重い霧は清来に依って
「……今頃、どうなってるかなぁ」
虚無な心とこれまでの短くも長い振り返りに、俺は不意にそんな呟きをぽろっと溢して我に帰る。開けて居る川辺を低空飛行でもするかの様に吹き抜けて行った風に首筋と顔をひんやり冷まして貰うと、同時に訪れたのは体の芯から耳の先まで駆けずり上がって行った震えだった。夜の風は、昼の風よりずっと冷たい。
「ふぅっ! さむっ……!」
自分の気持ちと、隣に座るデルカさんの間に漂う微妙に気不味い雰囲気を払拭しようとワザとらしく調子良くそう言ってから立ち上がって、纏う大布のケツ辺りを軽く叩く。
するとデルカさんのとても優しい、低めの嗄れ声での問いかけ。
「戻るかい?」
戻るのもありだろう。
だが俺には戻る前に一つ……彼に対して聞きたい事がある。これまでの間ずっと気になって居た点であるし、今のこの雰囲気だからこそ、今此処で聞くしかない。
「その前に……なんで、俺の“事情”を何も聞かないんです? 俺の自意識過剰かもしれないすけど、色々と聞きたいんじゃないんですかね」
俺が気付いていないとでも思って居たのだろう彼、デルカさんは月明かりの下に驚きの表情と視線を向けて来た。
この人は中々に表情豊か且つ正直な性格をして居るのか、道中幾度となく何かを聞こうと口を開くも其れを辞めて思いつめた真顔をして居たのだ。
ふんきりが付かなかったんだろうが、俺が聞けば彼は逡巡しただろう後に戸惑いの声色で答えてくれた。
「……俺は頭が良くないし気も利かない。君の過去を知っても、きっと何も言えない。だから、聞かないんだ」
俯いてしまった故に表情は見えない。なのに険しい表情が容易く想像出来るのは、それはきっとその感情を押し殺そうと必死な震え声だからかもしれないし、この半日で彼を理解し始めて居たからかもしれない。
でもな、デルカさん。
俺は貴方になら、知って欲しい。出会い、助けてくれた『最初の人』として。
だから今度は『初めて会った時の様』な咄嗟の受け答えではなく、理性と“己”を保ったままに『己の意思で』俺は自分の事を語る。
異色の四つの月と小さな星々が彩る闇空を見上げながら……
伝えるべきは俺の全てだ。
この世界に来る前の本当の名前に性別、年齢に始まり、住んでいた星の名や国から住所まで、あとは何の仕事をしていてどんな趣味で、好き嫌いとかも全て。
そしてどう言った経緯があって『あの森のあの場所に』気づいたら居たのか……文字通りに『俺の全て』を、洗いざらいに話しきった。
その間、彼ははただ黙って聞き込んで居た様なのだが、時にやはり驚いたのかそれらしい声を上げたりしていた。無理は無いだろう。
……
「多くは言わないです。信じても、信じなくても 何方でも構いません」
そう言ってしまってから、激しい後悔の念が脳を襲って来た。
はっきり言って、気味悪いと思われるのは間違いない。
——数十秒以上の沈黙が、まるで梅雨季の湿気の様に纏い付く。
重く、なんとも言い例えられない微妙な空気と雰囲気は夜風が吹き行きても簡単に流れず、しつこい限りに粘着して来たが……唐突にそれは破られ、吐息の様に霧散消滅。
俺は 裏切られた。
「……難しい問題だよね。信じるか信じないかの二択で問うのであれば、誰しもが信じないだろうよ。無神論でも有神論でも『そんな事が起きる訳が無い』『有り得ない』って喚きながらさ……でも! 俺は信じるぞっ!」
良い意味でね。
「なんで信じるのかって顔してるね。それは君の言葉とか声とか存在感とか、そう言った物全てが嘘の様に感じないからだ。理屈では無く、本能と“感”全てで分かるんだよ」
彼の見せる表情と瞳、そして声色は確固たる自信に満ち溢れて居て、更に興奮した様子になって早口気味に話し続ける。
「それに、仮に君の言う『地球』なる世界が本当に有ったとして、君が其処から生まれ変わって俺達の世界にやって来たって事はさ! つまり『俺と君の出会い』ってさ……何て言うかつまり! この無限の中での遠っっくの小さな星と、これまた遠っっ…………くの小さな星で生きて居る『更に小さな生命』がさ、限りなく未知で運命的且つ奇跡を超えた超常的な出会いをしたんだよっ! 凄くないっ? ねえ凄く無いっ? とんでもない奇跡の中の更なる奇跡だよっ!」
あー……言いたい事は、だが分かる。
俺とてちょっと前までは一人の男……いや今でも男のつもりだぞ? まあ男だった訳だから、人の手や技術では物理的に不可能と言う領域を超えて、幻想や夢物語……若しくはロマンでしか語る事が出来ない領域の出来事が、だ。こうやって数億か下手すれば『数千億兆分の一』レベルの“奇跡を超えた邂逅”を果たしたのだから……
とにかく すごいのだ!
まあ彼が興奮する気持ちが分からんでも無いと言う訳だ。
——は、ともかくとして置いておいて、だ。
『信じる信じない問題』でそんな感情の篭った言葉や、月明かりに優れた瞳が見た表情も何もかもに、俺は精神的に救われた。お陰で何だか肩の荷が軽くなったと言うか、心の毒気を抜かれてしまったのだ。
「信じてくれて……有難うございます」
俺がそう、しみじみと感謝の言葉を告げると彼は短く、でも何処か嬉しそうに『うん』とだけ言い、空を見上げ続けた。
だから俺も、夜空を見上げる。
限りなく黒に近い紺色の闇夜の空には、それぞれ色の異なる月は四つと連なり浮かび、キラキラとちらつく小さな星々は変わらず時間と共に微動に流れ進んで居て。
その仄かな光と闇で冷え込んだ夜風は変わらぬ水流生む川辺の道を吹き抜けて、俺の橙色の長い髪を靡かせ同時に耳元に心地よい風切り音を残しながら素っ裸の体をも擽り撫でて行く。
寒く感じる程の冷たい風はとても気持ち良い……大自然の純粋な風だ。
この世界は夢でも、幻でも、想像でも空想でも何でもない『現実』であり、俺は其れ等を改めて感じる。
そう感じて、良い感傷に浸って居たのに……そこでデルカさんが、少し気恥ずかしそう口を開いて、すごい事を言った。
「あの、ごめん、それとね えっと 変な事言うけど……俺、君に出会えて良かった」
あんまりに恥ずかしそうな口調に加えて表情も非常に“はにかんで”居るもんだから、しかもそんな小っ恥ずかしい事を言われたモンだから、俺まで恥ずかしくなって来てしまったではないか!
「えっ、あっ……あ、はい……」
何も言葉が出てこなかったよ……意気地なしだなぁ俺。いや意気地なしって言うのかすら分からねぇんだけどさ? そこは俺もなんかこう、気の利いた事の一つでも言って場を和やかにするべきなんだろうけど、全然出てこなかったさ。
さっき……『信じても信じなくても良い』と言った時は、満ちた雰囲気を梅雨季の湿気みたいって例えたけど、今この場に流れて居る雰囲気はなんかむず痒いっつか、気恥ずかしいって言うか……どう言ったら良いかよく分からん。
気不味い、単純に。
だから引き続き夜空を見上げながら、しかしなんとか彼の言葉の意味を読み取ろう、理解しようと何度となく脳内で反芻させるのだ。
『出会えて良かった……どう言う意味だ?』
が、結局は最後までその内約を理解出来ずじまいに『帰宅』の催促を受けてしまった。
「さ さあ! もうそろっと戻ろうかっ! ねっ!」
「えっ? あっ! はいっ!」
何にせよ、奇跡を超えて与えられた命だ。今までを振り切って自由に生きて行こうや。
今とこれからを……