エピローグ
2018年12月12日 9時
あれから事件の顚末について話すと、その翌日に藍原千歳からいつものように3階のテラス席に呼び出された。話によると、メディアで事件については報道された。静岡市内で女性が暴行をうけて男性が逮捕。名前は当然非公開で職場にも被害をうけた女性が藍原千歳だということは同僚の山崎卓郎を除いて皆知らない。
ホール長についてだが、事件の翌日に本人から辞表を職場に提出して来たらしい。職場は当然混乱したし騒然だった。ホール長の辞任後はサブリーダーの乾さんが就任したそうだ。まぁ乾さんなら安心だ。
それで、肝心の藍原の新作会議の立候補についてだが、あの販売課の爽やかイケメンの苅野さんが候補の1つとして立候補に提出したらしい。結果は、残念ながら藍原のスイーツは通らなかったそうだ。
だが、藍原は落ち込んでいなかった。それよか前よりさらに前向きに取り組んでいる。ホール長が乾さんに代わって、誰でも立候補に出せるようになったからだろう。それぞれ個々の実力次第でいくらでもチャンスがあるなら、さらに自分のスイーツ作りの腕を磨くに越したことはないからだ。そのおかげで今は生地作りだけではなく、ソース作りに盛り付けといった他の工程もやるようになったらしい。正直、俺にはスイーツ作りのことはわからないが藍原本人から聞いた時、凄く嬉しそうなのは口調や声色で伝わった。
ここまで来ればめでたしぃめでたしぃで終わるのだが、俺はまだ納得してないことがある。
それはーーーー
「デリの仕事は続けるわ」
だそうだ。 なんでだよっ!
今回の件で、前ホール長のパワハラ容疑もあって高額の慰謝料も請求できて藍原のおじいさんの入院費も事足りるだろうに、続ける意味がどこにあるんだよ。
その問いによる藍原の答えはこうだーーーー
「私生活のためよ」
自分のためでした。
どうやら藍原の部屋は入居時にリフォームしていてほかの部屋より家賃が割高らしい。それに女は男と違い金がかかるんだとさ。
俺はこれを聞いた時、呆れもしたが内心安堵してた気がする。なぜなら、また藍原からの相談は現在進行形で続いているからだ。これが俺の望んだ結果なのだ。
とまぁ、ここまでが今回の顚末。現在は藍原からの呼び出しも暫く来ない。俺はいつもと変わらず倉庫から現場へ物資の運搬の真っ最中だ。今回も量が多く、同僚の山崎卓郎と一緒にそれぞれ台車を押しながら移動している。
「藍原千歳、今日も可愛かったなぁ」
何回聞いた言葉だろうな。
俺と卓郎は物資の運搬先までの途中で藍原のいるお店を通過した。その時に2人で藍原の仕事してる姿を見ていつもの会話に発展する。
「そうだな」
「おっ! いつもの返し」
卓郎は俺の返答に軽く驚く。
最近の俺は、卓郎の「藍原千歳、今日も可愛かったなぁ」の返答には否定や疑問の返答だったから、肯定する返しは久しぶりだ。
「じゃあこれでどうだ?」
俺はさらに続けて、
「俺たちには高嶺の花だな。一生縁の無い話だ」
なぜか誇らしげに、それでいてどこか嬉しさを出しながら俺はいつもの返しをする。
この2、3週間俺にも心境の変化があり、それはきっと周囲の目線からもわかることなのだ。
「なんだか、りょうちん変わったな」
「そうか?」
「前まではそうだなぁ………顔に表情は出てるのに目は死んでた」
「酷くない?」
「いやだって、本当のことだし」
「おい。………今はどうよ?」
「今はちゃんと生きてる目だ」
俺はくすりと笑いが溢れる。
「そっか」
元カノと付き合ってた時、俺は会話の返答がまるで教科書やマニュアルみたいな対応だった。側から見れば普通のカップルに見えても「似合う?」と言われれば「似合ってる」と回答し、「楽しいね」と言われれば「楽しい」と回答するだけの偽物の関係だったのかもしれない。偽物が本物に変わることは俺があのままだったら一生実現することはないのだ。
「で、りょうちんは藍原と付き合ってるのか?」
「えっ?」
唐突な卓郎の問い。
でも俺は動揺しない。なぜならもう答えが自分の中にあるからだ。
「それなんだけどな、藍原に『私のこと好きなの?』って言われた」
「マジかよ!?」
卓郎は驚いた反応をするが、俺の表情ですぐに悟った。
「バカだなぁ。りょうちんは」
「そうだな」
呆れつつも楽しげな表情の卓郎。
「肯定してたら、もしかすると付き合うことができたかもしれないぜ?」
「さっきも言ったろ? 高嶺の花だ」
「違いねぇ」
俺達はたわいのない話をしながら運搬先まで運び終え、互いにそれぞれの運搬先の物資を運ぶため卓郎と別れた。
今日も特に変わったことのない業務をこなす。お昼は藍原の相談のメッセージがない限り3階に行くことはなく、卓郎と昼飯を食べてから午後の業務を行い1日が終わる。藍原と会う事がなければ大体こんなものだ。
帰りに駅前に飾られた巨大なクリスマスツリーを見ながら再来週にはリア充イベントのクリスマスがやってくるのだとしみじみ感じた。そのまま駅の南口のバス乗り場へ向かう途中、駅の改札口を通過するのだが俺は足を止める。ここが始まりだったと感慨深くなり、止めた足を再び動かす。
バスに乗り自宅のアパートの近くのバス停で降りたら徒歩で自宅に向かう。帰りに寄り道せず買い物もしない。自宅に戻れば、夕食を食べてシャワーを浴びてスマホを弄ったりテレビを観て、時刻も遅くなれば布団を敷き就寝する。
こうして俺の1日は終わり、明日を迎えるのだ。
2018年12月13日 7時半
7時に起床した俺は、出勤に向けて身支度をする。朝食は食べたり食べなかったりと適当で、今日は家で食べずに途中で購入することにした。玄関の鍵を閉めて階段を降りていつものバス停に向かい歩き始める。
ここまでが俺の日常ルーティーンだ。
ただ、唯一ルーティーンに変化があるのならーーーーー
「おはよ」
そこに藍原千歳がいる事だ。
「おはよ」
つい最近まで藍原と朝鉢合うのはゴミ出しくらいの時なのだが、
「今日早いな」
藍原の格好は身に覚えがる。レディースのジャンパーにタートルニット、デニムのストレートパンツ。この姿は藍原のおじいさんーーー藍原敏夫さんの病院へ行った時と同じ服だ。
「少し前から、出勤時間が早くなったわ」
「そうなんだ」
「仕事もやること増えたし、新しいホール長が私に来年からサブリーダーになってもらうって」
「へぇー」
新しいホール長は職場のお姉さん的存在の乾さんだ。
それよりも藍原がサブリーダーかぁ………。
「じゃあ余計デリ嬢やってられないんじゃないのか?」
「それでもやるわ」
「そうでございますか」
俺はこれ以上言及しない。
俺と藍原は秘密の共有相手だ。ただそれだけの関係。だからそれ以上のことは追求せず、話も広げたりはしない。
「………………」
「………………」
しばらく黙り、
「なぁーーー」
「ねぇーーー」
同時に言葉が被さる。
「なんだよ……」
「あなたこそ……」
相変わらずこの謎の気まずさだけは消えない。
「職場同じだし、途中まで一緒に行かないか?」
先に発したのは俺だ。
「私もそう言おうと思ってた」
「奇遇だな」
俺は藍原の隣に並び共に歩き出す。互いに歩幅は一緒で、前回のような後ろをついて行く形ではなくなった。
俺も藍原も隣を並んで歩く。そして藍原がーーー
「ねぇーーー」
と足を止めて、俺が少し前を歩き過ぎて距離が空く。
藍原は風で靡く髪を右手で押さえながら、女神のような優しい表情でこう言った。
「また、相談に乗ってくれる?」
俺の返答は決まっている。
「もちろん」
こうして俺ーーー後嶋龍太と藍原千歳の関係は今日も続いていく。
エピローグ 完