第9話 To Live Another Day
DISPELLERS(仮)
09.第9話 To Live Another Day
聖護院家はね、
家系図を辿れば、鎌倉時代まで遡る事が出来るのよ。
初めの頃は、ただの地方の陰陽師だったみたいだけど。
そのせいなのか知らないけど、家だけは無駄に大きかった。
昔の武家屋敷みたいに、古くて、日本庭園があったり、離れがあったり、蔵があったり。
知らないと思うけど、元々、陰陽師っていうのはね、朝廷の、京都の大内裏の中にあった陰陽寮っていう役所に勤める
役人の事を指す言葉だったのよ。
だから、その全員が貴族で、安倍家や賀茂家とかが正式な意味での陰陽師なのよ、平安時代はね。
その後も、その末裔の土御門家や勘解由小路家が本流で、そんな貴族以外はみんな隠れ陰陽師とか法師陰陽師とかって
呼ばれる、違法で非正規な存在だったのよ。
澪菜の桐屋敷家も含めてね。
聖護院家も、初めは地方で隠れ陰陽師として占いや呪詛、お祓いなんかをしてたらしいんだけど、そのうち家族の中に
妖力の強い人が現れるようになると、より危険で実入りのいい妖怪退治を専門に扱うようになり、同じ事をする仲間を
集めて茨屋を結成して、陰陽師とは違う殄魔師として聖護院を名乗るようになったんだって、小さい頃おじいちゃんに
聞いた事があるわ。
妖怪退治、て言うより、妖怪抹殺の為の専門職人の集団なのよ、茨屋は。
世間では、妖怪は死なないって思ってる人がいっぱいいるらしいけど、だったら茨屋は仕事になんないわ。
妖怪は死ぬのよ、殺せるのよ。
そうして、隠れ陰陽師という非合法組織から脱却する事になれば、中央政府から疎まれたり、あらぬ嫌疑をかけられて
身に覚えのない罪で断罪される事もなく、堂々と仕事をする事が出来る。
よくは知らないけど、昔はそんな事がしばしばあったらしいわ。
だから、殄魔師を名乗る集団は、茨屋以外にも幾つかはあるのよ。
今はそんなに多くないけど、昔はいっぱいあったみたい。
だから、あたしも当たり前のように殄魔師になるんだと思ったし、そうなりたいと思った。
物心ついた時から修行して、それが普通だと思ってた。
聖護院家の、茨屋の娘として。
おかげで、みんなあたしを怖がって、家の外で一緒に遊んでくれる人は一人もいなかった。
遊び相手は、いつもおじいちゃんだった。
その、茨屋の本家の称号を剥奪されたのも、おじいちゃんの代なんだけどね・・・。
おじいちゃんは、禁忌を犯してしまった。
☆
おじいちゃんの嘉平治は、殄魔師として決してやってはならない事をしてしまったのよ。
それは、妖怪を使役する事・・・。
自分達の仕事を円滑に進める為に、妖怪の力を利用しようとしたのよ。
妖怪退治で一番難しい事、時間のかかる事は、その対象となるべき妖怪を見つけ出す事なの。
姿を変えたり、妖気を消したり、神出鬼没なのが妖怪だからね。
どんなに妖気の感知力が高い人でも、その力が及ぶ範囲は、せいぜい周囲数百メートルが限度だわ。
それもごく一部の特殊な人、普通の能力者なら5、60mにも満たない。
そのせいもあって、昔は成功率はそんなに高くなかったらしいわ。
見つけられないまま終わるケースもあったみたいだし。
それでも仕事が続けられたのは、昔は依頼が沢山あったから。
同じ妖怪退治を生業とする者としては、陰陽師の方が有名だけど、陰陽師の場合、退治と言っても追い払うか封印する
事が主で、その後、その場所を清める事で再び妖怪が現れないようにする。
だから、例え妖怪の姿がなくても、その場を清めれば、そこには妖怪は現れなくなるのよ。
清めの効果があるうちはね。
それでも退治なのよ、一応は。
対する殄魔師は、妖怪を殲滅するのが目的だから、殺す以外はなにもしない。
現れたら殺す、それで終わり。
問答無用にね。
見つけないと仕事にならないのよ。
ただ、陰陽師は他にも占いや呪詛も行うのに対して、殄魔師は妖怪の始末専門だから、後腐れもない。
スッパリしてるから、その存在を知ってる人には受け入れ易いのかもね。
中でも、茨屋は元祖として一番の人気を誇っていた。
それも今は昔の話。
時代と共に、先細りになっていくのは避けられない事なのかも知れない。
そこで、妖怪を使って妖怪を探させようって考えたのね。
昔に比べて仕事の依頼も減ってたし、採算が取れなくなって廃業を選択する集団もいた中で、確実に、効率よく仕事を
こなしていく為には突破口が必要だと、おじいちゃんは考えた。
それが禁忌と知りつつも、本家として茨屋を守る為に。
でも、殄魔師は陰陽師じゃない。
妖怪を使役する方法も分からない。
元々は陰陽師だったとはいえ、それは何百年も前の話だもの。
殄魔師を名乗るようになってからは、次第に陰陽師の技に頼らず、長い年月を掛けて独自に開発してきた専用の武器を
使うようになってたし、あたしは普通に使ってた。
妖怪を調伏して使役するノウハウなんて、大昔に廃れちゃってたのよ。
殺すのを仕事にした時点で、使役するなんて発想自体が消えたのね。
それに、陰陽師が全て、妖怪を使役したり出来る訳じゃない。
妖怪を使役するって、やっぱり特殊なのよ。
誰にでも出来る事じゃない。
あの澪菜でさえ使役してるのを見ると、そんな風には思えないけど・・・、やっぱり特別なのよ、あの家系は。
案の定、おじいちゃんは失敗した。
挙げ句に、呪いをかけられて、そのせいで精神を病んでしまった。
そして、それが元で、禁忌を犯していた事が茨屋門下の家々に発覚してしまう。
家々の反応は、始めから分かっていた。
我々は陰陽師とは違う。
妖怪とは、仇なすもの、忌むべきもの、滅すべきもの、鏖すべきものであり、それを超えた関係は是としない。
その殺すべき妖怪を飼い馴らす。
それは決して、どんな理由であっても、受け容れられるべきものではない。
なぜなら、それこそが茨屋の依って立つところだからよ。
その根源を、本家自ら蔑ろにするなんて、許されるべき許容範囲を超えている。
門下の家が集まって会議が開かれ、結果、ウチは本家の称号を剥奪された。
初代から、何百年もの間、ずっと守り続け、受け継がれて来た本家の名を。
その後のおじいちゃんは、殆ど寝たきりって言うか、自分の部屋から出る事もなくなって、あたしとも遊んでくれなく
なったし、お父さんとの修行の時だって、立ち会って見てくれる事もなくなった。
時々、部屋から呻き声とか、喚き声みたいなのが聞こえてくるだけだった。
そしてなぜか、お父さんもお母さんも、あたしがおじいちゃんの部屋に近付くのを許してくれなかった。
おじいちゃんが死んだのは、あたしが10歳の時だった。
だから、あたしにとっては、優しいおじいちゃんていう印象しか残ってないの。
すっごく可愛がってくれたし、いろいろ話してくれた・・・。
あたしの名付け親だもの。
お父さんは病気のせいだって言ってたけど、どうやら自殺したみたい。
後を継いで当主になったお父さんの平次郎は、本家の称号を取り戻す為に必死だった。
いずれは、茨屋本家を継ぐはずだったお父さんには、やっぱり特別な思いがあったのね。
今まで以上に仕事に打ち込んで、ずっと日本中を遠征して、妖怪を退治し続けた。
それまでは、地方に遠征するのは年に2、3回だったのに、当主になってからは、家に帰るのは数ヶ月に一度くらい。
長い時は、1年近く帰らない年もあったわ。
あたしが中学生になる頃には、遠征も少なくなって家にいる時間も増えていたけど、その頃から少しずつ、お父さんは
変わって行った。
小さい頃、仕事の時以外は毎日必ず、あたしの修行につき合ってくれて、いろいろ教えてくれたのに、その頃からは、
たまにしか見てくれなくなった。
折角、遠征も減って、これからいっぱい修行してもらえると思ったのに、お父さんは一人で行動する事が多くなった。
一日中、蔵の中でなにかを探してたり、書斎で古文書を読み漁ったり、突然家を出て行ったと思ったら、何日か裏山に
籠もったり・・・。
後で分かった事だけど、お父さんは、おじいちゃんが果たせなかった、妖怪の使役を実現しようとし始めたのよ。
その実効性を門下の家々にも認めさせる事が出来れば、第一人者として本家に返り咲けると考えたのね。
でも、失敗続きで、なかなか思うようにはならなかった。
お父さんの話だと、低級の妖怪に限って言えば、使役するのはそんなに難しい事じゃないんだって。
力でねじ伏せ、殺すぞと脅して言う事を聞かせる。
恐怖で支配するのは、力さえあれば可能なのよ。
それでも、少しでも気を抜けば攻撃され、呪われ、逃げられる。
けど、それを調伏とは言わないし、使役するっていうのは、もっと違う関係の事を言うのよ。
いわゆる、ギブ&テイクの関係。
決して対等ではないけど、使役される妖怪の側にもなんらかのメリットというか、恩恵みたいのがなければ、その関係
は成立しないの。
陰陽師で言う調伏とは、人間の言う事を聞いて、それに従い、役割を果たし、人の役に立つ事は良い事であり、功徳、
価値のある事なのだと妖怪に教え諭す事。
価値観っていうか、道徳観、倫理観を共有する事なのよ。
その対価として、妖物としての尊厳と生活の保証が確約される。
お互いに畏敬と信頼がないと破綻する、契約関係なのよ。
ただし、逆らえば、容赦のない指弾と厳罰が待っている。
封印されるか、消滅させられるか。
口で言うのは簡単だけど、普通の能力者ではまず不可能だわ。
もちろん、お父さんは陰陽師の調伏術なんて知らないし、けど、低級の妖怪を従属させる程度の事では満足しないで、
そのもっと上のレベルの妖怪を使役しようとしてた。
それのせいで、何度も死の危機に直面したって言ってた。
お父さんがそんな事してるなんて、初めは知らなかったわ。
おじいちゃんも、お父さんも、あたしには殺さなければいけないんだって教えてきたのに、その妖怪を飼い馴らそうと
してたなんて、信じられなかった。
それを知ったのは、あの男が現れてからだった・・・。
☆
それは、あたしが中3になって少し経った頃・・・・、去年。
突然、目の前に現れた男・・・、円松坊 岳。
聖護院家の後に、本家の称号を継承した円松坊家。
ウチと共に、茨屋の起ち上げに参画した老舗中の老舗で、お互いに血縁ではないけど、親戚のような間柄だった。
ウチを院家、あっちを坊家って呼んでたのよ。
その当主、岳はまだ24歳だった。
円松坊家では、開闢以来の天才と呼ばれる程、ずば抜けて強い妖力の持ち主で、背の高い優男風に見えるけど、野心家
だった。
全くの初対面ではなかった。
あたしが幼い頃に、何度か家に来た事があったから。
でも、殆ど記憶には残ってない。
その岳とあたしの婚約の話が、あたしの知らない裏で進んでいたの。
最初に話を持ち掛けて来たのは坊家の方だったみたいだけど、なかなか思うように妖怪を使役出来ずに疲れ果てていた
お父さんは、それが一番手っ取り早く本家に返り咲く方法だと思ってしまったのね。
両家に正式な縁戚関係が出来れば、その実現に一歩も二歩も近付く事になる。
もちろん、あたしは拒絶したかった・・・、けど、それが通るような状況じゃなくなってた・・・。
あたしの知らないところで話が進んでて、もう両家の間では殆どまとまってたのよ。
岳が家に来たのは、その最後の詰めの話をする為だった。
以来、岳は度々家に来るようになった。
そして、その度に、あたしは追い詰められていくような気がした。
全てが、始めから結婚ありきで進んでいた。
もう、あたしには、拒否する余地さえ残っていなかった。
物凄く嫌だった。
お父さんは、そんな事する人じゃ、あたしが嫌がると分かっている事をするような人じゃなかったのに、その時はもう
冷静な判断力を失っていたのよ。
円松坊家の方からの申し出だもの、断る理由なんかなかった。
あたしの思い以外は。
でも、もし断ったら、茨屋を破門されお家断絶にも成り兼ねない。
そんな強迫観念に囚われてしまっていたのよ。
あたしは、何度もお母さんに相談しようと思ったけど、結局、最後まで打ち明けられなかった。
お母さんも、お父さんと同じ気持ちなんだって、よく分かってたし。
お母さんは、あたしの横に座って、肩を抱きながら優しく話してくれた。
“無理しなくていいのよ”とか、“何かあったら、すぐ帰ってらっしゃい”とか。
でも、結局、あたしが受け入れなければ院家に未来はない、って言われてるようにしか聞こえなかった。
お母さんにとっても、聖護院家を守る事は重要だったのよ。
名もなき寺の住職の娘に生まれた自分が、殄魔師の元祖である由緒正しき歴史ある聖護院家に嫁いだ事を、誇りにして
たから。
それが、自分の夫の代で消滅するなんて、とても耐えられるような事ではなかったのよ。
けど、あたしは一人っ子だから、あたしが嫁いだら自動的に聖護院の名は途絶えてしまう。
それなのに、話がとんとん拍子に進んだのは、将来あたしが何人か子供を産んだら、そのうちの一人くらいなら、成長
した後に母親性である聖護院を名乗っても構わない、って事でまとまってたみたい。
でも、お父さんとお母さんを恨む気にはなれない。
気持ちの整理はつけられないけど、受け入れるしかなかった。
☆
そして、結納までの日程が決まったその夜、あたしは、岳に犯された。
自分の部屋で寝てる時に、突然、手足を押さえつけられて、無理矢理・・・。
悪夢の始まり。
その時の事は、なにも覚えてない。
泣いていた事以外は。
次の日、お母さんもお父さんも、知ってるはずなのに、一言も、なにも話しかけてくれなかった。
多分、気まずかったんだと思うけど、どこか余所余所しくて、他人行儀だった。
思い過ごしなんだと分かっていても、なんか“もうあなたはウチの子じゃない”って雰囲気にも感じた。
そこで思い知らされた。
あたしは・・・、円松坊家に売られたんだ。
本家の称号を取り戻す為に。
悔しくて、悲しくて・・・、でも、どうにもならなかった。
この気持ちを、どこにぶつけていいのか分からない。
あたしは、自分を呪った。
自分が聖護院家に生まれてなければ、あたしが男に生まれてたら、こんな事にはならなかったのに・・・。
それから、岳は毎日のように家を訪れ、毎日のようにあたしを抱いた。
あたしは、ただ、黙って、耐えて、その時間が過ぎていくのを、ただひたすら待っているだけだった。
自分がどんどん壊されていくのが分かった。
学校へ行く度に、あたしは家に帰るのが嫌になった。
友達なんか一人もいなかったけど、家にいるよりはよっぽどましだと思った。
でも、あたしには、そこしか行く所がない。
受け入れなければならないのは分かっている、頭の中では。
けどね・・・、割り切れないよ、こればっかりは。
ずっと混乱してた。
毎日が、憂鬱だった。
けど、憂鬱なんて甘っちょろかった。
憂鬱の方が、まだましだった。
地獄にくらべれば・・・。
一ヶ月くらい経ったある日、岳はいつものように家に来て、あたしを抱いた。
そして、それが終わった後、突然、どこからか、あたしの部屋に妖怪が現れて、襲ってきた。
赤ら顔のと毛がもじゃもじゃした、鬼みたいな妖怪が2匹。
物凄く強い力で押さえ込まれて・・・、殆ど抵抗出来なかった。
あたしは助けを求めた。
なのに、そこにいた岳は、全然助けてくれなかった。
それどころか、椅子に腰掛けてゆったりしながら、あたしを見てニヤニヤ笑ってた。
そして、言ったのよ。
“それは、俺が飼ってる妖怪だよ”って・・・。
ショックだった。
おじいちゃんが叶えられなかった、そしてお父さんが命を削った妖怪の使役を、岳が実現していたなんて。
しかも、ウチはそのせいで本家の称号を失ったのに、その今の本家の当主が同じ事をしている。
それは、とても信じられないし、許せない事だと思った。
岳がどうやって、妖怪を使役する事を考え、実践したのかは知らない。
そんな事はどうだっていい。
問題は、今ここにこうして、目の前に、岳に使役された妖怪がいるという事。
そして、あたしは、妖怪に犯される。
その時の、岳の言葉が、耳から離れない・・・。
“俺の妻としての、お前の初仕事だ。 そいつらの餌になれ”
氷のような、温度のない言葉。
あたしは何度も、何度も妖怪に犯された。
体中を舐め回され、いたぶられ、欲望の捌け口にされた。
ケダモノ・・・、邪気を纏ったケダモノ。
そうして、あたしは強制的に、橙眼を覚醒させられた。
“ほぉ、見事なオレンジ色だな”
ベッドでぐったりするあたしの顔を見て、岳は言ったの。
“やっぱりな。
もしかしたら、とは思ってたが、お前は生粋の院家の娘だからな。
持ってても不思議はない、いや、持ってるはずだ。
実験てのは、やってみるもんだな”
最初は意味が分からなかった。
自分が橙眼の保持者だって事さえ知らなかったんだもの。
橙眼という言葉自体、初耳だった。
岳に聞かされるまでは。
“その顔じゃ、何も知らんらしいな。
誰にも教えられなかったのか。
フン、まあ、当然か・・・、自分の娘が妖婦の素質を持ってるなんて、言えないわな、普通(笑)”
橙眼は、聖護院家の女にのみしばしば現れる特殊な現象で、その理由は分からない。
茨屋に伝わる江戸時代の古文書には載ってたらしいけど、もっとずっと古くからあったみたい。
ただ、院家の女でも、それはごく稀で、隔世遺伝みたいなものらしいわ。
妖気に反応して発動すると、相手を欲情させる強いフェロモンのようなものを体から発散させるんだとかなんとか。
邪気に過敏に反応するのは、邪気の中には元々催淫効果のあるものが多くて、普通の人でも、よく妖怪に取り憑かれて
淫乱になるケースが多いっていうのも、そういうのが原因になっているからなんだって。
好色な妖怪を誘き寄せるには効果絶大で、だから昔は、山深くに潜む妖怪を誘き出す為に、院家の女をよく供犠として
使った時代があったって。
どうして、岳が、あたしにその素質があるって見抜いたか。
それは、お父さんは一人っ子、おじいちゃんの代は男兄弟ばかり、あたしは、3世代ぶりの院家の女だったのよ。
直系で3世代ぶりなら、まず間違いなく受け継いでいる。
つまり、お父さんもおじいちゃんも知ってた・・・、お母さんも。
いずれは、その素質が覚醒する時が来るって、みんな気付いてたのよ。
知らないのは、あたしだけだった。
後で知った事だけど、お父さんがおじいちゃんに次いで妖怪を使役しようとし続けたのは、あたしの為に、橙眼が覚醒
しない様に、免疫を付けるっていうか、覚醒を止める方法を見つけようとする意味もあったんだって。
でも、結局、なにも叶えられないまま、あたしの橙眼だけが覚醒してしまった。
それからの毎日は、まさに地獄みたいだった。
岳に抱かれ、妖怪に犯され、辱められる。
この繰り返し。
もう、誰も助けてはくれない。
いたぶられるだけ。
“妖怪ってのは、単純でな。
思い通りに言う事を聞かせるのは造作もない事さ。
ただ、単純なればこそ、より直接的な見返りがないと、なかなか素直に従わない。
お前は橙眼だ、奴等のいい餌になる。
それに、思った以上にいいカラダしてるしな、ガキのくせに。
たっぷり教えてやるから、せいぜい楽しませてやれ(笑)”
あたしは、岳が妖怪を使役する為の、供物でしかなかったのよ。
その為に、調教され、体に覚え込まされていった。
あたしは、自分がなんなのか分からなくなった。
あたしの体は岳の所有物、おもちゃ、奴隷、ただ快楽の為の性欲を満たす器にされた。
底無し沼のようだった。
藻掻けば藻掻く程、堕ちて行く。
反抗は許されない。
て言うより、どんな抵抗も無駄だった。
抵抗すればする程、その気力すら失わされるくらいの辱めを受ける。
ただ、岳の使役していた妖怪は、どっちかっていうと低級クラスみたいだったから、その分野蛮ではあっても、妖力は
それ程強くない。
だったら、あたしでも武器を使えば倒せるかも知れないと思った。
でもね、出来なかった。
なぜなら、妖怪があたしの前に現れるのは、あたしの橙眼が発動した後だったから。
一度橙眼が発動してしまうと、自力ではどうにもならなくなる。
次第に体の力が入らなくなって、怠くなって、自分の妖力を発揮する事なんて全然出来なくなってしまうのよ。
消えるまで半日か、長い時は2日くらい。
その後も、後遺症みたいのが2、3日以上続く事もある。
結局、為すがまま。
あたしは、嬲られ、貪られ、慰み者にされるだけ。
汚されるだけ。
ボロボロにされるだけ・・・、心も体も。
耐えられなくなったあたしは、家出を決意した。
それまでにも、何度も家出を考えた事はあったけど、実行出来なかった。
お母さんやお父さんの悲しむ顔だけは、見たくなかったから。
困らせたくなかったし、2人を裏切るような事だけはしたくなかった。
お母さんも、お父さんも、大好きだから。
聞き分けのいい子でいたかった。
でも、もう限界だった。
このまま、こんな日が続いたら、あたしは壊れてしまう。
でも、すぐに岳に見つかってしまった。
岳が妖怪を使ってあたしを探させたの。
妖怪は、あたしの匂いを覚えていたのよ。
家に連れ戻されたあたしは、更なる折檻を受ける事になる。
以来、岳はあたしに妖怪を取り憑かせて、一日中監視させるようになった。
あたしは、全ての逃げる手段を失った。
そしてとうとう、あたしは、橙眼の持つ恐ろしい魔力を、この身を以て知る事になる。
☆
妖怪に取り憑かれたあたしは、殆ど一日中、橙眼の半覚醒状態の中にいた。
夏休み中だったから、学校へ行く事はなかったけど、外出する気力もなかった。
心も体も、疲れ切っていた。
そんなある日の、暑い、気怠い午後・・・。
一人で、部屋で、ウトウトしてたら、お父さんが入ってきて・・・。
あたしは、お父さんに犯された。
まさか、お父さんがそんな事、あたしに覆い被さって・・・、信じられなかった。
嘘だと思った。
夢だと思った。
冗談じゃ、ふざけてるんじゃないか・・・、でも、あの生真面目なお父さんがそんな事・・・。
お父さんは、口数は少ないけど、真面目で、穏やかで優しい人だった。
そのお父さんの目が・・・、お父さんじゃない。
なにかが壊れる音がした。
いつかは知らないけど、お父さんは、あたしと岳の現場を、妖怪との現場を見てしまった・・・。
あたしの橙眼を見てしまったのよ。
そして、橙眼に魅入られた。
当時のお父さんは、妖怪の使役の取り組みに疲れて、精神的にも肉体的にも弱っていたから、その影響をモロに受けて
しまったのよ。
物凄くショックだった。
覗かれてたっていうのもショックだったけど、お父さんが・・・、別の人みたいになった。
大好きなお父さんは、その時はもう、ただの、1人の男でしかなかったのよ。
一生懸命、止めさせようとしたのに・・・。
お父さんは、欲望の赴くままに、あたしの体を貪った。
それが、どれ程辛く悲しい事か・・・、誰にも分からない。
一度、箍が外れてしまうと、もう元には戻れない。
決して越えてはいけない一線を、越えてしまったんだもの。
お父さんは、毎日のように、あたしを求めて来るようになった。
もう、どうしていいか分からない。
お母さんだっているのに・・・。
気が付いた時はもう、裸にされてて、横にお父さんがいて・・・。
あたしは、心の中でお母さんに謝った。
お母さん、ごめんなさい・・・、ごめんなさい。
それからは、お母さんと目を合わせられなくなった。
後ろめたい気持ちでいっぱい。
あたしの橙眼のせいで、こんな事になってしまったんだから。
岳に詰られた
あたしに取り憑いてる妖怪を通じて、全てが筒抜けだった。
“お前、実の親父とやったんだってな。
親父に抱かれてヒーヒー言ってたって?
まったく、橙眼てのは覚醒すると見境無くやりまくるんだな(笑)。
それとも、元から淫乱の素質でもあったのかな?
俺や妖怪だけじゃ満足しないか、この体は。
感想言ってみろよ、近親相姦の。
親父は良かったか?
もっとやって欲しいのか?
だったら、お前の望みを叶えてやるよ”
以降、あたしは、殆ど朝から晩まで、夜中まで、セックス漬けにされた。
そして、最も恐れていた事が。
お父さんに抱かれてる現場を、お母さんに見られてしまった。
部屋の戸の隙間から、こっちを見ているお母さんと、目と目が合ってしまった。
お父さんは何も気付かず、あたしの体に夢中になってた。
声も出なかった・・・、ショックが強過ぎて。
涙しか出なかった。
後の事は、なにも覚えてない。
あの時の、お母さんの、悲しそうな目だけが、忘れられない。
☆
あたしは、お父さんに犯された。
お母さんが、あたしを避けるようになった。
家の中でさえ、あたしは完全に孤立した。
もう、話しかけてくれる人もいなくなった・・・。
お母さんは、礼儀作法には厳しい人だった。
だから、“あたし”じゃなくて“わたし”って言いなさいって、何度も怒られたわ。
それはもう、小さい頃から口酸っぱく、何度も何度も。
でも、どういう訳か、あたしのこの癖は直らなかった。
自分でも分からないけど・・・、多分気に入ってたのね。
そしていつも、事ある毎に、あたしに言い聞かせた。
“あなたは普通の人とは違うけど、だからといって、決して他の人より偉い訳じゃない。
あなたの力は、他の、力を持たない普通の人を守る為に使うものなのよ。
だから、人と自分を比べてはいけない。
人を見下してはいけない。
驕ってはいけない。
礼節を忘れてはいけない。
聖護院家の娘としての誇りを持ちなさい。
そして、何があっても、強くいなさい”
それに、とっても優しかった。
いつも、友達のいないあたしの話し相手になってくれた。
あたしを、庇ってくれた。
抱きしめてくれた。
水族館に連れてってくれた。
泳ぎ方を教えてくれた。
誕生日を、誰よりも、喜んで祝ってくれた。
可愛い服を買ってくれた、着物の着付けを教えてくれた、髪を梳かしてくれた・・・。
いつも、いつも最優先で、あたしの事を考えてくれた。
あたしの苦手な料理を、一生懸命教えてくれた・・・。
そのお母さんが、ある朝、ベッドで、冷たくなっていた・・・。
枕元には、睡眠薬の入った小ビン。
死因は、睡眠薬の過剰摂取だった。
お母さんは、ノイローゼになってた。
あたしのせいで。
そして、自殺した。
あたしのせいで。
その時、初めて知った。
人って、こんなにいっぱい泣けるものなんだなって。
それまでも、毎日毎日、一人で泣いてたのに。
泣いても泣いても、涙が止まらない。
全部、あたしのせいなんだ。
お父さんが言ってくれた。
お母さんは、最後まで、あたしと岳の結婚に反対し続けてたんだって。
家を守る為には仕方のない事だって分かっていても、あたしの為に、他の方法をずっと考えていてくれたって。
そして、あたしを連れて実家に帰ろうと決めた。
お父さんと離婚する事を覚悟で。
その矢先、実家が火事で全焼した。
火事の事と、実家の人達が無事だったのは知ってたけど、それが岳の仕組んだ事だとは知らなかった。
お母さんも苦しんでいたのよ。
あたしを助ける為に、必死に努力してたのよ。
でも、あたしは自分の事だけで頭が一杯だった。
窶れて行くお母さんに、気が付かなかった。
そして、あの現場を目撃される。
実の娘に夫を寝取られる、妻の気持ちが、どんなかなんて、あたしには分からない、けど。
あたしは、お母さんを裏切ってしまった。
ずっと、味方でいたくれたのに。
あたしが、お母さんを殺してしまった。
いっぱい、愛情を注いでくれたのに・・・。
お母さんの遺した書き置きは一行だけ。
−−曄、ごめんなさい−−
笑った顔しか思い出せないのに、もう、お母さんは、笑ってくれない・・・もう二度と。
頭を、撫でてくれない。
どんなに泣いても、呼んでも、叫んでも・・・。
おかあさん・・・、おかあさん・・・。
遺影の前で、お父さんに抱かれた時、あたしは、本気で死のうと思った。
☆
全て夢だ。
なにもかも、全部、夢なんだ。
朝、起きたら、みんな今まで通り、なにも変わらない。
お母さんが、笑顔で朝ごはんを作ってくれる。
きっとそうに違いない。
そして、目を覚ましたあたしは、本当の絶望を知る。
なんの為に生きているのか。
味覚がない。
なにを食べても美味しくない。
それからのあたしは、気が付けば、いつも、死ぬ事ばかり考えていた。
毎日毎日、ただただひたすら、死ぬ事だけを考えていた。
いつ死のう。
どこで死のう。
どうやって死のう。
出来れば、ひと思いに死にたい。
仕事の都合で、岳が家に来る日が少なくなったおかげで、考える時間だけはたくさん出来た。
2学期が始まってたけど、殆ど学校へは行かなくなってた。
たまに学校へ行った時も、屋上のフェンス越しに下を見て、ここから飛び降りたら死ねるかな、って思った。
車の前に飛び出したら、電車の前に飛び込んだら、カッターで手首を切ったら、ロープで首を吊ったら・・・。
いろんな方法はあるけど、あたしは、出来ることならお母さんと同じ方法が良かった。
お母さんの遺した睡眠薬のビンは、いつも、肌身離さず持ち歩いていた。
いつでも、どこでも、すぐに、お母さんの側へ行けるように。
全てを失った。
絶望した。
もう、生きてる意味が分からない。
これ以上生き続けて、なんの意味があるの?
あたしは、死ぬべきなんだ。
生きていてはいけないんだ。
あたしが生きていれば、みんなが不幸になる。
もういやだ。
これ以上、生きていたくない。
死にたいと思った。
殺して欲しいと願った。
あとは、死ぬ場所を決めるだけだった。
でも、死ねなかった。
突然、お母さんの声が、頭の中で聞こえてくるから。
お母さんは言ったの。
“明日を信じなさい。
明日は必ずやって来るのよ。
明日を信じて、今日を生きなさい”
それがいつ、どこで、どんな時に聞いた言葉なのか、思い出せない。
なのに、その言葉だけは、鮮明に、すぐ側で聞いてるみたいに思い出す。
なんで?、どうして?
どんなに考えても、分からない。
けど、あたしが死にたいと思った時、必ず、その言葉が、お母さんが囁くの。
自殺した女の言葉なんて、誰が見たって、これっぽっちも説得力なんかあるはずない。
普通はそう考える。
でも、あたしには、それしか縋るものがなかった。
あたしは、その言葉だけを頼りに、あと一日だけ生きてみようと思った。
朝起きた時、考える。
今日一日だけ、生きてみよう。
なにかが変わるかも知れない。
なにも変わらなかったら、死ぬのはそれからでもいい。
いつでも死ねるから。
そうしているうちに、あたしは、ある事に気が付いた。
生理がない。
いつからだろう・・・、止まってしまっていた。
もう、どうなってもいいや。
どうせ死ぬんだから。
でも、もし、あたしの中に赤ちゃんがいたら・・・。
あたしは、どうしたらいいの?
この歳で、妊娠検査薬のお世話にならなければならないなんて、情けなくて涙が出た。
結果は陰性だったけど、不安は解消されない。
泣きながら、勇気を振り絞ってお父さんに相談したら、お父さんは産婦人科へ連れてってくれた。
その結果は・・・、不妊症だった。
過度の精神的ストレスが原因だって聞いたけど、今更どうにもならない。
子供の産めない体になってしまった。
治療を勧められたけど断った。
どうせ地獄の中にいるんだ。
だったら、いっそこのままの方が、余計な心配しなくていい。
夜、寝る時に考える。
今日も、なにも変わらなかった。
明日になったら死のう。
そして、朝になって、お母さんのあの言葉を思い出す。
今日一日だけ、今日だけ生きてみよう。
なにも変わらない日々が続いた。
でも、少しずつ変わってた。
あたしは、自分でなにが出来るか考え始めるようになっていた。
お母さんが言った、明日を信じて。
そして、家を出る決心をした。
家を出て、一人で暮らそうと。
誰にも迷惑かけたくなかったから。
その為に、家から遠く離れた高校へ入る。
お父さんに相談したら、賛成してくれた。
お母さんが死んで、お父さんも相当落ち込んでた。
それは、あたしの想像以上だったのかも知れない。
お父さんは、あたしの顔を見る度に、お母さんを思い出していたのよ。
あたしが相談した事で、お父さんもなにかを決断した。
お父さんは、家や土地、その他全ての資産を抵当にお金を作って、その殆どをあたし名義の口座に入れて、通帳を
渡してくれた。
“好きに使っていい”って。
複数の口座に別れてて、たぶん総額は2億円以上になると思うけど、詳しくは分からない。
引っ越しと、学校と、生活費にしか使ってないから。
全てお父さん一人で、円松坊家や門下の家にも一切知らせる事なく、全てを清算した。
そして、あたしが家を離れる日、お父さんも家を出た。
誰にも、なにも告げずに。
こうして、聖護院家は事実上消滅したのよ。
これで、あたしと岳の婚約も破談になる。
あたしに取り憑いていた妖怪も、お父さんが退治してくれた。
お父さんは、最後の最後で、あたしを守ってくれたの。
そして、別れる前の晩、一言だけ言ってくれた。
絶対に、絶対に・・・、俺より先に死ぬな 死なないでくれ
☆
中学を卒業して、家を出たあたしは、少しは前向きに生きられると思った。
あの悪夢から、地獄から解放された。
お父さんが解放してくれた。
それでも、過去を振り切る事は出来ない。
せめて、夢の中でだけは、幸せでいたいと願った。
けど・・・、恐ろしい夢、怖い夢、悲しい夢しか見られない。
そこから抜け出す事は、一生、叶わない。
いつ死んでもいいと思っていた。
でも、どうせ死ぬなら、せめて聖護院家の娘として、殄魔師として、というよりも、お父さんとお母さんの子として、
誇りを持って死にたい。
お母さんに・・・、会いたい。
妖怪退治を始めたのも、そうした気持ちからよ。
あたしを殺してくれる妖怪を探してた・・・、のかも知れないわね。
妖怪に殺されたんなら、お父さんも納得してくれるかなって。
ダラダラと生きるくらいなら、その方がさっぱりするでしょ。
もう、この世に未練なんてないんだから。
そんな時、あなたに出会ったのよ。
なんで、あなたを誘ってしまったのか、今でもよく考える。
でも、きっと、嬉しかったのね。
あたしと同じ・・・、能力じゃないの、同じ匂いを感じたから。
前に、梅干しは疲れが取れるから食べろって言ったよね、覚えてる?
あの時、あたし、物凄く嬉しかった。
だって、“明日も生きていいんだよ”って、言ってるように聞こえたから。
いつ死んでもいいって思ってる人間は、体の疲れなんか気にする必要もないのよ。
そんな、ずっと死ぬ事ばかり考えてたあたしに、生きる権利を与えてくれたような気がしたから。
人から、そんな風に言われたのは、生まれて初めてだったかも知れない。
嬉しかった・・・。
でも、あたしは、どこかでケリを付けなきゃいけない。
本当に、この先、生きてもいいのかどうか。
そんな時、鎌鼬の事件を知った。
自分を確かめる、最後の機会にしようと思った。
成功したら生きて行こう、でも失敗したら、その時はそこで死ぬ。
その時、あなたが側にいたくれたら、それだけであたしは満足だった。
あたしがあなたに望んでいたのは、あたしの最期を看取って欲しかった、それだけだったの。
最後になるかも知れない晩ご飯を、独りで食べないで済んだの、凄く嬉しかった。
それなのに、あなたはあたしを守ってくれた・・・。
護って・・・。
こんなあたしを。
ごめんね、明月・・・。
あたしは・・・、汚れてるのよ。
汚れてきって・・、もう元へは戻れない。
真っ黒なのよ。
だから・・・、あなたの気持ちには、答えられないの。
人を好きになる資格なんて、あたしにはないのよ・・・。
けどね、あなたにだけは、決して嘘をついてはいけない、欺いてはいけないって思った。
だから、話そうと決めたの。
全てを知ってもらおうと・・・。
☆
時計は、深夜を回っていた。
途中、何度も何度も、止め処なく溢れる涙に言葉を詰まらせ、震え、咳き込み、そして躊躇いながらも、それでも曄は
最後まで話しきった。
ありのままの全てを、誇張も強調もせず、修辞も装飾もなく、余計なものを付け加えず、自分の言葉で。
そこに、どれだけの勇気と、決心と、覚悟が必要だったのか、明月には想像すら出来ない。
彼は、何度も話を止めようと思った。
見るに見かねた。
耳を覆いたくなった。
これだけの過去を、赤裸々に、直接本人の口から聞くというのは、聞いている方も辛い。
どうしていいのか分からなくなる。
彼は、曄が経験したような、人の尊厳や気持ちを無視して蔑ろにする行為が、最も嫌いだった。
反抗出来ない人を卑下し、いたぶり、弄び、卑しめ、辱め、笑う事は、人を人として扱わない、人間として最低の蛮行
だと思っていた。
そして彼女は、一生消える事のない傷と痛みを、心と体に深く刻み付けられた。
もう、二度と取り戻す事は出来ない。
出来る事なら、その岳という男を、渾身の力を込めて思いっきりぶん殴ってやりたいと、心の底から思った。
目に見える敵がすぐ目の前にいれば、そうやってカッコつけて息巻いて見せるのが主人公の果たすべき役割なのだが、
現実というのはそんなに都合よく出来ていない。
折角、彼女から部屋へ誘われた時、いよいよ、エロエロ夏休み開幕の前哨戦開始かと期待してたのに、それがまさか、
こんな悲劇を聞かされる羽目になろうとは、思いも寄らなかった。
だが、決してそれに文句をつけようとは思わなかったし、つける気にもならなかった。
そんな気は失せていた。
衝撃だった。
いつしか、明月は、曄を強く抱きしめていた。
こんなにも強く、そうしたいと思った事は、今までの人生で、ただの一度としてなかった。
フローリングに座ったまま、ただ、抱きしめた。
曄は、彼の胸に頭をつけて、ワンワン声を上げて泣き出した。
泣き崩れた。
痛々しいくらい、幼子みたいに泣きじゃくった。
それまで堪えていたものを、全て洗い流すように。
以前、父親の詳真が言った、死相という言葉を思い出していた。
その意味が、ようやく分かった。
曄は、常に死を意識しながら生きていた。
彼女の、一見不可思議な行動も、単なるわがままに思えるような行為も、全て、死と生の間で揺れ動く不安定な精神の
中での事だった。
部屋に生活感がないのも、化粧をしないのも、おしゃれに無関心なのも、明日死ぬかも知れない彼女には考える必要も
ないくらいに無用なものだったのだ。
料理をしないのは、母親との思い出が強過ぎるからなのか。
彼女にとっては、普通の人が普通にする事、生きる事そのものが耐え難い苦痛であり、悲劇だったのだ。
まさか、適当に言っただけの梅干しの話を、彼女がそこまで重大な事として受け止めていたなんて。
後に、冷静になった時、改めて思い起こして更に驚かされ、心を痛める事になるのだが、この時、曄は一度も、一言も
“淋しい”という言葉を口にしなかった。
彼女が味わった孤独、孤立、恐怖、虚しさは、想像を絶していたはずなのに。
苦しめられ、追い詰められ、常に自殺を考えていた彼女が、淋しくないはずがないのに・・・。
そして、そこにこそ、彼女の真の強さと、僅かな、微かな、希望が見えて来るのだと。
明月は、何も言わなかった。
言えなかった。
どんな言葉をかけていいのか分からない。
何も、浮かんで来ない。
こんな時、気の利いた台詞の一つもかけてやれない自分が、情けなくなった。
ただ、この時の曄には、どんな言葉をかけても、何の意味も持たないような気がしていた。
ありきたりの優しい言葉など、何の気安めにもならない。
彼女がここまでして、決して人に知られたくないはずの、恥辱と汚辱に塗れた、悲しく切なく辛い過去を、洗いざらい
吐き出したのは、決して、同情して欲しいなどと思ったからではない。
哀れみや慰めの言葉など、彼女にとっては屈辱でしかないだろうと。
そして思った。
彼女は、曄は、本当に強い子なんだと。
自分だったら、まず生きてはいないだろう。
もっと簡単に、死の道を選択していたに違いない。
或いは、全てを他人のせいにして、世の中全てを敵に回して、自暴自棄になって暴れ、せいぜい警察の厄介になるか、
病院かどこかの施設の中で、殻に閉じ籠もってダラダラと生き長らえて行くだけになるかも知れない。
しかし、曄は生き続けた。
尊厳も肉体もズタズタに切り裂かれ、ボロボロに踏み躙れ、蹂躙され、何もかも失っても、誰のせいにするでもなく、
全てを自分の中に押し込め、苦しみ、藻掻き続けながらも、必死で生き続けた。
細い、たった一本の糸の上を綱渡りするような、すぐにでも千切れてしまいそうな不安と恐怖と戦いながら。
彼女が言った“死にたい”とは、“それでも、あたしは生きていたい”という気持ちの裏返しだったんだ。
そんな彼女に安らぎを与えられる言葉など、俺は知らない。
明月は、曄を抱きしめたまま、たった一つだけ、頭に浮かんだ文字を、素直にそのまま言葉にした。
ありがとう
第9話 了