を見て、私は暗い気持ちになった。
正直、私には手放しで喜ぶ余裕なんてない。
結果発表は三日後。
その間、こんな暗い気持ちで過ごさなければならないのかと思うと、無意識のうちに深いため息が零れた。
「大丈夫だよ、舞子」
私の気持ちを察したかのような力強い言葉に、落ちていた視線をゆっくりと上げた。
包みこむような眼差しで、優しく微笑む優希君と目が合う。
「あれだけ頑張ったんだ。絶対に合格する」
「でも……」
「大丈夫だ」
優希君は多くは語らない。
けど偽りのないまっすぐな眼差しに、心がふわりと軽くなるのを感じた。
「大丈夫……かな」
「大丈夫だ」
満面の笑みで大きく頷く姿に、心の中のモヤモヤは完全に吹き飛んだ。
好きな人の言葉は、どうしてこうも胸に響くのだろう。
これが他の人の言葉だったら、絶対に信じない。
でも優希君が言うと、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
「ありがとう」
先程までとはまるで違う晴れやかな気持ちで、明るく感謝の言葉を口にすることができた。
そんな私に優希君は今まで以上に、優しく温かな微笑みを向けてくれた。
かなり前から試験の最終日にランチを一緒にすると約束していた。
誕生日プレゼントを買いに行った日から、丁度一月。
毎日勉強に追われて、デートどころではなかった。
だから私は、今日という日を楽しみに頑張ってきた。
場所はもう決めてある。
ママとショッピングに行った時、よく立ち寄るパスタのお店。
種類が豊富で安いのに美味しくて、私の一押しだ。
いつも優希君の後ろばかり歩いているけど、今日は案内役の私が前。
試験終了直後の暗い気持ちは、どこにいってしまったのかと自分でも不思議なくらい、気分は高揚し足取りは軽かった。
これも優希君の「大丈夫」のおかげかな。
平日の昼間ということもあり、人通りは少なかった。
それでもウィンドウを飾るディスプレイはかなり賑やか。
やけに赤い色が目につく。
クリスマスでもないのに、なぜ?
思わず疑問符が浮かぶ私の鼻に、甘い香りが漂ってきた。
この香りはチョコレート。
匂いに誘われるまま視線を動かす。
味の良いことで評判のチョコレート店。
私も時々、ママのお遣いで利用する。
小学生のお小遣いでは、ちょっと厳しい高級店だ。
いつもは二、三人のお客さんが、ゆったりと店内を歩いているのに、今日はなんだかやけに人の数が多い。
それに心なしか、殺気立っているように感じられる。
何かイベントでもやっているのかな。
ぼんやりと中を眺めていた私は、掲げられたボードの流暢な綴りを一つずつ読んだ。
V、a、l、e、n、t……バレンタインデー!?
あまりの衝撃に声さえ出なかった。
頭の中で「バレンタインデー」の文字が連打される。
私、全然忘れてた!
恋人達の最大級のイベントを忘れるなんて信じられない!
どうしよう!?
焦れば焦るほど考えはまとまらなくなり、最後には真っ白になった。
「どうした、舞子」
血の気が引くのを感じながら、放心したままの眼差しを優希君へと向ける。
「顔色悪いぞ」
心配げに尋ねる姿に胸がズキリと痛んだ。
バレンタインデーを忘れるなんて、女の子として最低だ。
優希君に心配してもらう価値なんてない。
申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちで、涙が零れそうになった。
「大丈夫か、舞子」
どんなに情けない顔をしているのかは、優希君の困惑する姿を見れば一目瞭然だ。
けど心配してくれればくれるほど胸が切なくなり、いたたまれない気持ちになった。
「舞子?」
「ごめん、優希君! 舞子、用事を思い出したから帰るね!」
返答を待たずに踵を返す。
「舞子!」
一緒にいるのが辛くて、優希君の心配げな眼差しが切なくて、声を振り切るようにして駆け出した。
どうして忘れてたんだろう。
大切な大切なバレンタインなのに!
ばかばか。
舞子のばか!
悔やんでも悔やみきれない思いに、視界が涙でにじんだ。
玄関に入ると同時に、大粒の涙が溢れ出した。
優希君の前から逃げたところで、後悔も罪の意識も消えることはなかった。
それどころか胸の痛みは増すばかりで、堪えきれずその場に泣き崩れた。
「どうしたの、舞子!?」
号泣する私に、ママがスリッパのまま駆け寄ってきた。
「どうしよう……ママ」
零れ落ちる涙に、うまく言葉を口にすることができなかった。
「舞子……舞子……」
「大丈夫よ、舞子」
柔らかな匂いと共に、優しい腕がふわりと私の身体を抱いた。
宥めるように背中を掌が叩く。
「大丈夫」
大丈夫というママの声に、優希君の声が重なり、新たな涙が頬を伝った。
「大丈夫じゃ……ないの……舞子……今日……バレンタインだって……忘れてて……どうしよう……優希君に……嫌われちゃう」
チョコを渡すとか渡さないとかじゃない。
嫌われることが怖かったのだ。
口に出してみて、初めて自分の本当の気持ちに気付いた。
「どうしよう」
やっと仲良くなれたのに。
傍にいることを許されたのに。
「舞子」
温かな掌に両頬を包み込まれ、そっと顔を上げさせられた。
涙で霞む視界に、深く澄んだ眼差しのママの姿があった。
「大丈夫よ、舞子」
「でも――」
「舞子は受験勉強に必死で、バレンタインのことを忘れていたのでしょう? そんな一生懸命な舞子を、優希君が嫌いになると思う?」
「でも……優希君は……」
舞子のために、お守りを買ってきてくれた。
それだけじゃない。
この一ヶ月間、舞子のことをなによりも優先させてくれた。
それなのに、私は――。
「なにも優希君に……返せてない」
勉強をたくさん教えてもらった。
お守りを買ってきてくれた。
学校以外のほとんどの時間を、舞子のために使ってくれた。
それなのに、私はなに一つ返せていない。
自分のことに精一杯で、なに一つ返そうとしなかったことが悲しくて、膝の上に置いた手を強く握り締めた。
「ちゃんと返しているじゃない」
言葉の意味がわからず、涙で濡れた目を瞬かせる。
そんな私に、ママは大きく微笑んでくれた。
「優希君は、舞子と同じ中学に行くことを望んだ。それに応えようとして、舞子は頑張った」
「それは、舞子の成績が悪かったせいで……」
「でも、優希君は嬉しかったはずよ」
思いも寄らぬ一言に、私は目を見開いた。
「自分のために好きな人が頑張ってくれる。こんなに嬉しいことはないわ」
「本当……に?」
「勿論よ。だって舞子は、自分のために優希君が頑張って勉強を教えてくれたこと、嬉しかったでしょう」
「うん」
「だったら優希君も同じはずよ」
そう言ってママは柔らかく笑った。
花のような笑みに、波立った心が穏やかになってゆく。
「ありがとう、ママ」
ママはいつだって、私の欲しい言葉を与えてくれる。
元気をくれる。
抱えきれないほどの愛情を示してくれる。
大好きな大好きなママ。
「さあ、いつまでもそんな所に座ってないで。早くしましょう」
「えっ?」
先に立ち上がったママが、戸惑う私の腕を引いた。
「チョコレートブラウニーなら、舞子も作ったことあるでしょう。甘さも控えめだし、優希君、きっと喜ぶと思うわ」
「うん!」
ウィンクするママの姿に、言葉の意味を理解した私は、大きく頷き急いで立ち上がった。
感謝の気持ちをこめたカードを沿え、手提げを片手に家を飛び出したのは、三時を少し回った頃だった。
ランチの約束をドタキャンして、優希君怒ってないかな。
不安がないわけではない。
でも考えていてもしかたがない。
とにかく会って、きちんと謝らないと。
はやる気持ちに勢い良く鉄製の門扉を開けた瞬間、驚く声が聞こえた。
歩道を歩く人に当たってしまったのだろうか。
「ごめんなさい!」
謝罪の言葉と共に慌てて外に飛び出す。
そこで私が目にしたものは、携帯電話を耳に当て、呆然と見上げる優希君の姿だった。
「どうしたの、優希君。こんな所で!」
「いや……えっと……舞子、突然帰っちゃったから、具合でも悪くなったのかと思って、心配で携帯に電話したんだけど、全然出ないし」
そういえば携帯、マナーモードにしたままだっけ。
「どうしても気になって、家まで来たんだけど。もしかしたら、舞子の気に障るようなこと言ったのかもしれないと思ったら、インターホン押せなくて、それで……」
小さくなる声と共に、徐々に視線が落ちてゆく。
握り締めた拳が微かに震えていた。
ああ、そうか。
優希君も不安なんだ。
こんなにかっこよくて、勉強ができて、スポーツでもなんでも上手にこなせるのに。
それでも、不安になるんだ。
私が優希君に嫌われないか不安なように。
「ごめんなさい。心配かけて」
「いいや、俺の方こそ、勝手に押しかけてごめん。どこか行く用事があるんだろう。俺、帰るから」
「あっ、待って!」
顔を真っ赤にして、慌てて立ち去ろうとする優希君の右腕をとっさにつかんだ。
驚きの表情で振り返った優希君に、チョコレートブラウニー入りの手提げを差し出す。
「これ、バレンタイン」
「えっ?」
「ごめんなさい、優希君」
目を瞬かせる優希君に、私は深々と頭を下げた。
「舞子、今日がバレンタインだって忘れていて。ランチに行く途中で気付いたの」
「それで慌てて帰ったのか」
「うん。優希君には、いっぱいいっぱい迷惑かけたのに、バレンタイ忘れるなんて、本当にごめんなさい!」
「よかったのに」
深いため息の後、ゆっくりと紡ぎ出された言葉に顔を上げた。
困惑した表情の優希君と目が合う。
「それだけ舞子が受験勉強に必死だったってことだろう。逆に朝会ってすぐにチョコレート渡された方がショックだよ」
そう言って笑う優希君の姿に、張り詰めていた心と身体が、スッと軽くなるのを感じた。
ママの言うとおり。
優希君は全てをわかっていてくれた。
「ありがとう、優希君」
「俺の方こそ、ありがとう。これ、手作りなんだろう」
ラッピングでわかったのだろう。
手提げの中をのぞきこみながら、嬉しそうに優希君は言った。
「うん。チョコレートブラウニー。おいしく焼けたと思うんだけど」
「くるみ入ってる?」
「あっ、うん」
「やった。くるみ入りのやつ、好きなんだ。ありがとう、舞子」
「私の方こそ」
突然帰った私を怒ることなく心配してくれて。
バレンタインを忘れた私を許してくれて。
なにより今日という特別な日を一緒にいてくれて。
「ありがとう」
今日という日を、私は一生忘れないだろうと思った。
同時に、今この瞬間のこの気持ちを、いつまでも忘れず大切にしたいと思った。