3.第一の関門3
☆ ☆ ☆
六月上旬、金曜日の夜。
空梅雨の中、珍しく降った雨も夜には上がり、開けた窓からは少し湿った涼しい風が時折吹き込んでいた。
オレは風呂も済ませて、後は寝るだけって格好でベッドに寝転がって、「年収300万からはじめる不動産投資」なる本を読んでいた。
勉強と違って目的がしっかりしているからか、初心者向けの本だからか、オレはいたって楽しい時間を過ごしていた。
そんな時、スマホがブルブル震えながら、オルゴール調の可愛い音楽を鳴らした。ハルに割り当てた着メロだ。
夜十一時過ぎ。こんな時間に?
だけど画面を確認しても、確かにハルからの着信だった。
「……ハル?」
普通なら、ハルはとっくに眠っている時間。
オレは慌ててスマホ取り上げると、通話ボタンを押した。
「ハル? どうした?」
「……カナ」
スマホの向こうのハルの声があまりに弱々しかったから、オレは驚いてベッドの上に跳ね起きた。
「ハル、どうした!? 具合悪い?」
普段なら、調子の悪いときに、ハルはわざわざ電話なんてかけてこない。
何だかとてもイヤな予感がした。
「大丈夫? 呼び出しボタン、壊れたとか!?」
ナースコールさながら、ハルのベッドには、具合が悪くなった時におばさんや沙代さんを呼び出せるボタンが備え付けてある。
「壊れてないの」
「そっか」
ホッと息をついたが、ハルの元気のなさが、こんな時間の不意の電話が気になった。
「家に……誰も、……今、いなくて」
「え? 誰も!?」
背筋にイヤな緊張が走った。
おじさんやおばさんが不在な日は多い。だけど、沙代さんは住み込みだ。沙代さんが外泊するような日は、ハルは隣のじいちゃんちに泊まりに行く。
何かあったんだ。
ハルの身体のことを知ってる沙代さんが、何もなしにハルを一人にするなんて、あり得ない。
何かがあって沙代さんは出かけて、今、ハルは一人。
でもって、一人で何の問題もなければ、ハルがこんな時間に電話をかけて来るなどありえない。
「ハル、オレ、今から行くから」
「カナ、でも……」
ハルは言い淀みつつも、ダメと言わない。
心細げな、とても不安そうな気持ちが、スマホ越しにひしひしと伝わってくる。
「ハル、玄関のドア開けられる?」
ハルんちはセキュリティもバッチリだ。夜、一人でいるなら、今はロックを解除しなきゃ窓も開けられないはず。
動けないなら、じいちゃん叩き起こして……。
「開けに……行く」
「ムリするなよ? しんどかったら、オレ、じいちゃんちに行って鍵もらってくから……」
「大丈夫」
「すぐ行くから! 二分か三分、待ってて!」
言いながら、オレはもう走り出していた。
「あ! 電話、切らないで!」
スマホに向かってそう叫ぶと、通話状態のままに画面表示だけ消した。
オレは通りがかりにノックもなしに、兄貴の部屋のドアを開けた。
「ハルんとこ、行ってくる!」
書き置きしていくのも、時間がもったいない。
「え? 叶太?」
こんな時間に何を……とか何とか、兄貴の声が背中越しに聞こえたが、当然のようにムシして、オレは階段を駆け下りた。
庭に飛び出すと塀の手前にコッソリ置いてある梯子を立てて、ハルんちとオレんちの間の塀を乗り越える。公道に面している塀には密かに張り巡らせてある有刺鉄線が、ハルんちとの境の塀にはない。
もちろん普段はちゃんと一度道路に出て、門にあるインターホンを押す。けど、今日は非常事態だ。遠回りなんて時間がもったいなくて、とてもできない。
二メートル近くある塀の上から軽々と飛び降り、オレはハルの家へと走った。
そして、電話をもらってから数分と経たずに、玄関に付けられたインターホンを押す。ハルの家は、じいちゃんちと同じ敷地内にあるため、門の他にも玄関横にインターホンがある。
……ハル。
スマホ越しに聞いた、ハルの弱々しい声が気になってしょうがない。
「ハル、着いたよ。大丈夫!?」
つながったままのスマホに話しかける。
もしドアが開けられないようなら、このまま、じいちゃんちに走って行く予定。
スマホからもインターホンからも、何の声も聞こえないまま数秒待つと、
ウィーン、ガチャン
と小さな音がして、電子錠が開けられた。
「ハルッ!!」
分厚いドアを開けて、オレは中に飛び込んだ。
薄暗い玄関、目を凝らしてハルを探すと、ハルは玄関先、開錠ボタンの下にしゃがみ込んでいた。
「大丈夫!?」
「……カ…ナ。ごめ……」
「気にすんな。オレ、こんな時間は普通に起きてるから」
オレはハルの隣にしゃがみ込み、ハルの顔色をうかがう。だけど薄暗くて、よく分からない。
けど、こんなところにしゃがみ込み、立つこともできないハル。顔色を見るまでなく、明らかに体調が悪そうだった。
「歩かせて、ごめんな。ベッドに行こう」
オレがハルを抱き上げようと身体を動かすと、ハルは苦しそうにえづいた。
「ぐ、うっ」
「ハル! 気持ち悪いのか!?」
「……う、…ぅえ」
ハルは目に涙をためて口元を押さえていた。見ると、タオルを当てている。
……吐き気がひどいんだ。
吐き気というか、もういつ戻してもおかしくない状態の気がする。
「ハル、トイレまで我慢できる?」
「……す、る」
返事が「できる」じゃなく「する」ってことは、かなりキツんだろう。無理はしない方がいい。
「ハル、ここで吐こうか?」
ハルの部屋に行けば、嘔吐用の容器もある。それを取ってくれば……。
だけど、ハルは小さな声で
「ト…イレ、行く」
と言った。
途中で我慢できなくなった時のために、ビニール袋を……と思ったけど、今は手元にない。キッチンにありそうだけど、探す時間も惜しい。探してる間に、我慢できなくなって……と言う状況も十分に考えられる。だからって、嫌がるハルにここで吐かせるのも気が進まない。
オレは一瞬でそこまで考えて、
「分かった。トイレ行こうな」
と、ハルをそっとが抱き上げた。
その衝撃で、ハルの身体がビクンと震えた。
「うっ、……んんっ」
「ごめんな。気持ち悪いな」
できるだけ、揺らさないようにハルをトイレに運ぶ。
一階のハルの部屋の中にあるトイレ。こんな時のために……と言う訳じゃないだろうけど、病院の個室のようにハルの部屋にはトイレと洗面所がしつらえてある。
トイレにしては広いその部屋の、便器の前にハルを下ろそうとしたところで、とうとう限界を迎えたハルの背が大きく波打ち、ハルは戻した。
「うえぇ……げぇっ」
だけど、幸いあふれ出した吐瀉物は何とか、ハルが口元を押さえていたタオルまでで収まっていた。
オレはともかく、ハルのパジャマが汚れなかったのは幸いだ。こんなに具合が悪いのに、着替えさせるとか、あまりしたくない。
「……ご、め…」
「気にしない」
ハルの口元からタオルを外させる。
それから、崩れ落ちそうなハルを後ろから支えて、便器の上に顔を出させた。瞬間、ハルの背中がまた大きく波打った。
「げえぇっ」
勢いよく、ハルの胃液が飛び出した。
ついさっき戻したのには、まだ形があった。けど、それもほんの少量。
「ハル……、オレが来る前にも、戻した?」
「……少、し」
ハルが苦しそうに、胃の辺りを押さえた。
とても少しには思えない。
「うえぇっ」
また胃液。
オレはハルの背を優しくさする。
ハルの呼吸は完全に上がっている。支えていなきゃ、きっと身体を起こしていられない。
それから数度、ハルは苦しげに胃液を戻した。
その後、粗い息の下、囁くように言った。
「…カ……ナ」
「ん?」
「よこ、なり…た……」
「まだ吐きそう?」
「も……だ、じょ…ぶ」
「よし、じゃ、ベッドに行こうな」
オレはコップに水をくんで口をゆすがせた後で、できる限り、そうっとハルを抱き上げた。ハルはぶるっと身体を震わせると、ギュッと身を縮めた。戻すほどに調子が悪い時、ハルは横抱きでもおんぶでも酔う。
「ごめんな」
オレの言葉に、ハルは小さく首を振った。そして、また苦しげに眉をひそめた。
こんな最悪の状態でも、ハルはオレに申し訳ないとかそんなことを考えていそうで、オレの方こそ申し訳なくなる。
できるだけ揺らさないように、でも少しでも早くと、オレはハルをベッドに運ぶ。
トイレと言っても、ハルの部屋にあるトイレだからベッドは目の前だ。
振動にはかなり気をつけてベッドに降ろしたけど、やっぱりハルは苦しそうに呻き声をあげた。
そっとハルの頭をなでる。
「ハル、病院行く?」
「…い…かない」
かすれた小さな声。
……だよな。今行くんだったら、最初からじいちゃんに電話してるだろう。
「薬は?」
「……ら…な…い」
自分で聞いておいて何だけど、これも納得。今はとても薬なんて飲める状態じゃない。多分、薬だろうと水だろうと、飲んだら数分と待たずに戻してしまうんじゃないだろうか……。
「そっか」
ムリにでも病院に連れて行くとか、じいちゃんを呼ぶとか考えないでもない。
だけど、ハルが呼んだのはオレ。
それなら、オレは自分ができることをするだけだ。
ベッドの端に浅く座ると、ギシリと音を立て揺れた。そのまま、ハルの背中に手を当ててゆっくりとさする。強張っていたハルの身体が少し緩む。
オレにできるのはこれくらいしかない。だけど、ハルの身体が、表情が、わずかだけど緩むから、少しは、ほんの少しくらいはオレも役に立てているのかなと思えた。
それから、ふと気になっておでこをくっつける。
「熱はないな」
その言葉に、ハルが固く瞑っていた目を開けた。熱はないけどその目は潤んでいて、変わらずシンドそうだった。
そして、気になっていたことを言ってみる。
「ハル、けっこう吐いただろ? 本当は点滴打ってもらった方がいいと思うんだけど」
きっと、水分を口から取らせようとしても今はムリだから。
「……大丈夫」
ハルは小さな声でささやくように言った。
「でも、」
「朝まで……寝れば、大丈、夫……だから」
ハルの息が乱れる。
ハアハア言いながら話すのを見て、オレはムリにしゃべらなくて良いよって言おうとした。
けど、それを告げる前に、ハルがポロリと爆弾発言をした。
「これくらい……なら、割とある…から」
……え!?
オレが目を見開いたのに気づいて、ハルはしまったと言う顔をした。
それで、オレは分かってしまったんだ。
ハルが、夜中に具合が悪くなっても、誰も呼ばない日が多いだろうことに。
ハルは困ったようにオレの目を見ていたが、次第にぼんやりと焦点が合わなくなると、きゅっと目を閉じて身体を硬くした。
オレは慌てて、ハルの背に当てた手を動かした。
おじさんもおばさんも多忙だ。夜くらい、家でくらい、ゆっくりさせてあげたいと、ハルなら考えてもおかしくない。
一日中家の仕事をしている沙代さんは、住み込みで働いてはいるけど家族ではない。ハルなら、夜中まで付き合わせたくないと遠慮するだろう。
今日、オレに電話をもらえたのは、オレを頼りにしてくれたから……なら嬉しいけど、それよりもむしろ、よほど具合が悪かったか、もしくは一人で耐えるのが不安になったか……そんな理由な気がする。
何にしても、今、言及する話ではない。
これは後でおばさんに報告すれば良い。……ハルはきっと嫌がるだろうけど。
☆ ☆ ☆
オレの説明を聞き終えると、明兄は険しい顔をして一言、
「……お前の言いたいことは、分かった」
と言った。
「え?」
「認めたくはないけど、お前が考える通りだろうな」
明兄は何がどうとハッキリは言わず、悔しそうに拳を握りしめた。
「明兄、ちょっと待って。それって……」
「注意したからって、陽菜がそうそう夜中に人を呼ぶとは思えない。だからって、毎晩、誰かに見張らせるわけにはいかない。それじゃあ、陽菜が落ち着いて眠れないだろう」
明兄は小さくため息を吐く。
「何より、どうしようもなく具合が悪い時には、ちゃんと誰かを呼んでいて、今回だってお前を呼んでいる。夕飯のことにしたって何にしたって、確かに親父やお袋は陽菜を一人にしすぎだ。それは……オレも同じだが」
明兄は悔しげに顔を歪めた。
「沙代さんは陽菜を可愛がってくれているけど、食卓に一緒につくことはない。今更、その習慣を変えるのも変だろう」
それから、明兄は若干物騒な目つきでオレを睨んだ。
「お前の思い通りだ、叶太」
明兄の言葉にオレは期待を込めた眼差しを送る。
「これじゃあ、賛成するしかないだろう? 投資は教えてやるし、稼げるところまでサポートしてやる」
「明兄! それじゃあ!」
「ああ……陽菜と結婚しろ」
明兄は大きなため息を吐いた。
それから、視線をオレに向けてぐっとにらみつけた。
「……全力で守れよ」
「もちろん!!」
オレはギュッと両手の拳を握りしめ、力強く頷いた。
☆ ☆ ☆
オレの十七歳の誕生日の二週間前。明兄の協力を取り付けられた。
オレにとっては、それは最初の一歩だ。
高校生同士の結婚というのは、きっととてつもなく遠い道のりだ。
好きだから、愛しあってるから一緒にいたい、そんな気持ちはきっと誰でも持つだろう。
でも、ほとんどの人はそれを実現させない……させられない。
一部の例外を除き、同棲できる年齢まで、結婚を反対されない年齢まで待つのだろう。それで我慢できるのだろう。
だけど、オレは待てなかった。待ちたくもなかった。
十八歳の誕生日まで、後一年と少し。
それまでに超えなければいけない壁はいくつある?
次は、おじさんかおばさんか……? それとも、先にじいちゃんを陥落させるか?
うちの親は、ハルの方をすべてクリアしてからでなきゃ、何を話しても笑って一蹴されるだけだから一番最後で良い。
……明兄と同じようにハルを溺愛しているおじさん。
明兄への話には、実は続きがある。
あの時のおじさんは、本当に怖かった。
おじさんは、もしかしたら、……いや、もしかしなくても、きっと明兄より高くて厚い壁なんだろう。