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ピンポーン…
弱々しい電子音に顔を上げると、よっこらしょ、と膝に手をついて立ち上がる。
こんなボロアパートのチャイムを鳴らすのなんて、大家さんぐらいしかいない。家賃の入った薄っぺらい茶封筒片手に、何も考えず開けてしまった玄関扉。その先にいたのは予想していた好々爺ではなく、全身黒ずくめの格好にサングラスをかけた、大柄な若い男性だった。雨なのに傘を差さずに来たらしく、ウェーブがかった黒髪の毛先から、がっしりとした肩へポタポタと水滴が垂れている。
「久しぶり」
艶やかな黒のトレンチコートに、よく磨き込まれた黒の革靴。対して頬や首元は透き通るように白く、色素の薄い唇はいかにも温度が低く見える。削ったように聳える鼻筋は人形よりも滑らかで、全体的にスラリとバランスのよい体型なことも相まって、お隣にモデルさんか俳優さんでも引っ越してきたのかと思ったぐらいだ。
けれど彼からの挨拶は「はじめまして」でも「よろしくお願いします」でもなく、「久しぶり」だった。それはつまり、既存の知人がわざわざ私の元へ尋ねて来たということだ。
それはおかしい。私は、私がここに住んでいるということを一切誰にも教えていない。なのに来訪者が来た。そんなの、ありえないことなのだ。
「俺のこと覚えてない?」
「えっ…」
「高校で、同じクラスだったんだけど」
「……もしかして、望月くん?」
望月春人。
定時制高校なんて訳ありばかりのクラスの中では浮いてしまうほどの優等生で、成績は、全日制のコースを含めても常にトップクラス。背も高くて大人びた物言いをする人だったので、なんとなく〝同級生″という言葉の響きの割には距離を感じる存在だった。周りにとっても取っ付きづらかったのか、彼が友達と仲良くつるんでいる姿は見たことがない。
…いや、正確には一度だけある。けどあれは多分、見てはいけないものだった。
とある冬の日。珍しく繁華街に遊びに出た私は街中のイルミネーションについ気を取られ、いつものバスに遅れそうになってしまった。焦る中、たまたま見つけた裏道らしき私道を抜けて、各方面へのバス停の集まるバスプールへ向かっていた時のことだ。
「春人、結局大学どうすんの?」
狭い路地の奥から、タバコの匂いと共に若い男性の声が聞こえて来た。ちらりと目を向けた先には派手な髪色の男性と、もう一人黒髪の男性の二人組。もしかしたら、奥にはもっと人数がいるのかもしれない。見つかって、カツアゲでもされたらどうしよう。
急いでいるのに足が動かなくなって、図らずともその先の会話を立ち聞きしてしまう形になってしまった。
「一応、出ておこうかと思ってる。猶予はあるに越したことないから」
「いや、どうせお前は特別扱いじゃん。卒業したからって、いまさら盃交わして組に入ることもなくね?」
「むしろ、立場的には自由なままの方が動きやすいよ。リスト入りすると、警察からのマーク鬱陶しいし。クレカも銀行口座も作れなきゃ、保険も入れない。生きづらいだろ、普通に」
どうやらただのパリピではなく、本物のヤクザの卵か何からしい。聞けば聞くほど、絶対に関わり合いになりたくない。このまま突っ切るにしても元来た道を引き返すにしても、とにかく私の存在に気付かれませんように。
祈るように摺り足でその場を離れようとした瞬間、運悪く爪先で蹴り上げてしまった小石が跳ねて、近くのブロック屏に当たって小さな物音を立てた。思わず心臓がキュッと縮んだかと思ったら、気付いた時には正面から私を見下ろすようにして、大きな影が立ちはだかっていた。
「あれっ……もしかして、安藤さん?」
「へっ?」
まさかこの状況で自分の名前が呼ばれるなんて思っておらず、間抜けな声と共に顔を上げると、そこには最近やっと見慣れたばかりの綺麗な顔があった。
今年の春に同じクラスになった、望月春人。ほんの短い期間ではあるが、彼が学級委員長で、私が副委員長だったことがある。HRではいつも低く澄んだ声で必要最低限の伝達事項だけを事務的に告げ、世間話や他愛もない雑談は一切無し。まるでロボットだ。けれど多くの人にとって最も印象的であろうことは、素っ気ない内面よりもむしろ、彼の外面的な特徴であろう。
上背があり、細いのにがっしりとした骨格の上の、白く整った顔。その目は常に左側しか見えておらず、右目はいつも医療用の白い眼帯に覆われていた。素顔の全容がわからないこともまた、級友たちがいまいち彼に近寄り難かった理由のひとつかもしれない。
「何してるの、こんなところで」
戸惑いの滲む声に、こちらも少しずつではあるが冷静さを取り戻す。とりあえずは知り合いで助かった。私の知る望月くんは不良どころかクラスで一番の優等生だし、先ほどの会話は何かの聞き間違いかもしれない。
「バスに遅れそうで、裏道を抜けて行こうとしたの」
「ここ暗くて人通りも無いし、急いでるからって、一人で歩くのは危ないと思う」
「そうみたいだね……」
「さっき、何か聞いた?」
突然切り出された本題に、つい馬鹿正直に大きく肩が震えてしまう。望月くんはもちろんそれを見逃すことはなく、形の良い眉をピクリと上げたかと思ったら、驚くほどの素早さで私の左腕を掴んで来た。
「や、やめて……!」
その容赦のない強さに恐怖と焦りが入り混じり、力の限り暴れて彼の腕を振り払う。すると振り上げた私の手の甲が目の前の望月くんの顔に掠り、いつもピタリと彼の顔の六分の一程度を覆い隠している眼帯が外れ、ヒラヒラと花びらのように地面へと舞い落ちてしまった。
「あっ、ご、ごめん!」
謝罪と共に見上げた望月くんは咄嗟には何が起こったのかわからなかったらしく、唖然とした表情のまま私のことを見下ろしている。しかし一瞬ののち弾かれたように大きな手で右目を覆い隠すと、なぜか怯えた様子で、私から二、三歩後退りして距離を取った。
けれど、私は見てしまった。ジリジリと小さな虫が集まる街灯の下でアメシストのような深紫に輝く、今にも吸い込まれそうに神秘的な、望月くんの右目を。
「見てない?」
「え?」
「俺の右目、見てないよね?」
「あ……ごめん、ちょっとだけ見えちゃった……。オッドアイ、って言うのかな。初めて見たけど、すごく綺麗だね」
私としては褒めたつもりだったものの、望月くんは無言のまま、驚愕の表情を浮かべている。そしてそのあと酷く気まずそうに私から目を逸らすと、消え入りそうな声で「ごめん…」と呟き、こちらにくるりと背を向けた。
「殺すつもりなんて、なかったんだけど」




