第1話 プロローグ前編
二十二世紀も中頃。より安定したネットワーク技術や、学習型擬似的人工知能など、科学技術はそれなりに発展した。
それらを組み合わせることにより、革命的なものも生まれていた。それが『マギアコネクトゲート』というもの。
人間の感覚である触覚、味覚、視覚、聴覚、嗅覚。
いわゆる『五感』の解析にほぼほぼ成功し、それを仮想空間に応用することによって、あらゆる追体験が可能となった。
現実に近い味、匂い、それらを身体に取り入れることによる満腹感を始め、運動による心地よい疲労感、仮想空間での睡眠によるリフレッシュなど。
それこそ、体験できていないのは、トイレでの排泄行動くらいだろうと言われていた。
痛覚もある程度は再現できてはいるが、当初はそれ自体に必要性がないと考えられていた。
だが、ゲームなどで無理をする者も少なくなかったこともあり、痛覚は不快感として変換されるようになった。
仮想空間上に展開される大規模な多人数同時接続型のオンライン・ロールプレイングゲーム、略してVRMMO。
その中でも、最古参で同時接続ユーザ数の多いコンテンツであるファンタズマル・ワールズ・オンライン。
PWOのユーザがゲーム内で睡眠をとったり、現実世界から仮想世界へログインしたあとに、一番最初にいる場所。
そこが『ホーム』と呼ばれている、ユーザ固有の空間。
クイーンサイズのベッドとそれを囲む空間。そこでは、外部の人と通信をしたり、オンラインで講座や授業を受けたりすることも可能であった。
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彼女は、いつものように、ホームで目を覚ます。
仮想空間ということもあり、快適で素晴らしい眠りを提供してくれたことに感謝をしつつ、二度寝の甘い誘いと戦って、なんとか打ち勝つことに成功したようだ。
彼女の視覚の右上に『注意』と、赤く点滅するボタンが見える。
右手で押して確認すると、前回ログインしてから百時間を超えるとのメッセージ。
「――あー、起きないとまた注意されるかも」
仕方なく一度ログアウトするために、自分で初期登録したキーワードを口ずさむ。
「ぽちっとな」
目の前に、出てくる『はい』、『いいえ』のボタン。
その上に表示された『ログアウトしますか?』のメッセージ。何も迷わず『はい』を押す。
一瞬意識が遠くなり、暗闇に沈むようになっていく。
彼女はこれが、あまり好きじゃなかった。
『――ハイバネーションモードを解除いたします』
電子音で構成されたものだが、思った以上に流ちょうな音声が聞こえてくる。
同時に、身体の周りを包むように張り巡らされた液体が徐々に排出されていく。
彼女は、一世紀前に流行ったとされる、手首足首まで覆うようになっている競泳用水着にも似た、『パジャマ』という名のネイキッドス-ツで身を包んでいた。
よく見ると各部には、様々なセンサーが埋め込まれているようにも見える。
身体全体を一度、体温と同じ湯で洗い流され、乾燥までしてくれる優秀な装置。
短めに整えられた髪もさらさらの状態だ。
大きな蚕の繭にも似た、純白で楕円の形をした物体。
その上部が蓋のように開いていく。
この装置は、コクーンと命名された人工冬眠機能を備えたベッドのようなもの。
彼女の右手が、コクーンの内側にある突起のようなものに触れる。
すると『ぽーん』という耳当たりの良い音が鳴った。
『鷹樹さん、おはようございます』
天井にあるスピーカーから、女性の声が聞こえてきた。
「はい、おはようございます。いつもの、お願いできますか?」
『今行きますので、少しだけ待ってくださいね』
「はい。わかりました」
実に四日ぶりの『明け』。
起床と呼ばず『明け』と言うのは、人工冬眠だから『冬眠明け』という意味だからである。
インターフォンの音が鳴る。
鷹樹と呼ばれた彼女が『どうぞ』と応えると、自動ドアが開き、白い前開きの上着に、同じ色の踝丈のパンツ。
胸に見覚えのある『須藤』名字に、馴染みの顔。
「おはよう、育江ちゃん」
「はい、おはようございます。礼子さん」
コクーンに横たわっているのは、鷹樹育江。
ふかふかのタオルを育江に渡して、笑顔で受け答えしてくれるのは、担当看護師の須藤礼子。
今日、二度目の目覚めは、ある大学病院の個室病棟だったというわけだ。
礼子は育江の姿を見て、いつものようにしてくれるから忘れてしまうが、育江の身体を見ると、普通の同じ年頃の女の子とは違いがある。
育江には左太股の付け根から数センチ先、左肩関節から先、そして、左の眼球が存在しない。
彼女は五年ほど前、ある事故で、腕、足、目と一緒に、両親も亡くしているからだった。
廃液が終わり、乾燥されたコクーンの内部は、まるで寝そべることが可能なサイズのバスタブのよう。
それでいて、後頭部や背中にあたる部分は柔らかく、床ずれの心配がない最新素材でできている。
礼子に手伝ってもらい、室内のトイレに移動。
「ちょっとだけ待っててください」
「いいえ、ごゆっくりどうぞ」
「ごゆっくりって言われても、困るんですけど――っつ!」
そうしてちょっとだけ、無理にでも明るく振る舞おうとする育江。
人工冬眠中も、僅かずつだが水分も取っている。
冬眠明けには仕方なくこうして、トイレに入らねばならない。
だが、育江はその度に『幻肢痛』に悩まされる。
だから彼女は、人工冬眠から目覚めて、トイレに移動するのが嫌いだった。
礼子に身体を預けて浴室へ移動すると、改めて入浴をし、布製のパジャマを着て、軽い食事を取る。
「早いわね。来年もう、高校生になるんでしょ?」
「あたし、オンライン受けるから本校は行かないんですけど」
確かに、オンラインで授業を受け、課題を提出すれば進級もできる。
今もこうして、ネット端末から学校へ課題を提出している最中だ。
両親が残してくれた保険と、国の補助でここの利用料はまかなえている。
無理に登校しなくても良いと、免除ももらっているのだ。
「育江ちゃん。ホームに、四十八時間以上はね――」
「はい。ですがあたし、『あっちの方が寝られる』んです」
「そう、……でもね、たまにこうして起きてくれないと、私も寂しいから」
「わかってます。あとでまたお願いしますね」
半日ほどゆっくりと過ごしたあと、新しく用意された『パジャマ』の着替えを手伝ってもらい、コクーンに寝かせてもらった。
「何かあったら、メッセージで伝えますから」
「えぇ。またね、育江ちゃん」
「はい。礼子さん、いってきます」
育江はマウスピースを咥える。
コクーンで人工冬眠するとはいえ、このマウスピースからは最低限必要な水分や糖質、電解質などが含まれたものが送り出されている。
育江はゆっくりと目を閉じる。
コクーンの上部は彼女に被さってぴったりと閉じる。
徐々に、体温とほぼ同じ温かさの液体が充満していき、育江はまた眠ることを選択するのだった。
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(……あ、知ってる天井。やっと帰ってこれた)
ホームで目を覚ます育江。何もない空間だから、知ってるも何もないだろう。
画面右上に点滅するボタン。
色は赤ではない。
おそらくはメールの着信を知らせるものだろう。
育江は右指でぽちっとボタンを押す。
すると受信トレイがあり、メッセージを表示する画面が開く。
そこに書いてあったものはこうだった。
『PWO運営、ゲームマスターのぽち丸です。いつもファンタズマルライフオンラインをご利用頂きありがとうございます』
ぽち丸という人は、ファンタズマル・ワールズ・オンライン運営会社のゲームマスターであり、ニュースや各種メッセージを送ってくれるゲームマスターの中の人でもある。
『メンテナンスのため、明日零時に数秒の間、接続障害が起きる可能性がございます。安全のためにログアウトをしていただけますよう、お願い申し上げます』
よくある定期的メンテナンスのようなものだ。
ログアウトしなくても、数秒ほど目まいを感じる程度。
何度も経験はあるから、さして気にするほどのものではなかった。
あちらではコクーンだが、こちらではふかふかのベッドの上。
メニュー画面にある、倉庫画像のアイコンを押す。
別ウィンドウが立ち上がるとそこには、倉庫が表示される。
育江が着ているのは、ログアウト前の姿のままで、白いパジャマである。
その下にはネイキッドスーツを着ているわけではない。
知り合いの制作者から購入した、普段着にしている装備品。
課金装備ではなく、こちらを気に入って利用している。
課金装備の方が性能は良いのだろうが、育江が意図している姿のものが少ないため、オーダーで作ってもらっていたのだ。
PWOのキャラクターであるアバターは、スキャニングした自分の姿が基本になっている。
着ぐるみなどを着ることは可能だが、性別や見た目を偽ることは『なりすまし』を防ぐために、できないようになっていた。
黒い半ズボンに、黒のニーソ。
踝が隠れるスエード調の靴。
カーキ色のブラウスに、黒い腰丈はある外套を羽織る。
テーブルに映った自分の姿を見ると、相変わらず色白。
右側が赤で左側が鳶色のオッドアイ。
白髪のショートで眉毛にかかるくらいのぱっつん前髪。
育江の見た目は、少しだけ変化がある。
プレイヤーキャラクターの種族設定で、『ハーフヴァンパイア』を選択したからだった。
PWOでもネタ的な種族で、メリットとデメリットがはっきりしていて、使いにくいともされていた。
顔の造りは十五歳の彼女そのまま。
肌と髪、瞳の色でずいぶん印象が変わって見えるはず。
それでも、いかにも魔道士という感じの、黒くて鍔の広い帽子を深く被る。
これで、見た目から性別はある程度わかったとしても、他人の目を気にしないでいられるようだ。
ベッドの縁から一歩歩くと、そこに広がるのは宿屋の一室。
小綺麗で、ちょっと狭めだが、ベッドとテーブル、風呂場にトイレまである立派な部屋。
トイレのドアを開けると、相変わらず無駄に再現性の高い光景。
洋式のつくりで、便座にも柔らかそうなカバーが被せてある。
足下にもマットが敷いてあり、水も流れるようになっている。
無駄にクォリティが高い。
壁には座った位置に丁度いい場所へ、トイレットペーパーが準備してあり、ご丁寧に三角に端が折ってある。
こちらの身体には、トイレは必要ないかもしれないが、そこは運営のノリとネタに力を入れすぎた結果。