第3話 ほんと、馬鹿なんだから
どれくらい夢中になっていただろう?
林の中は常に薄暗く、時間がわかりにくい。
(ぽちっとな)
システムメニューにある時間、そこには十七時半を表示していた。
インベントリを確認すると、薬草の枠が七つになっている。
これだけ買い取ってもらったのなら、宿屋に十日分収めても、お腹いっぱい晩ご飯を食べても、それこそ新しい帽子も買えたりするかもしれない。
そのような妄想を膨らませていたからか?
摘んでも摘んでも目の前から薬草がなくならないからか?
どちらにせよ、やめ時を間違えてしまった。
油断してしまったのは間違いなかった。
『――こんな大雨じゃ無理よ。こんな日はね、林のところにも、魔物が出てくることがあるんですからね?』
そんな、カナリアの忠告も、頭の隅に追いやってしまったからだろうか?
そろそろ帰ろうと、振り向いたその先には、育江の知るサイズを超えた野犬がいた。
(あれ? 狼? 犬? これも魔物に入ったっけ?)
PWOでは元々、イニシアティブ制やターン制のようなゲームではなく、よりリアルに近づくようにと、常に駆け引きが必要な戦闘だった。
もちろん、現実となったこの場にいる、野犬と思われる生き物には遠慮はないのが当たり前なのだろう。
逃げようと思ったときにはもう、首のあたりに激痛が走る。
ただそれは一瞬だった。
野犬が、育江の首筋に噛みついているのは間違いないのだが、何だろう? それは、PWOの死亡時に感じるあの不快感に似ていた。
目の前が真っ赤に染まる。
視界の外側には、何やら黒い塵のようなものが舞い上がっているように見える。
(あー、これがもしかしたら、『灰』? なのかな?)
客観的に見てしまった、自分自身の状況。
(あ、そだ。ぽちっと、な)
赤く染まる背景へ重なるようにして、システムメニューが見えてきた。
その『状態』のステータスには『死亡』の二文字が表示されていた。
(あー、しんじゃったんだ――)
似たような経験は、PWOではあった。
けれどこんなふうに、フェードアウトする感じではなかった――
▼
目の前が明るくなる。
首を中心にあった不快感、あれがないように思える。
目に前にはさっきいた野犬のようなものが背中を向けている。
「……あ、さっきの、いる、あ、――ちょ、こっちくんなっ」
今度は首筋じゃなく、腹部に噛みついていた。
おかしい。
今は痛みじゃなく、最初から不快感がある。
(あ、また視界がぼやけて、灰が飛んでる、あ、あたし多分死――)
システムメニューをもし育江が見ていたとしたら、『状態』の部分には『死亡』と表示されていたのだろう。
そう、育江は死亡したと同時に、灰に転じて霧散してたのだった。
先ほどと同じように、視界がはっきりしてくる。
けれど、あの犬のような魔物がどいてくれない。
(あ、まだいる。……てか、書いてあった『死んだら灰になるが、一定時間で再生する。死んだら経験値が下がる』って、このことだったのかな? まるで現実じゃなく、PWOのときみたいな感覚があったし。あ、そだ、ぽちっとな)
声に出さないように、なるべく動かないように、育江はシステムメニューを見た。
身体レベルの経験値欄をみて、ぎょっとする。
「あ、まじで――すか……」
声を出してしまったからか、犬みたいな魔物に感づかれてしまい、また腹部を貪られてしまっている。
徐々に不快感が強くなり、意識が遠のいて、さっきと同じパターンに陥ってしまう。
(ちーん……)
ブラックアウトする視界。
(何度目の蘇生? ううん、再生だっけかな? てかおまいさん、飽きないね? 正直あたしはもう、飽きちゃったよ……)
何度の死亡体験だろうか?
ついさっき見たシステムメニューの身体レベルの経験値欄。
そこにあった数値は一。
経験値が一になっていたのだ。
(いや、これ以上落ちないってやつですね-。せっかく上げたのに、あぁ、魔力も減ってる。あぁあああちょっと待って、治癒魔法のレベルも下がってるじゃないのさ? あぁ、一になってるぅ。どうしてくれるのよ? もう、このままじっとして――あ、こっち見た)
「やめてやめてやめてこっちくんなー」
育江の声に力が入っていない。
野犬のような魔物は知能が単純なのか?
それとも、育江を襲って何かメリットがあるのかは、襲われた本人はわからない。
辺りはもう、真っ暗になっているようだが、その割に、思ったよりも辺りがはっきり見える。
さっきの犬みたいな魔物がこちらへ、じわりじわりとこちらへにじり寄ってくる姿も見える。
(また食べられるんでしょ? あの不快感、嫌だな、……痛いよりはマシだけど)
また食べられる、不快感がどこにでるのかわからない。
また死ぬんだろうな、そう思ったときだった。
犬に似た魔物より小さくて、それなのに両腕を大きく左右に広げて、育江と魔物の間に立って立ち塞がっていた。
どこか遠くで見たことがあるこの小さな背中。
忘れるはずはないのに、ぼうっとしか思い出せないもどかしさを育江は感じただろう。
(あれ? 誰か助けてくれたの?)
助かった、そう育江は内心思った。
力の入りにくい身体を、両手を地面について、どっこいしょと腹筋に力を入れて、なんとか身体を起こすことに成功した。
「あ、その。ありがとう、ございます――」
「ぐあっ」
「え? あれ? も、もしかしてシルダ? シルダだったりするの?」
その後ろ姿は見覚えがある。
育江が座った目の高さより少しだけ高い位置にある、くりくりと丸い目がこっちを見ていた。
鱗の色味が若干違っている感じはあるけれど、あの小さな角。
紅葉の葉が咲いたような可愛らしい手。
身体の割に立派な尻尾。
背中の飛べないかもしれない、一対の翼。
もし目の前にいるのが本物のシルダだとしたら、あんなに小さく見えても育江が育てた獣魔のうち、最強の一匹。
獣魔としての最大レベル二百五十五、それを目指して頑張ってきた相棒だった。
シルダの名前はそれなりに有名だった。
町中を勝手に出歩いても、誰も文句は言われなかったし、それより『いてくれたら安心する』とまで言われたことがある抑止力のひとつでもあったといわけだ。
「ぐあっ」
シルダは正面を向き、野犬のような魔物に相対し、じっとにらみつけているようだ。
野犬が痺れをきらして先に動いた。
シルダを無視して、育江に向かおうとする。
だが、シルダは回り込んでまた、育江の前に両手を広げて通せんぼ。
仕方ないと思ったか、それとも本能がそうさせたのか? 野犬はシルダの顔向けて、噛みつこうと迫ってくる。
「馬鹿な犬。相手はあたしが育てたあの、シルダなのよ? お前なんて敵うわけ――」
そうドヤろうとしたとき、シルダは間一髪で避けると、後ろ足をしっかりと蹴って、その反動で野犬の頰あたりを右拳で打ち抜く。
「え? シルダ、あんた何やってのよ?」
育江の記憶が定かであったのなら、この程度の野犬、PWOにいたころのシルダだったら、ワンパン終了だったはず。
それこそ、指先であしらうほどのレベル差があったはずなのだから。
どれだけの時間、シルダの背中を見ていただろう?
シルダは体中傷だらけにして、それでもなんとか野犬を倒してくれた。
育江は、シルダの背中から抱きついた。
「シルダ。ありがとう。ほんとに、ありがとう」
「ぐあっ」
そう口を大きく開けて、返事をする。
「あ、そうだ。ぽちっとな」
そのままの状態で、育江はシステムメニューを立ち上げる。
獣魔の欄に『シルダ』の名があった。
「あんた、本当にシルダだったのね。……ほんと、どこいたのよ? 寂しかったんだから?」
「ぐあ?」
シルダはこっちを向いて、膝立ち状態の育江に抱きついて、頰をすり寄せてくる。
鱗だからか、少し痛みを感じるが、それでも懐かしい感じがする。
よく見ると、シルダのレベル表示がおかしい。
前は二百三十くらいだったはずなのに。
「……レベル六ってどういう――あ、もしかして」
「ぐあ?」
「シルダ。あんたまでこっちに来ること、ないじゃない……、ほんと、馬鹿なんだから……」
おそらくシルダは、育江同様こちらへ転移してきた。
その際のなんらかの要因で、レベルが初期値にもどってしまう。
たしか、レッサードラゴンであるシルダの初期レベルは五くらいだったはずだ。
ということは、今の野犬はレベルが六以上はあったということ。
そりゃ育江じゃ敵わないというオチだったようだ。
「ほら、こっちいらっしゃい」
育江は両手に魔力を集めるようにして、シルダの身体のうち、傷ついた部分をゆっくりと撫でる。
こうすることで、今シルダにしてあげられる唯一の『ありがとう』、調教スキルの初期スキル『癒やしの手』を使う。
効果は、獣魔の傷を癒やすというもの。
そうこうしてる間に、徐々にシルダの傷が癒えていく。
シルダも気持ちいいのか『ぐぁ……』と声を漏らす。
治癒魔法のレベルがまた初期値へ戻ってしまってはいたが、こうして獣魔の傷を癒やす方法が残っているのが、調教師だったりするのだ。
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