初訪の夜は煌星の下に
不思議な炎だ。
サファイアの様に綺麗な青色は光を殆ど放たず透明に美しく、限りなく微小な揺らめきを見せて水滴状に灯り続ける。其れ等がまるで集い話し合う様に円を作って共に燃え続けているのだから、炎は不思議だ。
外に同義な隠れ家の中はそれなりに気温が低かったが、そんな風に灯り続ける炎の放つ熱によって、金属の小さな鍋に入れられた水共々に徐々に温度を上げていた。そのお陰か、裸の上にボロ布一枚羽織っているだけの俺にもその暖かさはとても有り難かった。
「それって何の肉なんです? 牛? 豚? 鳥?」
もう一台の調理器具の放つ炎で焼かれ、豚や鳥なんて比では無い程に香ばしく良い匂いを漂わし、滲み出た油をパチパチ軽快に跳ね踊らせている赤く丸いステーキを見て俺は不意に疑問に思い、そう口に出していた。
すると彼はそれを銀色の三叉の突き匙……フォークで器用に表裏ひっくり返しにしながら教えてくれた。飛び出たのは、またあの動物の名前だった。
「ビツゥのモモ肉だよ。柔らかいしスジも脂も少ないから食べやすくて、保存食に加工もしやすい部位だね」
ひっくり返された肉の表面は良く焼けて淡褐色と変わり果てており、美味そうである。
が——また“ビツゥ”とやらか。
確か彼によれば、自分達の種族が主たる食肉として重用し、繁殖させたりしている種の動物だった様な気がするが……今の所、俺はその正体を知らないし、見た事もない。
知りたいか? だが知る必要はあるのか?
何となく俺の心は『知りたい』と言う欲求と『知りたくない』と言う葛藤の狭間に置かれて、しかしながらその傾きは後者へと寄りがちである。
「ほいっ、ほいっと。今日は頑張って良く歩いたね、お疲れさん」
宝石の炎を見つめてそんな考えを巡らせて居たが、不意に掛けられた優しい労いの言葉の前には『何処に行っても変わらない』と鑑み、瞬後 我に返らされる。
焼かれた肉が乗せられた一センチ程の厚みの食パン二枚をデルカさんから受け取りつつ、俺は彼に対して感謝の意を伝えた。
こんな時までにも、肉の芳ばしい香りには無条件で腹が減らされるものだな。
「ぅわぁ美味そう……! デルカさん、今日は本当に、本当に有難う御座います。こんなご馳走まで作って頂いて……俺ぁ贅沢者ですよ。頂きますっ」
「ははは! 気になさんな、お嬢さん。きっとリテラノ神が星をくっつけたに違いない」
聞いた事のない神様の名前だが、今は気にしないで食おう。
俺は大きく口を開け、パンと肉を一緒くたに噛み切って口に収めた。
何とも切れの良い肉で、例えるなら鶏肉のササミの様か。それでいて適度な弾性からの歯応えも非常に程よく、奥歯や犬歯でモグモグと噛み切りながらパンと肉の断面を見て気付かされた。
妙だな、切り口がやたらキレイだ。
……気になった歯型の件はしかし、直後に口中に広がった肉汁の味に吹っ飛ばされた。
では言おう。その例のビツゥという動物の焼肉の味はどうか と。
驚いた事に、意外どころか全く、実に美味だ。中まで火が通って居るのに仄かな血生臭さはあるが、ラム肉の様な好き嫌いが分かれるであろう癖も無く、何処と無くフルーティだ。彼が使っていた油は香りが少し強いものの鼻をすっと通り抜けて行って爽やかさを醸し出しているし、焼上がりに掛けられた塩と胡椒に似ている調味料の齎す微かな“しょっぱさ”と辛みがとても良くマッチしている。
なにより本当に柔らかいし、高級な牛肉でも食ってるかの様だった。
「うま、うんまいっ! この肉、美味しいですねっ!」
「美味しいと言って貰えて何よりだよ! ウチのビツゥ達も喜ぶさ!」
空腹と、一度口にして覚えた味による食欲の増大は肉とパンを食べる事を止ませずに、逆に一心不乱とも言える程の食い付きを俺自身に与えていて、俺もまたそれに従うのを本能的に優先していた。
何の肉であれ、今は腹を満たすと言う行為そのものが大事なんだ。
「でも……んん あー……やっぱり良く無いな。油は樹果油を使わんとかー」
だがこの味に慣れているらしいデルカさんにとってだと、これでもあまり美味しい方では無いらしい。俺は、全く不服は無いが。
木の実から絞り出した油だともっと美味しく風味良く焼けるらしいのだが、では『今回のこの爽やかな風味を与える油は何なんだ?』と通りすがりに思っても、俺の脳の優先度は疑問より食いっ気だ。ばくばくモグモグと口は良く動く。
彼も不満を漏らしつつ、それでも焼いた肉は全てパンと共に平らげたのだから、やはり大人の体だけあるもんだ。良く歩いたしね。
……俺も昔は、この人ぐらいには食ったもんだがなぁ……今はパンと肉の其々を二枚でもう腹くっちゃい(お腹いっぱい)んだけど。やべえ食わねえなこの体。
時折話をしながらのお夕飯が終われば、食後には温かい飲み物を飲んで一休憩だ。
この飲み物は彼曰く『食用油にも使われる樹果から抽出されたもの』との事で、柔らかくほんのり甘い香りは安らぎと落ち着きを与え、深い眠りを提供してくれるのだという。
ちょぴっと啜れば……ちょっと熱い。
なので、ふーふーしてもう一口啜ると味は……あ、これ生姜だわ あ、あっ! 辛い! 喉と食道が辛くて熱くなってくる!
完全に生姜だコレェーーーッ! でもうめぇーーっ!
……まあ、そんな風に俺が知るコーヒーとはまたちょっとどころか、全然違ったわ。色は少し似てるのに!
……
それから暫く、俺とデルカさんはその飲み物を飲みながら本当に他愛のない話を幾つも交わした。まあ『交わした』と言ってもその殆どが、俺から彼への疑問や、この世界がどう言った場所であるかなどの一方的な質問であったが。
妙なのは、不思議と彼は俺自身について何も聞いては来ない点だろう。生まれだとか、家族の事だとか、故郷の事だとか……普通ならあれこれ聞くものだと思っていたが、今の所“俺”は何も聞かれては居ない。一応、返しは頭の中で練ってあるんだけどなぁ。
そしてデルカさんから聞いて行く中で、徐々に俺はこの世界を知ってゆくのである。
……
「! え、それじゃあ夜は結構明るくないですかっ?」
この世界についての云々(うんぬん)かんぬんを聞いて居たら衝撃の単語が飛び出たものだから、俺は思わずそう被せる様に聞いてしまったのだよ。
何についてだって?
それはだなぁ
「そうでもないよ! 夜照の星で光度が高いのは一つだし、他は表面がほんのり見える程度だからね。見た方が早いし、ちょこっと見に行こうか」
所謂『お月様』のお話なんだが、言うより見て貰うが早いと思ったらしいデルカさんは言い終わりに立ち上がり、この隠れ家内をほんのり柔らかく照らして居る手提げ型の燃料式携帯ランプを持った。柔らかい橙色の灯りがつられて動き、照らす場所を変える。
彼の表情はワクワクしている様にも、そわそわしている様にも見受けられるがそれは多分、俺も一緒なんだろうなぁ。
そんな訳で、ワクワクと好奇心抑えながら連れ立って外に出れば、隠れ家周辺は森の中と言う事もあって暗闇が殆どを支配している。
しかし全てではない。なぜなら、お月様が暗くも明るく降り注がせている月光が木々の葉っぱ達の隙間という隙間を掻い潜って……幾本もの白い光の筋となって闇を射し貫き照らし出しているからだ。
見た事もない、美しい光景だ。
誠なる闇の森、空を覆う木々の葉達は月光を受けて煌めき、ほんのり光り……葉の隙間を掻い潜る光は幾つもの細い柱となって闇を射し貫いている。
静寂は無く、少ない夜鳴きの鳥達の囁きや虫達の歌い合いが上品に賑やかで、木々の騒めきはまるでコンサートのお客さん達の様だ。
「うへ……空想じみた光景を、肉眼で本当に見る事が出来るか……」
俺は自分を忘れさせられてしまった、大自然相手にな。
「良い夜だよ。俺もこの景色が好きで、たまに飛び出して見にきたりするぐらいに」
この世界に生き、住んでいる彼が見たくなるぐらいなら、『地球に生きて居た』俺なんて毎日でも見に来たいぐらいだ。それ程に美しく幻想的なんだよ。
「さ、川沿いに行こう」
「う うん——あ、はい!」
握ってくれる手は大きく、少しだけ暖かくて、少しだけ……肌が硬かった。
懐かしさは、そう 『オヤジ』だ。存在感も、嗄れ気味な声と優しさも、暖かさも……何もかもが、俺のオヤジとそっくりなんだ。
だから俺の返事は本当に無意識で、まるで子供みたいだった。
それがちょっとだけ恥ずかしくて、でも優しく笑ってくれるこの人の声と雰囲気は凄く懐かしくて……俺は、子供の頃に戻ったかの様な錯覚に陥ってしまった。
しかし……嫌いじゃない、とても良い錯覚だろう。
歩みを共にする大きく暖かい傍の存在感は、美しくも暗く、若干の恐怖を与えてくる夜の森と相俟って非常に頼もしく、俺はまた無意識の内に彼の手にしがみ付いて体を寄せて居た。もう、それで良いや って。
“今”子供で居られるなら “今”は子供で居たい。
「怖いか?」
「え、うん。大丈夫、おと——あっ ああ! デルカさんが居てくるんでっ!」
「あっはっはっはっはっはっ! お父さんって呼んでくれても良いんだよっ!」
「え、いやぁ〜 それは、なんか、申し訳ないっす……」
男の嗄れた優しい、笑い声。
女の子の、少し恥ずかしそうな声。
夜の森は、それを当たり前だと言わんばかりに飲み込み自ら達の声は止ませない。
俺の耳は自らの女の子の声に違和感を抱きつつも、その違和感にたったの半日で慣れようとして居た。それで、良いんだけどな。
……
近づく川のせせらぎは四六時中と止む事は無く、俺は記憶に近い音に安心から駆け出して川辺へと辿り着いた。
何とも、ここですら美しいじゃないか。
流れる川の水は昼間と違う煌めきを放ち輝いて、妙な気分にすらさせてくる。
そして俺が夜空を見上げたなら、この女の子の喉は心からの感嘆の呻きを零すのだ。
「ぅ ぅぉあぁ……」
瞳は、夜空を目にして見開かれ、俺の今までの人生を覆す光景を脳に焼き付けた。
不意に流れ吹いた優しい風が着込んでいる大布に潜り込み、全身を撫で擦る。擽ったくも気持ち良く、その感触もまた俺の脳に現実を突き付けるのだ。
——幾多と小さな星が煌めく夜空に 静かと浮かび連れ添う月は、四つ。
一つ。
薄く水色の光を放つ、一番明るい月の大きさは……俺の手だと両の手の人差し指と親指で円を作った程に大きい。
二つ。
明るい月より一回り小さく、かなり暗く、でも寄り添って、薄っすら黄色い。
三つと四つ。
明るい月よりふた回り以上小さく、双子は同じく薄っすら紫色で、仄かに包み輝くオーラで繋がれて居た。
俺の 今までの人生は、一体何だったんだろう? 小さな世界だったんだな……