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序章

「やぁ、少年」

僕は、気づいた。

「塞ぎ込んだ顔をしているね。どうしたんだい?」

この女がどうしようもなく、

「話したくないならいいんだ。隣、借りるよ。」

嫌いなのだと。


築30年強、木造モルタルアパート1K、203号室。

今日もこいつは僕、沢井田遊助の稼ぎの半分以上を喰らいながらのうのうと生きている。

当の本人はといえば、

「おいおい、ガス止まってるじゃんか…」

実家から送られてきた即席麺類達を前に何もできず、ただ呆然と、空いた口を塞げずにいた。

どうやら世界は僕に厳しいらしい。

あるいは社会が決めた週休2日制の貴重なクールタイムを惰眠で消費した罰なのかもしれないと勝手に独りごちて溜飲を下げた。時刻は15:37、大寝坊である。


失った時間を取り戻すかの様に勢いよく窓を開け、肺を殺すつもりで目一杯息を吸い込んだ。

「ゲホッゲホッ、ガハッ」

突如襲いくる異物感。起床後開店サービスの鼻腔に訪れた入店第一号は、

「やぁ、少年。おはよう、でいいのかな?」

205号室、奈落神嚮華の吐く副流煙だった。

「嚮華さん・・・嫌味ですか?それに前にもタバコは辞めてくれって僕言いましたよね?」

「いやぁすまない!"コイツ"がね、言う事聞かないんだよ。許せ少年。」

ニコッと笑い"コイツ"を挟んだ人差し指と中指をヒラヒラと見せつけてくる。

奈落神凶華。隣人。身長約180センチ、ヘビースモーカー、職業不定。それ以上でもそれ以下でもない。ただ彼女の口から漏れる「少年」の呼称がどこかむず痒くて無視できないのも確かであった。

「大体少年って歳でもないし僕には沢井田遊助って名前があるんですよ。いい加減に、」

「オーケーオーケー。オーキードーキーモウマンタイ。さて私は仕事があるのでお暇させてもらうよ。さらばだ少年。」

そう言い残し彼女は部屋の中へと消えていった。

「ちょ、話してる途中だろ…」

のらり、くらり。暖簾に腕押し糠に釘。どれも彼女が語源と言われても疑わないだろう。どうしようもなく掴みどころのない人だ。手持無沙汰の右手でがりがりと頭皮をかきむしる。

ただ一人静寂に残された僕は、宙に舞う煙をゆっくり、ゆっくりと彼女の轍を辿るように視線で追いかけ、漂っているタールの匂いを反芻させる。

「苦...」

この世の悪をじっくりと煮出したような劣悪極まりない味だ。これが大人の味であるならば僕はネバーランドに喜んで亡命しよう。そして煙のような彼女の前でタップダンスを踏んでやるのだ。タンタカタンタカッ。子気味良い音が脳内に鳴り響く。それを楽しみながら暫く物思いにふけった。


気づけば日も落ちて、慌てて部屋の壁に掛けてある時計にちらりと視線をやる。時計の針は午後8時をとうに過ぎていた。

「飯でも食べるか。」

立ち上がり、カップ麺を手に取り、思い出す。この間ジャスト3秒。思考回路の速度はこれまでの怠慢が収束するように加速して一つの事実にたどり着く。

「ガス、切れてるんだった・・・。」

当然の帰結。本来なら立ち上がる前に気付くべきなのだ。誰のせいだ。僕の3秒を返せ。

ぽつりぽつり、天に吐いた唾の雨が降ってくる。うっとおしい。仕方なく近くのコンビニエンスストアへ向かうことにした。


サンダルを引っ掛け外に出ると空が綺麗だった。しし座にこと座、うお座におうし座。ほかにも沢山の星々が燦燦と輝いている。本当に綺麗だ。

-----そうだ、写真を撮っておこう。

使い古してくたびれたデニムのポケットから急いでスマホを取り出す。だが、スッスッ、いくら画面を擦っても画面は点かない。充電出来ていなかったのだろうか。いや、待てよ。そもそもの話今日は部屋で電気を点けただろうか。少しの間思案して、

-----いや、点かなかったのだろうな。

ガス代と電気水道代はニコイチだ。アダムとイブ。ロミオとジュリエット。僕と、不幸。つまりそういうことである。変えられようもない事実を実感し、目頭から一粒の流れ星がキラキラと頬を駆けていくのを感じた。


ガラクタに成り下がった携帯をポケットに捻じ込み、夜空をしっかりと網膜に焼き付け、鳴りやまない腹の虫のBPMに歩を合わせて静寂な住宅街を抜け、コンビニの入り口へと速足で駆け込んだ。


「らっしゃっせー。お?少年じゃあないか!」

そこには満面の笑みでこちらに手を振る毒煙の化身が立っていた。

「はぁ...なんで居るんですか。」

「言っただろう?仕事があると。」

ああ。確かに言っていた。しかし、コンビニで働いてるのは初耳だ。そして彼女が誰かの下で働いているという事実がにわかに信じられなかった。誰にも縛られず、誘蛾灯に誘われた虫のように近づいてくるくせに、自分勝手にどこかへ飛んでいく。そんな彼女が一つの灯に長居するか?いいや現実的ではない。それならば何故行く先々に彼女はいるのか。どう考えても先回りされている、そう思わずにはいられなかった。まぁこれはいわずもがな妄想であるが。

顔、口調、着こなし、立ち振る舞いの細部に至るまでしっかりと観察し、着せられている感を漂わせた制服にしばし釘付けになる。

零したため息がもう一人の僕を形作り囁いてくる。

『もしかして、俺らのこと好きなんじゃねえか?』

ぱちくり。脳内のブレーカーが一斉に落ちる。いやいや、それはないだろう。というかお前は誰だ。僕だろう。何を言っているふざけるな。

『いやいや、嚮華が他のだれかと喋っているところを見たことがあるか?いや、ないね。』

やめろ僕。一人反語を始めるな。大体僕は彼女に対して好意的感情はない。

と、ここでぬるりと気持ちの悪い笑みが近づいてくる。

「ほう、私が君を好いている、ねぇ....ふぅん.....」

まずい。声が漏れていたのだろうか。確かめるすべはない。だが墓穴を掘るわけにもいかない。しかし思考はあっちこっち飛び交うだけで、だらだらと冷や汗が流れ落ちていく。にやにやと上がった口角がじりじりとさながらインファイトボクサーのようにコーナー際へと僕を送り込む。ええい、ままだ。答えが出せない問題は別の問題を突きつけるまでだ。

「嚮華さんこそ僕の行く先々にいますけど、好きなんですか?」

コーナー脱出。これで幾分か時間を稼げる筈だ。

「勿論さ、もしかして脈アリかね?」

即答だった。

「...ナシだよ。」判断が早すぎる。

「冗談さ。でも私”嘘”は嫌いなんだよね。」

悪寒。すぐに空間が歪んだような錯覚に捕らわれる。嚮華の視線が体に纏わりつき、妖艶な目をした彼女に射すくめられ、体中から脂汗がぶわっと吹き出る。

----嘘?なんのことだ。考えろ。

懸命に動かすがどれとも符合しない。閉店間際の回転ずし屋のレーン上の皿、チェーンの外れた自転車のギア、誰も乗らないメリーゴーランド。ただ同じところをぐるぐると回るだけの脳内に歯がゆさを覚える。

僕は震える体を何とか抑え込み話題を変えた。

「.....見たところ一人みたいですけど他に誰かいないんですか」

本能がやかましいくらいに逃げろと警鐘を鳴らす。奥歯がガタガタと揺れ、今にも腹の底から吐瀉物をぶちまけてしまいそうになる。

「ん?ああ。一人で合ってるよ。不満かね?」

ああ不満だよ。ということはだ。この店は完全に僕と嚮華さんの

「そう、二人きりという訳だ。どうする?」

・・・クソッタレ。

体中に鳥肌が浮かび上がる。目の前の景色が真夏のアスファルトに浮かぶ陽炎のようにグニャリグニャリ、と歪む。は、はは。乾いた笑いが口からこぼれる。絞首台に立つ罪人は頭を垂れ、断罪者の次の言葉を待つことにした。


「ごはんにする?お風呂にする?それとも・・・キャッ。」


転調、張りつめた空気が瞬く間に解けていく。


-----は?


「だから!二人きりじゃないか!いい年した女が居て少年が居るんだ。一夜の過ちの一つくらいあったとしても、な?」

ばちこん、とウィンクを決める。

-----なんだそれは。肩透かしどころじゃない。

「はぁ。.....もういいですかね。明日早いんで早く買い物を終わらせたいんですが。」

なにおう!ぷんぷん、と。歳不相応な振る舞い。

それに苦笑いと一安心。さっきまでの不気味な視線は既に消えていた。


「まぁ、引き止めてすまなかった。つまらないものしかないがゆっくりと過ごしてくれたまえ。」

「なんですかつまらないものって。嚮華さんの家じゃないでしょ。」

「小さいことを気にするな少年。ほら、コーヒーでも飲んで落ち着き給え。」

「要りませんって、それ商品じゃないですか。怒られますよ。早く仕事に戻ってください。」

「むむむ。ああ言えばこう言う。そんなんじゃモテんぞ少年!」

余計なお世話ですよ。ほら戻った戻った。

そう言うとちぇっ、と唇を尖らせ、観念したのかスタッフルームに下がっていった。


見えなくなったことを確認して、僕は陳列棚の商品の物色に移る。

-----それにしても。

思い出して反射的に体をぶるりと震わせる。未だに腹の底が冷えている。忘れよう。何が彼女を豹変させてしまったかわからない。だが確実に尾を踏んでしまったのだ。女豹の尾を。


気を取り直して本来の任務に取り掛かる。が、必要最低限の炭水化物と飲み物をお迎えしてあっけなく終わってしまった。なるほど最近のコンビニというものは大抵のものが揃ってしまうのだから恐ろしい場所だな。などと考えながら腕に下げた緑のカゴに、目についた商品を次から次へと放り投げる。ひとつ、ふたつ、みっつ。財布の中のお偉いさん方がこぞってこちらを不安げに覗いてくる。終わりじゃなかったのかい?足りるのかい?長い間手の油を吸ってしっとりとした紺の革財布では、井戸端会議が開かれていた。

-----騒がしい、知ったことか。

欲求に逆らったところで腹は膨れやしない。君たちこそ何人居るんだ。がっと掴んで財布を乱暴に開く。諭吉が一人に英世が三人。ほう、上々じゃないか。ぺろり、と舌なめずり。カケラほどの良心の呵責を握りつぶし、カゴいっぱいに商品を詰め、欲望を細胞の隅々まで行きわたらせる。

-----よし、これで明日も生きられる。

上機嫌になったところでレジへとむかうことにした。ふと、雑誌コーナーに目が行く。違和感。例えるならそう、家を出た後に鍵をかけたかかけてないかのような些細な違和感。それが僕の意識の底のほうへと近づきコンコン、とノックをしてくる。音が脊髄を介して背筋を伝い、這って登ってくる。到達。チリチリと耳元で火花が散る。

普段から週刊誌を見るような僕ではないがどうしても無視できずに、なんとなく目についた一冊を手に取り、指の引っ掛かりを覚えたページを開く。すると、一面には凄惨な写真にでかでかとした見出しが広がっていた。


あまり見ていて気持ちのいいものではなかった。


僕は休日が刻一刻と失われていくのを嫌い、週刊誌を元の場所に戻し、嚮華さんを呼んで会計を済ませた。

「あざしたー。また明日な、少年。」

間延びした声を背中で受け取める。そうだな、また、明日だ。先週まで進めていたタスクを思い出し、明日からまた訪れる日常に軽く辟易しながらまっすぐ帰路に就いた。


えー。執筆のモチベが上がらないために短編ではなく小出しにして連載小説にすることにしました。楽しいので終わりまでは持っていきますが更新頻度はばらつきがあるので悪しからず。

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