五話 恐怖、決別
部室に戻ってきた僕たちは、否応なしに絵画の乙女と対面することになった。
噂と名前以外になんの背景も明らかになっていない、謎の少女の自画像。
改めてその絵を前にして、僕はまた別の違和感に襲われた。
「……綺麗すぎる」
僕は当初、この絵は描かれてからそう時間は経っていないものだと予想していた。
美術部がこの絵を恐れ、倉庫の奥に放置されていたにしては、やけに状態が綺麗だったからだ。
だが、この絵のモデルである一条喜依は十年前の卒業生だ。
必然、この絵が描かれたのも、十年以上前ということになる。
温度と湿度に状態を左右されやすい油絵が、雑な管理のなか十年も放置されていたにしては、綺麗すぎる。
「ね、ねえ……もしかして、この絵ってホントにヤバいやつなんじゃ……」
動きはしない。そもそも、代々伝わる、なんて形容される噂の魔性というのが、たったの十年選手というのは考えにくい。
「なあ、布瀬。魔性の正体は、この絵だと思うか」
「そ、そんなはずないよ。先輩は十年以上前からある噂だって言ってたし……」
魔性の正体ですらない。そんな絵を前にして、布瀬はすっかり怯えきっていた。
アルバムの写真から得た推測が、まったくの的外れである可能性があるのにも関わらずだ。
写真が撮れなかったのには特別な理由がある。
一条喜依には秘密がある。
そう思わせる説得力が、この絵にはあるのだ。
「今日は、もう帰ろう」
「う、うん……」
気づけば、既に下校時間の18時が近づいていた。
窓から見える空は暗くなり始め、日の入りも近い。
四月とはいえ、未だ夜は冷える。
美術部に絵を返そうとも思ったが、この時間では既に下校している可能性もある。
今日のところは、大人しく下校することにした。
いつものように布瀬を途中まで送った後、僕はその足で帰路に着いた。
◇
「……さん」
遠くで、誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえる。
声は残響のように頭に木霊する。
消える前にまた声が響いて、その残響が頭痛のように頭を締め付ける。
「兄……!」
いい加減、声も煩わしくなってきた。
黙っていてくれ。
僕は、行かなきゃいけないんだ。
なんとしてでも、彼女に、会わなければ────。
「兄さん!」
誰かの叫ぶ声で、急速に意識が底から浮上する。
あれ、僕は、何をしてたんだっけか。
何を、するつもりだったんだっけか。
「ソラ……?」
声の方へ振り向くと、寝巻き姿の双子の妹、美空がそこに立っていた。
「もう2時ですよ。兄さん、こんな時間にどこへ行くんです」
彼女の問いかける声は鋭い。
どこへ?
僕は理由を答えようとして、その理由というやつが自分の中に無いことに気が付いた。
深夜2時に外出する理由なんて、僕には無いはずだ。
ならどうして、玄関ドアのノブを握っているのだろう。
「……また、眠れなくなったんですか?」
今度の問いかけは、隠しようのない心配の情を滲ませていた。
理由が答えられずに口を閉ざしていると、ソラはそれを肯定と受け取ったようで、喜色を滲ませた声音でこう言った。
「なら、仕方ありません。今夜は私が姉になります。……一緒に寝よっか、八雲」
「いや……うん、ありがとう。ソ……姉さん」
導かれるまま、僕は自室のベッドに横になり、赤子のように寝かしつけられた。
◇
翌朝。けたたましいアラームの音で目を覚ます。
薄目を開けて、靄がかった頭をなんとか動かしてスマホを探す。
スマホはいつも、頭の左側に置いている。
だが、スマホは定位置にはなく、混乱して顔を回すと反対側に音源はあった。
なんでいつもと反対に置いたんだ。
ぼーっとした頭で考えながらアラームを止める。
昨夜の事を思い出そうとするが、どうにもハッキリしない。
いそいそと学ランに身を包み、登校の準備を整える。
わずかに温もりと、山桜の香りが残るシーツの左側を一撫でして、洗顔のために一階へ降りていった。
洗面所に向かおうとすると、キッチンから音が聞こえる。
今日の当番は僕だったはずだが、気を回してくれたのだろうか。
頭の靄を晴らすため、冷水で顔を洗う。
洗顔フォーム、化粧水、乳液と、ルーティンのように洗顔をこなしてリビングへ向かう。
リビングの扉を開けると、甘い匂いが鼻先をかすめた。
リビングと繋がっているキッチンへと目を向けると、制服の上にエプロンを付けたソラの姿が目に入った。
「おはよ」
「おはよう八雲。珍しく早起きだね。朝ご飯できたら、起こしに行くつもりだったんだけど」
兄さん、ではなく八雲、と呼ぶソラ。
昨日のアレのせいか、姉が抜けきっていないらしい。
「今日の当番は僕だったはずだろ。気使わなくていいのに」
ぼやきながら電気ケトルに水を注ぎ、スイッチを入れる。
沸くのを待つ間に棚からコップを取り出す。
「姉さんも飲む?コーヒー」
「飲むー」
多めに沸かして正解だったと思い、二つ目のコップを手に取る。
インスタントコーヒーとスプーンを用意して沸騰を待っていると、リビングの扉が開き誰かが入ってくる気配がした。
三人暮らしの頸木家なので、誰かといえば、選択肢は一つしかない。
「おはよ、桑子さん」
「おはよー」
「二人ともおはよお〜。八雲、今日は早いんだね」
寝巻き姿の女性、僕ら双子の保護者である叔母の桑子さんが起きてきたところだった。
「当番だったからアラームセットしてたんだけど……」
チラリ、と姉モードのソラを見やる。
ソラは鼻唄なんて歌いながら、フライパンに目を向けている。
「ああ、そういうこと。今日のソラちゃんはお姉さんだったか」
得心がいった、といった様子で桑子さんはダイニングのイスに腰掛ける。
カチッ、と音がした。
お湯が沸いたらしい。
「桑子さん、コーヒーいる?」
「いる〜」
気の抜けた返事を聞いて、三つ目のコップを用意する。
コップにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いでかき混ぜる。
朝は一杯のコーヒーから。習慣らしい習慣のない我が家の、数少ない日課だ。
だというのに、誰も味にこだわりがないのだから、不思議なものだ。
「お待たせ」
「ありがと〜」
ダイニングにコーヒーを持っていくと、目を閉じて再び夢の世界へ旅立とうとしている桑子さんがいた。
もう少し提供が遅ければ、二度寝していたに違いない。
「焼けたよー。あったかい内にどうぞー」
二人でコーヒーを飲み温まっていると、調理の終わったらしいソラが皿を両手にやって来た。
今朝はホットケーキらしい。
「あ、食器」
「持ってくるからちょっと待っててー」
コーヒーを淹れるのに夢中で失念していた。
三人分のナイフとフォークを持ってきてくれたソラに申し訳ないような気になりながら、僕らはいつものように、三人で食卓を囲んだ。
頸木家の食卓は賑やかだ。
誰からともなく話題を振って、相槌を打ち、感想を口にし、また誰ともなく別の話題を提提供する。
大いに盛り上がる、なんてことはない。
ほとんどが他愛のない、世間話ばかりだから、それも当然のことだ。
けどそれでも、僕にとって一番居心地の良い場所はここだった。
視線を気にしなくていい。
ただそれだけが、救いになることもあるのだ。
そう、昨日感じた恐怖や違和感すら拭い去ってくれるような──────昨日?
「八雲?」
「……なんでもない。それより、学校行く前に姉抜いとけよ」
「わかってるって」
僕ら双子は、対外的には兄妹として振る舞っている。ソラも基本的に妹としての立場を崩すことはない。
だが昨晩のように僕が不安定になると、立場は兄妹から姉弟にスイッチする。
お互いがお互いを支え合える理想的な関係ではあるが、知り合いからすれば奇妙に映るはずだ。
故にそのスイッチは原則、家の中だけで行うことになっており、よほどのことでもなければ平日は避けるようにしていた。
昨晩の僕は、それほど危うく見えたのだろう。
こういうパターンは初めてだが、どう考えても、あの絵が関係しているとしか思えない。
行方不明だった男子生徒は、あの絵のある場所で発見されたという。
昨晩の僕も、彼女に会おうという衝動に突き動かされていた。
ソラが止めてくれなければ、その男子生徒と同じ末路を辿っていたことだろう。
やはり、あの絵は異常だ。一条喜依本人は、このさい関係ない。問題はあの絵にある。
何が条件であの絵の下へ誘引されるのか、それはまだわからない。単純に、『絵を見る』だけだとしたら、布瀬も僕と同じ症状に遭った可能性がある。
登校する前に、一言布瀬へ連絡を入れ、学校へ向かう。
◇
結論から言うと、心配は杞憂だった。
教室に入ってすぐ、布瀬が声をかけてきた。
「おはよう、八雲くん……」
「おはよ」
だがその声からは、隠しようのない恐怖の念が漏れ出していた。
僕と同じように、すんでのところで回避できたのだろうか。
気になって、他の生徒に聞こえないよう小声で尋ねてみた。
「布瀬。昨日の夜、何かおかしなことはなかったか」
「昨日?いや、なんともなかったけど……」
最初の犠牲者は、男子生徒だった。未遂ではあるが、僕も誘われた。布施は誘われなかった。
条件は絵を見ること、そして、男子であることが含まれるのか……?
ひとまず、布瀬が危険な目に遭っていないようで胸を撫で下ろす。
「……それよりさ、聞いてほしいことがあるんだけど」
重々しく口を開く布瀬の顔色は優れない。
しきりに周囲の視線を気にする様子から、僕はカバンと学帽を机に置いて、一通りの少ない階段の踊り場へと連れ立って行った。
「それで、聞いてほしいことって」
「うん……」
布瀬は青い顔で、スマホの画面をこちらへ向けた。
「これは……」
それは、行方不明者を示すリストのようだった。
そこに、昨日アルバムで見た名前と、顔写真が表示されていた。
「一条 喜依さんを探しています……」
「これ、どういうこと……?卒業生じゃなかったの……?」
意味がわからなかった。
いちじょう、ではなく、ひとすじ、だったことではない。
そんなことはどうでもいい。
十年前の卒業生だと思っていた女生徒が実は行方不明者で、その行方不明者が自分で描いたと思われる絵が異常なもので、現在の僕らを苛んでいる。
「今日は、活動日じゃなかったよな」
「う、うん」
不安そうに頷く布瀬。
異常なものは、異常なものと縁が結ばれやすい。
先生はそう言っていた。
なら、この事態は、布瀬に不安を感じさせている要因は、僕に有ることになる。
「今日は真っ直ぐ帰るんだ。それで、あの絵のことは忘れろ」
「うん……ねえ、八雲くん」
「なんだ」
「今日も一緒に帰ってほしい……怖いよ……」
申し訳ないが、それはできない相談だった。
僕は僕で、やらなきゃいけないことができてしまった。
「今日は、難しい。けど、明日になれば……」
いや、それももう、やめにしよう。
結局、駄目だったんだ。
壁を作るべきだった。妥協なんてするべきじゃなかった。入部なんてするべきじゃなかった。
尊敬すべき真人間を、こちら側に巻き込む結果になった以上、縁を切るべきだ。
「明日になれば、一緒に帰ってくれる……?」
不安に揺らぐ布施の両目を直視できず、僕は天井に視線を向ける。
「絵のことは忘れるんだ。それと、僕のことも」
「そ、そんなの無理だよ!だって、友達じゃん!」
「そんなんじゃない。無理矢理変な活動に付き合わされて、いい加減、我慢の限界だったんだ。金輪際、僕とは関わらないでくれ」
「嘘!そんなこと……!」
「あるさ」
今度は真っ直ぐ、僅かに《《力》》を込めて、彼女の両目を睨めつけた。
「ッ……!」
それだけで、彼女は後ずさった。
これでもう、僕みたいな異物と関わろうなんて思わないだろう。
睨むだけでその身に恐怖を植え付ける目なんて、僕だって見たくない。
そのまま恐怖に凍りつく彼女を残して、僕は教室へ戻っていった。