4.第一の関門4
☆ ☆ ☆
ハルは具合が悪くても、誰も呼ばずに我慢している。
きっと、それは夜間だけなのだろう。
だけど、「割とある」という今のハルの状態は、とても「割とあって」良いようなものではなかった。激しく戻して、息が上がって苦しそうで……。
今はまだ熱はないけど、潤んだ瞳はどこか熱っぽさを感じさせる。もしかしたら、この後、発熱するかも知れない。
とは言え、ハルが大丈夫だと言うのなら、それを信じるしかない。
既に午前一時が目前だ。
今からじいちゃんを起こしに行くのは、ハルが嫌がるだろう。
「ハル、酸素、用意するな」
とりあえず、オレは自分が出来ることをするしかない。
用意した酸素マスクで口元を覆いスイッチを入れると、ハルはホッとしたように表情を緩めた。
それでも、相変わらず具合は悪そうで、少しの身じろぎの後にも目をきゅっとつむって眉間に皺をよせる。
オレはまた、そっとハルの背中に手を伸ばした。
ゆっくりとその手を動かすと、
「……ありが、と」
ハルがうっすらと目を開けた。
「どういたしまして」
オレは笑顔で応え、ハルの頭を優しくなでた。
笑顔を心がけたけど、心配が先立ち、本当のところ上手く笑えていたか分からない。
ムリにしゃべらなくて良いのに、ハルは荒い息の下、言葉を続けた。
「……後は、……一人で、」
大丈夫……と、ハルが続けようとしたのが分かり、オレは最後まで言わせずにハルに言い聞かせた。
「こんな状態のハルを置いて、オレが帰るわけないって、知ってるよね?」
ハルが困ったように、オレを見返した。
ハルは分かっている。でも、言わずにはおれなかったのだろう。
オレを見ていたハルの視線がオレの服へと移動した。
「……でも、」
いつもは言葉にしてもらうまで、何を考えているのかあまり分からない。
だけど、今はハルが考えている事が手に取るように分かった。
深夜一時……ハルはもちろんのこと、普段ならオレだって眠っている時間。宵っ張りな高校生も多いだろうけど、オレはどちらかというと朝型だ。オレが毎朝早起きして走り込んでいることはハルも知っている。
「明日は土曜日だし、何の問題もないよ」
オレは努めて優しく、ハルに告げる。
ハルにはきっと想像も難しいだろうけど、一日や二日の寝不足、体力が有り余る高校生には何の負担にもならない。
「ずっと側にいるから。安心して眠ればいい」
「カナも……寝なきゃ」
ハルはそれでもオレを気遣う。
「一晩くらい寝なくても……、ってか、オレはどこでも寝られるし、ハルはそんなこと気にしなくていいから」
あやすように言って、ハルの頬に手を置いた。
ハルは本当につらそうで、視線を動かすたびに苦しげに眉をひそめる。
「ハル、オレのことは良いから、目つむって寝な?」
オレがそんなこと言いながらハルの背をさすっていると、ハルの手がふっと持ち上がり宙をさまよった。オレはすぐさまハルの手を握る。
ハルは力なくオレの手を握り返すと、自分の方に引っ張った。
「ん? ハル?」
どうしたいの?
けど、ハルはもうかなり眠そうで、真っ当な答えは期待できない。
何も答えないまま、ハルは反対の手も出してきて、オレの腕に手を添えて引っ張ろうとした。だけど、ただでさえ具合が悪いハルが、力でオレを動かすなんてムリなわけで、オレはハルの望みを叶えるべく、引かれるままにハルに身体を寄せた。
「ハル?」
再度、名を呼ぶと、ハルは潤んだ目でオレを見上げて、掛け布団を小さく持ち上げた。
「一緒…に、……寝よ?」
半分眠りの世界に足を突っ込みながら、ささやくようにハルはそう言った。
「え!?」
「……や?」
「いやって言うか……」
ハルはトロンとした目で、不思議そうにオレを見上げた。
どこに問題があるのかとでも言いたげな、心細げなハル。
確かに……確かに小さい頃は、よく一緒のベッドで寝た。……けど、ハル、そんなの、もう何年もやってないだろ!? なんで今!?
オレが焦っているのに気づきもせず、ハルは再度、オレの手を引いた。
そりゃ、まずいって!
そう思って、抵抗していると、ハルが悲しげな視線をオレに向けた。
ハルの瞳は涙に潤んでいて、心細げで……。
オレは思わず、ハルの求めるままに身体を寄せてしまった。
ハルは満足げに、オレの腕をギュッと両腕で抱え込んだ。そうして、ハルはそのまま、ふっと眠りの世界へと突入した。
……ハールー。
意識を失くしたハルを見て、抱え込まれた自分の腕を見て、オレは頭を抱えたい思いでいっぱいになった。
酸素マスクのおかげかもしれないけど、呼吸は大分楽そうになって来たし、今のところ発熱もない。けど、やっぱり息苦しそうだし、苦しそうに頻繁に身じろぎする。そして、オレが背中をなでると少しだけでも楽になるのか、ハルの表情が緩むんだ。
だから、オレは右腕を抱え込まれた状態で肘をつき、左手を伸ばしてハルの背をなでる。
……はっきり言って、これは結構しんどい姿勢だ。
だから、ハルに誘われたように同じ布団で添い寝して、ハルの背をなでる方が楽には違いない。
けど、姿勢以前に問題ありだろう!?
確かに、小学生の頃はよくハルのベッドに潜り込んだ。家でも病院でも。入院中でも割と元気な時とか、学校は休んだけど念のためにの休みだった時とか。
ちょっとしたおもちゃや絵本を持ち込んで遊んだし、おしゃべりする内にうっかり一緒に寝ちゃったこともある。
けどね、ハル、オレたちもう高校生なんだけど!?
高校生男児と言えば、もう立派な大人だ。
ハル、一緒に寝られるわけないよ。オレだって、男なんだからさ。
……いや、もちろん、具合が悪いハルをどうこうしようとは思わない。思わないけど、理性とそれは別問題と言うか何というか。
いや、絶対に何もしない自信はあるけど、状況的にダメでしょう?
家の人が誰もいない彼女の部屋。
深夜、同じベッドで……
いやいやいや、やっぱりダメだって!
ハルの他には誰もいないのに、朝にしか誰も戻らないと分かっているのに、妙な後ろめたさから思わず慌てて腕を抜こうとする。
けど、オレの動きを察知すると、ハルの顔がこわばりオレの腕をつかむ指先に力が入る。
ハルがオレが側にいるのを望んでくれているのなら、オレはやっぱり、ハルの望む通りにしてあげたい。けど、この体勢ではこれ以上ムリ、と背中をなでる手を止めると、ハルは苦しそうに身体を丸めて呻き声をあげた。
そんなハルをそのままにはできなくて……。
何度か腕を抜こうと試みて失敗した後、結局、オレは小さくため息をついて、
「……お邪魔します」
と、ささやくような小さな声で言ってから、そうっとハルの隣に入ってしまった。
「……えーーっ、と」
翌朝、目を覚ましたその瞬間、オレの頭は真っ白になった。
いわゆる絶賛フリーズ中。
隣には、すやすや眠るハル。
腕ではなく、今はオレの右手をきゅっと握り、頬に当てたままにハルは眠る。
明け方、呼吸も落ち着き楽になったのか、鬱陶しそうにハルは酸素マスクを外した。
オレは手を伸ばしスイッチを切ると、マスクを広いベッドの端、ハルが寝るのに邪魔にならない場所に移動させた。
いや。はっきり言って、そんなことはどうでもいい。
問題は目の前の人で……。
「叶太くん、これはどういうことかな?」
お、おじさん、笑顔が怖いからっ!!
ベッドの横に立ち、ヘッドボードに手をかけ、貼り付けたような笑顔でオレを見下ろすのは、ハルの親父さん。
ハルを目の中に入れても痛くないほど溺愛する、ハルの父さんだった。
「説明してくれるかな?」
笑顔なのに、目は笑ってない。
完全に怒り心頭って感じで、一見静かな語り口と笑顔の迫力たるや半端ない。
確かに状況だけ見ると、親がいない間に同衾する恋人同士に見えてしまう。
いやいやいやいや、おじさん、違うんだ~!!
と言いたいのに、蛇に睨まれた蛙が如く、オレの思考は凍りついたままだった。
「叶太くん?」
おじさんが貼り付けたような笑顔でオレに笑いかける。その目が早く答えろと言っていた。
ああああ!!
確かに、この人は明兄の父親だ! 怒りの質がどこか似ている。
っじゃなくて!!
「……あの、」
テンパったオレがムリヤリ口を開き身体を起こすと、おじさんも、
「ん?」
と、オレを覗き込んでいた身体を起こして、腰に手を当て仁王立ちになる。
い、威圧感、半端ね~!!
何か言おうと口を開きつつも、オレが言葉に詰まったその時、ハルが、
「……う、ん」
と小さく身じろぎした。
起き上がった拍子に、つないだ手が外れたからか、ハルは心許なさそうにオレを探す。
「……カ、ナ?」
「いるよ」
とっさに、オレがハルの手を取ると、ハルはうっすらと目を開け、ふわぁっと笑みを浮かべた。
可愛い!
こんな時なのに、オレは自分が置かれた状況をすっかり忘れて、ハルの頭をそっとなでた。
「気分はどう?」
オレがハルに向けるとろけそうな笑顔を見て毒気を抜かれたのか、頭の上からはおじさんの大きなため息が降ってきた。
結局、使いっぱなしの酸素マスクの存在だったり、片づけそびれたトイレのハルが戻した跡だったりで、誤解はすぐに解けた。
とは言え、おじさんにはこっぴどく怒られた。そういう時は、ちゃんと隣の家のじいちゃんを呼べって。
少し遅れて登場したおばさんはニヤニヤ笑いながら、オレをこづいた。
沙代さんの不在は、夕方、お母さんが倒れて危篤と連絡があり、急遽駆けつけたからだった。ハルを心配した沙代さんを、後は夕飯を食べて寝るだけだから大丈夫だと送り出したのは間違っていない。
沙代さんは、そのおかげで、お母さんの死に目に会うことが出来たと言う。
だから、誰もそのことではハルを叱らなかった。
けど、ハルが夜中に具合が悪くなると、みんなが目覚める朝まで我慢しようとする癖があることについては、おばさんからガッツリお説教されたらしい。
オレの立場だったら言わない訳にはいかないと、ハルは分かっている。だから、文句は言われなかった。
ハルは一言、
「言わないで欲しかったのに」
とだけつぶやいた。
お説教はされたけど、ハルは、きっとこれからも我慢で済む間は誰も呼ばないのだろう。
家に一人きりで、もしもの事態が頭をよぎりでもしない限り、これからだってオレは呼ばれない。
ハルは一人でツライ夜を過ごすのだろう。
オレで良ければ、いつでも呼んで欲しいと思う。
だけど、同じ家に住む家族にすら遠慮するのなら、切羽詰まらない限り隣の家にいるオレを呼ぶ道理はない。
……もっと側にいたい。
いつだって、側にいたい。
具合が悪いのなら、どんな時でも介抱したいし、それで少しでも楽になるのなら何時間でも背中をさすってあげたい。
ハルが何も言ってくれないのなら、いつだってハルの不調を感じ取れるくらい近くにいたい。
ハルの隣に……、いつだって、ハルの隣にいたい。
誰はばかることなく、誰にも気兼ねすることなく、ハルの隣にいたい。
一番近い距離にいるのは、いつだってオレでありたい。
オレはその日から、いつかは……と思っていたハルとの結婚を、大幅に前倒しすることを真剣に考え始めたのだった。