温み湯に、これからを思う
聞いてない、とは思ったが、別に全く構わない、とも思う。
『何について?』であるならば、其れは、そう、村の共用温泉について だ。
俺とデルカさんは昨晩、教え、教えられる立場となって其に夢中になって俺は徹夜してしまった挙句、彼を巻き込んで風呂に入らずじまいの身となってしまった。
其れで今朝方に彼の提案に則って村の共用温泉に来た訳だが、混浴だったと言う事だ。
「……いやまあ、別に良いんですけどね、俺ぁね」
「んー? なにがぁー? っつーか! っくー! 朝風呂って気持ち良いねぇ!」
「ほーーんっ と、至福っすよねー……ああーー……極楽ぅ……」
全く、構わない。
だから俺はすぱぱポーンと簡易な服を脱ぎ去って森で目覚めた時と同じ全裸になり、タオルを持って浴場へ入った、と言う訳である。
この露天の温泉は、何処かでお目にかかれそうな、まさに露天風呂って感じの装いだ。
粗いながら平らに切り敷き詰められた岩々の床に、外界との隔たりと目隠しの為に背高い木柵が隙間なく立ち並び、川沿いと言うのもあってその景色を見れる様にそこだけは隙間の大きい革結いの木の棒の柵で、もくもくと温かげな湯気を立ち上らせながら絶え無く流れ出る 澄み透ったお湯、そのお湯が出るは ぽかっと口空いた 山を模した様な小岩……適度な緑葉の飾りもあり、なんというかこう、ね……!
「やー……これぞ、ザ・露天風呂って感じでマジ良いっす……」
俺は腰程までの長いオレンジ色の髪を纏め上げる事もせず漂わせに任せ、顎あたりまで身を沈めて湯に浸かって居る。全身素肌から染み渡るちょびっとだけ熱いと感じる程度の温かさが本当に素晴らしく、この幼い少女の身体の隅々に良く染み込んでいる。
目を閉じれば、デルカさんも浸っているのか静かで、耳に入ってくるのはお湯の流れ入る音に、清らかで淑やかな川流れの音、細やかで居ながら賑やかに囀る小鳥達の話し声、鶏の朝鳴きに、流れ唄う風と 聳え並ぶ木々のお茶会……
本当に、素晴らしい。
大自然の中で慎ましやかに生きて居るのが良く分かるのだ。
俺は元居た世界も、当然 嫌いではなかった。静かであった事などほぼ無かったが、日々雑音と騒音が世に満ち溢れて絶えない世界に慣れて居た俺にとって、その世界というのが『全て』だったし、其れなりに好きだった。
今は もう 戻るも叶わぬ世界である。
「……戻る、ね」
「どしたの……?」
不意に出た呟きに対して、静かだったデルカさんが反応してボソリと そう聞いてくる。だから俺は、見上げに、狭い、青く遠い空へと向かって その細くて頼りの無い女の子の腕を伸ばして、何の気も籠めずに 言う。
「今この瞬間も空の向こうで輝いているだろう小さな星のどれかが、俺の居た惑星だったりするんかなーって。そんで、戻れたりするんかな〜 って。バカみてぇなこと思ったりしちゃっただけです」
「へ〜 空の向こうには宇宙があって、宇宙の遥か彼方、遠い遠い何処かの何処かに、ノクァの故郷の惑星『地球』がある かぁ……」
環境の音だけが、俺の耳に、静かに 音楽の様に流れた。ほんの一瞬とも数分かそれ以上とも思える様な、長い沈黙の後に、彼は急に、ある事を聞いてくる。 「旅は好きかい?」 と。だから少しだけ考えた後で理想像に胸を膨らませて 「良いですねぇ、旅。懐かしい」 と思考から現実を剥離させて思い出だけでそう返した。
すると……彼はすごい提案をして来た。
「ね、ノクァ。旅、して見る気はないかい?」
現実の旅は大変だし、正直辛い。でも 勿論 楽しいとも思えるし、気ままに流れる風となれるのであれば気が楽で大変によろしい。
其れは知っている
けれどもやっぱり、現実は大変だ。まあその大変さを楽しむのが旅というか、何というか醍醐味の様な感じなのだが。
思うのは しかし 『理由』だ。なぜ、いきなり旅をして見ないか? などと言い出したのか?
「……あー の 、 デルカさん? どうしたんです? 急に “旅” だなんて」
俺は率直にそう聞くと、風呂のお湯でバシャリと顔をひと洗い。額に浮かび流れた汗の粒らを洗い流して、ふう と息を吐く。
直後、彼は驚くべき事を言い出した。
「ノクァ 君は、クムォヌボーダ大陸を目指すべきかもしれない」
「……なに? ボーなに大陸?」
「ク ム ォ ヌ ボ ー ダ 、ね。其処の大陸は、俺らが住んでるこのポーモンシャス大陸より遥かに高い技術を持っててさ! とにかくっ 凄いんだよ!」
俺はどんなに凄いのか分からないので其れを何度と聞いても彼は「すごいのがいっぱい!」としか答えてくれない。其れが何故なら、というと、実際に自分の目で見て驚いて欲しいから言わない、のだと。
ンナこと言われたら気になるやないけぇ、なあ?
気になりはするが…… この『女の子の身体』で旅をすることへの不安は、正直言って絶望的に過大であるので、俺は判断を渋った。
「ん゛あ゛〜゛〜゛ぅ…… でもなぁ…… 俺、この少女の身体で旅できる自信、皆無ですぜ? 其れにこの世界への知識も無いに等しいですしぃ〜」
「それについてはっ 大丈夫っ! 俺もっ! 行くからっ!」
「えっ ……ええぇっ! は いや、え、出て大丈夫なんですか? 村から」
恐らくは、彼 デルカさんはこの『ンビクゥヌ村』に於ける唯一の青年である筈だ。彼ほどの若手と言う存在は小さな村にとって実に大事な存在であるのを、俺は良く知ってる。だからそう言う意味合いを含めて『出て大丈夫なのか』と聞いた訳だ。
だが当人は臆面もなく言ってのける 「大丈夫!」 満面の笑顔で。
その根拠を聞けば、曰く、少し行った先の街に弟さんが住んでいて、少し村を留守にする間はその弟さんが代わりに来てビツゥの世話をしたり、村のあれこれをしたりするそうだ。もともとその弟さんもこの村の出で、つい二、三日前にも来て「帰りたい……」とぼやいて居るとの事である。
「はあ……まあ、デルカさんがそう言うなら良いんじゃないすかね……」
「ははは! まあね! で、どう? クムォヌボーダ大陸、行って見る気はあるっ? 」
「……ちょっと、考える時間をくださいませんかね?」
「そ、そうだね、ごめん……。考える時間くらい欲しいよね……。まぁ時間なら幾らでもあるから、決まったら教えてね!」
取り敢えず、俺は決断を保留させてもらった。現段階で決断するのは些か早すぎる。
そのクムォヌボーダ大陸とやらが何処に在って、どうすれば其処に行けて、どの程度の技術力があって何が出来るか……少しは調べないといけないと思うね。
ろくなすっぽ調べずに出るべきではないし、ノリと勢いも大事だが、今は其れに飲まれてはいけない。
「あー っていうか、少しくらいゆっくりしたいよね?」
「へ? あっ まぁ……そう ですね。ええ、はい、確かに。ゆっくりする……と言うより、取り敢えず俺はこの身体と世界に慣れる時間と、同時に心を整理する時間を少しばかり貰いたいっす」
「ふふ、だよねぇ。ごめんね、急に」
「いえ、提案はでも、ありがとうございます。今後の指標にします」
「いいよ。そうだ、俺ん家さ 弟が住んでた部屋が有るんだけど、空いてるし、其処使いな! 其れなら教えられる事も教えられるしね!」
そんなこんなで、俺は暫くの間 デルカさんのお宅でお世話になる事になった。差し当たって俺は、とはいえ宙ぶらりんに遊ぶ訳にもいかないので何かお手伝いをせねばならないとも考えた。
其処で俺は、今の自分にも、そして環境や文化にも対応して、慣れ、変化に順応していく為にも、家畜の人間……否 家畜たるビツゥのお世話をする、と申し出てみる。
「ところでデルカさん、俺……お世話になりっぱなしじゃ悪いんで、その……ビツゥ 、の お世話とか、してみても良いですかっ! てか、させてください!」
俺の声高なお願いを聞いた彼はキョトンとした後で、一転して笑顔へころりと変えて「いいよ!」と言ってくれた。その朗らかとも “にこやか” とも言える心底からの笑顔は、本当に素晴らしい。彼の宝石の一部とも言えよう。
正直、きつい仕事にはなるのは覚悟して居る。相手は自身もよく知る『人間』だ。頭も良い、目も良い、器用で力強い。制限や注意事項は腐るほど有ろうが、其れでも俺は『元人間』として『この世界の人間』を世話してみなければならない。
おれは、喰らう側 なのだから。
……
露天温泉は良い湯であった。この幼い体は活力が高いのか言うほど疲れては居なかった様だが、中身の俺は二十六歳の元男だ。気力的な疲労こそ “そこそこ” 有ったが、其れも温泉に浸かりゃあ取れるもんよ。
そんでその後、俺はデルカさんと二人して、村の小さな宿屋に訪れて朝食を振舞ってもらったのだ。
宿は、ある人が営んでいた。
その人というのも 昨日、村へ訪れて壮年男性と一悶着揉めた俺を度胸が有ると褒めてくれた、あの恰幅の良いおばさまであった。
「あらっ! 昨日の……えーと、そうだわ! 『初めまして』 お嬢さん! わたしはこの小さな村の小さな宿を経営してる ィン’キィミ.ルォーリよ、宜しく! 気付いたかもしれないけど、ベーレジェって名前の孫が居るわ。仲良くしてあげてね」
むす、えっ! 孫ぉっ?! あの子は孫なのか! などと驚きもしたが、名乗られたので、俺も名乗る。余計なことは言わず、しかし丁寧に。
「あーっ と、えと、キィミさん 初めまして。私はノクァ’ヅィマと申します。昨日は飛んだ醜態をお見せして大変、申し訳御座いませんでした……。暫くデルカさんの元でお世話になりますが、お手伝い出来る事があれば手伝いますので、宜しくお願いします!」
おばさまの目をしっかり見据え、和やかな笑みを浮かべ、ハキハキと、明るく話し、最後に、深めに頭を下げる。
平凡な人生ではあるが、其れでも社会に出て、まぁ機械相手がメインとは言えどもちゃんと仕事はして居た。客が来れば接客もする。そんな生活が日常であれば故にそう言った仕草だの言葉遣いだのは自然と其れなりに出来て行く物だ。
頭を上げた時、宿屋の女将キィミさんはそれはそれは、驚きと感心の混じった表情をはっきりと浮かべて居た。
お? これはあれか? あの定番のセリフを言わなくては、か?
なんだっけ? あぁ そうそう!
『あれ、またオレ何かやっちゃいましたか?』
ってな! ぁっはははははははっ! 笑える……。
「んまぁー、こんな女の子からこれほど丁寧な言葉が出るなんてびっくりだわぁんははははっ! でもね そんな風に硬くなってないで、年相応に遊んでれば良いのよ! まだ貴方は子供なんだからっ! 子供の仕事は、よく遊んで、よく学んで、よく食べて! よく眠る事っ! デルカ、ノクァのこと、任せるわよ」
「っ! もちろん! 任せてよっ!」
なるほど、子供の仕事は確かに『よく遊び、よく学び、よく食べて よく眠る』だな。
俺もそう思うね、特にこのぐらい幼い子供、というかあの子達……ガゥルとベーレジェの二人くらいに幼い子供であるならば、それで良いと言える。
だが、俺は……俺は、身体はあの少年少女らと同じくらい幼かろうが、蓋を開けた中身は二十六の男だ。平凡な容姿の、平凡な人生の、平凡な経歴の、そしてちょっと頭の悪い……ただ只管に、平凡な男の人間だったんだ。
己をどれだけ過大に評価しようが、俺は自分のことを語るに平凡という言葉は欠かせないと思ってる……が、其れは兎角。そんな、二十六歳の平凡なただの“男だった” のだから、何かしら何か、お手伝いはせねばなるまい。
と、うねうね悶々と考えこそすれど、昨日の今日で 何か色々と有り過ぎた。
だから、ちょっと落ち着きたいという思いが湧いて出てくれば、其れはすぐに大きな泉となって辺りを制してしまった。
ちょっと……休ませて欲しいんだ。
「……いいんですか?」 俺はボソリと、キィミさんにそう聞く。すると彼女は朗らかに柔らかく明るい笑顔でいうんだ。 「当たり前じゃないかっ! 其れに台地のずっと向こうの遠くから来たんでしょ? じゃあ 尚更に、ね」
俺の心は少し、ちくりと痛む。嘘をついて居るから。嘘は吐きたく無い、吐いたままで居たく無い。だけど、まだ……真実を話すのは、怖い。
俺は彼女の言葉に甘える事にしたが、でも、これだけは、伝えておく。
「有難うございます。……キィミさん! 俺! 俺……落ち着いたら、俺は、俺の真実を、皆に打ち明けます。必ず。 だからっ それまではどうか……どうか その、あの……宜しく、お願いします」
其処まで話して、俺は自身を明かす事の不安と恐怖に身を包まれてしまった。
向けられる侮蔑と奇異の視線への不安、恐怖。
追い出される恐怖、襲われる恐怖、差別される恐怖……
そして 『孤独』 になる恐怖と不安……。
「……ふふふふっ! 楽しみにしてるわ! なぁに、貴方がどうであれ、私達はみんな貴方の味方よっ!」
柔らかく包み温めてくれる様な、そんな微笑みと声。俺はそんな彼女になんだか救われた気がして、とても嬉しく思ったし、心も少しばかり安らいだ気がした。
「ありがとうございますっ! 本当に……!」
深く、頭を下げる。心からの感謝を込めて……。