第1話◇裏切りの薔薇と婚約破棄
「絶っ対に、許しませんわ、ルーカス・オルコット……!」
アメリア・ローズ・マクファーソンはギリギリと薄水色のドレスの膝元、ちょうどレースが重ねられた部分を握り締める。
しわになってしまうと分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
本日、アメリアは婚約者として初めてお相手の令息にお目通りする。
そのために、マクファーソン家で用意できる最高級の装いで彼女は馬車に乗っている。
本日会う相手はゾクラフ公爵家、王家の次の高い地位に君臨している方々なのだ。
平時なら、彼女はこの銀糸で細かい薔薇の刺繍が縫い込まれた見事なドレスの手触りにご機嫌に満足したはずだ。
まだ見ぬ婚約者のことを思いその胸を期待にときめかせて、穏やかに微笑んでいられただろう。
しかし、今回ばかりはそうはいかなかった。
顔をしかめ、少しでも気が晴れたらと窓の外を見る。
が、そこには薄ら寒い荒野が広がるばかり。
王都と比べるとずっと気温も低く、ズンと下半身から底冷えする感覚に思わず自分の二の腕をさする。
「このゾクラフ領の気候だと、薔薇は上手く育たないかもしれないわね……いえ、わたくし、諦めるつもりは決してないのだけれど!でも、これは設備投資が大変そうだわ」
決してささやかな出資とはとても言えない嫁のわがままとも言える希望を、ゾクラフ家の当主と跡取り息子は叶えてくれるものだろうか。
アメリアは目を伏せて、くじけそうな心持ちでカーテンを閉めた。
いくらか乱暴な手つきに年嵩の侍女は少し咎める顔になる。
けれども、あえて何も言わない。
そんな令嬢らしくない態度にならざるを得ない、その理由を侍女も理解してくれている。
「お痛わしい」と言いたげなその視線に、かえってアメリアの胸の痛みは増大した。
つい二週間程前、アメリアは婚約者だったオルコット伯爵家長男のルーカスに裏切られ、一方的に婚約破棄を告げられた。
ルーカスの横には小動物のようなつぶらな瞳の可愛らしい少女がいて、アメリアはこれ見よがしにふたりがベタベタする様を見せつけられた。
しかしそんなことは彼女にとっては些細なことであった。
確かに傷付かないということはなかったが、それよりも更に、もっと悲しくさせられることがあったからだ。
浮気相手の少女の髪に飾られていた薔薇は、1ヶ月前にマクファーソン家から盗まれた、あとは王家の方々へのお披露目を控えるばかりだった新種に間違いなかった。
アメリアにとっては、何よりこのことが一番辛いことだった。
マクファーソン家は代々薔薇を育てることを一番の産業としていて、そのミドルネームに「ローズ」を冠することを王家に認められている、唯一の貴族だ。
婚約者であるのをいいことに、ルーカスは新種の栽培をしているマクファーソン家の中庭の、奥の奥の区画まで入り込んだ。
そして門外不出のはずの苗を盗み出して、あろうことか、自分が新たに作り出した品種だとして早々に国に登録申請した。
さらには浮気相手の髪をその薔薇で飾ってアメリアに見せつけたのだ。
夜会という他の貴族が大勢いる前で、大々的に。
ルーカスは大げさな身振り手振りで「これまでアメリアがいかに自分に対して横暴な口調や態度で接してきたか」を語り、「この傍らの少女に執拗に嫌がらせをした」などと全くの事実無根なことを吹聴した。
早口で捲し立てられるその間も、アメリアはただずっと薔薇の輪郭の緋色だけを見ていた。
薄い黄色のグラデーションの花弁、その輪郭に赤身の強いオレンジ色が鮮やかに映えるその花。
アメリアが自ら手を掛け、庭師たちと水はけや日当たり、追肥や刈り込みのタイミングなどを日々相談しながら作り上げた肝いりの新種だった。
初めて両親から完全に任された、彼女の企画・監修で作られた大切な花。
家名の誇りも彼女自身の努力も庭師たちの尽力も全て踏みにじる、そんなことを平気でする男が自分の婚約者だったことが何より辛かった。
わたくしがどれほど薔薇を愛しているか、ずっと近くで見ていたくせに、知っていたくせに、ルーカスは平気で裏切った……。
マクファーソン家が納得できるはずはなく、オルコット家とは対立状態になり、やがて婚約破棄が決まった。
するとすぐにアメリアには別の縁談が持ち込まれた。
両親は傷心の娘にこれ以上負担を掛けたくないと乗り気ではなかったが、これは王命である、と伝えられると逆らえるはずもない。
アメリア自身も、もうどうでもいいと投げやりな気分だった。
もはやその目で薔薇を見ること自体が今は重かった。
ここでどんなに嫌がったとしても、貴族である限りは、いずれどこかに政略結婚で嫁ぐことになるのだ。
ならば素直に王命に従おう、とアメリアは考えた。
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