王都へ戻れと言われましたが、こちらの朝食の方がずっと美味しいのでお断りします
「来るな、これ」
そう思ったのは、華やかな夜会の大広間で、婚約者が私の三歩後ろを歩くようになった頃だった。
以前は隣だった。ワルツの余韻が残るなか、肩先が触れそうなくらい近くを歩くのが当たり前だったのに、それがいつの間にか二歩になり、三歩になり、先月の夜会ではついに五歩まで開いた。
距離は正直だ。取り繕った言葉より、ずっと雄弁に真実を語る。
婚約者——侯爵家次男、アルノルド・フェルゼンは、決して悪い人ではない。ただ、残酷なほどに正直で、感情がそのまま視線に出る人だった。
興味のあるものを見る目は春の陽だまりのようにやわらかく、興味を失ったものからは、ひどく自然に、悪気すらなく目を逸らす。これを「素直」と言えば聞こえはいいだろう。
その夜もそうだった。
彼は私の新調した青いドレスには一度も目を留めなかった。その代わり、広間の向こうで扇を口元に当てて笑う、華やかな金髪の伯爵令嬢へ、何度も何度も視線を流していた。
惹かれている気持ちを隠しきれない、そんな目だった。
私は手の中のグラスを見つめた。よく冷えた白ワインは、喉を刺すように酸味が強かった。私はこの酸味が少し苦手だ。
決して、泣きたいわけじゃない。怒りたいわけでもない。ただ、胸の奥に「ああ、そういうことか」という、妙に冷たくて静かな理解だけが落ちてきた。
……三年。
花を選び、手紙を書き、少しずつ積み重ねてきたはずの婚約期間が、この白ワイン一口ほどの重さしかなかったのだと思うと、ほんの少しだけ、指先が芯から冷えていくような寂しさを覚えた。
翌朝、私は父の弟であるリハルト叔父に手紙を書いた。
叔父は王都から馬車で四日ほど離れた、カーデン辺境伯領に暮らしていた。今は領地を義理の息子に譲っていると、昔、父から聞いたことがある。魔物こそ出ないが、冬は深く雪が積もり、王都の貴族たちからは「寒くて地味で、何もない」と不人気な土地。
でも、私はあの人を嫌いではなかった。子どもの頃、一度だけ会ったことがある。食事中はほとんど喋らず、終始無表情で怖かったくせに、私の皿のタルトがなくなると、黙って自分の分を半分よこしてくれた。その不器用な温かさを覚えていたから。髭をジョリジョリされるのは嫌だったけど。
文面は短くした。
『療養のため、しばらくお世話になりたいのです。長くても半年ほどで戻るつもりです』
返事は三日で来た。叔父らしく、これも極端に短い。
『来い』
二文字。でも、すっかり冷え切っていた私には、それで十分すぎるほどだった。
飾り気のなさがありがたかった。
婚約をいったん保留にし、しばらく辺境へ移るつもりだとアルノルドに告げると、彼は一瞬だけ目を見開き、意外なほどあっさりと頷いた。そして、ごく小さく息を吐いた。
間違いなく、安堵の吐息だった。
私は、それを見なかったことにした。
婚約破棄を言い渡されるのを、怯えながら待つくらいなら、先に席を立ったほうがいい。誰かに捨てられるのを待つより、自分で背を向けたほうが、少しだけ傷は浅く済むような気がする。
私は理性的な衝動に従った。
馬車の窓から、華やかで騒がしい王都が遠ざかっていくのを眺めながら、私はもう一度だけ「少し寂しい」と思った。
でも、その小さな痛みが通り過ぎると、不思議なくらい、心には何も残らなかった。
◇
カーデン辺境伯家の屋敷は、王都の貴族の館よりずっと質素で、静かだった。
石造りの分厚い壁に緑の蔦が這い、庭はきちんと整えられているのに、見せびらかすような無駄な装飾がない。必要なものが必要な場所にだけある、質実剛健な美しさだった。
出迎えた叔父は、記憶よりさらに無口になっていた。
「遠路、ご苦労。領地はすでに義理の息子に譲ってある。好きに過ごせ」
それだけ言って踵を返す。髭の剃り残しが見えた。少しだけ抜けてるところもあるのが叔父らしい。
私は小さく笑って、その大きな背中へ深く頭を下げた。
『義理』という言葉が気になったけど、その疑問はすぐに解消された。確か、叔父夫婦は不妊で、子どもを授からなかったと聞く。つまり、そういうことだろう。
案内された部屋は南向きで、日当たりが良かった。窓の向こうには、地平線まで続く畑が見えた。朝の光のなか、規則正しく並んだ麦が仲良く風に揺れていた。
王都の計算し尽くされた庭園とは違う、生きている景色だ。悪くない。心から、そう思えた。
最初の一週間は、拍子抜けするほど穏やかだった。
誰も私に何も求めない。仕事をしろとも、誰かに会えとも言われない。何もしないことの心地よさをここで知った。息をするだけでも、生きていていいって言えるのかもしれない。ただ、少しだけ暇だった。
それから、気づいた。夕食のたびに現れ、ほとんど何も言わず消えていく男がいることに。毎回、ほんの数分だけ。それだけなのに、どうしても目に入った。
その男こそ、この領地を治める若き領主——ヴィルヘルム・カーデン。二十六歳。
背が高く、整った横顔は氷のように冷たく見える。口数は叔父よりさらに少ない。食事の時間だけ姿を見せるが、挨拶以外ほとんど何も言わず、ただ黙々と食事を終えては執務室へ戻っていく。
ただ、印象に残ったのは彼の目だった。
鋭いのに、決して嫌な目ではない。誰かを値踏みしたり、裏を探ったりする王都の貴族たちの目とは違う。ただ静かに観察し、考えている目だ。
そして何かを考えているとき、彼は無意識に親指で反対の手の指の節をゆっくりなぞる癖があった。
私がカップを持ち上げるたび、こぼれそうな髪を払うたび、一瞬だけその静かな視線がこちらへ向き、すぐに仕事へ戻っていく。
害はない。心地が悪いわけじゃない。なら、気にしないことにした。
ある日、徹夜明けらしい文官に、見かねてお茶を淹れたことがあった。
私は昔から、ほんの少しだけ人の気力を整える力を持っている。傷を完全に塞いだり、病を治したりするような大それたものではない。ただ、疲れた人が少しだけ楽になる、その程度の地味でささやかな力だ。
王都では、よく「中途半端だ」と鼻で笑われた。聖女が起こす奇跡と比べれば、取るに足らない、役に立たない力だと。
けれど、そのお茶を飲んだ文官は「ああ……生き返ります」と深く息を吐き、顔色を少し取り戻した。その様子を少し離れた場所で見ていたヴィルヘルムが、書類から目を上げて一言だけ言った。
「助かった」
たった一言。
それだけなのに、彼の低い声は、妙にまっすぐ胸の奥に落ちてきた。中途半端でも届くことはあるんだ、としみじみ思った。
十日目に、料理人が急病で倒れた。
他の業務との掛け持ちによる過労も原因となったらしい。
代わりの人手が隣町から来るまで三日かかると聞いて、執事たちが慌ただしく動いている。ヴィルヘルムは無言で腕を組み、台所の棚を一瞥してから眉間を揉んだ。
私はエプロンを手に取り、立ち上がった。
「料理なら、できます」
その場にいた全員が、一斉にこちらを見た。
「侯爵令嬢が立つ場所ではない。手は汚すな」
ヴィルヘルムが言う。拒絶や嫌味ではなく、ただ事実を述べるような、平坦な口調だった。
「でも、今は誰かが立たないといけませんよね。それに、私、暇を持て余しているんです」
彼と視線がぶつかる。数秒の沈黙のあと、彼は短く息を吐いた。
「……好きにしろ」
その日の夕食は、根野菜のシチューにした。
辺境の野菜は、驚くほど味が濃い。人参も蕪も、切ったそばから土と太陽の匂いがちゃんとする。私は大きな鍋をゆっくりかき混ぜながら、昔、実家の料理人の隣でこっそり教わったことを思い出していた。
——包丁を持つ手は、決して雑にしないこと。
——下ごしらえは、味の半分を決める。
——温かいものは、それだけで人を少しだけ救うことがある。
——隠し味が愛情であるのは本当らしい。
一番最後の秘訣は、当時よくわからなかったけど、私なりに「丁寧な仕事」という意味で捉えた。そもそも「らしい」という言葉から察する通り、本人もよくわかってなさそうなのが、今となってすこし笑えてくる。
ただ、どこかその秘訣が、一番大事な気もした。
私は、根菜の硬さをひとしきり確認して、そっと食卓の上に置いた。
シチューの具材をバランスよく掬い、一口食べたヴィルヘルムが、ぴたりと動きを止めた。
「……なんだ、これ」
険しい顔だったが、悪い意味ではなさそうだった。彼はもう一口食べ、さらに黙り込み、それから三口目でようやく顔を上げた。
「いつもと、違う」
「月桂樹を少し多めに入れました。あと、煮る前に野菜へ塩をひとつまみ振っています。水分を出してからじっくり火を通すと、野菜本来の甘みが出るので」
彼はしばらく皿を見つめ、それから何も言わず、自分の手でたっぷりとおかわりをよそった。
それを見ていた叔父が、また小さく笑った。髭の剃り残しがなくなっていた。愛しき妻に指摘でもされたのだろう。
料理人が戻ってきたあとも、私はときどき朝の台所に立った。
特別な理由はない。ただ、夜明け前の静かな台所が好きだった。窓から薄青い光が差し込み、まだ誰も私に何も期待していない、自由な時間。リズミカルな包丁の音も、湯気の立つ甘い匂いも、王都の偽物だらけの社交よりずっと心地よかった。体が軽い気がする。
私が台所に立つと、料理人を休ませた。
過労が原因で倒れたなら、せめて私がいる間ぐらいは身体を休めてほしいと思った。
ある朝、台所に入ると、なぜかヴィルヘルムがいた。
「何か手伝えるか」
初めて、彼のほうから私に声をかけてきた。
領主様に手伝わせるわけにはいかないと思いながらも、私は少し考えてから、卵をひとつ差し出した。
「割れますか?」
「わからん」
相変わらず正直だった。私は笑いそうになるのを堪えながら、銀のボウルを置いた。
「何せ丸い」
変なことを言い出したので、これまたふふと小さく笑ってしまった。
「丸いのは掴みやすくするためです」
「……そうなのか?」
あまりにも真剣な眼差しに、これまた笑いそうになった。
「冗談ですよ……じゃあ、やってみてください。優しくですよ」
彼は卵を親の仇のように真剣に見つめ、ボウルの縁へ恐る恐る当てた。ぱきり、と小さな音がして、中身がすとんと落ちる。
黄身は綺麗な丸を保ったまま、崩れていなかった。
「上手ですね」
「初めてだが」
「才能があります」
彼は何も言わなかったが、二つ目の卵にも手を伸ばした。私が頼んでもいないのに。
ちなみに二つ目の卵は少しだけ殻が入った。一回目より力が入ってしまったらしい。彼はこちらを見て、何かを訴えかけてるように見えた。
「そういうときもあります」
「……精進する」
翌朝には、殻は入らなくなっていた。
その次の朝、黄身は綺麗に落ちたけれど、今度は白身が少しだけ縁に跳ねていた。
本人はそれが不服だったらしく、三日目には黄身の位置まで妙に揃っていた。
四日目には、私が手を伸ばすより先に、布巾が一番使いやすい場所へ置かれていた。
一度気にしたことを、この人は放っておけないのだと、その頃にはもう薄々わかっていた。
それから、ヴィルヘルムは毎朝のように台所へ来るようになった。
最初は卵を割るだけ。次は不器用な手つきでパンを切り、鍋の火加減を見て、湯を沸かし、ついには私が台所へ行く頃には、何も言わなくてもフライパンが温められているようになった。
指示したことは驚くほど正確にやる。けれど、指示していないことには、最初は決して手を出さなかった。
でも、ある日から少しずつ、何かが変わった。
私が一番使いやすい位置に、そっと木べらが置かれている。冷え込む朝は、私用の白湯が先に用意されている。半熟卵の茹で時間も、最初はほんの少し固かったり、逆に緩すぎたりしたのに、数日もすると、私が一番好きな絶妙なとろとろ加減へ迷いなく落ち着いていった。
それだけじゃない。私は焼きたてのパンでも、端の少し薄いところが好きなのだけれど、いつからか私の皿には、決まってそこが載るようになっていた。
器用なのではなく、たぶんこの人は、見て覚えるのが異様に早いのだ。
しかも一度覚えたことを、驚くほど律儀に外さない。
「なぜ、毎朝来るんですか。領主の仕事があるでしょうに」
ある日、私はたまらず訊いた。
彼は手を止め、少し考えてから答えた。
「……習慣になった」
私は思わず吹き出しそうになり、危うく鍋へ塩を入れすぎるところだった。
「その方が、調子がいい」
淡々と数少ない言葉を付け足す彼の顔はわかりづらくとも、確かに薄く笑っていたように見えた。
その頃にはもう、私は彼という人間を少しずつわかり始めていた。この人は、自分の心の中で動いている感情に名前をつけるのが、ひどく苦手なのだ。そもそも、感情を名付けようとしてないのかもしれない。
それから間もなく、収穫の確認から戻った使用人たちが泥だらけで疲れ切っていたので、私は急いで温かいスープを作った。いつものように、ほんの少しだけ私の「癒し」の力を乗せる。
ひと口飲んだ彼らの表情がふわりと緩み、笑顔が戻るのを見て、ヴィルヘルムが私の隣に立った。
「その力は、王都では重宝されなかったのか」
「ええ。地味ですから。派手な奇跡には見えませんし、聖女にはなれない半端者だと」
「…………見る目がないな」
彼はそう吐き捨ててから、自分の分のスープを飲んだ。
「地味なものほど、毎日の土台だ。欠けると一番困る。なのに大切なものほど、失ってから初めて気づく」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。王都でずっと冷えて固まっていた場所が、ゆっくり溶けていくような感覚だった。
だからこそ、ひどく恐ろしくなった。
料理人もとうに戻っている。私が毎朝台所に立つ理由なんて、本当はもうない。
この心地よい朝が当たり前になったら、もう駄目だと思った。彼の不器用な優しさを、当然のものだと思ってしまったまま、また五歩の距離を置かれたら。
今度こそ、静かには諦められない。
そう思った翌朝、私はいつもの時間に目を覚ました。
まだ暗い。窓の外は、夜明け前の薄青い色だった。
何も考えないまま寝台を下りる。足が床に触れる。扉へ向かって、二歩。
そこで、止まった。
胸の奥が、きしむように痛む。
足が意思を持ったように動かない。
台所へ行く理由は、もうない。
——そんなことはとっくにわかっていた。
しばらく扉を見つめたまま立っていたけれど、私はゆっくり踵を返し、再び寝台へ腰を下ろした。
それだけのことが、胸を引き裂かれるほど難しかった。
その日から、私は朝の台所へ行かなくなった。
ある朝、まだ外が薄暗いうちに目が覚めてしまって、水を飲もうと部屋を出たことがある。
廊下はしんと冷えていて、誰も起きていないはずの時間だった。
戻る途中、台所の戸がほんのわずかに開いているのが見えた。
中を覗くつもりはなかった。ただ、湯の鳴る気配に、足が止まった。
気づけば、視線だけが少し吸い込まれていた。
それで、ふと見えてしまった。
戸口の向こうで、ヴィルヘルムがひとり、まだ弱い火の前に立っていた。
そこにはもう二人分の器が出されていて、片方だけが、まだ空のままだった。
窓の外の薄い朝明かりが、その縁にだけひっそりと触れている。
何かを考えるように視線を落とし、無意識に親指で反対の手の指の節をゆっくりなぞっている。
あの癖だった。
私はすぐに目を逸らしてしまった。
見てはいけない気がしたし、見たところで、きっと困るだけだと思ったから。
でも、漂う香りだけは、私の鼻を容赦なくつついた。
その後も、朝食は毎日きちんと同じ時間に運ばれてきた。しかも妙なことに、どれも私の好みに寸分違わず合っていた。
ある朝、銀の蓋を取った瞬間、視界の端に、あまりにも見慣れた半熟卵があった。
私はその出来を確かめる前に、窓の外へ目をやった。麦畑は今日も同じように風に揺れている。
それをひと呼吸ぶん眺めてから、私はナイフで黄身を崩した。とろりと流れた黄身は、完璧な半熟だった。
スープを一口飲む。少しだけ胡椒が効いていて、旨味が冷えた体に広がっていく。焼き加減にむらのないパンの中で、私の皿にだけ、やはり端の少し薄いところが載っていた。紅茶も、舌に渋みが残る手前で止めた、あのちょうどいい濃さだった。バターの染み具合まで、私の胃へと訴えかけてくる塩梅だ。
料理人が気を利かせて、私の好みを覚えてくれたのだろう。……そう思うことにした。
いや、本当は、薄々気づいていたのかもしれない。あの不器用な手つきが、私のために細かく調整され、火加減を見つめる真剣な横顔がそこにあったことを。
けれど、その「もしかして」という小さな期待こそが、何より恐ろしかった。
もし彼だと思い込んで、ただの勘違いだったら。
銀の蓋に指をかけたまま、私はほんの少しだけ息を止めた。
このまま台所へ行ってしまえたら、どれほど楽だろうと思う。
けれど、もし自惚れて手を伸ばし、彼が困った顔をしたら——拒まれるより先に、期待した自分が恥ずかしさで壊れてしまう気がした。
「もし」が次の「もし」を呼んで、同じ言葉が胸の中を何度も巡った。
スープをさらに一口飲む。
……温かい。思わず、この温かさに身を委ねたくなる。
でも。
この温かさに甘えたあとで、またあの「興味を失った冷たい目」で見放される日が来たら。
きっと今度こそ私は完全に壊れてしまう。
だから、考えないようにした。この穏やかな日々を守るには、それしかなかった。それしか、できなかった。
今温かく感じるのは、舌の上だけでいい。そう自分に言い聞かせた。
◇
四ヶ月目の朝、王都から華美な馬車が到着し、使者がやって来た。
用件は二つ。正式な婚約解消の通知。そしてもう一通は、アルノルドからではなく、王家からの書状だった。
彼からの手紙でなくて、ほっとした。
聖女不在により、国を挙げた祝福の儀が滞っている。代替として、私の力が必要だというのだ。
私はその豪奢な便箋を二度読み返した。
それでも目についたのは、「これは最大の譲歩である」という一文だけだった。
王都にいた頃、その力は取るに足らないと散々笑われた。華やかではなく、奇跡でもない、地味で役立たずなものだと。
それが今になって、自分たちが困ったから戻ってこいと言う。
やっぱり、そうか、と思った。
豪奢な便箋を持つ指先が、じわりと冷えていく。力がうまく入らない。
胸の奥に広がったのは、あの夜の白ワインによく似た、ひどく冷たい喉が痛くなるような酸味だった。酸味はあいかわらず苦手だ。
夕食のあと、私はひとりで自室の窓辺に立った。
カーデンの夜は深く、星が零れ落ちそうなほど多い。王都の明るい夜空では絶対に見えない、小さな星まで見える。真っ暗だからこそ、その輝きが目に残る。
「顔色が悪い」
背後から低い声がして振り向くと、ヴィルヘルムが立っていた。手にはいつものように領地の報告書を持っている。
「……少し、疲れているだけです」
「嘘だな」
あまりに直球で、私は力なく苦笑した。彼は下手なやりとりをしない。
「……王都から、戻ってこいと言われました。儀式のために、私の力が必要だと」
彼は何も言わなかった。表情も変えない。ただ、そのまま部屋から出ていくこともなかった。
しばらく私たちは並んで、窓の外の星空を見ていた。同じ夜を、同じ方向から。
やがて彼が静かに部屋を出ていったあと、私は少しだけ泣いた。王都を出る日の馬車の中と同じように、少しだけ。
でも、今流れる涙は、あの時の白ワインの味はしなかった。もっと温かくて、もっと苦しくて、どうしようもない別の何かだった。
◇
翌日、返答の時刻。私はヴィルヘルムには何も言わず、ひとりで応接室へ向かった。
小さな応接室へ通された使者は、丁寧な言葉遣いの中に、王都らしい自負を滲ませながら条件を並べた。
「婚約は既に解消済みです。ですが、今戻られれば王家との縁は保てます。むしろ、特例として聖女候補として正式に迎えることも可能ですよ」
使者はそこで一度、控えめに咳払いをした。
「……祝福の儀だけではなく、王宮勤めの者たちの疲弊も、近頃は少々看過できぬものとなっておりまして。貴女様がいらした頃は、気づけば皆、少しずつ持ち直していたのだと……今さら申す者もおります」
それはきっと、彼なりには悪い話ではないのだろう。世間一般でも、名誉なことだ。
「王都には、貴女様にふさわしい役目と待遇がございます。この地で静かに暮らすには、あまりにも惜しいお力だ」
使者はそこで一度、言葉を選ぶように目を伏せた。
「辺境で心安らぐ日々を得られたことは、まことに喜ばしいことです。ですが、貴女様のお力は、本来もっと多くの者のために、より正しく用いられるべきものかと」
けれど、その口ぶりは結局何も変わっていなかった。失って困ったから呼び戻す。ただ、それだけだ。そこに本当の意味での「私である必要」は微塵も感じ取れない。
胸の奥に広がったのは、あの夜の白ワインによく似た、嫌な酸っぱさが残るような心地の悪さだった。
私は一度だけ、応接室の窓の外を見た。朝の光のなか、美しく波打つ麦畑が揺れている。
それはただの風景ではない。不器用なあの人が、確かな手で守り、育てている命の景色だ。王都の計算された虚飾の庭にはない、泥臭くて温かい土の匂い。
あの土から育ったものが、毎朝の私を内側から救ってくれていたのだと、すとんと腑に落ちた。茶やスープにそっと力を乗せるように、あの人もまた、朝食に言葉にならない温かさを乗せてくれていたのだ。
——大切なものほど、失ってから初めて気づく。
ふいに蘇った彼の言葉が、私の乾きかけた心を潤すように、一度だけ響いた。
そうやって言える人なのだ。きっと、大切なものを日々の手触りで確かめるように生きているのだろう。
それに気づいてしまっては「あの人が守る世界で生きていきたい」と願ってしまう。誰がこの気持ちを否定できるというのか。私にも、もう無理だ。
私は使者をまっすぐ見て、この四ヶ月で一番の作り笑いを浮かべた。
……喉の奥が、ひゅっと狭くなる。
もしここで手を伸ばして、また見誤っていたら——そんな考えが、ほんの一瞬だけ胸をかすめる。
けれど、窓の外では麦が揺れている。
あの土の匂いも、朝の湯気も、半熟卵のとろりとした黄身も、もう私の中では全部ひとつだった。
私は一度だけ生唾を飲み、小さく頷いた。
もう、迷わない。
「お断りします」
使者の眉がわずかに動く。
「……理由を伺っても? 王家からの要請を退けるのは、決して軽いことではございません。貴女様ほどの方なら、それをよくご存じのはずです」
「いいえ。王都の豪華な朝食より、こちらの朝食の方が、ずっと美味しいので」
一度言い切ってから、私は自分でも驚くほど穏やかな気持ちで息を吸った。
「……少なくとも、私が私のままでいられるのは、こちらです」
信じられないものを見るように、使者が絶句した。比喩か、本気か、あるいは頭がおかしくなったのか、測りかねているらしかった。
「本当にいいのですか……冗談では済みませんよ」
「決めたので」
徐々に使者の双眸が鋭くなる。
取り繕っていた気配の奥から、王都の驕りが覗く。
「……ご自身の価値を、正しくお考えになった方がよろしい。辺境で静養なさるのは結構ですが、穏やかさに慣れすぎて、ご自身の役目まで見失われては困ります」
男がなおも口を開きかけた、そのとき。
勢いよく扉が開いた。
ヴィルヘルムだった。今日は珍しく、手に何も持っていない。書類も、手紙も、帳簿もない。ただ、少しだけ肩で息をしている。
彼は部屋へ入ると、使者を冷ややかに一瞥した。それから私を見て、静かに歩み寄ってきた。
次の瞬間、彼は当然のように私の隣へ立った。
三歩後ろではなく、一歩前でもなく。
守るために庇うのでも、飾るために並べるのでもなく、ただ迷いなく、私のすぐ隣に。肩が触れそうな距離に。
あの夜会で失ったはずのものが、まるで別の形で胸の奥へ戻ってくる。
それだけで、張り詰めていた心が、大きく、大きく揺れた。
「何をしようとしていた」
使者は、ヴィルヘルムの放つ圧倒的な威圧感に何かを察したように慌てて姿勢を正し、「い、いえ……ご、ご再考いただけることを願っております」とだけ言い残し、逃げるように退出していった。
バタン、と扉が閉まる。
静寂が戻った。恐怖のような緊張が背筋から逃げていく。
応接室の窓の外では、何事もなかったように麦が朝の風に揺れている。
私は、すぐ隣に立つ大きな背中を見上げた。横顔を見ようとして——なぜか、それができなかった。
さっきまで王都の使者と対峙していたのに、今はただ、同じ部屋に二人で立っているだけだ。
言葉がない。
言葉が出ない。
言葉を選べない。
でも、逃げたいとも思わなかった。
しばらくして、ヴィルヘルムがゆっくり口を開いた。
「……俺が作った」
「え?」
「朝食だ」
私は瞬きを繰り返した。
「ここ二ヶ月、お前が食べていた朝食は、全部俺が作っていた」
「え……? でも、料理人が……」
「あいつらは六時前には台所に来ない。昼も夜も毎日作ってもらっている。また過労になったら困るので、朝は休ませてる。それに……お前はもう、朝の台所に来なくなったから」
私は呆然としたまま、この二ヶ月の朝を思い返した。完璧な半熟の卵。私の好みに合うよう微調整されたスープ。焼き加減まできちんと揃った、端の少し薄いところが私の皿に回されていたパン。渋みが残る手前で止められた紅茶。
必死に胸の奥へ押し込めていた「もしかして」が、事実として目の前に置かれる。あれを全部、この人が。勘違いなんかじゃ、なかった。
否定のしようがなくなった事実は、嬉しいより先に、息が止まるほどこわかった。
「……どうして」
やっとの思いでそれだけ絞り出すと、彼は短く、自嘲するように息を吐いた。
「卵を割るだけでは、足りないと思った」
「……誰のために?」
誰のために、という言葉が自分の口から出るとは思わなかった。
口にした瞬間、もう後戻りのできない問いを投げてしまったのだとわかった。
それから、沈黙。長い、長い沈黙だった。
でも今度は、少しも怖くなかった。逃げたいとも思わなかった。もう傷つくことに怯えて、心を麻痺させる必要なんて、どこにもなかった。
やがてヴィルヘルムは、ゆっくりとこちらを向いた。鋭い目が、まっすぐ私を捕らえて離さない。
いつもの冷静に分析する目ではなかった。言葉を選ぶのが得意ではないくせに、それでも逃がすまいとするような、不器用で熱い目だった。
「……習慣になった相手が、目の前からいなくなるのは困る」
一度言い切ってから、彼はほんのわずかに眉を寄せた。
「だから——」
まだ、何かが足りないと訴えかけるような目だった。
「……だから?」
「作った」
彼らしい、遠回りで、でもこれ以上ないほどの直球な言葉だった。
けれど、そこで終わりではなかった。
ヴィルヘルムはほんのわずかに視線を逸らし、それでも逃げずに言った。
「……明日も、作りたい」
胸の奥が、どくんと大きく跳ねた。
明日も。
その短い言葉の中に、今日だけではない時間が、そっと差し出されている気がした。
私は気づけば、答えていた。
「私もあなたに、つくってほしいです」
自分で口にしてから、喉の奥が熱くなる。
けれど、それだけでは足りない気がして、私は小さく息を吸った。
「できるなら……一緒に。隣で」
ヴィルヘルムが息を止めたように見えた。
その視線がまっすぐ私に向く。
何かを確かめるように、静かに、けれどはっきりと。
「……その顔」
「え……?」
思わず自分の頬に触れそうになる。
けれど、どういう顔をしているのか、自分ではわからなかった。
ただ、胸の奥に隠していたものが、そのまま表へ零れてしまったような心地がして、急に不安になる。
「い、今私、どんな顔してますか……?」
「見たことない顔をしている」
「……嫌ですか」
声が少しだけ震えた。
ヴィルヘルムは間を置いて、それから低く言った。
「嫌ではない」
それだけだった。
でも、そのたった一言が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちた。
王都で私は、離れていく距離ばかりを数えて悲しんでいた。でも、自分から縮めてくれるこの距離に、数なんて要らないのだと、そのとき初めて知った。
傷つくのを恐れて胸の中にずっと引いていた防衛線が、彼の不器用な熱で、音もなく溶けていった。
台所の明かりが消えるのが、いつもより少しだけ遅かった。
◇
翌朝、五時半。
息を吸って、吐く。冷えた心地がして、空気がおいしい。
久しぶりに薄暗い台所へ足を踏み入れると、ヴィルヘルムはもうそこにいた。シャツの袖をまくり、真剣そのものの顔で卵をボウルへ割り入れている。ぱきり、と小気味よい音がして、黄身はひとつも崩れていない。もちろん殻も入っていない。
私は入口でその背中を見て少しだけ笑ってから、彼の隣へ歩み寄った。
「教えてください」
彼が振り向く。
「何を」
「あなたがこの二ヶ月で覚えたこと、全部」
彼はしばらく私を見つめた。それから、本当にわずかに、氷がほどけるように口元を緩めた。
「時間がかかるぞ」
「半年くらい?」
「もっとだ。この卵が孵って親鳥になるぐらいはかかる」
「え」
「…………冗談だ。つまらなかったか?」
「冗談……ふ……ふふふ。いえ、とても素敵な冗談です」
「……精進する」
冗談を言って精進するだなんて。本当におかしな人だ。私の口元が緩みっぱなしになる。
「それにしても時間がかかる、かぁ……」
「嫌か?」
「まさか」
私はあまりにもこの時間が愛しくて、声がいつもより跳ねていた。
「……私、ずっとここにいます」
彼は返事の代わりに、新しく用意された、私の手によく馴染む小さな包丁を、まな板の横へ置いた。二人分の朝食を作るには、それで十分だった。
「……リディア」
包丁へ伸ばしかけた手が、ほんの少しだけ止まる。
名前を呼ばれただけなのに、胸の奥へ朝の光が差し込んだみたいに、世界がやわらかく明るんだ。
◇
その日の夕食で、叔父が珍しく少しだけ機嫌よくワインを揺らした。
「王都ではその年、祝福の儀が三度も失敗したらしい。上はずいぶん慌てているそうだ」
「そうですか」
私はスプーンでスープをひとくちすくった。湯気が頬にあたる。もう、驚きもしない。
「王都は大変そうだな」
「そうですね。でも、私にはもう関係のない遠い国の話です」
私がそう答えると、ヴィルヘルムは何も言わず、私の皿に一番美味しく煮えた根菜をひとつ多く取り分けた。
叔父がまた、呆れたように小さく笑う。髭はしっかりと伸びていた。
叔父は肉を切り分けながら、何でもないことのように言った。
「お前の手紙を読んだとき、療養なんてものじゃないと思った」
私は答えられずにいる。
すると叔父は、それ以上こちらを見もせずに肩をすくめた。
「だから来いとだけ返した。余計なことを書けば、お前は来なかっただろう」
それを聞いて、私はさらに何も言えなくなった。
白ワインを口に含む。久々の白ワインの酸味は、なぜか不思議と心地よかった。
窓の外には、静かで満天の星が輝くカーデンの夜。明日の朝になれば、また台所に優しい光が差す。
もうあの夜の、白ワインの冷たい酸味を思い出すことは、ほとんどなくなっていた。
私の胸に残るのは、毎朝の焼きたてのパンの匂いと、すぐ隣に立ってくれる不器用な人の、確かなぬくもりだけだった。
王都の人間がもてはやす奇跡より、ずっと静かで、ずっとよく効く。
翌朝もきっと、あの人は何も上手く言えないまま、ちょうどいい半熟卵を作るのだろう。
それが今の私には、たったひとつの祝福だった。
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