僕はピエロ
帰宅ラッシュで賑わう午後六時半の駅前。自分の駅に帰って来た人、これから帰る人。仕事を終えた彼らを癒すためか、もしくは嘲笑うためか、ピエロが一輪車に乗ってジャグリングをしていた。
クラブと呼ばれる、細長いボウリングのピンのような形をしている棒がくるくると、右から左へ流れるように回っていた。
ピエロを取り囲むようにいる数十人のお客は、皆笑顔だった。その中の一人が事前に渡されていたクラブを、下手投げで丁寧にジャグリングの輪の中に入れた。ピエロは落とすことなく見事にクラブを回し続けると、歓声が上がった。続けてもう一本投げ込まれると、拍手が起こった。
そのままジャグリングを続け、ピエロは拍手が鳴り止むと、一輪車に乗ったまま移動し始めた。すると、先程より大きな拍手が起こった。
喝采を浴びながら、ピエロはぐるぐると回り、何周かした後、元の位置に戻った。そして、クラブを空高く投げた。
ロータリーの屋根よりも高く、夜空に舞うクラブは、客はもちろん、路傍の人の注目を奪った。やがて、皆の視線はクラブと共に降りてきて、最後にはピエロの両手に集まった。しっかりとクラブを同じ向きでキャッチすると、今日一番の拍手が沸き起こった。
パフォーマンスを終えたピエロは一輪車から降りると、称賛に答えるように右手を胸に当て、左手を後ろに回し、左足を後ろで交差させて、恭しく頭を下げた。
駅前の一人サーカスは熱狂の内に幕を閉じた。
荷物を入れていた大型のトランクケースは、客に向けて開けているが、凄かったなあ。私、ああいうの初めて見た。口々に感想を言いながらも、ケースに背を向け帰路に着く客がほとんどで、投げ銭を入れてはくれない。
「ママ、ごほうびー」
散り散りになっていく客の中、一番前で見ていた女の子が母親を見上げ、何かをねだっていた。
「はいはい」
母親は鞄から財布を取り出すと、娘に百円玉を渡した。
女の子はテクテクとこちらに歩いてくると、もらった百円玉をケースの中に入れた。
「ピエロさん、すごかったよ」
ピエロはお礼を言う代わりに、微笑みながら手を振った。そしたら女の子も同じように手を振り返してくれた。
「じゃあ、行こうか」
母親が手を差し出した。
「うん。ピエロさん、またねー」
握り返した手とは反対の、小さな手を元気よく振る女の子に、ピエロも大きな手で勢いよく振り返した。
後片付けを終えたピエロも帰路に着いた。パフォーマンスとしてではなく、移動手段として一輪車に乗り、すれ違う人の視線を集めながら……。
「大杉」
名前を呼ばれた大杉は、すぐに課長のデスクへと向かった。
「ここ、予算の桁、一つ間違えてる」
昨日作った会議で使う資料。該当箇所のページが開かれた状態で、大杉の前に出された。
「すみません。すぐに直します」
「作るの遅い上に間違えるってどうしようもないな」
頭を下げ、急いで作り直そうとしたところに、課長の嘆きが聞こえた。
「……すみません」
大杉は萎れた歩みで自分のデスクに戻った。
「またですか」
向かいの席の後輩、野木も呆れていた。
「ああ」
後輩に舐められても言い返すこともせず、生返事を返すと、大杉はすぐさまパソコンのファイルを開いた。修正が終わると、音を立てずに大きくため息を吐いた。出来上がってから確認したはずなのに、どうしていつもこうなのか……。
「大杉さん」
隣の席の女性職員に呼ばれ、振り向いたが、彼女は要件を伝えようとはせず、ただまじまじと大杉の顔を見てきた。
「何?」
「いえ、大杉さんって、家、新川でしたよね?」
「そうだけど」
「じゃあ、最寄り駅は新川ですよね?」
「そうだけど」
何だか嫌な予感がした。背筋にスッーと伝うものがあった。
彼女は仕事場にいる時は長い髪を後ろで括っている。帰庁の時も同じ髪型。けれど大杉は、髪を下ろした彼女を見たことがある。しかもつい最近。
「実は先週、新川の友達と飲む約束をしてたんです。それで駅に着いたらちょっとした人だかりで出来ていたんです。何かなって思って見に行ったら、駅前に広場みたいなスペースあるじゃないですか? そこにピエロがいたんです」
「ピエロ?」
間抜けな声を出したのは野木だった。
彼女は野木の方をちらっと見たが、また向き直って話を続けた。
「そのピエロは一輪車に乗ってジャグリングをしてて、私、そういう大道芸? を見たの初めてだったんで興奮しちゃって、最後まで見てたんです」
「そのピエロなら僕も知ってる。金曜日にいつもいるよ」
「そのピエロに大杉さんが似てるんです」
予防線を張ったが、彼女は難なく飛び越えてきた。
「まさか」
大杉は苦笑いを浮かべ、彼女の視線から逃げた。
「メイクしてて顔は全然わからないんですけど、背格好が……」
「小さい?」
野木が要らぬ合いの手を打つ。
「小さい言うな」
彼女は気を遣って言わなかったが、大杉の身長は158cm。男にしてはだいぶ小さく、漏れなくコンプレックスになっている。
「それと、左手のほくろも、同じ位置にあったような気がするんです」
思わず右手で隠した。
「大杉、楽しそうにお喋りしてるな。けど、何で俺の手元には資料がないんだろう」
「すみません」
大杉は印刷をクリックし、弾かれたように席を立った。
今回ばかりは課長に感謝だ。
手袋でもしようかな。印刷機に置いた左手の甲。そこにある綺麗な丸い、大きめのほくろを見て思った。
大林がピエロになろうと思ったのは半年前。ショッピングモールで大道芸を見たのがきっかけだった。
一階のエスカレーター横のイベントスペースで、大道芸人がクラブを使ってジャグリングをしていた。用意された席は半分も埋まっていなかったが、数少ない客は拍手を送っていた。
それを二階から降りるエスカレーターから見ていた。
一階に降りても横目に通り過ぎただけだったが、家に帰ると、おたまとフライ返しでジャグリングに挑戦していた自分がいた。
ちょっとやってみただけ。テレビで紹介された店に行ってみたいと思う。それと同じ感情。
初めは一回も回すことが出来なかったが、五分も投げていると、ゆっくりだが、回せるようになった。そのせいか、その日のうちにネットでクラブを買った。翌日、衝動買い特有のやっちまった感に襲われたが、そこまで高価なものではなかったので、すぐに波は引いていった。
本物でジャグリングを始めると、何だが一段階ランクがアップしたような気になって、仕事から帰っては、飽きずに練習する日々が続いた。けれど、その時はまだ趣味の一つだった。それがなりたい職へと変わったのは友人と家で飲んでいる時、「これなに?」と、クラブをこちらに向けて振ってきたのがきっかけだった。
大杉がキッチンでおつまみを作っている間、リビングにいた友人に、クローゼットの中の収納ボックスに入れていたのを、勝手に見つけ出された。
「あー、えっとー。それでジャグリングしてるんだ」
誤魔化そうかと思ったが、隠すほどでもなかったので照れ笑いを浮かべながらも、本当のことを言った。
「見せて」
そう言われたので、大杉は調理を一旦中止して、エプロン姿のままジャグリングをして見せた。
「おお。凄げえな。大道芸人なれるんじゃない?」
本人からしたら感想の内の一つだったが、大杉はその言葉を真に受けた。その日から本格手に大道芸人を目指し始め、ジャグリングだけではレパートリーとして少ないので、大道芸と考えて思いついた、パントマイムも練習し始めた。
金曜日の夜。通称花金。サラリーマン達が一週間で一番羽根を伸ばす夜に大杉はピエロになる。
仕事から帰った大杉はすぐに着替えると、メイクにとりかかった。
顔を白く塗り、口は裂けて見えるように口紅を塗る。右目にスペード、左目にハートを描き、目を閉じた時、綺麗に現れるか、ウインクをして確認。初めは一時間近くかかったが、今では三十分とかからない。不細工な形だった柄も美しく描けている。
メイクを終え、上下赤と白の、光沢がある水玉模様の服を着て、真っ赤な付け鼻、先端にこれまた真っ赤な毛玉が付いたナイトキャップを被れば準備完了。
大道芸をやるのにピエロになる必要はないが、初めて路上でパフォーマンスを見せようとした時、あまりの緊張と恥ずかしさで、何も出来ずに家に帰ってきた苦い思い出があり、それを克服する方法として、自分を隠す手段として大杉はピエロになっている。ピエロになると言葉を発さないのは、それがピエロだと勝手に思い込んでいるから。お客さんも会話は求めていないので、態度の悪いピエロ。などと批判されずに今日までやってこれている。
大杉はトランクの中を開け、最後に忘れ物がないか確認した。と言ってもジャグリングに使うクラブ。ボール。それぐらいだ。
トランクを締め、爪先が剃り上がった左右色の違う靴を履き、玄関に置いてある一輪車を手に取り家を出た。一輪車は子どもの頃から得意だったのでちょっと練習しただけで、すぐ乗れるようになった。
マンションから出るとすぐに一輪車に乗り、街を見下ろしながら駅へと向かう。信号待ちは危ないので一旦降りる。その間、待っている人達の話題をかっさらうのは、火を見るより明らか。ただ突っ立っていると気味悪がられるので、いつも手を振ることにしている。
反応は年代によって決まっている。大人からは、不気味に思われ、中高生はなぜか大笑い。子供は振り返してくれる。今日は盛大に笑われた。
駅前の広場に着くと、突如現れたピエロに道行く人は何事かと色めき立つ。
大杉は一輪車から降りトランクを置くと、パントマイムを始めた。
まずは目の前に壁があるかのような動きから。そして、四方が囲まれ、そこから出ようと見えない壁を押す。何度も押すと、突然壁がなくなり、そのまま勢い余ってつんのめる。立ち止まっていた数人の顔に笑顔が見えた。続けて、トランクが宙に浮いているかのような動き。いくら引っ張ってもビクともしない。両手で引っ張るが動かず、疲れてしまい大袈裟に肩で息をする。息を整えて、もう一度引っ張るが、突然重たくなり、地面へと落ちる。
ピエロは腕を組み不思議そうに首を傾げる。そして、何とか持ち上げようとするが、全く持ち上がらない。何かを思い出したピエロは、ポンっと拳で掌を叩くと、指を鳴らした。すると急に鞄が軽くなり易々と持ち上がった。見ていたカップルの彼氏が手を叩く。
今できるパントマイムはここまで。次はトランクを開け、まずはバウンズボールと呼ばれる、高反発するゴムボールを取り出す。この時、トランクはお客さんの方へ開けたまま置いておく。
これからジャグリングを始めるが、手袋はしていない。職場での一件があったので、手袋をはめて練習してみたが、いつもと感覚が違って、何だかやりにくいのでやめた。怪しまれても白を切ればいい。それに、声と顔はわからないなら、疑われはしてもバレることはないだろう。
準備運動程度に普通のジャグリングをしてから、続けて地面に向けて投げる、バウンズジャグリングを披露する。
初めて五分。次第に客は増えてきた。あの親子もいる。
地面から跳ね返ってくるボールを目にも止まらぬ速さでジャグリングをすると、拍手が鳴り響いた。
パチパチパチ、と心地よい音楽の中、ピエロはボールをクラブに持ち替えた。五本あるクラブのうち、二本をお客さんに渡すと、まずは残りの三本でジャグリングを始めた。
安定してきたところで、アイコンタクトを送り、クラブを投げ入れてもらう。一本、そしてまた一本。合計五本のクラブを見事に回した。
今度は五本すべてをお客さんに渡すと、ピエロは一輪車に乗った。そして、クラブを投げてとお客さんに掌を上に向け手招きする。
落とさない? と不安そうな人。参加できて嬉し恥ずかしそうな人。彼、彼女らから投げ入れられたクラブが見事に収まると、歓声と拍手が巻き起こる。そして、いよいよパフォーマンスはフィニッシュへと向かう。
一輪車で移動しながらのジャグリングを見せ、お客さんの前へ戻ってきたピエロは、タイミングを計っていた。いつもここが緊張のピークだ。お客も次は何をするのかと固唾を飲んで見守っている。そんな中、五本のクラブが夜空へと舞い上がった。
「大杉?」
パフォーマンスを終え、お客さんも自分の時間に戻り始めた時、名前を呼ばれた。
自分の名前を急に呼ばれると、誰でも振り向いてしまうだろう。大杉もそうだ。それは当たり前のことだが、今自分はピエロの格好をしている。それなのに、振り向いてしまった。
「やっぱり大杉じゃん。そのほくろでわかった。こんな所で何してんの? ってか大道芸人やってんの?」
そこにいたのは高校の同級生の村木だった。膝上のジーパンに胸元が見えそうな白いTシャツに、黒光りしているポシェットを肩から提げていた。
よりによってこんな奴にバレるとは。……後悔先に立たずとはこのことだ。
「私のこと知ってる? 村木。高校の時一緒にクラスだった」
覚えているよ。休み時間、それに授業中も馬鹿でかい声でペチャクチャペチャクチャ喋ってて、うるさかったからな。
「何で黙ってんの? もしかしてお金入れないと喋りませんよ的なやつ?」
トランクを一瞥した、化粧で大きく見せているその目からは軽蔑が伺えた。
このまま黙っていれば、すぐどっかに行ってくれるだろう。去り際に文句の一つや二つ言われるが、構わない。
僕はピエロ。ピエロは喋らない。
「ピエロさんをいじめないで」
殺伐とした空気の中に可愛らしい声が入ってきた。
いつも百円玉を入れてくれる女の子が、村木を見上げていた。
「いじめてないよ。私はこのピエロと友達なの」
よくもぬけぬけと言えたもんだ。クラスが同じだっただけど、一度も喋ったことないくせに。
「そうなの?」
女の子は真っ直ぐな、化粧も何もしていない綺麗な目で見てきた。その純真さに嘘は吐けず、大杉は首を振った。
「あっそう。せっかくお金入れてあげようと思ったのに」
恥をかかされた腹いせのつもりだろうが、金目当てでやっていないので何ら困ることはない。それでも村木は、勝ち誇ったかのように得意気な顔をしていた。
「おいくら入れるつもりだったのですか?」
女の子の母親が村木に訊いた。
声をかけられ、戸惑う村木を尻目に、母親は肘にかけていた鞄から財布を取り出すと、一万円札をトランクに入れた。
村木も、そして大杉もその額に驚きを隠せなかった。
「いくら入れるのですか?」
母親は、今度はしっかりと村木の顔を見て、もう一度問うた。
丁寧な口調。けれど、挑発していることは明らかだった。それは村木もわかっていて、負けたくはなかっただろうが、おいそれと出せる金額ではなかった。
村木は母親をキッと睨む悪あがきをして、駅へと早足で向かっていった。
「ママー、わたしもごほうびあげるー」
大杉を助けた小さな勇者は、何事もなかったかのように、いつもみたく母親におねだりをした。
「はいはい」
母親が百円玉を娘に渡すと、娘はそれをトランクへと入れた。
「じゃあ行こうか」
「うん」
親子はそのまま去って行こうとしたが、大杉はトランクの中から先程の一万円を取り出すと、慌てて後を追って、母親の肩を叩いた。そして、振り返った母親に差し出した。
「いいんですよ。これは差し上げたものですから」
それでも大杉は勢いよく首を振って、食い下がった。
「ポーズで差し上げたわけではありません」
この親子は毎週見てくれている数少ないお客さんなので、入れようと思えばいつでも入れれた。だからこそ、あのタイミングで入れてくれたこの一万円は、自分を救うためのもの。そうでなければ、こんな齧りたての大道芸に一万円も出さない。その考えをきっぱりと否定された大杉は、差し出した手をゆっくり下ろした。
「でも、少し恥をかかせてやろうという思いはありました。何もあのタイミングで出さなくてもよかったわけですから」
上品に微笑む彼女を見て、この時ばかりは喋らないピエロを演じていることが心苦しかった。
「実は私、ホステスをしていまして、いつも、この子を預けに行って、仕事に行っているんです」
お礼を言うぐらいなら構わないか。誰に強制されているわけでもないのだから。
そう思って口を開きかけたが、突然始まった身の上話に機会を失った。
「それで、この子、前までは保育園に行くのが嫌だったんです。当然です、夜自分の家にいれないのは、子どもにとって不安でしかありませんから。でも、あなたがここでピエロの格好をして大道芸をしているのを見てから、駄々を捏ねなくなったんです。ピエロさんに会えるってはしゃいで。最近では、ピエロさんみたいになりたいって言って、お手玉でジャグリングも始めたんです」
母親は自分の娘を見た。
「ね、かな恵もピエロさんみたいになるんだよね」
「うん! わたしピエロさんできるよ」
女の子は元気よく頷くと、背負っていた小さいリュックからお手玉を取り出し、ジャグリングを始めた。大杉みたいに空中で交差したり、途中で数が増えたりしない。ただゆっくりと綺麗な円を描きながら、お手玉は宙を舞った。
大杉が拍手をすると、お披露目を終えた女の子は、大杉がやったように、右手を胸に当て左を後ろにし、左足を後ろで交差させ、頭を下げた。そこでふと大杉はあることを思いつき、トランクまで戻ると、自分の財布から百円玉を取り出し、それを女の子に渡した。
「よかったね。ご褒美だよ」
きょとんとしていた娘に母親が、大杉の意図を説明した。
「ピエロさんありがとう」
大杉は満面の笑みを浮かべた。真っ赤な口紅を塗っているので少し怖かったかもしれないが、女の子も笑みを浮かべてくれた。
些細なきっかけで始めた大道芸が誰かの役に立っている。親子の背中を見送っていたら、大杉の心は、カイロを貼ったみたいに温かくなってきた。