第6話 傀儡師
DISPELLERS(仮)
06.第6話 傀儡師
「はいアキ、これあげる(ニッコリ)」
「なんだ」
(鍵? もしかして、曄ちゃんの部屋の鍵? こ、これはっ!、伝説の宝物庫の鍵じゃ!)
「これのキーよ」
「ファイヤーブレード!、しかもモリワキ・ゼロSS付き! すげーっ!
これ乗りたかったんだよ、なんで分かったんだ曄ちゃん(喜)」
「それからもう一つ、これもあげるね」 ガバッ! ボヨヨン! (註:音だけでご想像下さい)
「おおっ! せ、世界遺産っ!」
「はい、アキ・・・、乗って・・・」 (註:声だけでご想像下さい)
「○×△☆〒◇!」
「アキ・・・」
「アキ!、明月!」
「・・・・(涎)」
「いつまで寝てんの、おたんこなす!」 ガコンッ!
「いてっ!」
「さっさと起きなさい! まったく、よくこんな状況で寝てられるわね」
「あ、あれ〜・・・?、世界遺産が、ない・・・」
「なにが世界遺産よ、いつまでも寝ぼけてんじゃないの!」
(なんだ、夢か・・・(汗))
現実の曄は、夢の中とは打って変わって不機嫌そうだった。
明月は、寝癖頭を掻き掻き不満を口にする。
「痛えなー。 だからって、竹光でぶっ叩く事ねーだろ・・・。 大体何時だよ、今」
「6時よ」
「6時!? 勘弁してくれよ、ラジオ体操やるんじゃねんだぞ」
「そうは行きませんわ、明月。 早くしないと、パートのおばさんが出勤してきますのよ」
「パート?」
明月はまだ寝ぼけていた。
自分がどこで寝ていたのか、なぜ曄と澪菜が目の前にいるのか、思い出すのに少し時間がかかった。
折角、いい夢の途中だったのに・・・。
女子寮を後にした3人は、そのまま商店街へ向かって歩き出していた。
当初、澪菜は電話で定芳を呼び付けようとしたが、商店街まではそう遠くなさそうだし、こんな早朝から叩き起こされ
たのでは、いくら専属の運転手といえども可哀相過ぎると言う曄の言葉を聞き入れた。
明月の事は平気で叩き起こしておきながら、同じ口でよく言えたものだ。
現実とは、かくも冷たいものなのか・・・。
(くそ、俺の世界遺産を返せ!)
その世界遺産の所有者である当の本人に向かって思うのも筋違いなのだが、そのくらい明月は憤っていた。
元から寝起きはそんなに良い方ではない。
「てかなんで、そのファンキーショップに行かなきゃなんねぇんだよ」
「ファンキーじゃないファンシーよ、ちゃんと聞いてんの?」
「女の子助けたんならもういいだろ、終わろうぜ」
「そうは行きませんのよ、明月。
わたくし達の目的は、生徒達を救う事はもちろん、その害悪の元凶を絶つ事にこそあるのですから。
それが達成されない限り、完了とは言えませんわ」
「へえー、律儀なこって」
「お仕事とは、そういうものですわ」
(そうかい、勝手にやってくれ)
「そういや、澪菜さんの式神はどうしたんだよ、だいぶ経ってんじゃね?」
「そうですわね、かれこれ3時間以上になりますわね」
「大丈夫なんか、放っといて」
「その心配には及びませんわ。 少し遅いのは気になりますけれど、あの2人は優秀ですのよ」
(だったら、さっさと戻って来て手伝えってんだ)
枇杷の予想では、妖怪は近くに潜んでいるはずだったのに、こんなに時間のかかる近くってどこだ?
明月は、完全にやる気を失っていた。
(腹減ったなぁ・・・)
澪菜は、そんな明月の寝起きの悪さ、というか投げ遣りな態度を覚って、気分を変えようと話しかけた。
「ところで、明月の誕生日はいつですの?」
「は?」
(なんだいきなり、めんどくせー女だな)
そう思いながら、半開きの横目でチラッと澪菜を見た明月。
いかにも煙たそうなその目つきにゾクゾクするものを感じつつ、澪菜は重ねて笑顔で質問する。
「いつですの?」
「12月」
「あら、ずいぶん遅いんですのね。 それでは18歳まで、まだ2年半も待たねばいけないわ」
「まだそんな事言ってんのか、あんた」
「もちろんですわ、それまでに完璧に準備して、立派な式を挙げましょう」
「勝手に言ってろ、どうせそのうち飽きる」
「いいえ、そんな事はありませんわ、絶対に(ニコッ)」
(うぜー女・・・)
2人の少し後ろを歩いていた曄もまた、斜め機嫌だった。
明月に自分の秘密を問われたくないが為、気後れして話し辛いのをいい事に、我が物顔で楽しそうに会話をする澪菜が
小憎たらしい。
彼女の目にはそう見えていた。
「曄、貴女はいつですの?」
振り返った澪菜が聞いた。
誰が見ても分かる刺身のツマ、明らかについでだった。
一層むかつく。
目線を逸らして独り言のように答えた。
「・・・・6月よ」
「あら、蟹座ですの? じゃあもう16歳になったのね。 へぇそう・・・」
まるで関心がなさそうな、素っ気ない返事をする澪菜。
だったら聞くなっての。
余計に腹立たしい。
その一方で、明月は結構驚いていた。
曄は既に16歳になっていた。
自分より半年もお姉さんだったなんて・・・。
たったそれだけの事で、なんだか背筋がムズムズするような、妙な感覚を覚えながら、彼女の裸を思い出していた。
(お姉さんの、カラダ・・・)
すぐ横に、もっと艶っぽいお姉さんがいるじゃないか。
ところで、曄はその誕生日を、誰かに祝ってもらったりしたのだろうか・・・。
明月自身は、誕生日というものを祝うべきものだとは考えていない。
一つ歳を取るという事は、一つ死に近付くという事を意味する。
それを祝い事とはどうしても受け取れない。
子供の頃父親に、誕生日を迎えるまで一年間息災に生きてこられた事を祝うのだと説明されたが、どうにも今一つ納得
出来ていない。
従って、祝って欲しいなどと思った事もなければ、逆に迷惑とさえ思っていた。
゛おめでとう゛と言われる事に、どうしようもない違和感を感じていた。
曄はどうなのだろう。
自分と同じようには考えていないのだろうが、女の子はやたらと誕生日を重要視すると勝手に思い込んでいる明月は、
彼女がどんな16歳の誕生日を迎えたのか気になった。
自分には全く教えてくれなかったし、友達もいなさそうだし、彼女は1人暮らしだ。
まさか、1人寂しく過ごしたのだろうか。
ケーキも、ちょっと豪華な食事も、プレゼントも祝いの言葉も、何もない誕生日を・・・。
☆
商店街・・・、少し寂れた感のある、昭和の雰囲気を残すアーケード街。
当然、この時間では開いている店はなく、全てシャッターが降りていて人通りは殆どない。
そのシャッターのうちの幾つかは、いつ開くのか分からない、もしくは二度と開かない空き店舗だと察しがつく。
それでも、軒先を掃除している目覚めの早い主人というのは1人や2人はいるもので、早朝の閑散として清冽な空気の
中で、箒の出す音が反響してよく響いている。
澪菜がその音の主である老主人を捕まえて尋ねると、老人は、突然現れた巨乳でミニスカートの美少女相手に鼻の下を
伸ばしつつ、丁寧に説明してくれた。
ジジイにとっては、朝からさぞやいい目の保養になったはずだ。
いや、どっちかって言うと目の毒だな、ありゃ。
ここの商店街では、町内会が中心となって、街の活性化のために、空き店舗を利用したレンタルスペースのような場所
を、安い家賃と期間を限って起業を目指す若者に提供している。
テンテンという名のファンシーショップも、その取り組みの一環で商売をしていた店で、店主は若い男だったと言う。
ただ、営業していたのは僅か3ヶ月間足らずで、翌月には別の若者がクレープ屋を開店する予定になっているそうだ。
その、店のあった所へ行ってみる。
特に何がある訳でもない。
誰もいないし、妖気もない・・・、ただの幾分錆び付いた灰色のシャッターが下りているだけ。
明月が、隣りの店との間の狭い通路をカニ歩きで裏に回って、裏口にあったドアのノブを回すと、開いた。
鍵が掛かってない・・・、のではなく、鍵は掛けたが壊れていると言った方が正しい。
壁側の受け金具が外れていて、シリンダー式の鍵がその効力を発揮していない。
澪菜と曄が追いつくのを待って中に入ってみると、薄暗い小さな店内はまるで祭りの後の静けさのような、乱雑とした
印象を受けた。
商品は全て撤去されて何もないのに、陳列棚やショーケース、ワゴン等が壊れたり倒れたりしていて、割れたガラスが
床一面に散らばり、盗難に遭ったか、引っ越しが急作業で行われたのではないかと邪推させる程に荒れていた。
足の踏み場がない。
これでは、さすがの澪菜と曄も中に入るのを躊躇する。
「そこで見てていいよ」
過去に何度か、廃ビルや荒ら屋に忍び込んで遊んだ経験のある明月には、取り立てて珍しい光景ではないし、不法侵入
である事を除けば大して臆する理由もない。
彼は、1人でガラスを踏み割りながら店内をうろついてみるが、特別目を見張るような物は何もなかった。
妖気を感じる訳でもなく、妖怪に結びつきそうな物もない。
「何か、ありまして?」
「いーや、なんもねーな・・・」
澪菜の問いかけにそう答えながら、何気なく棚の上にあった紙切れを手に取って見ると、新聞チラシの裏側に幾つかの
商品リストと共に、一件の住所が書き込まれているのが分かった。
そのリストの中に、゛気ぐるみ(大)゛の文字を見つけた。
気ぐるみ?、着ぐるみの間違いじゃねーのか?
いや、違う。 これは・・・、妖気で操るぬいぐるみの事だ!
明月は、無言でその紙を澪菜に手渡し、それを見た澪菜もまた同じように推察した。
「これは・・・、このリストの商品は、この住所に運ばれたと解釈して良さそうですわね」
「どこだか分かるか?」
「いいえ、あいにくとこの辺の地理には詳しくありませんの。 曄は?」
「知ってる訳ないでしょ」
「調べる必要があるって事か・・・。 本屋でも探すか、ってまだ開いてねーよな」
「それでも、重要な手懸かりには違いありませんわ。 すぐに定芳を呼びます」
澪菜はそそくさと、店の表に向かって歩き出した。
明月はもう一度店内を見渡してみたが、他にはめぼしそうな物はなかった。
探索を止めて曄の待つ出口へ行こうとして、ふとドアの横にあった棚に目をやると、そこに一つだけ、手の平に収まる
くらいの小さいぬいぐるみが残されているのを見つけた。
(なんだ? リスか?)
それを手に取った時、不意に邪な考えが頭に浮かんだ。
どうせ忘れ物だ、廃棄処分されるくらいなら貰ってしまえ。
ちょっと遅いが、曄の誕生日のプレゼントにでもしようか。
ズボンのポケットに押し込んだ。
拾い物を贈られて、曄が喜ぶはずがない事も理解出来ないのか。
店の表側へ戻ると、そこにいた澪菜が言った。
「定芳は小1時間程で参りますわ。 それまで、そこの喫茶店で待ちましょう」
ちょうどその時、まるで計ったようにピッタリのタイミングで澪菜の携帯が鳴った。 ♪♪♪
「枇杷ですわ。
わたくしです・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、分かりました、そこで待ちなさい。
2時間以内に参ります、決して勝手に入らない事、通草にもそう伝えなさい、いいですわね」
「どっからなんだ?」
「山の麓だそうですわ、随分離れているようですわね」
「そんな遠くまで追っかけたのか」
「相当手間取ったようですわ。
相手は早い段階で逃げ出していたようですし、途中で臭いが変わったり妖気が変化して、度々見失ったそうですわ。
ちょっと厄介な妖怪のようですわね」
「厄介?」
「自分の発する妖気をコントロール出来るという事は、強い妖力を持っているという証拠ですわ。
用心して掛からないと、危険かも知れませんわね」
☆
到着した定芳の運転する車に乗って、3人は枇杷と通草の待つ山の麓へ向かった。
やはりと言うか案の定、その場所は店の中で見つけたリストにあった住所と符合している。
山へ近付くにつれ、人家が疎らになり、麓の斜面には桑畑が見え始めた。
車で行けるのはその辺りまでだろう。
道すがら、明月は窓の外の景色を見ながら、一つの気掛かりな事を見つけていた。
そんなに高くない、険しそうでもない低い山だが、車で上へ登る道はない。
あるのは麓の鳥居から続く細い参道だけだった。
どうやら、この山の上には神社があるらしい。
その鳥居の下に、枇杷と通草が待っていた・・・・、もっとも、通草は草の上で完全に寝てしまっているが。
枇杷と通草は、ここまで妖気を追って来て、ここで追跡を見合わせた。
その理由はすぐに分かった。
山からは、なんとも言えない怪しい気配が漂って来ているからだ。
妖気と呼んでいいのかもよく分からないが、恐らく、この辺りの山々は妖の巣窟だ。
そんな雰囲気が嫌というくらい、一般人にはない能力を持っている明月達には感じ取られていた。
「賢明な判断ですわ、枇杷」
山の不気味な気配を覚り、枇杷の行動を労った澪菜。
「ですがその前に、この住所へ行ってみましょう」
リストにあった住所は、すぐ近くにある小さい木造の小屋を指し示していた。
見るからに古ぼけた、汚い物置小屋だったが、妖気はない。
人の気配もない。
小屋の横に小さい窓があった。
くすんで薄汚れたそのガラスから中を覗くと、僅かに廃材の材木等がいくつか置いてあるのが確認出来るだけで、店で
売っていたような物があるようには見えない。
ダンボール箱を置けるくらいのスペースがガランとしているのを見ると、もう既に持ち出して別の所へ運んでしまった
とも考えられるし、むしろその可能性の方が高い。
「ここにはなんにもねーな・・・」
「そうですの」
その時、枇杷が声を上げた。
「あそこに誰かいます」
枇杷が指差したのは、さっき通って来た鳥居の前から続く道。
その途中の道端にある消火栓と消火ホースの格納箱に、身を隠すようにしてこちらを覗き込んでいる影が。
その影は、こちらの視線に気が付くと、瞬く間にスッと姿を消した。
よく分からなかったが、小学生くらいの少年のようにも見えた。
不審に思っていると、枇杷がいつの間にかスイカズラの姿に戻っていて、物凄いスピードでその少年らしき影を追って
走って行った。
少年のような影は、明らかにこちらの様子を窺っていたのだが、考えてみればこの界隈は、驚く程人影がない。
鳥居から廃小屋までは、ほぼ直線で200m程あるが、その間に人家は一軒。
他に小屋から麓の方へ下る道の脇に数軒の民家があるものの、それらは全て雨戸が閉まっているか、窓を外から木の板
で打ち付けてあったり、玄関前に雑草が生えたりしていて、空き家になっているのはいちいち確かめる必要もない。
この殺風景な人気のなさが、山の怪しげな雰囲気と相俟って、より一層不気味さを醸し出している。
これ以上、この小屋の前にいても仕方がないので、鳥居の方へ戻ると枇杷がいた。
「申し訳ありません、見失ってしまいました」
「構いませんわ。 わたくし達が追っているのは、あんな子供ではありませんもの。
それより早く通草を起こしなさい。 行きますわよ」
枇杷に起こされて目を覚ました通草は、事情が呑み込めないのか、始め辺りをキョロキョロしていた。
「あれ? 澪菜さま、なんでいるの?」
「何を言っているの、通草。 お仕事ですわよ」
言われてようやく思い出した。
そして曄に目が留まる。
「あ、そうか・・・・。 で、なんで弱ちんがいるの?」
「いちゃあ悪いの!? このドブネズミ!」
「やっぱこいつ嫌い!」
「フン! よくもこんな不気味な所で居眠りなんかしてられるわ、やっぱりドブネズミよ」
「ドブネズミじゃないもん!」
「2人共、その辺にしなさい。 行きますわよ」
「はぁーい。 ついといで、水玉バンツ」
「へ、変な呼び方しないで!(汗)」
「だって、水玉パンツ穿いてたじゃん。 やーいやーい、水玉パーンツーッ!」
「ぜ・・、絶対殺す!(赤)」
(き、聞き捨てならんぞ! 今の言葉・・・、水玉・・・、お姉さんの水玉・・・・・(妄想))
一行は、澪菜を先頭に、鳥居を潜って参道を上へ登り始めた。
☆
周り一面を木々で囲まれた、鳥の囀りしか聞こえない、静かで、穏やかな空間。
一見長閑だが、曇天とこの時期特有の高い湿度のせいで快適とは言い難い。
参道の石段を歩いて暫くすると、山の上の方から1人の老人が下りて来るのが見えた。
やっと第一村人発見だ。
神社へお参りにでも行ってきたのだろうか。
白髪と無精髭で腰の曲がった小柄なその老人は、すれ違い際に軽く頭を下げて微笑んだだけで、何の言葉も発せぬまま
ゆっくりと下へ向かって歩いて行った。
普通の老人のはずが、こんな不気味な感じのする山で出会うと、それだけでなんだか怪しげに見えてしまう。
ところが、老人が過ぎ去るのと相前後して、途端に周囲の雰囲気が変わり始めた。
無風の中、木々の葉が色めき立つようにザワザワ揺れる。
はっきりとした妖気は感じないのに、この不安感は何だ・・・。
いつしか、周囲の森の中から霧が立ち籠め始めていた。
しかも、それは見る見るうちに広がって、どんどん白く霞みがかって視界が狭められていく。
何でまた、急に霧が出てくるのか・・・。
これは何かの予兆なのか。
もしかしたら、ヤバくなるかも知れない・・・。
漠然とした不安に駆り立てられた明月は、前を行く曄を呼び止めた。
「曄ちゃん、戻った方がいいかもよ」
振り返った曄は、かなり不機嫌そうに怒ったような目つきで明月を睨んだ。
「なんで?」
「霧が出てきた、なんかヤバそうな気がする」
「あたしを除け者にしようってんの?」
「いや、そうじゃないんだが・・・」
「だったら放っといて!」 プイッ
(うわ、怒ってるよ・・・、俺なんかしたか?)
何を曄はそんなに怒っているのか、明月にはさっぱり分からない。
分からないのも当然なのだ。
彼女は、女子寮で何の役にも立てなかった自分自身に憤慨していたのだから。
それだけに、今度こそは手柄を立ててみんなを見返してやる、と思っていたところへ明月が変な事を言うものだから、
余計に腹が立ってしまった。
「あたしだって・・・、やる時はやるんだから!」
そこへ澪菜が横槍を入れる。
「無理する事はなくてよ、曄。 どうせダメダメなんだから、大人しく待ってなさい」
「うるさい! 金髪デコ!」
澪菜は言うだけ言うと、曄の反応も気にせず前を向いて歩き出した。
その間にも、霧はどんどんその濃さを増し、その澪菜の姿をも掻き消してしまう程になっていた。
「澪菜さん、1人でそんなに先行ったらまずいって」
「大丈夫ですわ、わたくしには枇杷と通草が付いています。
人の上に立つ者とは、常に他の誰よりも真っ先に泥を被る者の事を言うのですわ」
(なに言ってんだこの人。 泥を被れば偉くなれんのか)
澪菜もまた、明月同様この霧の異常さには気が付いていた。
表面上は平然としているが、この事態を憂慮しているのは言うまでもない。
「枇杷、通草、周りの様子を探りなさい」
「かしこまりました」
「はぁーい」
霧は、とうとう3人を別々に隔離してしまった。
視界は2、3mにも満たない。
自分の足元すらも霞んで見える。
まるで、真っ白い壁に上下左右全てを閉ざされてしまったかのようである。
澪菜は、呪符を手に周囲を警戒していた。
明らかに不自然なこの霧は、彼女の視界を遮っているばかりか、聴覚、嗅覚といった感覚器官を麻痺同然に無効化し、
更に、最も重要な妖気の感知能力までをも遮断してしまっていた。
何も見えない、聞こえない、臭わない・・・、何も感じない。
見えない重圧に押し潰されそうになり、自然と呼吸が荒くなる。
修行を積んだ澪菜でさえ、強いストレスを覚えるくらいなのだから、普通の人ならこの状況には耐えられないだろう。
すぐにでも、この場から逃れたい恐怖に駆られるはずだ。
急に、背後に人の気配を感じ、ハッとして振り返ると・・・、そこに明月がいた。
「明月・・・」
明月は、いつになく真率な顔で澪菜の顔をじっと見つめている。
「澪菜さん・・・」
「どうかしましたの? 明月」
なんと、いきなりガバッと彼女に抱き付いた。
「好きだ!」
「あっ・・・、明月・・・」
澪菜は舞い上がった。
突然の思いがけない明月の抱擁に、驚くと同時に、心臓が飛び出しそうになる程に興奮した。
「い、いけませんわ・・、こんな時に・・・(汗)」
一応、冷静さを保とうと努めてはみるものの、昂揚する激しい動悸を抑える事が出来ない。
「大丈夫、今なら誰もいない」
「で、でも、今は・・・(汗)」
「曄ちゃんにも分からない」
明月は、更に強く澪菜を抱き締めた。 ギュウッ
まだ心の準備さえ出来ていないというのに・・・。
一度は振り解こうとしたその腕の力強さに、彼女は拒絶する気力を失った。
ああ、なんて強い力・・・、こんなにも明月の力が強かったなんて・・・、男ですわ・・・。
やっぱり、明月はわたくしの事が好きだったんですわ。
曄の手前、その想いを心に仕舞って、遠慮していただけだったんですのね。
気持ちが昂ぶるのと相反して、体から力が抜けていく。
頭がフラフラする。
逆上せ上がった。
もう自力では立っていられない。
彼女は、なよなよと明月の胸に凭れ、腕の中にその身を沈めた。
全ての事が頭の中から吹き飛んでしまった・・・、何もかも。
明月にリードされるように、その場に横になった澪菜。
目を閉じると、口唇に熱いものが・・・。
接吻・・・、わたくしの、ファーストキスですわ・・・。
ウェストのベルトが解かれ、ブラウスのボタンが外される。
期待と不安、興奮と緊張で、心臓が猛り狂う。
ああ、とうとう、この時がやって来たのね・・・・。
その頃、曄はただ1人、真っ白い世界の中で孤軍奮闘していた。
周囲から完全に隔絶された、この狭い空間から抜け出そうと必死に足掻き藻掻いていた。
だが、どんなに竹光を振り回しても、文字通りただ闇雲に暴れているに過ぎなかった。
まるで手応えがない。
払えども払えども、霧は消えるどころか益々その濃度を濃くしていくかに思えてしまう。
見間違いだとは分かっているのに・・・。
ホワイトアウト。
五感を奪われた上、武器も効果がないとなれば、もはやこれ以上何をすれば良いのか。
一体どうすれば・・・(汗)。
こんな所で手間取っているようでは、手柄を立てる事など夢のまた夢だ。
自分の力の無さが、もどかしく歯痒く、情けなくて悔しい。
焦りだけが募る。
次第に、呼吸が苦しくなるような気がした。
閉所に閉じ込められた圧迫感がそう感じさせるだけかも知れないが、この孤立感、疎外感は恐怖以外の何者でもない。
氷塊か雪渓の深いクレバスの奥底へ、突き落とされてしまったかのような感覚。
温感はないのに、凍て付くように寒い。
もう、誰の手も届かない。
感じるもの、胸に去来するものは・・・、絶望。
手足がガタガタと震え出していた。
怖くなんかない・・・、恐怖なんか、感じない・・・。
意識が遠退いていく・・・。
☆
明月は・・・、1人だった。
1人で霧の中にいた。
彼は、冷静にこの状況を分析しようと試みていた。
この霧が自然のものではない事は明白だ。
では誰が?
自分達が追っている妖怪の仕業なのか。
それにしては、妖気がない。
妖気はないが、異様な気配だけはじわじわ感じる。
これはなんなんだ。
様々な気配が渾然一体となってフワフワ漂っているような、その中にドクダミの葉の臭いとか、カブトムシの虫籠の中
みたいな臭いが微かに混ざっているような・・・。
一種のカモフラージュなのか。
神経を研ぎ澄ました。
そして遂に、はっきりとした妖気が感じ取れ始めた。
妖気はどこから・・・。
彼がそれを探ると・・・、近い、かなり近くだ。
それもそのはず、妖気の発生源は、彼が商店街のあの店で失敬してきた、ポケットの中の小さなぬいぐるみだった。
なんでこいつから・・・?
こいつは、女子寮で生徒達を襲っていたあのぬいぐるみと同じように、妖気で操る事が出来る物なのか。
とすれば、妖怪は近くにいる!
しかし、この霧の状況では妖怪を探すのは不可能だ。
さて、どうしたものか。
ぬいぐるみを手に取って、苛立ち紛れに少し気を送ってやると、妖気はすぐに消えてしまった。
曄と澪菜は大丈夫だろうか。
変な事になってなければいいが・・・。
その時、どこからともなく低い不気味な声が!
「よう、久しいのう、八百神よ」
だ、誰だ!?
「おや、忘れたか、詮無い事よのう」
一体どこから・・・、って、ぬいぐるみ?
声の主はこのリスか!?
「・・リスが、しゃべった・・・(汗)」
「これはリスではないぞ、八百神よ。 これはモモンガだ」
「モモンガ? てか、お前誰だ。 なんで俺を知ってる」
「ワシだ、覚えとらんのか」
この声、この妖気、覚えがある・・・。
「お前・・・、確か、智さんとこに来た、あん時の黒い影か!」
「ようやく思い出したか。
お主が妖気を祓った故、ワシが入り込む器が出来た。 暫く借りるぞ」
モモンガは自ら動き出すと、明月の手を離れ、地面の上にピョコンと降り立った。
「なんとも・・、動き辛い依代だのう・・・」
(勝手に入っといて、文句言ってんじゃねー)
「お前、どっから入って来たんだ? この霧の中・・・」
「ワシの実体は有って無きが如き物。 こんな霧如き、入り込むなど造作も無い事よ」
「確かお前、山へ行くって言ってたけど・・・、ここがその山か。 もっと遠くへ行っちまったと思ってたのに」
「いいや、ここは暫くの間立ち寄っていたに過ぎぬ。
どうやら、ワシの安住の地と呼ぶべき所では無さそうだ。
折を見て余所へ行くつもりだったが、お主が来たのでな。 挨拶でもと思ったまでよ」
「挨拶なんかいらねーよ、とっととどっか行け」
「そう邪険にする事も無かろう。 お主に良い事を教えてやろうと思って来たのだ」
「いい事?」
「主等は、物の怪を追ってやって来たのであろう。 であれば、悪い事は言わん、即座に立ち去るが良い」
「なんだと?」
「主等の追っている物の怪は、この山の主だ」
「主?」
「然様、この山に集う妖共を統べる主、人は貂と呼ぶものだ。 主等の敵う相手では無いわ」
この山に、妖怪のような怪しい物の怪が多数いる事は薄々感付いていた。
麓まで殆ど人が住んでいないのもそのせいだろうし、何よりここへ来る途中の付近一帯に、イヌやネコ等の動物の姿を
全く見つけられなかったのが気になっていた。
犬猫はまだしも、人間までもが妖怪の餌食になってしまったというのだろうか・・・。
「まあ、主と言っても、統率しとるという訳では無いがな。
お主等人間は、十把一絡げに妖怪とそう呼ぶが、それらは皆、仲間ではないし、敵でもなければ隣人でもない。
名も知らねば、素性も知らぬ。
誰にも管理されぬし、誰の手も借りぬ。
全てが自然の成り行きのままに生きておる。
利害が伴わなければ、互いに干渉する事も無いのだ。
それでも、奴はこの付近の山では最強の存在だ。
楯突く者などおらんだろう」
「貂、ってそんなに強いのか?」
「・・・、お主、ここへ来る途中、人と会うておろう。
子供と爺だ。
あれは、何れも奴が化けた姿だったのだが、主等は誰1人としてそれを見抜けなんだ」
あれが同じ妖怪?
子供は遠過ぎて分からなかったが、爺さんは全くもって普通の人間だった。
そこまで完璧に化ける程の、高等妖術の使い手なのか・・・。
「分かったか。 お主等など、束になっても到底及ばぬわ。 赤子の手を捻るより造作も無い事だろうて」
「この霧も、奴の仕業なのか?」
「否、これは違う。 ここには様々な物の怪がおるからの。 恐らく、奴に命令されたか、唆されたのであろう。
何れにせよ、このままではお主等、奴の餌食になるのは時間の問題だ。
他の娘達は如何様になっておるかの」
そうだ、曄と澪菜が気になる。
「早くせんと、喰われてしまうの」
「うるせー、分かってる。 この霧が邪魔なだけだ」
「ならばこの霧、ワシが消し去ってやろう」
「出来るのか?」
「無論だ。 但し、一つ約束をしてもらう」
「約束? 偉そうだな」
「ワシに、あの娘をくれ」
「娘? どっちの」
「あの時、お主と一緒にいた娘の方だ。 もう1人はいかん、あれは陰陽の術を使うと見た」
「陰陽師は苦手か、だが曄ちゃんだって、あれでも殄魔師だぞ」
「知った事か。 ワシはあの娘が気に入ったのだ」
「まだそんな事言ってんのか、喰う気か?」
「心配するな、ワシは人は喰わん、気を吸って生きておる」
「誰が許すかよ、殺すぞてめぇ」
明月は、ぬいぐるみをギュッと握った。
「ぐ、ぐぇ・・、く、苦し・・・(汗)」
「さっさと霧を払え、そしてさっさと消えろ」
「わ、分かった・・、分かったから放せ」
「ふん、折角、義理立てて声を掛けてやったと言うに、これなら黙ってあの娘だけを奪っておけば良かったわ。
そもそも、自分でも出来る事をワシにやらせようとは、なんと虫のいい奴だ・・・」
「なにブツブツ言ってんだ、てめぇ」
「こんな霧如き、お主の力でも払えると言ったのだ」
「なに?」
「お主はこの霧に触れる事が出来るか? 出来んだろう。
この霧はお主を避けておる。 お主が手を出せば、霧はすんなり引き下がるはずだ。
もっとも、これだけ広範囲の霧を追い払うのは、骨が折れるだろうがの」
言われて腕を伸ばして霧を掴もうとすると、その部分だけ霧が後退して晴れる。
明月を避けているというのは本当のようだ。
しかし、だからと言って、全ての霧を払うのに一体どれだけの時間と体力が必要なのか、考えただけでゾッとする。
「俺の事はいいんだよ、さっさとやれ!」
「やれやれ、世話の焼ける・・・」
と言うと、ぬいぐるみの背中から黒い影がスーッと立ち昇ったと思いきや、モクモクと広がっていく。
同時に、白い霧がそれを避けるようにじわじわ退けていく。
霧が晴れていくに従って、ようやく周りの景色が見え始めると、数メートル先の参道に横たわる曄の姿が目に入った。
こんなに近くに曄がいたなんて。
その存在に全く気が付かない程、白い霧は濃く、厚く垂れ籠めて、全ての感覚を奪い去っていた。
「曄ちゃん!」
急いで駆け寄る。
「心配は要らん、気を失っとるだけだ。 まあ、もう少し遅かったら、どうなっとったか分からんがの」
ぬいぐるみが、曄の露わになった太股を撫でながら言った。
「て、てめぇ、また入りやがったな!」
「くれ、この娘くれ!」
「うるせー!、どっか行け!、具象気体!」
「嫌じゃ、この娘をくれるまで、ワシゃお主から離れんぞ」
「勝手な事言ってんじゃねーぞ、リスの分際で!」
「リスではないと言うとろうが! 何なら、直にこの娘に取り憑いてやっても良いのだぞ」
「やってみろ、速攻で息の根を止めてやる」
「お主が言うと、冗談に聞こえぬわ」
それにしても、こういう時の曄は、いつもいつも決まってパンツ丸出しなのな。
確かに、水玉だよ・・・ピンクの。
「いやぁ、しかしええ尻しとるのぉ。 益々気に入った」 なでなで
「てめぇ、触ってんじゃねー!」
「この娘はなんだぁ、お主のアレか、ナニか?」
「まあ、そんなとこだ」
(この際だ、その方が手っ取り早い いちいち説明すんのがめんどくせー)
「具合は良いのか?、どうなんだ?」
「アホな事聞くな!
てめぇは曄ちゃんに恨まれてっからな、目を覚ましたらその場で真っ二つだぞ」
そう言うなり、明月は曄の肩を揺すって起こしにかかった。
「曄ちゃん、起きろ。 おーい」
「こ、こら、止めれ! もちっと触らせろ」
「とっとと失せろ! てめぇに構ってるヒマはねーんだよ。 おい、起きろツンデレ!」
曄が目を覚ました。
「う、うん・・・。 あれ? 明月」
「やっと起きたか」
彼女は、周りの様子を確かめようと周囲を見回して、霧が幾分晴れているのに気付いて安堵するのと前後して、自分の
スカートが思いっきりめくれ上がってパンツがまる見えになっている事を知ると、速攻でスカートを押さえて隠し、顔
を赤らめながら明月を睨んだ。
「見たわね!(汗)」
「そりゃあ、あんだけあからさまだとねぇ、見る気がなくってもても見ちゃうって」
「スケベ! 大っ嫌い!」
曄は思った。
あたしがこんなに恥ずかしい姿を曝しているのを、何もせずに放っといたなんて、なんて薄情な男だろう。
見る暇があるのなら、乱れたスカートを直すぐらいの気遣いも出来ないのか。
それをずっと、ジロジロ見られていたのかと思うと、恥ずかしくて堪らなくなる。
ただし、恥ずかしかったのは、それだけが理由ではなかった。
明月に戻れと言われた時、あれほど力強く啖呵を切ってしまった手前、何も出来ずにただ気を失って倒れていただけ
だったとは、正直バツが悪くて居心地が悪かったのだ。
そんな中、足元というか、お尻の近くに、一つの小さなぬいぐるみが転げ落ちているのが目に留まった。
「あら、ぬいぐるみ。 なんでここに?」
慌てて明月が拾いあげる。
「これは・・、商店街のあの店の中で1コだけ見つけたんだよ。 貰ってきた」
(ヤロー、咄嗟に隠れやがったな・・・)
「それ、ドロボーだよ」
「いいんじゃね、どうせ捨てられんだし」
「知らないわよ、あたし」
そして、更に霧が消えていくと、その先には澪菜が・・・、石畳の上でなにやら1人で身悶えするようにゴロゴロして
いるのが見えてきた。
その表情が、やたらと楽しげで、嬉しそうにニヤけているのはなぜなんだ。
しかもその格好が、かなりヤバい事になっている!
出すとこ全部出してんじゃん!
「澪菜!」
その、目の遣り場に困るぐらいの度を超えた姿を見た途端、曄はビックリして側へ走り寄って、すぐに澪菜のめくれた
スカートを直し、はだけて露出した豊満な胸を服で隠してやりながら、彼女を叩き起こした。
「澪菜! ちょっと起きなさい!」
「ああん、明月・・、早く・・・(ハァハァ)」
「なにやってんの!、あんた!」 ペシペシ
頬を叩かれて、ようやく澪菜が目覚めた。
「あ・・・、あら、曄・・・、明月は・・・?」
「なにやってんのあんた・・・、パンツまで脱いで・・・」
「な、なにって・・・、子作りですわ(照)」 ポ・・・
「子づ・・・!(赤)」
澪菜の驚天動地の言葉に、曄は血相を変えて振り向いた。
「あ〜きつき! あ、あんたなにやったの!!」
まさか、霧の中で人目のないのをいい事に、自分が気を失っていた隙に、澪菜といけない事をしていたのかっ!
とんでもない変態、筋金入りの鉄筋コンクリートスケベエロガッパだ!
「お、俺が知るか! 俺はなんもしてねーよ!(汗)」
「ウソつけ! じゃなんで澪菜がこんなんなってんのよ! 説明しなさい!」
「だから知らねって!」
澪菜が明月を見つけた。
「あっ、そこにいらしてたのね明月、早く続きを・・」
「なんの続きだよ!」
「もちろん、子作りですわ」
「明月! まだシラを切るつもり!?」
「そんな事するか! 俺はどっかのザブトン運びじゃねーっ!
大体、俺と澪菜さんの間にはあんたがいたじゃねぇか。 どうやったら出来るってんだよ」
「フン、どうだか。 信用出来ないわ!」
「大方、夢でも見てたんだろ」
そこへ、ズボンのポケットから顔を出したぬいぐるみが、低い声で明月の発言を修正した。
「夢では無い、幻覚を見せられとったんだ。 あの霧は、人の心理や欲望を具体化して見せるのだ」
「幻覚だってよ」
そう曄と澪菜に言った後、明月はすぐにぬいぐるみを手に取って、懐で隠すように背中を向けて小声で文句を言う。
「てめぇ、なんなんだよ、出たり入ったりしてんじゃねぇぞ!」
「お主の指図は受けん。 だが今、ワシの正体をあの娘に知られる訳にはいかんでの」
「なら、ここで窒息死しろ」
明月は、モモンガをポケットに押し込んだ。 グニュ〜
幻覚と聞いた曄と澪菜は、ようやく妖怪の仕業なのだと理解した。
「幻覚?」
「・・だったんですの・・・?(汗)」
「そう言うこった。 あの霧は、人の弱い心に付け込む妖怪の仕業だった」
全てが幻覚だった事を知った時の澪菜は、これ以上ないくらいに赤面して下を向き、もじもじしながら頻りに曄を意識
して、チラチラと彼女の顔色を窺っていた。
彼女に罵られてからかわれるのを危惧した。
それは嫌だが、今の状況では返す言葉が見つからない。
こんなにもしおらしく、奇特な澪菜は見た事がない。
普段の姿から想像も出来ないその表情は、彼女の違う一面を見たような気がして、意外と言っては失礼だが、なんだか
可愛かったりする。
しかしながら、曄の方も、澪菜を小バカに出来るような心理的余裕はなかった。
自分は幻覚を見せられた訳ではなかったが、霧の中で耐え難い恐怖を感じていたのが、単なる錯覚に過ぎなかったのか
と思えば、不甲斐なくて格好が悪いし遣る瀬無くなる。
情けない・・・。
あの時、曄の中には様々な感情が交錯して入り交じっていた。
自分の、能力者としての未熟さに対する憤り。
澪菜に秘密を知られた事の落胆。
その澪菜が明月に恋していると堂々と宣言した事への嫉妬と、自分の気持ちが整理出来ない焦り。
そして、いつものらりくらりして態度をはっきりさせない明月への苛立ち。
それら全てが、孤独、そして恐怖という形で彼女の精神を支配してしまっていた。
今の彼女が一番恐れているのは、再び明月と出会う前の孤独な自分に引き戻されてしまう事なのかも知れない。
☆
「やれやれ、なんと緊張感のない奴等だ・・・。 今はそれどころでは無かろうが」
またポケットからぬいぐるみが這い出してきた。
「なにがだ・・、ってかてめー、勝手に出てくんな!」
「自分等の都合ばかり考えおって、全く周りが見えておらん」
「だったら、てめぇはいつまでその中に入ってる気なんだよ」 ギュウッ
「と、取るに足りん事だ・・、き、気にするな・・・。 それより分からぬか、もうすぐ来るぞ」
霧が晴れていくに従って、自分達が神社の境内近くまで来ていた事が分かった。
その鳥居の下、狛犬の側の石畳の上に、枇杷と通草が倒れていた。
2人は、いや2匹は、スイカズラ本来の姿に戻っていた。
「枇杷、通草!」
澪菜が気付いて近付こうとしたその時、薄くなった霧の向こうに、一つの人影が浮かび上がってきた。
「やれやれ、誰だ邪魔をするのは」
男の声。
霧が薄らいで行くと、それに遮られていた邪悪で冷たい陰湿な、禍々しいまでの妖気が漂ってきた。
「折角これからという時に、横から茶々を入れられたのでは興が冷めてしまうな」
な、なんだこの男は!
どっから現れた?
長身やせ形、軽くウェーブのかかった長めの髪は黄色に近い薄茶、デニムと白いTシャツ、特段珍しい格好ではない。
この、寒気がする程におぞましい邪気を放っている事以外は。
ここまで邪悪で醜悪な妖気は、度々数々の妖怪と出会ってきた明月でさえ、殆ど覚えがない。
その男の足元近くに枇杷と通草がいた。
人の姿を保っていられなかったのは、この男の放つ邪気が影響したからと思われる。
男は、ニヤニヤ不敵な笑みを浮かべながら言った。
「誰だい、霧を払ったのは」
真っ先に目に入った澪菜を見る。
「お前か」
澪菜もまた、これ程強力な邪気の妖怪と面と向かって、1対1で対峙するのは初めてだった。
正直、結構動揺していたが、それでも冷静を装い、咄嗟に呪符を取り出し身構え気丈に振る舞った。
「か、覚悟なさい(汗)」
「ほお、陰陽師か・・・。 では、この下種はお前の式神か」
そう言って、足元に横たわるスイカズラを蹴飛ばした。 バシッ!
「枇杷! 通草!」
思わず澪菜が一歩踏み出すと、男は急に眉間に皺を寄せ、険しい表情で一喝する。
「くわっ!」
強烈な邪気が一気に放出され、衝撃波となって襲い掛かってくる。 ブワーッ!
まともに浴びて怯んだ澪菜はその場に蹲り、その余波が曄を襲う。
「きゃっ!」
曄にそれが耐えられようはずもなく、彼女は一瞬にしてへたり込んだ。
傍らにいた明月は、一撃で戦闘不能に陥ったその曄の体を支え、ゆっくりその場に寝かせた。
彼女なら、この反応は無理からぬ事としても、これ以上の悪化は避けたい。
小声でぬいぐるみに問い掛ける。
「こ、こいつが貂か・・・(汗)」
「そうだ。 どうする、もう逃げ場は無いぞ」
「てめぇ、気付いてたんならもっと早く教えろよ」
「気付くも何も、彼奴はずっとあそこにおったのだ。 あの社が奴の塒だからな」
「なんか手はねぇのか」
「知らん、お主は喰われて死ね。 娘はワシがいただく」
「手を貸したら、見直してやってもいいぞ」
「勝ち目の無い相手にちょっかいを出すのは愚か者のする事だ。 火傷では済まん」
「意気地無しめ」
「利口者と言うのだ」
男が明月に目を遣った。
「ははぁーん、どうやら貴様のようだな、霧を退けてしまったのは。
よく分からんが、嫌な気を感じる。
女のケツに隠れてこそこそしているなど、随分と不届きな奴だが、普通の人とは違う匂いがする。 何者だ、貴様」
「俺はなんもしてねーぞ」
「霧で覆い隠して、1人ずつ喰ってやろうと思っていたのに、折角の配慮が無駄になってしまったよ。
お前等人間は、そういうのを野蛮だ残酷だと言うから、見れないようにわざわざ気を遣ってやったんだぜ」
「じゃあ、てめぇ飯抜きな」
「楽に死ねると思うなよ、小僧」
その目はまさに猟犬、獰猛な肉食獣そのものだった。
どうしたものか。
(まいったな・・・、ここで逃げたら曄に怒られる・・じゃ済まねーよなぁ・・・)
面倒臭い事になった、とは思ったが、なぜか明月は、死ぬかも知れないという恐怖めいたものは感じなかった。
強敵だが、負ける気はしなかったと言い換えてもいい。
何か対処法はあるはずだし、なるべく簡単に済ませる方法はないものか探していた。
「商店街で、ぬいぐるみを売ってたのはお前か」
「ぬいぐるみ? ああ、あれか・・・。
ふふん、そうさ、あれは私の仕組んだものだ」
やっぱり、そうだった。
それにしては、この妖力差はなんだ。
明月は、女子寮で直接そのぬいぐるみを見た訳ではなかったが、曄と澪菜の話や状態を見る限り、然程強力なものでは
なかったと理解していた。
この男の強い妖力からすれば、それらを操るなど容易い事なのだろう。
「人の、あれくらいの歳の女は愚かでいい。
少し気持ち良くしてやれば、いくらでも好きなだけ精気を吸わせてくれる。
実に魯鈍だ。
可愛いものだよ。
ただ、世間がうるさくてね。
一ヶ所にそう長くは居られないのが煩わしいと言えば煩わしいんだが、場所さえ変えればまた同じ繰り返しが可能に
なるというのも、人の世の面白いところだな。
それも一つの醍醐味ってやつだ」
「趣味の悪い奴だな」
「貴様は人のくせに、実にいい趣味をしているな。 美味そうな女を2人も連れている」
(連れてんじゃねーよ、連れられてんだ)
「2人を喰うには、まずは貴様を片付けねばならんという訳だ」
「そうはさせませんわよ!」
いきなり、澪菜が跪いたまま、男に向かって呪符を投げ飛ばした。 シュパッ!
だが、男はまるで予期していたかのように、いとも簡単にスッと身を躱すと、瞬く間に澪菜のすぐ目の前まで移動する
なり彼女の手を捕まえ、背後から羽交い締めにする。
「あぐっ!(汗)」
「澪菜さん!」
明月が男を引き離そうと手を伸ばすが、男は驚くべきスピードで澪菜を抱えたまま元いた場所まで後退した。
「は、早っ!」
「ハン! 貴様如きに捕まるようなのろまではないわ」
その、目にも留まらぬ素速さは、とても人の手に負えるものではない。
まさに瞬間移動並みだ。
「貴様を殺す前に、まずはこの女から嬲ってやるとするか」
男は、澪菜の胸倉を掴んで無造作に服を引き千切ると、露わになったその豊満な乳を手で弄んだ。
「あっ! いやっ!(汗)」
「ふん、満更でもないのだろ。 人の女とはそういうものだ」
どうする・・・、これでは人質を取られたも同じだ。
しかもあのスピード・・・(汗)。
どうやって、澪菜をあの男から引き離す・・・。
それにしても・・・、澪菜の生乳は・・・凄え・・・。
澪菜が、恥辱に耐えながらもなにやら小声で呪文を唱え始める。
それに気付いた男は、それを止めさせようとして、澪菜の首筋に噛み付こうと牙を剥き出した。
(やばいっ!(汗))
まさしくその瞬間だった。
境内の脇の木立の中から突然、白い物体が物凄い速度で飛び出し、男にドンとぶつかった。
「ぐふぇ!」
変な声を上げて飛ばされる男。
男の手から離れた澪菜も、2、3m程吹き飛ばされて地面に倒れた。 ドサッ!
(な、なんだ! 何が起こった!?)
男は!?
男の姿は、邪気と共に跡形もなく消え失せていた。
そして、そこにいたのは、野ネズミかイタチのような動物を口に咥えた、一匹の真っ白いキツネだった。
(キ、キツネ・・・?)
キツネは、頭から尻尾の先まで純白で、目だけが赤く見え、動物の喉元に牙を突き立てガッチリと食らい付いていた。
その白キツネが、血のような赤い眼で明月を威嚇するように見た時、どこからともなく澄んだ声が聞こえてきた。
「下がりなさい。 これは君等の手に余る」
(なんだ? どっから声が・・・、誰かいるのか・・・
いや、人の気配はねぇ・・・、テレパシー? まさか、キツネ?)
ポケットから顔を出していたぬいぐるみが、途端に恐れ戦き、その身を深く沈めた。
「まずい・・・、白狐だ・・・(汗)」
「白狐!?」
確かに、普通のキツネとは明らかにどこか違う。
大きさは然程変わらないものの、全身輝くばかりの真っ白い毛にその身を包んで悠然と構えたその出立ちは、とにかく
美しいの一言に尽きる。
どこか厳かで、近寄り難い威厳に満ちたオーラを放っているかのような錯覚を覚え、神々しさすら感じさせる。
そのくらい、その存在感と迫力は圧倒的だった。
白狐と言えば、妖怪の中でも群を抜いて強力な妖力を持っているのは、明月も話には聞いている。
もちろん、その目で見るのは初めてだ。
白狐は神通力を持つという・・・、であれば、さっきの声はやはりこの白狐の声だったのか。
殆ど妖気を感じないのは、自ら制御しているからなのだろう。
その白狐が咥えているのが、さっきまで目の前にいた男の真の姿、貂だった。
一体、どこから現れたのか。
「なんで、白狐がこんなとこに・・・」
「ワシに聞くな」
「この近辺では貂が最強だって言ったのはてめぇだろ、嘘だったのか」
「嘘などでは無い。 嘘などでは・・・。
白狐が、こんな所にいるはずは無いのだ・・・」
こんな、超がつく強力な妖怪がいるとは聞いていない。
とてもではないが、勝ち目はないぞ。
ところが、白狐はその眼でこちらを睨むだけで、それ以上は何もする気配がない。
どうやら敵意は持っていない、攻撃する意思はなさそうだ。
明月は、その白狐を警戒して見ながら、ゆっくりと一歩ずつ足を進めて澪菜の所へ近付く。
「澪菜さん、怪我は?」
「いえ・・・、だ、大丈夫ですわ。 それより・・、あれは・・・」
体を起こしながら明月の問い掛けには答えたものの、澪菜の目は白狐に釘付けになっていた。
呆気に取られる、と言うか、完全に見とれている。
彼女もまた、白狐を目にするのは初めてのようだ。
「どうも、白狐らしいな」
「白狐!? ど、どうして白狐が・・・?(汗)」
「俺にも分かんねぇ。 突然現れた」
「あ、あの、口に咥えてるのは・・・」
「あれが、俺達が追ってた妖怪の正体だよ。 奴に食いつかれて、化けの皮が剥がれたってところかな」
「そ、そんな・・・(汗)」
澪菜は、信じられないという顔をして白狐を見つめた。
が、すぐに恐怖の感情を滲ませ始めた。
その表情を見て、彼女が何を思ったか、明月には察しがついた。
「どうやら、俺達を襲う気はないみたいだ」
「そう、ですの・・・」
暫くの間、明月達の方を向いてじっとしていた白狐は、不意に顔の向きを変えたかと思うと、神社の横の方へ向かって
大きく2、3回飛び跳ねた。
そして、立ち止まったその先の木立の中には、いつの間にか1人の、黒ずくめの男が立っていた。
人?
なぜ、あんな所に人が、しかもいつから・・・。
ついさっきまで、人の気配など全くなかったはずなのに。
少し距離があって、更にまだ霧が明け切っていないためよく見えないが、黒いコートかマントらしきものを羽織った
その男は、黒い布のようなもので頭部全体を覆い、目だけが唯一露出している。
忍者?
見ようによっては、そう見えなくもない。
全くもって季節感のないその格好は、見るからに異様で不気味、どう見ても怪しい。
一瞬、幽霊かとも思えた。
だが、気配は紛れもなく人間のものだ。
普通の人とはどこか違うような気もするが、妖気ではないし、妖力も感じない。
第一、妖怪特有の不透明感と言うか、空虚っぽさ、曖昧さ、不明瞭さ、儚さのようなものは微塵も感じない。
もっとも、先程の貂のように、殆ど完全に人に化けてしまう例もあるのだから、そう決めつけてしまうのは危険な事と
言わねばならないが。
男は切れ長の、しかしどこか虚ろな目つきで明月達を見ていた。
無言のまま、身動き一つせずに、ただ立っていた。
それから、徐に踵を返すと、何事もなかったかのように、森の奧へ歩いて姿を消して行ってしまった。
その間、一体どれくらいの時間だったのだろう。
明月にはそれなりに長く感じられたのだが、実際にはほんの数秒足らずの事でしかなかった。
驚いたのは、その時の澪菜の反応だった。
「あ、有り得ませんわ・・・・(汗)」
彼女は、目を大きく見開いて、唖然とした表情で男の背中をその目で追っていた。
「白狐を式にするなんて・・・、信じられませんわ・・・」
男が立ち去る、その足元には白狐が、まるでペットの犬のように大人しく付き従って一緒に歩いていたのだ。
彼女の言葉で気付いたが、白狐というのは、妖怪の中でもかなりの大物の部類に入るのは間違いない。
なにせ、神の使いと崇め奉られる事もあるくらいの存在なのだから、下手に手出しでもしようもんなら、それこそ罰が
当たるというものだ。
それを使役出来る人間という事は、男は相当に腕の立つ術師という事でなければならない。
それも、多数の優秀な陰陽師を見知っているはずの澪菜を以てして、驚きを隠せないくらいの。
あの男は、一体何者なのだろう。
謎は深まるばかりだが、その時は、それ以上何も出来なかった。
しようがなかった。
自分達が追っていた貂は、白狐に捕らえられ連れ去られてしまった。
その場にいる理由もなくなってしまった。
これで、事件解決と言えるのかどうか分からないが、少なくともあの貂が悪さをする事は二度とない、と思いたい。
もう帰ろう。
それでも、澪菜は時々、後ろ髪を引かれるように、白狐と男が消えて行った森の方を何度となく振り返っていた。
帰りの参道を歩きながら、明月はポケットのぬいぐるみを取り出して眺めながら考えた。
これで、曄ちゃんにこのぬいぐるみをプレゼントする事が出来なくなった。
妖怪入りのこんなのをプレゼントしたら、殺される・・・。
(だったら、捨てちまえ)
そう思いながら、ブラブラと振り回す。
「こ、こら! ぞんざいに扱うで無いわ。 お主、ワシを捨てるつもりだな」
「だって要らねえもんよ」
「それでワシと縁が切れるとでも思うたか、空け者め。
ワシは依代は選ばんぞ。
なんなら、あの娘に取り憑いて、お主の好きな事をさせてやっても良いのだぞ。
その方がお主も都合が良かろう」
「やめろ、気持ち悪りい」
変なものを拾ってしまった・・・・。
残り物には福があると言うが・・・、悪い事はするもんじゃねぇな。
第6話 了