愛のある死
しばらくすると、電気自動車に乗って、両親が市場から帰ってくる。野菜や牛乳、卵はすべて売り切ったようだ。そして、いつの間にかいる青年、リーに驚く。当たり前だ。バラック小屋の冷蔵庫に保存してあった牛乳を、勝手に飲んでいるのだから。
「き、貴重な牛乳を! 誰だ、お前は!」
セイは怒鳴り声をあげ、すぐにでもその牛乳瓶を取り上げようとする。だが、リーはひらりとかわし、そして腰に手を当て、体をそり、見事に飲み干してしまった。
「へぇ、この家の電力は、ソーラーパネルか! それにしても、太陽光も陰りやすい現代で、ずいぶんと発電効率がいい。いいものを作ったんだなぁ、カイは!」
「な……なんでカイが作ったって知ってる!」
「この防塵ゴーグルといい……録音機能、インターネット接続機能……ある一時の科学者ならば、最高の発明品だ。それを、物の少ない現代で作り上げる。大したもんだよ、誇りだね」
バラック小屋から出て、小屋の全貌を眺める。そこには、カイの作り出した発明品が、家を支えていた。ソーラーパネル、冷蔵庫、AIの設備、ネット回線。生活に必要なすべては、カイが作ったか、より良くしたかのどちらかだ。
それを、たった今来たはずのリーは知るはずがない。だというのに、まるで知っているかのように言うのだ。そして、セイを見てこういった。
「あんた、子供を機械みたいだと思ってるよな。よっぽど、機械が嫌いなんだな」
ニヤリ、と怪しげに笑うリーに、セイは言い返せない。それはすべて事実だった。
「あの……カイのことをよく知っているようですが、あなたはどちら様ですか?」
アキは恐る恐る聞く。「そう言えばまだだったなぁ」とぼんやりつぶやきながら、はははっと軽く笑う。
「機械が相当怖いんだな、あんたも。俺の名前は、リー。中華系の人間だと思ってくれ」
「リー? ここは日本領土、大陸から渡る手段なんて、ないはずですよ?」
「あー、俺は旅人だからな。どんな航路でもわかる。海を越えるのだって簡単だ。砂漠を歩き続けろと言われてもできる。電子の海から、ただ一つの真実を探ることもできる」
「電子の海……?」
「そこは気にするな、例えだと思え」
アキもセイも、リーの発言にはすべて首をかしげるばかりだった。的を得ることも怖いほどあるが、本人の実態に関しては、例えが突飛で、どこかはっきりしない。
そんなリーを、ただ黙ってみていたカイは、ようやく口を開く。
「あんたってさ、何者なわけ。俺、お前に発明品の話なんか、したことないんだけど」
「んなもん、見たらわかるってだけさ。言ったろ、電子の海から、ただ一つの真実さえも、つかめるんだよ、俺は」
それは、どこか比喩ではない気がした。事実としてそこにある。だが、それではリーが何者なのか、誰もわからなかった。
「おや……ずいぶん騒がしいねぇ」
バラック小屋の奥の隅で、声が聞こえる。ゆっくりと黒い塊が起き上がり、毛布の中から、灰色の髪の老婆が現れる。
「おばあちゃん、起こしちゃったか。ごめん、物騒な奴が来てさ」
カイは小さく頭を下げる。だが、そんなことは彼女にとってどうでもよかった。ただ、目の前の光景に、細くなった目を丸くする。
「リー……リーさん?」
「あぁ、チヨ! 久しぶりだな、元気してたか?」
「リーさん、リーさん!」
弱弱しい体で、何とか起き上がろうとする。だがそれを止めるように、リーさんは彼女に抱き着いた。
「病気なんだろ? 頑張らなくっていいんだ。俺はここにいる」
「リーさん、今までどこに行ってたの? ずっと、会いたかったのよ」
弱弱しい、震えた声で、ゆっくりと言う。それを聞き漏らすことなく、リーはうなづいて答えた。涙を流し、喜ぶ祖母、チヨの姿を、セイも、アキも、カイも見たことがなかった。いつもは病気で、毛布にくるまって伏せているチヨが、こんなにも肌が色づき、活気あふれるなんて、ありえない。
「母さんがこんなに元気になるなんて……リー、お前はいったい……」
「まぁまぁ、お前は知らねぇか。いいんだよ、知らなくったって。俺と、チヨが知ってればな」
少しだけセイの方を向くと、すぐにリーはチヨの方を向いた。
「チヨ、お前の体を治してやれる。俺はそのための薬を持ってきた」
すると、どこから取り出したのか、いつの間にか、手には小さな小瓶があった。
「これは?」
「アルカロイドっていう、薬だ。飲むといい。万病がすべて解決だ」
リーは笑顔で、チヨに瓶を渡す。チヨは笑顔で、それを受取ろうとした、その時だ。
「バカバカしい!」
カイは回し蹴りで、その瓶を蹴り飛ばした。瓶は割れることなく、ころころと転がっていく。
「アルカロイド……確かに薬にもなるが、毒でもある。まさか、おばあちゃんを殺そうとしたな?」
「詳しいな、セイ。そして殺そうとした、それも正しい。だが、一歩違う。これは本当に薬なんだ」
「薬で殺す? 何をバカな」
「あぁ、alkaloidの英語をもじったプロジェクト、ALKAROID計画があってね、この薬を使い、体を電子化し、アルカロイドを含む、麻薬と同じように、脳に快感を与え、自然消滅を待つ……俺はね、チヨを楽にしてやりたかった。それが殺すことだったとしても」
ALKAROID計画……それはそこにいる誰もが初めて知った。だが、同時に激怒した。家族に無断で、身内を殺していいはずがない。
「いい加減にしろ! 母さんを殺そうとしたなんて、お前はやってきて早々なんてことを!」
セイは怒鳴り散らし、そしてリーの胸元を掴み、拳で思いっきり殴り飛ばした。体は軽く宙に浮き、地面をゴロゴロと転がる。その時、近くの棚にぶつかった。
「おっと、セイ。いいのか? ならばお前の、いや、お前たち夫婦の秘密をばらしてやってもいいんだぜ?」
「何を……母さんを殺そうとしたお前に何がわかる!」
「何を言う、お前だって「殺そうとしてた」じゃないか」
「……え」
リーはニヤリと笑うと、電子ロックがかかっている一番下の棚を、パスワードを打ち込み、軽々と開ける。そして、その中から取り出したのは、液体の入った小瓶だった。
「息子の電子ロックをこんな物騒なことに使うなんてな。ますますカイが不憫だよ。今、町から帰ってきたな。もう一本持っているだろ? 一杯じゃ足りないと思って、もう一本買ったんだよな。ペントバルビタール、そう「安楽死」の薬をね」
「な……なぜ知っている……!」
「お父さん、なんなのよこの人! 全部お見通しじゃないの……!」
嘘だ、父さんと母さんが、おばあちゃんを殺そうとしていたなんて、ありえない。何かの嘘であってほしい、カイはそう願った。そこには、家族の中にあった「知らなかった絶望」があった。
父と母は、子供を機械みたいに忌み嫌い、そして、祖母を殺そうとしていた。そこに愛情などなく、恐怖と、嫌悪しかなかった。
「安楽死なんて言い方はもう古い! 尊厳死だ、これは尊厳死なんだ!」
企みがばれて、セイは錯乱する。頭を抱え、狂ったように怒鳴るセイを、リーは呆れた目で見ていた。
「相手に死を伝えないのは、俺もお前も同じ、人殺しだよ。ただ楽に殺すか、快楽を与えて消滅させるか、それだけの違いだ。だが、そこには大きな違いがある」
リーは暴れまわるセイの髪の毛を鷲掴みにし、睨みつけた。
「お前は、病気で邪魔になったから殺す。俺は、チヨの苦しみを知っているから殺す。お前に、愛はあるか」
「……殺すことに、愛が必要なのか!」
「愛のない殺し方なんて、最低だ。それは、救いようのない悪でしかない」
「じゃあ……愛のある殺し方は、救いようがあるのか」
「あるさ、その人のためを思っている、誰かの正義なのだから」
その発言は、カイにとって、狂っているとしか思えなかった。しかし、完全に否定しきれない気持ちが
どこかで渦巻いていた。その瞳は、その言葉は、あの笑顔は、本当に祖母のことを思っていると、カイは感じていた。だからこそ渦巻くのだ。愛しているから殺す、その矛盾を、理解できずに。
……セイの顔は、ひどく色が抜け、撃沈していた。それを見て、アキはびくびくと怯える。リーと目が合ったアキは、すぐさま土下座した。
「ごめんなさい、リーさん。もう、殺さないから、許して、お願いします……!」
「没落したなぁ。ま、いいんだけどさ」
興味なさそうな顔をした後、切り替えるように、少し控えめな笑顔で、チヨの方を向いた。
「チヨ、俺はお前を殺そうとした。残念だけど、紫外線にやられたその体を治してやれる薬は存在しない。それを作る研究者は、皆、火星に行ってしまった。だからこそチヨに聞きたい。楽になりたいか」
するとチヨは、満面の笑みで言うのだ。
「えぇ、殺して、リーさん。愛のない世界より、愛があるリーさんに、殺してもらったほうが幸せだもの。最後に愛を、実感できるなら、生き抜いた甲斐があるわ」
「……そこまで言えるほど、辛かったか」
リーの表情が少し曇る。
「機械に支配されて、感情がなくなって、愛もなくなって……この世界のどこに、幸せがあるっていうの?」
チヨの言葉に、リーはニヤリと笑った。あぁ、まさにそうだ。そう肯定しているかのように。
「あぁ、そうだな。第三次世界大戦から、あんまりだよ、この世界。愛がAIに変わった、なんてね」
「あら、嫌なジョークね、リーさん。ねぇ、リーさん、最後に教えてくれないかしら」
「なんだい? なんでも答えてあげよう」
チヨは、リーに近づく。リーはすぐさま理解して、耳を傾けた。チヨは内緒話をするように、小さな声で囁く。
「────」
リーの顔から笑顔が消え、その顔は真剣そのものになる。そして、チヨの耳もとで囁いた。
「あら、そんな近くにあったのね。うふふ、冥途の土産ね」
チヨはそう言って、最後の力を振り絞る。重い体を引きずって、先ほどカイが蹴り飛ばした瓶を手にする。
「さよなら、リーさん。最後に会えて嬉しかったわ」
共に暮らした家族には、何も言わず、何者かもわからない、リーにだけ別れを告げ、その薬をゆっくりと飲み干す。
死を受け入れ、死を喜んでいた。その体は次第に電子の粒になり、幸せそうに消滅する。
────愛のある死だけが、何よりもの救いだったのだ。
「……ごめんな、チヨ。俺は、殺すことしかできない。お前たちを幸せに殺してやることだけが、俺の……」
いびつな愛を知った。悪意が近くにいることを知った。今日だけで、知ったことは山積みだ。カイの脳みそは、どこか遠くに置き座られたような感覚に陥っていた。