六話 果心居士って知ってるかい?
「そういうワケなんで、助けてください先生」
放課後、僕は先生の事務所までやって来ていた。
バイトの日ということもあるが、事態の解決を図るには、彼女の助力なくして不可能だと判断したからだ。
「どういうワケだ。自業自得だろ」
吐き出される紫煙を、自罰として顔で受け止める。
不快極まる感覚だ。だがこれでも、彼女の味わった恐怖に比べれば生ぬるい。
「何度も言ったはずだな?半人前のクセに、一般人と関わるなと。
どうあっても私達は異常と引かれ合う。余計な被害を避けたいなら、初めからすべて拒絶してしまえと」
「……はい」
言い訳のできない叱責に、僕は肩を落として答える。
ため息と共に吐き出される煙。
ソファの上で縮こまる僕を見据え、先生は再び口を開く。
「ま、起きてしまったことは仕方がない。そもそも、お前が関わる以前から被害者は出ていたようだしな。時間の問題だっただろうさ」
「先生……」
「だが。それでお前の浅慮の罪が消えるワケじゃない。罰として、この異常の収拾はお前一人でつけろ」
「……はい」
言い訳のしようがない。返す言葉もない。
肯定を返すだけの機械と化した僕に、先生が立ち上がって近づいてくる。
雑に括った長い髪を揺らして、少しばかり愉快そうに、ユラユラと歩み寄ってくる。
「だが、私も鬼じゃない。教え子に死んでほしいワケでもない。できれば今回も生き残って、経験を積んでほしい」
「は、はい……」
「ピンときてないな。ヒントくらいはくれてやろうって言ってるんだ」
「わかりにくいです……」
眉を上げて、そうか?、と溢す先生。
だが、そういうことなら渡りに船だ。
何せ彼女は、四枚舌とあだ名される名うての魔術師だ。それがどれほど凄いのかは、この三年の付き合いで身に沁みて理解している。
「まず、その絵とやらは十年前から存在していた。にも関わらず、異常な噂が立ち始めたのはつい最近のこと。
今更になって動き出したのには、理由がある」
「た、確かに……」
先生の言う通りだ。
絵が十年前から異常なら、噂はもっと早くに出ていなければおかしい。加えて、もっと多くの被害者が出ていても不思議ではないのに、わかっている限りでは男子生徒一人と、未遂の僕一人だけだ。
あの絵には、いま動き出した理由がある。
「これは私見だが、燃料切れが近いと見た」
「燃料切れ……?」
「生きている絵なんて、魔術世界じゃ珍しくもない。連中は大概、人の精気、魔力を喰らって生きている。
大方、溜め込んだ魔力が底を尽きかけて、慌てて燃料補給に動き出したってトコだろうな」
「なるほど。それで、どうすれば」
「乗り込んで、ぶちのめせ。入ってしまえばこっちのもんだ。お前には有効打があるんだからな」
「入るって、絵の中にですか?どうやって」
「私の言った通りにしろ。入るのは、それでどうにかなる」
絵画世界とやらへの入場方法を説明しきって、先生は息継ぎのようにタバコを咥える。
彼女は既に、話すべきことは話した、といった様子だが、こちらとしては不明な点がまだまだある。
絵を見ただけで引き寄せられるのはなぜか。
男だけを狙うのはなぜか。
一条喜依が行方不明なのはなぜか。
十年経っても綺麗なままなのはなぜか。
「他にも、色々……」
「はぁ……この欲張りめ。そんなの、本人に聞けば済む話だろう」
「本人って、一条喜依にですか?でも、行方不明なんですよ?まさか……」
「その絵は一条喜依、本人だ。紛れもなく。ま、何をして本人とするかは、各々の定義にもよるだろうがね」
話は終わりだ、とばかりにデスクへ戻っていく先生。
こうなっては、どれだけ問い詰めても話を聞き出せそうにない。
きっと先生には、事の真相は既にわかっているのだろう。
数多の経験と、底知れない知識から、仮説を立てて真実へ辿り着いている。
その両方がない僕にできることは、貴重な助言を基に、突っ込んでいくことだけだ。
「ありがとうございます、先生」
「いいってコトさ。可愛い教え子に頼られちゃあね」
なら全部教えて欲しいところだが、そう言ったところで吸い殻が飛んでくるだけだろう。
先生の教育方針は主体性に重きを置いているからな。
「それじゃあ、行ってきます」
「ん。土産話、楽しみにしてるよ」
「はい」
一礼をして、先生の事務所を後にする。
事態は早期決着こそ望ましい。
責任を果たすには、これ以上の犠牲者は出してはならない。
目に力が込もるのを抑え、僕は学校へ走り出した。
◇
「燃料切れまで放置すりゃいいのに。律儀なのか気づいてないのか。……どっちにしろ同じか」
あの白皙の少年はどうにも自罰的なきらいがある。
罪への罰を希求するあまり、自分にすらそのルールを厳格に敷いている。
ため息のように、女魔術師は煙を天井へ吐き出した。
「魂の転写。一般人が一人でに辿り着くはずもない。唆した蛇がいるな。十年も前から……」
忌々しい。
憎々しげに天井を睨む女。
ジュウ、と肉の焦げる音と匂いが漂い、知らず、火をつけたばかりの一本を握り潰していたことに気がつく。
焼け焦げた箇所を女が指で払うと、そこは火傷などなかったかのように、まっさらな肌へと変わっていた。
「……保険くらいはかけておくか」
土産話を楽しみにしている。
あれは不器用なりに、教え子へ向けた信頼の表れだった。だが、早くもそれを覆そうとしている自分に、女は思わず笑った。
「ヤキが回ったか。ツラがいいだけの小僧一人、どれだけ入れ込んでいるんだか」
女は着慣れた革ジャンを引っ掴むと、日の落ちかけている街へと繰り出した。
向かう先は当然、教え子の通う学校だ。
信条を曲げるつもりはない。
あらゆる学びは実践と実戦の中でのみ育まれる。
行くのは校門まで。
入る者のないように。
出てくる者の対処のために。
それくらいの助力は、師として果たしてやってもいいだろう、と思った末の行動だった。
◇
学校に着く頃には、既に日も落ちていた。
当然、下校時間に間に合うはずもなく、既に閉め切られた校門が目に入る。
閉じた門を勢いのまま飛び越え、周囲に人影がないことを確認する。
忘れ物を取りに来た生徒を装い、できるだけ人相がバレないよう、学帽を目深に被る。
幸いにも開いていた昇降口で靴を履き替え、絵のあるオカ研の部室へ向かう。
無人の廊下を歩いている途中、致命的なことに気が付いた。
鍵がない。
部室は基本的に施錠されており、解錠には布瀬の持つ鍵がいる。
『……マズイな』
恐怖も躊躇もない。ただ焦燥だけがあった。
吶喊は明日に回して、鍵だけ貸してもらうか?
いや、どの面下げて彼女に会うつもりだ。
あれだけの暴言を吐き、睨み、今日一日、口もきかなかった僕に、彼女が顔を合わせてくれるものか。
僕としても、ただ鍵を借りるためだけに彼女を利用するマネはしたくない。
いっそのこと鍵を溶かしてしまうか。
それだけの火力はあるはずだ。
混乱しかけた思考を無理矢理にまとめていると、徐々に部室が見えてくる。
学校には申し訳ないが、もう溶かしてしまおう。修理費用は、後で寄付という形で渡せばいい。罪を告白して、それに見合った罰を受ける気はあるが、溶かした方法を問われても答えられない。
寄付だ。寄付がいい。そうしよう。
鍵のかかった部室へ近づいていく内、思考がまとまってきた。
そして、僕はおかしなものを目にすることになった。
日の落ちた、放課後の学校。
照明の落とされた廊下、部室の前の暗がりに、それはいた。
体育座りの体勢でうずくまる、一つの人影。
それが誰かを理解するのに、そう時間はかからなかった。
「あ、やっと来た……」
「なんで……!」
布瀬夜須美、その人だった。
僕は腹の底がなにか、カッと熱くなる感覚を覚えた。
多分、これは怒りだ。
それも、長らく感じていなかったタイプのやつだ。
憎しみから発するものでない、誰かを想っての憤り。
「真っ直ぐ帰れって、言ったはずだな」
「…………」
布瀬は答えない。
胸の前で手をぎゅっと結んで、どこか緊張した面持ちで、僕を正面から見据えている。
僕に睨まれたというのに、気丈にも目を見てそこに佇んでいる。
いや、よく見ればその握りしめた手も、内股の足も震えている。
逸らすまいと向けられた双眸は揺れ、今にも雫を溢しそうだ。
それでも、後ずさることも、逃げることも、目を逸らすこともせず、そこに立っている。
「あの絵のことも、忘れろって言ったはずだな」
「…………」
無言のまま、布瀬はコクリと頷いた。
呼吸が浅い。肩で息をしている。
僕の前に立っているだけで、彼女にとってどれほどの負荷がかかっているか、僕にはわからない。
それでも、その尋常ではない覚悟だけは、よくわかった。
「……真っ直ぐ帰ることはできた」
布瀬が、震える声で言った。
言いつけ通り、一度は家に帰ったらしい。
「絵を忘れることもできた」
「…………」
「でも」
彼女は真っ直ぐ、僕を見た。僕の目を見た。
その姿に、怯えや恐れは微塵もなかった。
「八雲くんを忘れることは、できなかった」
震えはとうに、止まっていた。
それでも、なぜだか視界が揺れている。小刻みに、風に靡くように、目に映る彼女が揺れている。
なぜかといえば、それは僕が震えているからだった。
「八雲くんが何かしようとしてくれてるのは、なんとなくわかるよ。たぶん、それで解決しちゃうのも。
でも、巻き込んだのはわたしなのに、二度も助けられたのに、それを忘れておしまいっていうのは、恩知らずすぎるでしょ」
布瀬が握りしめていた手を開く。
そこには、銀色に輝く、鍵があった。
既に見慣れた、部室の鍵だ。
「それで、気づいたの。鍵もってるの、わたしじゃんって。八雲くん、どうするんだろうって。
暗い学校で、一人で。でも、鍵なんかなくても、なんとかなっちゃうのかなって思うと、凄く、嫌な気持ちになった」
「…………」
「だって、それでなんとかなっちゃったら。八雲くん、また一人になっちゃうじゃん……!
次の日から何もなかったような顔で、わたしのことも無視して、中学の時みたいに一人ぼっちになっちゃうんだって……!」
布瀬は、泣いていた。
どうして彼女が泣いているのか、わからなかった。
彼女にとって僕はほとんど初対面のはずで、友人といっても一ヶ月も経っていない仲で。そんな人間に対して、どうしてそこまで優しくなれるのか、わからなかった。
だから、聞くしかなかった。
「なんで、そこまで……」
「ねえ、八雲くん。わたしたち、小学校も中学校も、一緒だったんだよ……?」
覚えてないかもしれないけどさ。
寂しそうな泣き笑いで、彼女は言った。
布瀬夜須美。一度聞けば、忘れない名前だ。
小学生の頃に一度か二度、言葉を交わしたことならあったかもしれない。
中学の頃は、誰とも交流を絶っていたから、知る機会がない。
その程度。互いに、その程度の存在。
それだけのことで……?
「わたし、何度も後悔した。中学の時、どうして話しかけなかったんだろうって。一番辛いのは八雲くんのはずなのに、どうして、話し相手にすらなれなかったんだろうって……」
「布瀬……」
「今度は、わたしが助ける番。もう一人になんてしない。一人になんて、させてやらない。だから、忘れろなんて、言わないでよ……」
そう言うと、彼女は膝から崩れ落ちてしまった。
やはり先程までの態度は痩せ我慢だったようで、足がガクガクと震えている。
反射的に彼女を抱きとめて、その顔を覗きこむ。
何やら決意に満ちた、そんな顔をしていた。
「ねえ、八雲くん」
「なんだ」
「鍵が欲しければ、約束して」
「わかった」
約束の中身は、聞かないことにした。
それは、なんとなく、彼女の覚悟と決意に、泥を塗るようなことだと思ったから。
ここまで耐えた彼女に報いるには、僕は無条件でその約束を飲まなければならないような、そんな気さえしていた。
僕の返答を聞くと、彼女は静かに続けた。
「わたしに、貴方を忘れろなんて言わないで」
「わかった」
「明日も部室に来て」
「わかった」
「夜須美って、呼んで」
「………………わかったよ、夜須美」
それから彼女は微小を浮かべて、糸が切れた人形のように、僕の腕の中で意識を失った。
よほど無理をしていたのだろう。
ほのかに全身が汗ばんでいる。
僕は部室の鍵を開けると、床に彼女を寝かせて鍵をかけた。
寝心地は悪いだろうが、見つからないようにするには、これが一番いい。
「よし」
先生に教わった、絵画世界への入場方を思い出す。
正直、絵画世界とか言われても、よくわからない。
何と出会うことになるのかも、知らない。
あの姿の一条喜依がいて、もうやめてください、なんて言って終わりにならないことだけは、容易に想像がつく。
未知ばかりだ。
それでも、僕には前例があった。
不思議なモノ、異常なモノは実在すると知っていた。
布瀬は……夜須美は、僕以上の未知と恐怖に曝されて尚、この夜の学校で一人、待っていた。
怖かっただろうに。不安だっただろうに。
なら、僕が臆することだけは許されない。
何と出会おうが、何を知ろうが、僕にはこの事態を収拾する義務がある。
「さぁて、あの屏風をご覧くだされ」
吸い込まれるように、僕の体は机上の絵画に潜行していった。