8.修学旅行4
その後も人力車で移動しつつ、景色を楽しみ、途中の洋館も軽く見学。
そうして、予約した中華料理店前で人力車は終了。
ハルは「本当に助かりました。ありがとうございました」と何度もお礼を言い、記念撮影もした。
昼食はせっかくの中華だからとアラカルト。
所狭しと並ぶ料理の中から、ハルは点心二個とスープを少し。そんなささやかな食事だけで大量の薬を飲む。
「牧村、それだけで足りる? ……オレ、食べた量より薬の量の方が多い気がするんだけど」
斎藤が気遣わしげに言った。
「杏仁豆腐とか取ったら?」
と志穂も勧めるけど、ハルは、
「もうお腹いっぱい」
と、ほほ笑んだ。
顔色が良くない気がする。
やっと半日が終わったところで、自由行動の時間はまだまだ残っている。
だけど、移動して観光しての繰り返し、昨日もバスで歩けなくなるくらいに酔って戻しているし、元気そうに見えるけど、ハルはきっとかなり疲れている。
「ハル、帰ろうか?」
思わず言ったけど、
「え? なんで?」
と聞き返されてしまった。
「疲れてない?」
「……疲れたけど、大丈夫」
笑顔で言われると、目に見えて不調じゃない今、それ以上は言えなかった。
だけど、次の観光地に向かって歩き出すと、歩く速度がいつも以上に遅い。
呼吸も乱れはじめていた。
既に前を歩く二人とは数メートル近く差が開いていた。オレは二人に駆け寄り、肩を叩いて止めると、一言。
「ちょっとごめん、そこで待ってて」
駆け戻って、ハルに言う。
「ハル、……今日は帰ろう?」
オレを見上げたハルの顔色はさっきよりずっと悪くなっている。
店を出てから、まだ五分も経っていないのに……。
これ以上歩かない方が良い。
ハルは数秒オレの目を見て、オレの手を握った。
それから、少しの間の後、コクリと頷いた。
こんなところで帰りたくないだろうに、だけど、わがままも言わず、文句も言わず、愚痴ひとつ言わないハル。
本当は、我慢しないでも良い……と言ってあげたい。けど言えない。限界が近いのが分かるから。
オレはハルをぎゅっと抱きしめ、それから、待ってた二人に手を振る。
「ごめん。オレたち、先に旅館に戻るから、後は二人でまわってもらえる?」
その一言で、すぐに事態を悟り、二人が駆け戻ってくる。
「陽菜、大丈夫!?」
「悪い。歩くの速すぎた!?」
「大丈夫。……念のために、ね? でも、こんなところでごめんね」
ハルは申し訳なさそうに二人に言う。
「ううん。わたしたちは良いんだけど。旅館まで送ろうか?」
「カナがいるから大丈夫」
ハルは優しくほほ笑んで、同行を拒絶する。
もし、ここに里実さんがいたなら、オレまでもが「観光してきて」って言われた気がする。
志穂は名残惜しそうな顔で、
「じゃあ、駅まで」
と言うけど、路面電車はもう十分楽しんだから、後は最速で戻りたい。
「そこらで、タクシー拾うから」
「えーと、じゃあ、タクシーまで!」
何が何でも見送りたい志穂に苦笑しつつ、それで気がすむならと一緒に広い通りに向かう。
タクシーを拾って旅館名を告げ、ハルを先に乗せる。
「じゃあ、また後で! 集合時間に遅れるなよ」
「はいはい。……陽菜、ゆっくり休んでね」
「牧村、後でな」
「うん。本当にごめんね」
「気にしない気にしない」
「閉めますね」
運転手さんの声でドアが閉まり、タクシーは動き出した。
☆ ☆ ☆
旅館の車寄せ前では里実さんと養護の先生が待ち構えていた。
「陽菜ちゃん、大丈夫!?」
ほんの十五分ほどの乗車で、ハルの具合はすっかり悪くなっていた。
里実さんと養護の先生がオレたちの荷物を手分けして持ち、オレは代金を払い、ぐったりしたハルを抱きかかえた。
ハルの顔をのぞき込む里実さんに伝える。
「疲れてしんどいところに、車酔い」
……今のところは。
「車で二回戻した」
「了解。……とにかく、部屋に行きましょうか」
里実さんは、部屋でハルを寝かせて、酸素濃度計をハルの指に付けると難しい顔をした。
「陽菜ちゃん、酸素吸入しようね」
ハルが潤んだ目を開け、小さく頷く。
呼吸が荒い。
オレの手を離したがらないから、オレは里実さんを手伝うこともなく、ハルの手を握る。
「……つも、……めん、ね」
……いつも、ごめんね。
ハル、オレにそんな気、使うなよ。
一番しんどいのも、離脱で悔しいのもハルだろ?
オレはハルの頭をそっとなでた。
「オレはハルの側にいられるのが、一番の幸せだよ?」
「……ん」
ハルは酸素を吸っているのに荒い呼吸のまま、しばらくオレの手を握っていたけど、やがて、その手がふっと脱力した。
里実さんは眠ってしまったハルの心電図を取ると、また難しい顔をした。
「里実さん、ハル、大丈夫?」
「……ちょっと、微妙な感じ。不整脈が出てる。後、熱が出るかも」
その後、本当にハルは熱を出した。少しずつ上がり、三十九度を超えたところで、里実さんはじいちゃんに電話をかけた。
夜、最終の飛行機で裕也さんが駆けつけると言う。
夕飯の時間、大広間に行くと、志穂と斎藤は既に席に着いていた。
「叶太くん、陽菜は?」
「牧村、大丈夫だった?」
二人同時に聞かれ、なんと答えれば良いか一瞬迷う。
「熱出ちゃって、今、寝てる」
ウソじゃない。
ただ、実際にはただ熱を出しただけとは言えない状況。
「そっか。心配だね」
思えば、昨日もハルはバスに酔った後、そのまま夕食会場には来なかった。
二人はそこまで深刻だとも思っていないようだ。
正直、その方がありがたい。
「早く下がると良いんだけど」
「後で会えるかな?」
「んー、どうだろ。里実さんに聞いてみる?」
本当に調子が悪い時、ハルは見舞いを断る。
そこまで弱っている姿を見せたくないのだと思う。
ハルはしょっちゅう具合を悪くしているけど、入院中はそういうレベルではない体調不良も多い。
そんなハルに会えるのは、多分、家族以外にはオレだけ。と言うか、きっと、そんな状態のハルと一番長くいるのはオレに違いない。
だからか、ハルはオレにはあまり体調不良を隠さない。
「ところで、あの後、どうだった?」
見るからに豪華なお膳なのに、まるで味のしない夕食に箸を付けながら、明るく聞くと、楽しげな返事が返ってきた。
「あれから、りっちゃんの班に会ってさ、そっから合流して六人で回ったよ」
「いやー、寺本、ひどいんだぜ、オレとツーショットは微妙だから、一緒に回ろうよ……とか」
「ひどっ」
オレが志穂に目を向けると、
「えー、だって、彼氏でもない男子と二人とか、微妙じゃない?」
「オレだって、女五人に囲まれて回るのは微妙だって」
「メグちゃんの猛烈アタック受けて、楽しそうにしてたクセにー」
メグちゃん……保坂恵美、確かに、そういうタイプ。けっこう色気むんむんな感じで、スポーツマンタイプが好きなんだよな。
そっか、斎藤、楽しかったんだ。と含み笑いをすると、
「あのなー、誤解すんなよ? せっかくの修学旅行で、あんまり冷たくしても悪いと思ってだなー」
「いやいや、拓斗くん、オレに言い訳はいらないから」
「っつーか、オレ、女の子に興味ないって、何回言ったら覚えんの、広瀬」
「いや、だから、オレはハル一筋で、拓斗くんの愛には応えられないって何回言ったら……」
と言うところで、斎藤の拳骨が飛んできて、近隣のクラスメイトが吹き出していた。
悪い、斎藤。
でも、おまえをからかって、ちょっと気持ち、明るくなった。
風呂まで済ませて、ハルの部屋に戻ると、ハルが目を覚ましていた。
「ハル」
枕元に座り、ハルの額に手を当てる。
かぶれやすいからって、熱さまシート類は貼らない。代わりに昔ながらの氷枕。
やっぱり、熱い。
「ハル、何か食べられた?」
「……ゼリー、少し」
「ごめんな。オレ、いなくて」
やっぱり、ずっとここにいれば良かった。一人で食事は味気ない。
……いや、里実さんがいるか。
けど、ハルは当たり前とでも言いたげに、小さく左右に首を振った。ハルはきっと、オレがここにずっといる方が気にするのだろう。
「あ、志穂と斎藤、あの後、律子の班と合流したんだって」
せっかくだから、明るい話題を提供……とばかりに、ついさっき仕入れた斎藤ネタを披露。
「良かった……楽しそうで」
ハルはホッとしたように、笑顔を見せた。
オレは勢いに乗って、その他にも仕入れてきたエピソードを話す。
それを子守歌に、ハルはまたスーッと眠りについた。
午後九時半前、裕也さんが到着した。
聴診器の感触に、ハルは目を覚まし、そこに裕也さんの顔を見つけてとても不思議そうな顔をした。
裕也さんは丁寧に胸の音を聴いた後、ハルの頭をそっとなでた。
「陽菜ちゃん、迎えに来たよ」
……やっぱり。
「明日の朝、一緒に帰ろう」
ハルは少しの間の後、ささやくような声で、また文句ひとつ言わず、
「……はい」
と言った。
「ごめん……ね、こんな、遠く……まで」
「いや、久しぶりに飛行機乗れて、楽しかったよ?」
裕也さんはにっこり笑った。
「お仕事……は?」
「明日は診察は休み」
最初から休みだったのか、誰かと変わってきたかは分からない。
ハルは申し訳なくてたまらないという顔をする。
「……あり…がと」
「どういたしまして。でも、お礼を言うのはまだ早いよ」
こんな場面なのに、裕也さんは完ぺきな医者で、笑顔を絶やさない。
すごいな、と正直思う。
「治療しよっか? 不整脈ひどくて、しんどいだろ? 点滴入れるね。じき、楽になるからね」
その言葉に里実さんがスッと動く。
二人がテキパキと動く中、オレはハルの手を握るくらいしか、できることはない。
裕也さんはスゴイ。
ちょうど、裕也さんが今のオレくらいの年齢の時、出会った。
ハルと同じように、先天性の心臓病を患っていた瑞樹ちゃんのために、裕也さんは医者になった。
確かに、できることが全然違う。
けど、悲嘆なんてしない。
いいんだ。
医者だったら、ハルには、じいちゃんやおばさんがいる。
二人とも専門は循環器じゃないけど、じいちゃんには、こうやって、ハルのために医者や看護師を用意してくれるだけの力がある。
おじさんには、ハルの旅を快適にするために専属の看護師を雇ったり、医者を派遣する財力がある。
オレはハルだけを見ていたいんだから、今、ハルの隣で、ハルに求められるままに、その手を握り返す位置にいられたら良いんだ。
翌朝、裕也さんと里実さんに付き添われ、一足先に、ハルは朝一番の電車で帰宅した。
心臓が悪いハルは、飛行機には乗れない。移動は電車と新幹線。
それでも、裕也さんの治療のおかげか、熱も下がって、ハルは自分で歩けるまでに回復していた。
「ハル、気をつけて。明後日にはオレも帰るから」
「うん。……しっかり、楽しんでね。写真、いっぱい撮ってきてね?」
「ああ、任せて!」
ハルは昔から、遠足なんかでも欠席が多かった。
出られても、バスに酔って何かを見るどころではなく、一人ベンチで休むことも多い。
そんなハルの側についていたくて、いつだって、オレはハルに付いていたいと、養護の先生にゴネていた。
だけど遠足と言っても、課外授業。元気なオレが不参加なんて許してもらえるはずもなく、連戦連敗記録を更新し続けていた。
そんなある日、ハルはオレに自分のカメラを託した。
「写真撮ってきて。後で、どんなだったか教えて?」
って、そう言って。
オレをハルからすんなり離すためだろうかと思った。
正直、それもあると思う。
だけど、オレが撮った写真をハルがすごく喜んでくれるから、うそ偽りなしの「ありがとう」と満面の笑顔をくれるから、オレはその時から、ハルのカメラ係になった。
今朝もハルのカメラを受け取った。
「ハル、……充電させて」
オレはタクシー乗車前のハルを大切に、大切に、そっと抱きしめた。
「会えない三日間分」
恥ずかしがり屋のハルだけど、なぜか今日は抵抗しなかった。その上、ハルもオレの背中にそっと腕を回してくれた。
けど、調子に乗ったオレがキスをしようとすると、
「そ、それはダメ」
と赤くなって両手でガードする。
「仕方ない、じゃあ、こっちで」
とガードをかいくぐって、頬にキス。
……していると、裕也さんにポカンと頭をはたかれた。
「はい、そこまで。またすぐ会えるだろ?」
隣の里実さんは、
「ホント、ぶれないわよね」
と、クスクス笑っていた。
「じゃ、じゃあね、カナ」
促されるままにタクシーに乗り、ハルはオレに手を振った。
「ああ、三日後にね。……裕也さん、里実さん、ハルをよろしくお願いします」
オレはハルに手を振ってから、二人に深々と頭を下げた。