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十五の出会いと恋の事始め

作者: 界軌

 理解できないものって、本当に大好き……!



 私がそう言うと、大概の人は奇妙な顔をする。


 父も母も、兄たちも。屋敷の使用人達に、付き合いのある令嬢達だってそうだった。


 違ったのは同い年の友人、露南ろなんだけ。


 それを聞いた彼女は、少し首を傾げてこう言った。


「ふうん。……朱珠しゅじゅって変わっているのね」


 露南はいつでも捻りが無く、真っ直ぐだ。あと、凄く正直だ。


 そんな彼女も、実は朱珠の理解できないものの一つだったりする。


 何処がと言うと、幼い頃、それも六歳の頃から、ずっとただ一人を想い続けているところだ。


 聞けば、初めて会ったその日に、彼女から求婚したと言うではないか。


 実に興味深い。


 大笑いしてしまうのも無理は無いでしょう? ね?


 十二歳を過ぎた辺りからは、その素敵な出来事を「過去の恥」とか「昔の思い出」とか色々言い訳していたのだが、件の将軍の名前を出すだけで彼女は顔を真っ赤にしていた。羞恥心も勿論有るのだろうけれど、その奥にもっと深い恋慕の情が隠れているのは見ていればわかる。


 朱珠だって家族や露南の事は好きだが、ただ一人を想って胸が痛んだような事は未だかつて無い。


 だから、感情豊かに意地を張り、それでも収まらない恋心を抱えた露南はとても興味深く、見ていて飽きない。


 大好きよ。





「……朱珠姫」


 物思いから立ち返った朱珠は、声を掛けてきた男性を見た。


 彼は気まずげに視線を泳がせると、再び口を開いた。


「……あの、朱珠姫?」


「なにか?」


 蓮の葉をかたどった扇を持ち、それを口元に添えて首を傾げる朱珠の仕草は、十五歳という年齢にそぐわず、大人びて優雅だ。


 その様を見ていた男は、小さな笑みを浮かべる。


 それでも口調はたどたどしい。


「我々は、いつまで、この、覗きの様な真似をし続けるのでしょうか?」


 時は昼下がり。


 所は王宮の庭園。


 晴天の空の下、二人は青い池を臨む東屋に設えられた卓に、向かえ合わせに座っている。


 先程までは二人揃って視線を池に架けられた橋の上に向けていた。


 そこには、最近婚約したばかりの友人である露南と、その婚約者である白鏻はくりん将軍が仲睦まじい様子で佇んでいた。


 朱珠たちが東屋にいるところに友人たちが現れたなら、或いはその逆であれば、それはただの偶然だ。


 しかし今回は違う。二人の逢瀬の話を耳にした朱珠が、目の前でお茶を濁す様な笑みを浮かべるこの男を引っ張ってやって来たのだ。


 彼の言い方は、だから少し間違っている。二人がしているのは、覗きのような真似では無く、紛う事無き覗きだった。


 朱珠は可愛らしく微笑んで、彼に答えてあげる。


「だって、露南ったら、『ちゃんと報告してね』って約束したのに、ちっとも報告しないんですもの。様子見くらい許されるでしょう?」


「……それは、お願いの域を出ていませんよ。決して約束でありませんよ」


 朱珠の勝手な言い分に、彼は溜め息を吐いた。


 その吐息に、露南への同情が含まれていることを朱珠は敏感に感じ取る。


 でもね、と彼女は心中で呟く。


 貴方も私の大好きな『理解出来ないもの』なんですよ、迅芳じんほう副官殿。

 




 朱珠の前に座る男は、友人である露南の婚約者、白鏻将軍の副官である。歳は二十二歳で、その名を迅芳という。


 名は体を表すとの言葉通りに、彼は大変に美しい容姿を持っている。


 祖母が胡人(西方の異民族で、金髪碧眼も珍しくは無い)であった為、髪は亜麻色で、瞳は青みがかった茶色だ。黒髪黒目が一般的なこの国ではとても目立つ。男性に使う形容詞としては相応しく無い気がするが、その存在は芳しくも麗しいものであった。


 そしてその容姿故か、彼の流す浮き名もかなりのものだ。


 一度に六人の女性と付き合いがあったとか、恋人が途切れた事が無いとか、そんな派手な付き合いばかりなのに揉め事を起こした事は殆ど無いとか。


 それが、彼の誠実な人柄と女性への謙虚で丁寧な態度によるものであると、朱珠は聞いていた。


 まあ、それを聞いた朱珠が思った事は、「複数の方とお付き合いしておいて誠実も何も無いわよねー」だったりするのだけれど。


 彼女が迅芳と出会ったのは、先だって行われた国王陛下の誕生祭の折であった。


 友人の露南が恋する将軍と感動の再会を果たしていた頃、朱珠は予てより射程圏内に入れていた彼に話し掛け、親しくなることに成功していたのだった。


 ただし、朱珠の射程圏とは恋愛関係のそれでは無い。


 観察対象、のそれだ。


 ところで、朱珠の両親は大変睦まじい。


 二十七歳の長兄を筆頭に十五歳の末娘まで、八人の子どもをもうけている。


 結婚当初、いや、今でも、『熊と仙女』だの『虎と花精』だの散々な言われ方をされようとも、彼らの睦まじさに亀裂が入る様子は全く無かった。


 そんな両親を見て育った朱珠としては、迅芳の様に、常に別の女性と付き合っているとか六人と一度に関係を持っているとかいう経歴は全く理解出来ず、だからこそ興味が湧いて止まらない。


 何時でも彼とお近づきになる機会を狙っていた彼女は、誕生祭で偶然一人になっていた迅芳に素早く歩み寄ったのだ。


 普通は人を通して紹介を受けてから付き合いが始まるところを、その部分を全く無視して彼に近づき、「初めまして。宜しくお願い致します」と朱珠は微笑んだのだった。


 迅芳の方も、一瞬面食らったものの、直ぐさま笑みを返して「こちらこそ宜しくお願いします。瓊朱珠姫」と言った。


 朱珠は「中々、どうして。……やりますわね」と内心でほくそ笑みながら、改めて名前を名乗った。


 お互い自己紹介など必要無いとは思っていたが、そこは礼儀だ。


 因みに、迅芳が自己紹介不要と判断したのは、彼の女性遍歴が本人にも知れる程有名だからである。


 朱珠の方はと言うと、これまた別の話だ。


 まず、彼女の父親が高名な軍部の高官である事。それから、彼女自身が普通の令嬢らしく無く、王宮に日参している事だ。出歩く女性と言えば女官という王宮内で、共も連れずに歩く令嬢が噂にならない訳がない。


 補足しておくと、朱珠がそうするのは、王宮内の人間観察と図書館の本が目的である。まあ、図書館の本の方は口実で、人間観察が本当の目的だが。


 そんな訳で友人としての付き合いを始めた朱珠と迅芳だったが、現状を見て分かる様に、完全に彼は彼女に振り回されていた。


「あ。姫、二人がこちらに来てしまいますよ。……そろそろ立ち去りませんか?」


 上官とその婚約者の様子を窺っていた迅芳はにわかに焦りを見せてそう言った。


 朱珠はそんな彼に「大丈夫」と請け負う。


「偶然を装えば問題ありませんよ」


 余裕綽々で彼女がそう言うものだから、彼もそれ以上急かすことも出来ず、浮かせた腰を再び下ろした。


 徐々に近づいてくる男女に、迅芳はどう挨拶すべきか考える一方で、朱珠はのんびりとお茶を啜る。


「まあ、朱珠」


 東屋の脇にある小道を歩いて来た露南が声を上げたのは、朱珠が卓に茶器を戻した時だった。


「露南。奇遇ね」


 ふわり、と肩に羽織った領巾を揺らして朱珠は立ち上がる。


 その向かい側で、迅芳も立ち上がる。


「白将軍、お疲れ様です」


「ああ、迅副官。ご苦労様です」


 軍式の挨拶をする迅芳に白鏻も頷きを返す。これは軍部の決まり事のようなやり取りだ。


 覗きがバレていないかと、ひっそり汗をかく迅芳に対して、将軍の方はいつも通りにこやかにしている。それが怖いのだが……。


 二人の様な挨拶を見慣れている朱珠とは違い、露南は不思議そうに二人を見ている。軍人の会話など聞いた事も無かったから物珍しいのだ。


 そんな友を見ていた朱珠は、さも今思いついたように口を開いた。


「ああ、そうだ。露南、紹介するわ。こちらは迅芳副官殿。白将軍の部下なのよ」


「初めまして、迅様」


 おっとりと会釈する露南に、迅芳は有名な女殺しの笑みを、……浮かべられずに無難な微笑みで挨拶を返した。


 彼女の背後にいる白鏻からの無言の圧力が中々強いのだ。


「初めまして、露南姫。将軍とご婚約されたと聞きました。おめでとうございます」


 そう言うと、露南はぽっと頬を赤らめて「有り難うございます」と返しながら、ちらりと白鏻を見上げる。


 婚約者の可愛い仕草に、彼も暖かな視線を返して見つめ合う。


 自分がやる分には気にならないのに、他人様のこういう行為はなんて目の毒なんだ、と迅芳はげんなりとした気分になった。


 楽しくその三者の様子を観察していた朱珠だったが、それを邪魔したのは白鏻だった。


「露南、お父上との約束の時間です。そろそろ行きましょう」


 この後は露南の父と会う約束があるらしい。


 瞬いた少女は、手の平を合わせた。


「ああ、そうでした。では、迅様、朱珠、また……」


 そう言って二人は立ち去った。


 朱珠と迅芳はその背中を見送っていたのだが、何かに気が付いたらしい露南が慌てて駆け戻って来た。


「しゅ、朱珠、ちょっといい?」


 彼女は急いた様子で朱珠の袖を掴んで、東屋の外に引っ張り出す。


「どうしたの、露南?」


 友の突然の行動に目を見開いた朱珠に、露南は耳元で声を潜めて言った。


「あのね、迅様って、あの、迅芳様よね?」


 どうやら迅芳の行状はこの箱入り娘の耳にも入っているらしい。


 真摯な表情で言う露南に、朱珠はころころと笑った。


「なーんだ。そんなことを心配していたの?」


「笑い事じゃないわ!」


 本気で心配しているのよっ、と言い募る友に、朱珠はにっこり笑って言った。


「大丈夫よ。彼は私にとって『観察対象』だもの。それに、私は好奇心と恋心を履き違える程愚かでは無いつもりよ」


 その一言で、露南の表情は一変した。


 安心、というよりも、呆れた表情だ。


「はあ……。そういうこと」


「そう。そういうことよ」


 すっかり納得した露南は、「でも、ちゃんと気をつけてね!」と言ってくれた。


 無論、朱珠は彼女らしく、「露南が将軍とのことを逐一報告してくれたら考えても良いわ」なんて返したのだが。


 むーっと唇を尖らせる露南に、朱珠は白鏻の方をこっそり指差した。


「ほら、未来の旦那様が待っているわよ」


 と言えば、彼女は頬を真っ赤に染める。


「もうっ。朱珠ったら!」


 文句を言いつつも、露南は微笑んで待っている婚約者の元へと戻っていった。


 東屋に再び入った朱珠を出迎えたのは、卓に手を付いて、苦悩の表情を浮かべる迅芳だった。


「迅様……。あらあら、どうなさったの?」


 わざとらしく朱珠が聞けば、彼は恨みがましい視線を向けて来た。何とも珍しい行為だ。


「……心臓が止まるかと思いましたよ、全く!」


「あら、どうして?」


 しれっと聞いてやると、迅芳は大義そうに椅子に座り込んだ。


「白将軍の、あの圧力ときたらっ……。出来る事なら、露南姫にはお会いしたくなかったのですよ、私は」


 女好き、失礼。淑女至上主義者の彼とは思えぬ発言である。


 まあ、それだけ上官(白鏻)の婚約者(露南)に対する過保護っぷりが恐ろしいということだろう。


「ですが、今回の逢瀬を教えて下さったのは将軍御本人ですわよ」


 朱珠がそう言うと、迅芳は目を見開いた。


「何ですって?!」


 扇の陰で軽やかに朱珠は笑う。


「交換条件だったのです。私が露南の情報を白将軍に差し上げる代わりに、軍部や城内の面白そうなお話を将軍から提供頂いていたのですわ」 


 例えば、今回の逢瀬とか、迅芳の女性関係とか。


「…………」


 迅芳はぱっくりと口を大きく開いて、次の言葉が出なくなってしまった。


 目を細めた朱珠は、「あらあら、色男が台無しですわー」と内心でまた笑う。


 やがてその口を閉じた迅芳は、額に手をやって首を振った。


「信じられない……。将軍がその様なことをしていたとは……」


 彼の知る白鏻という男は、始終穏やかで、笑みを絶やさぬ上官だった。


 正直に言ってしまえば、彼には軍人らしさなど殆ど見当たらない。


 将軍就任当初は、親の七光り、家名だけで跡を継いだ『形だけの将軍』、などと言われていた。剣術や武術に優れている訳では無いし、模擬戦でも行えば、彼は恐らく中の上くらいになってしまうだろう。


 ところが、白鏻は自身への悪言を聞いても、全く顔色を変えないのだ。


 噂ぐらいは耳に入っているだろうし、これ見よがし言う輩もいると言うのに、彼はそれについての苦悩など片鱗も見せたことは無かった。


 当初、迅芳はその点についてだけは、白鏻を評価していた。


 迅芳が白軍に配属されたのは、彼が将軍となった後だった。噂ばかり聞いて、実際に話した事も無い上官に抱けるのはその程度の心象だった。


 その頃、白軍では内部改変が進んでいた。前の白将軍の代から居る上役達が高齢となって来た為に、その入れ替えが必要だったのだ。


 しかし迅芳は、大隊の補佐官程度の自分には何の関係も無い事だと思っていた。


 ところが、ある日、迅芳が将軍の部屋に書類を届けに行った時のことだ。


 室内には将軍の他に二人の補佐官と当時の副官の輿れいがいた。


 驚いたことに白鏻が、書類を置いた迅芳に話しかけて来たのだ。


「ああ、迅芳といったね、君」


「……っ。はい、そうです」


 一瞬面食らったが、迅芳は姿勢を正して答えた。


 そんな彼に、白鏻はゆったりと微笑みかける。


「君は、次の副官には誰が相応しいと思う?」


 なんて聞いて来るから、迅芳は耳を疑った。


 輿嶺は軍人としては高齢である為に、次の副官の検討も今回の内部改変に含まれていると聞いてはいたが、それを自分に聞いて来るなんて、誰が思うだろう。


 けれど上官に聞かれているのだ、答えない訳にはいかないだろう。


「はっ。自分は、伊大隊長か李小隊長が相応しいかと思います」


 この時、迅芳は伊大隊の補佐官だった。大隊の小隊を率いる李小隊長の方が立場は上だ。


 つまり彼は自分の直接の上官と、別の隊の小隊長を推薦したのだ。


「ふうん。それはどうしてかな?」


 和やかな口調で白鏻は理由を問う。


「……お二方とも、自分たち部下の詳細を把握なさり、その上で指揮をとって下さいます。将軍の副官として申し分無い働きが出来ると愚考致します」


「そうか……」


 机に肘をついて首を傾げる白鏻に対して、副官交代の話を聞いた時から何と無しに考えていたことを将軍相手に言い切ってしまった迅芳は緊張して、視線を少しずらしていた。


 だから気が付かなかった。将軍と副官が視線を交わし合っていたことに。


 そして、白鏻は決定的な一言を迅芳に告げた。


「では、決定だね」


 ぎょっとして、迅芳は将軍を見る。


 さらさらと手元の書類に何事か書いてからその場に立ち上がった白鏻は、その紙を持ち上げて、こう言った。


「迅芳補佐官。今日これより、君を白軍の副官に任命する」


「は……?」


 目を丸くして、口をぱっかりと開いて、迅芳は間抜けな顔をさらした。


 頭の何処かで、「その態度は不敬に当たるぞ」と警告する自分がいたが、そんなものに構っている余裕は無かった。


 目の前に掲げられた紙は副官任命証で、そこには迅芳の名前がはっきりと書かれている。


「私の問いに即座に答えられるのは、軍内部を良く把握している君ぐらいなものだろう」


 そう言って微笑む白鏻の笑顔に、黒いものがはっきりと見えた。


 ひくり、と頬を震わせて迅芳は、この時ようやく白鏻という将軍の真の価値を知った。


 騙された感は否めないが、この時点で迅芳にとって将軍は尊敬する上官へと変貌を遂げたのだ。


 という数年前の出来事を思い出して、ようやく迅芳は朱珠の言う話が事実だと思えた。


「……いや、ありえますね」


 そう思い直す。


 朱珠の方も、のほほん、と言う。


「ええ、白将軍って意外と腹黒い、……では無くて、計算高い、ですものね」


 なにせ露南との結婚に向けて、自分の親は元より、彼女の父親への根回しまで十分だったのだから。


 そう、彼は軍人らしく無い。が、人を操る、……もとい、人を率いることに力を発揮する事の出来る人間なのだ。


「さて、と。私たちもそろそろ解散致しましょうか。迅様もこの後はお仕事でしょう?」


 朱珠に促されて、迅芳も立ち上がる。


「では朱珠姫、また……」


 振り回されて困っているというのに、女性に対して自動的に次の約束の言葉を紡ぐ自分の口を閉じたくなったのは、迅芳としては初めての経験だった。


 バツの悪そうなその顔に気が付いた朱珠は、知らない振りをして可愛らしく礼をする。


「ええ、迅様。また、是非に」


 ひらり、と領布を翻して歩き出した朱珠は扇の下でほくそ笑む。



 こんな絶好の観察対象。逃してなるものですか!





 数日後、朱珠は王宮で再び迅芳と会った。


 これは全くの偶然で、朱珠は兄の忘れ物を届けに行った帰りで、迅芳は休み時間に現在交際中の女官に会いに行くところだった。


「迅様、こんにちは」


 会釈する朱珠は、お気に入りの赤い衣に、いつもの扇を手にしていた。


 他方、迅芳は王宮内用の軍服姿で、軽い甲冑も身に付けていた。


「これは、朱珠姫。こんにちは」


 爽やかな笑みはやはり美しい。朱珠は「軍装というものも女性の心を掴むのかもしれないわ」という感想を抱いた。


 まじまじと自分を見る少女に、迅芳は少し迷ってから口を開いた。


「あの、一つお聞きしたいことがあったのですが、宜しいですか?」


 神妙な表情で言う彼に、朱珠は頷いた。


「ええ、どうぞ。……何かしら?」


 ぽりぽりと頬を掻いた迅芳は、朱珠のとある台詞を聞いてからずっと気になっていたことを尋ねた。


「何故朱珠姫は、『理解出来ないもの』がお好きなのですか?」


 朱珠はその意外な質問に、瞳を瞬いた。


 誰もが朱珠の「理解出来ないものって大好き」という台詞には驚くが、理由を尋ねられたのは初めてだったのだ。


 そして考える。


「そうですねえ……。切っ掛けは、我が家の庭にいた兎かしら」


「兎?」





 朱珠が幼い頃、屋敷の庭に一羽の兎が住み着いた。


 その兎は元々何処かで飼われていたのか、餌を自分で取る事が出来ず、朱珠が与える餌を食べて生きていた。


 午前中の日が高くなる前、朱珠の身支度が済んだ時間帯にいつも野菜を与えていたのだが、その食べ方はとても奇妙だった。


「ご飯よ、黒」


 兄の一人が毛の色に因んでつけた安易な名を呼ぶと、草木の陰からちょろりと小さな顔が出てくる。


 長いひげをひくひくさせながら近寄って来て、朱珠が差し出した餌の入った器に顔を突っ込む。そのまま食べるかと思いきや、ちらりと彼女を見上げてくるのだ。


 首を傾げた朱珠が「食べなさい」と言うと、もそもそと食べ始めるのだが、その間にもちらちらと朱珠の顔を伺ってくる。


 さっぱり意味がわからない。


 食べ終わると器を鼻先で押し返し、じーっと彼女を見つめてくる。


 じいいっと見つめ返すと、ぱっと後ろに飛んで、再び草木の奥へと姿を消してしまう。


 姿の見えなくなったその空間を見つめながら、頬に手を当てて朱珠は呟く。


「ああ、なんて不思議なのかしら……」


 その行動は全く理解できないが、そこがいい。理解出来ないその行動は、とっても可愛い。





「その兎の一件から、私、とにかく『理解できないもの』が好きになりましたの。……答えになっていないでしょうか?」


 なってはいないだろうな、と思いつつも、彼女は迅芳に小首を傾げてみせた。


 すると彼は、少し悩んだ後でこう言った。


「朱珠姫。恐らくその兎は、姫に撫でて欲しかったのですよ」


「……え?」


「元々は飼われていたのでしょう? それでしたら、飼い主に撫でてもらいたいと思うのは自然なことだと思います」


 そんな事は考えた事も無かった。


「まあ……。ちゃんと動物を飼ったことが無いので、思いもつきませんでしたわ」


 今日帰ったら早速やってみよう、と朱珠は思った。


 そして、その解答を授けてくれた迅芳に礼を言おうと顔を上げた時だ。


「迅様!」


 艶やかな女性の声が割って入った。


 軽い足音と共に現れたのは女官の衣装に身を包んだ若い女性だった。


 すっぱり言えば、今の迅芳の交際相手だ。


「やあ、香蘭」


 彼女は迅芳の元へ駆け寄ると、その細い腕を彼の腕に巻き付けた。


「待ちくたびれてしまいましたわ」


 拗ねた様に唇を尖らせる様は、同性の朱珠から見ても魅惑的だ。


 これぞ朱珠の待ちわびた瞬間だった。


 つまり、迅芳が女性に対応する様子が間近で見られるのだ。


 一体どんな言葉を掛けて、一体どんな接し方をするのか。思わずまじまじと眺めてしまう。


 ところが、当の迅芳は困った様な微笑みを浮かべている。


「香蘭、ちょっと待ってもらえませんか」


 女官の肩を軽く押さえながら、ちらりと迅芳の視線が朱珠に向く。


 あら、これはお邪魔だったかしら。


 そう思った朱珠は、大変残念ではあったが、この場を立ち去ることにした。


「迅様。私はこれで失礼致しますわ」


 どこかでこっそり覗けるだろうかと考えながら、彼女は迅芳へと挨拶する。


 しかし彼は焦った表情を見せた。


「いえ、朱珠姫。そのっ、少しお待ち頂ければ……」


 寧ろ彼は朱珠を引き止めたがっているようだ。


 腕にしがみつく香蘭と朱珠の間を行き交う視線は、先程話した兎の様子を思い起こさせる。


 ふと、彼女は悪戯を思いついた。


 扇を胸の位置まで下ろして、迅芳を見上げてにっこりと微笑む。


 そして、こう告げた。


「迅様、私、そう簡単には撫でて差し上げませんわよ?」


 すると、何と、迅芳の頬に朱が走った。


 その様に、朱珠も女官も目を丸くする。


 しかし意識を切り替えるのは朱珠が早かった。


 彼女は「では失礼」と言って、そそくさと背中を向けて歩き出した。


 朱珠が離れて行く中で、その背中を戸惑いながら迅芳が見送る。


 その横顔を、香蘭がじっと見つめ、やがておもむろにこう言った。


「まさか、迅様。……あの方に本気ですの?」


「は……? ……えっ?」


 不思議そうな声を発しながらも、益々迅芳の頬は赤くなる。


 視線を彷徨わせた後、彼は呻く様に言った。


「……どうやら、そのようだ。すまない、香蘭」


 彼女の腕を自分からやんわりと外して、きちんと頭を下げた。


「本当に申し訳ない」


 香蘭は呆れた様に息を吐いた。


 それから苦笑を浮かべる。


「仕方ありませんね。貴方とは楽しくお付き合いできましたから、構いませんわ。行ってくださいませ」


 迅芳の女性遍歴を知っていて付き合っていたから、結婚を考える程の仲でも無かった。香蘭は割り切って付き合っていたし、何より女性の扱いに長けている筈の迅芳が困惑するという大変珍しい光景が見られたから、彼女はそれで良しとしたのだ。


 もう一度深く頭を下げた迅芳は、踵を返して朱珠を追った。


「ああ、何だって彼女なんだ……」


 ぶつぶつとぼやきが口から零れる。


 どう考えても、彼女には困った事態に引き合された記憶しか無い。


 彼女の策略(?)で白将軍に会った時に冷や汗をかかされた時といい、彼女の兄達に会って敵意や殺意を送られた時といい……。


 それでも、ことあるごとに、ふと思い起こすのは朱珠の扇に隠された笑顔なのだ。


 ざわざわと胸の奥がざわついて、迅芳は足を早めた。





 一方、朱珠は首を捻っていた。


「全く、全然、分からないわ」


 あの迅芳が、どうやら自分に好意を抱いているのだ。


 先の様子から見て間違い無いだろう。露南と違って朱珠は人の感情の機微に敏感な方だ。


 だがそうなる切っ掛けも理由も見当たらない。


 むしろ、迅芳にとって朱珠は忌避したい類いの人間だろうに。


 廊下の角を曲がる時に、後を追い掛けて来る迅芳の姿が目に入った。


 扇を口元に添えて、彼女は思わず肩を震わせてしまった。


「なんて面白いのかしら!」


 ああ、全く。


 彼の心なんて、理解が出来ない。


 その興味深い事と言ったら無い。


 そして呟く。



「我要着你的今后期待」



 ……私は貴方の今後を心待ちにしております。


 まあ、要するに。これからも是非是非、私を楽しませて下さいませ、迅芳様。という事ですよ。









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