第八話 屋上
自分の体を引き摺るようにしてどこかへ行くイデアールの背中を睨みつけながら、エベーレはどうしようもない絶望に身を灼かれていた。この状況は、全て自分に責任がある。
(秋月は、どうなった……ラグナロの安否を知らせないことでまだ私を利用するつもりですのね。この悪魔……!)
真昼たちから離れた一瞬の隙に交渉――ただの脅迫であったが――を持ちかけられた。ここで輝夜の複製体を作り出し生徒会役員たちを捕獲する手助けをしろ、と。
自身は両手両足を拘束され、聖桜、ラグナロ、真昼が瞬く間に制圧されていく中、秋月だけは抵抗していた。異能を全力で発動し、必死に逃げようとしていたが……最後は、面倒臭くなったのだろうイデアールに蹴り飛ばされていた。外に飛び出して行った為、どうなったかは分からない。
あそこで、ラグナロの身可愛さに交渉に乗らなければこうなってはいなかった。己の命ならいざ知らず、ラグナロを殺すなどと言われれば……従う以外の選択肢はなかった。
(いいえ、きっと、そうではない……)
だが、同時に思う。例えあの場面でお前を殺すと言われても……きっと従っていただろうと。どれだけ気丈に振る舞おうと、どれだけ偉大な先達のように生きようと志そうと……結局、今の自分はただの小娘でしかないのだ。
命のやり取りなど今回の事件が初めてだ。こんな所で生を終わらせる覚悟が……出来ていようはずもない。
(嗚呼……こんなにも弱いんですのね、私は)
――――――
(生徒会役員を探しながら逃げたせいで予想外に追い込まれるのが早かった……くっ、結局一人も見つからない……!)
隠し場所として想定されるあらゆる場所を捜索しつつ生徒たちから逃げていたが、誰も見つからなかった。真昼も見つからない……安否が気になって仕方がない。
異能にはまだまだ余裕がある。戦闘でもしない限り、あと数時間は保つだろう。どうする、もう少し捜索を……
「皆さんアレを! 銀翼はあそこにいます!」
元来た道を戻ろうとした直後、階下から輝夜の声が聞こえた。輝夜(仮)も、この付近に出向いているのか……!
輝夜(仮)の声に呼応するように、凄まじい量の足音が聞こえる。学生棟そのものが揺れているのではないかというほどの凄まじい勢いだ……辿り着かれるのは時間の問題。
反対方向に逃げる。時折鉢合わせた生徒は剣の腹で殴って気絶させ、命は決して奪わない。広い広い学園を、味方のいない心細さを胸に抱えながら駆ける、駆ける。
(どうする、私の偽物を排除するか? いや、生徒たちが勢い付いている今、それはあまりにも愚策が過ぎる……!)
どこに逃げても輝夜(仮)の声は聞こえ、それに合わせて生徒たちの怒涛の如き足音が聞こえる。逃げられる場所は次第に限られていき、最後には屋上に追い詰められた。
もう逃げ場はない。半分物置きと化していた屋上へと続く階段に積まれていた机や椅子を薙ぎ倒して極力時間を稼ぎながら、屋上へ繋がる扉を開いた。即座に鍵を閉め、銀翼の剣を閂のようにして刺す。だが、突破も時間の問題か……
扉の向こう側から、無数の怒号が聞こえる。出てこい殺人鬼、俺たちが相手だ……と。そこには狂気すらあるだろう。
「さて、本格的にどうしたものか。まずどんな因果関係があるのかしら……誰が、なんのために、こんなことを……」
……駄目だ。情報が少なすぎる。最も有力な候補はあの3人を殺した誰かだが、影も形も掴めていないのだ。仮定しようにも断定しようにも、やはり情報が足りなすぎる。
考えろ、考え……ああ、駄目だ。心に根深く張った悲しみが思考を邪魔する。どうしようもない心の雨が、傘を持たない己に降りかかるのを感じる。どうする。もう何もかもを投げ捨ててここで終わってしまってもいい……
「ッ!」
体が勝手に動いた。濃厚が過ぎる殺意と銀翼に染み付いた戦闘本能がそうさせたのだ。思考より先、剣を抜く。
逃げている内に、夜だ。煌々と輝く月だけは、ループしながらも姿を変える。このループ現象も流石に宇宙までは及んでいないようで、月の満ち欠けに支障はない。正しく進むソレは、この夜を満月の光で照らす。あまりに美しい夜だ。
しかして、夜とは闇である。いくら月光が煌めいていようと、星々が謳おうと、原初より夜とは闇である。そして闇の中には、“黒い殺意”こそが潜み蔓延るだろう。
言葉はなく、ただ刃がある。二振りの長刀が。
下弦が屋上の床を裂いた。熱したナイフがバターを断つように、“そうなる”のが当然の動作。上空から舞い降りた黒い鎧は、明確な敵対意識をもってして銀翼と相対する。
「黒鎧……! まさか、一人でここまで……!?」
そうだ。黒鎧がこの学園の誰かなら、当然あの集会にもいただろう。銀翼の姿も、逃亡経路も知っていて不思議ではない。単独で、銀翼の首を落としに来たということか……!
扉の耐久力もそろそろ限界だ。この黒鎧の相手をしながら暴徒と化した生徒たちの相手……可能、なのか?
(ふっ……さっきも言ったわよねえ、私!)
“するしかない”。元々黒鎧との決着は付けるつもりだったのだから、なんの問題もない。ここで仕留め、戦闘不能程度の状態にまで落としておく。同時並行で生徒たちを鎮圧し、身の潔白を証明。輝夜(仮)の正体を暴く!
決意を固め、剣を握りしめ。いざ、勝負――――!
「……その心配はない、銀翼。あなたの懸念は杞憂」
鎧越しのせいか、その声の主が誰なのか輝夜には分からなかった。ただ……どこか、安らぐような声だった。
黒鎧の言葉の意味を問おうとしたその時、扉の向こうから破滅的な轟音が聞こえたかと思えば先程までのやかましさが嘘のような静寂が訪れた。世界に黒鎧と己しかいないような錯覚に陥る……何が起こっている? 次から次へと。
「私たちは、誰の邪魔も入らないここで決着を付ける」
黒鎧……真昼が何を思ってこうしているのか、輝夜は知らぬ。黒鎧の正体が真昼であることすら知らぬ。
ただ、輝夜は学園の問題を解決するために。そして真昼は自分が輝きを放つために。目の前の漆黒を祓う。眼前の翼を堕とす。そこに、一切の曇りも迷いも有り得ない。
「それだけでいい」
衝突する。
――――――
時は僅かに遡り、死んだ心で学園内を歩く時裂。あの行動は確かに正しかったのだろうが……それだけだ。輝夜の心を傷付け、必死の覚悟を踏みにじった事実に変わりはない。正しさのみ見ていれば良いのは、戦場だけだということをまだ理解していないのか。まったく、呆れたものだ。
かと言ってあそこで輝夜を望み通り抱いて良かったのかと問われれば全力のNOを返す。やれやれ、命のやり取りのことだけ考えていればいいだけではないのがこの世界。
「とうの昔に分かりきっていたはずだが……ん?」
予定を前倒ししてイデアールの死体を片付ける方針に定めた直後、物置きから人の呻き声が聞こえた気がした。
まさかな、と思って覗き込むと……そこには、見慣れた結び方をしたロープで拘束された女生徒がいた。こちらに気付いたその生徒は、僅かに動きと呻き声を大きくした。
「何をしているのかね君は……いや、これは……生き延びていたか、イデアール。相変わらずしぶとさだけは大したものだ。遂に、出してはならん禁忌に手を出したか……?」
複雑な結び方だが、考案者である時裂にかかれば幼児が戯れで作った迷路を容易く攻略するのと変わらぬこと。流れるような動作で彼女を拘束するロープを解いた。
仕掛けも何もない手錠でさえ同じこと。少し力の入れ方を工夫してやれば、外すのは容易極まるものだ。
「はぁっ……はぁっ……ありがとう、ございます……」
「ふむ、どうしたのかね? 何故こんなことになって……」
真昼は時裂と直接的に話したことはないが、輝夜と同じように爆発の異能を持つ生徒を鎮めたあの日を知っている。彼の勇姿も容姿も、この脳裏にしっかりと焼き付いている。
確か、聖堂の管理人。何故ここにいるのか分からないが、今最も頼れるのは彼だろう。数瞬悩んでから、状況を話すことにした。
自分は一度銀翼の討伐に失敗し、隠れ家にしていた放送室で体を休めていたこと。輝夜らしき何者かが現れ混乱している中、次々と生徒会役員が気絶させられたこと。
「ふむ……なるほど、概ね理解した。イデアールめ、こうも早く行動に出るとは……せっかちなのも変わっていない」
「あの、ありがとうございました。私はこれで……他の生徒会の皆さんを探しながら銀翼の討伐を再開します」
聞き捨てならないセリフだ。銀翼はこの学園……否、日本全土で見ても最高峰の異能。複数人で挑むならまだしも、単独での撃破は不可能に等しい。無駄な試みだ。
それに、輝夜……銀翼は、今まともに戦える状況ではないだろう。原因は自分にある……このままこの少女を向かわせて得する者は誰もいない。止めねば……いいや、それは早計か。この少女が何故そうするのか聞かねばならぬ。
「待ちたまえ。君は何故銀翼を狙うのかね。まさか、単独で勝ち目があるとでも思っているのかね?」
「ええ、まあ……はい。私の異能は銀翼と同じタイプですし十分に勝ち目はあります。前回もかなり追い詰めましたし」
「……前回? まさか君の異能、黒鎧だったりするかね?」
なんで知ってんだこいつ、と顔に書いてある。先程までの少しだけこちらを信用していた空気は霧散し、爆発的な敵意を向けてきた。流石に無遠慮な行動だったか。
「いや失礼、君を不快にするつもりはなかった……ふむ、分かった。私も君に協力することにしたよ」
放置出来ない問題だ。輝夜は一瞬しか認識出来なかったというが、確かに銀翼は『天光』を使わざるを得ない状況まで追い詰められた。黒鎧の一派の手によって。
何とかしてこの少女と共に行動し、仲間と合流させないようにしなくてはならない。せめて一対一でないと今の輝夜に勝ち目はないだろう……待てよ。生徒会役員と共に行動していたのか?ならば、黒鎧一派は生徒会……!?
「知らない内に詰んでいたんだな、輝夜君……」
「輝夜?なんでそこで姉さんの名前が出るんです?」
もうめちゃくちゃだ。顔面を両手で覆い、天を仰ぐ。輝夜は凄まじく優秀な生徒だったが、もしや運の悪さではピカイチなのではなかろうか。妹から狙われるなど……
銀翼と黒鎧が対峙し、輝夜が生徒会ではなく時裂を頼った時点で全て詰んでいた。あまりに運が悪すぎる。
「いや、気にしないでくれたまえ……どうやら、君と銀翼には浅からぬ因縁があるようだ。私も一応生徒を守る立場でね、目の前で戦いに赴こうとする者をはいそうですかと通す訳にはいかんのだよ。分かってくれるね?」
さっきは協力すると言ったのに、という顔で真昼が時裂を見つめる。わかる、その気持ちは大いにわかるが……
少々、譲れない事情が出来てしまった。
「そこで、だ。どうだろう、私が立ち会おう。これでも多少戦闘能力に自信はあるんだ。これで問題ない」
それならまあ……と呟き、真昼が行動を開始した。時裂もその後を追うようにして移動する。校舎内は静かな場所とうるさい場所の差が激しく、何か大きな事件が起きているようだった。これは……誰かを、捜索している?
「皆さんアレを! 銀翼はあそこにいます!」
一瞬視界に入った鎧姿は、間違いなく銀翼だ。しかし階下にいるのは輝夜……ほほう、これは中々。
(やってくれたな、イデアール……)
戦場の、残酷且つ無慈悲なやり口をこんな学園で実行するとは。明確が過ぎるルール違反……更にここまで規模を大きくしたとなると、最早加減も容赦も出来ぬ。
いや、制裁を考えるのは今ではない。急務は銀翼の救助だろう。さて、それでは黒鎧をどう動かすか……
「時裂……さん、でしたっけ。状況は掴みかねますが、どうやら銀翼が追い詰められている様子。そこでですね」
加担するつもりか? ただ銀翼を倒せればいいと……
「私一人で仕留めます。こんな有象無象の生徒たちに……何より姉さんに、銀翼討伐の名誉は与えない」
「ほう。では私はどう動くのが正解かね?」
「生徒たちの足止めを。見たところ暴走状態、銀翼は屋上に追い詰められているようです。なので、彼らを屋上に辿り着かせないようにしてください……頼めますか」
口角を僅かに上げ、駆け出した。それを肯定と受け取ったのか、真昼も【三日月】を発動し別ルートで屋上へ向かう。
「では、輝夜君。いや、偽輝夜君という方が正しいか。少々不快な気分なので、早速だが壊れたまえ」
高い身体能力を全力で発揮し飛び上がる。屋上へと繋がる扉の周囲に群がる生徒を蹴散らし、駆け上がってくる偽輝夜の頭部に手を添えた。刹那、轟音が響き渡る。
床を突き破り、一階の地下へとめり込んだのだ。時裂が持てる運動エネルギーを操作する技術全てを用いた掌底。
「さて、諸君。いかな銀翼と言えど、こうも大多数で追い詰めるのは度が過ぎる……届いているかは、知らんが」
生徒たちが後ずさる。後ろ手に組んだ手は固く握られ、時裂の周囲には幻視するレベルの敵意があった。鷹のように鋭い眼光が、まだ未熟な生徒たちの魂を射抜いた。
「せめて、君は私が守ろう。輝夜」
立ちはだかる