23.隠された願い3
「あのね……」
「ん?」
「……ううん。ごめん、何でもない」
言いたくない。
こんな言葉、言いたくない。
慌てて口をつぐんだ。
でも浮かんだ言葉を口にしなかったせいか、代わりに別の疑問が浮かび上がってきた。
さっき、カナが言いかけた話。蒸し返しても大丈夫かな?
「カナは、どうやって、パパやママたちを説得したの? どうして、みんな許してくれたの? ……普通なら、こんな結婚、認めないよね?」
「……あー、えーっと、」
カナが一瞬言い淀んだのを受けて、わたしの心の黒い部分からポロリととても悲しい言葉がこぼれ落ちた。
今さっき、途中でやめた言葉。
言葉にする気なんて、なかったのに……。
でも……うちの家庭の事情や、わたしの身体のことを引き合いに出したって……、それって、やっぱり……そういうことだよ、ね?
「……思い出作り?」
「え?」
「結婚適齢期まで、生きられないし……って?」
「ちょっと待って!? ハル、何言ってんの!?」
カナは驚いたように目を大きく見開いて、クッションから腰を上げた。
カナはそんなこと、言わない。
きっと言わない。
……けど、聞いた人たちは?
聞いた人たちは、どう思った?
パパは? ママは?
おじいちゃんは? お兄ちゃんは?
広瀬のお家の方は?
みんな、どう思った?
「可哀想だから許してあげようって、言ってた?」
「ハル!?」
カナがわたしの隣に来ると、両手でほっぺたを挟み込むようにして、わたしの顔を覗き込んだ。
「なんで、そんなこと……、って、ハル!?」
気がついたら、唇をキュッと引き結んで、目をギュッとつむって……。
わたしはポロポロと涙をこぼしていた。
「……うーっ」
声なんて出したくないのに、嗚咽が漏れる。
カナはわたしの涙に驚きつつも、ほっぺたから手を離して、静かにわたしの頭を抱き寄せた。
わたしは抵抗することもなく抱きつくこともなく、カナの腕にくるまれていた。
「……うーっ、……ひ、…っく」
カナはわたしを抱きしめて、よしよしと優しく何度も背中を叩く。
トントン、トントンと。
「……そんなこと考えてたのか」
カナがぽつりとつぶやいた。
「……うっ、……う……ひっく」
「ハル、ごめん。……本当にごめん」
カナがゆっくりとわたしの頭をなで背中をなでる。
「オレ、本当に、決定的に言葉が足りてないな」
カナは自嘲するように悔しげに言った。
「ごめん、ハル。……みんな……誰もそんなこと考えてないよ?」
カナはあやすように言うと、わたしを軽々と持ち上げて自分の膝に乗せた。
いったいどこに座らせるんだとわたしが心のどこかで慌てている事なんて意にも介せず、カナはわたしを抱きしめた。
まるで小さな子どものように、わたしはしゃくりあげて泣いていた。
子どもの頃まで遡っても、こんな風に泣いた記憶はない。
でも、恥ずかしいと思うような余裕もなく、わたしはカナの腕の中で涙を流し続けた。
息苦しい。……泣くと息が切れる。
「ハル、大丈夫?」
カナがあやすように背中をトントンと叩く。
こんなにも心が乱れていても、なぜかカナの腕の中はやっぱり落ち着くんだ。
小さく頷くと、カナはそっと頭をなでてくれた。
カナは愛おしげに、ひたすらに優しくわたしを抱きしめる。
「ごめんね、オレ、少しよこしまな話をしちゃったけど、まず、オレは純粋にハルが好きで好きで仕方なくて、一緒にいたくて、心身共に、む……結ばれたくて、結婚したかったってのは、いい?」
「……うっ、……、ん」
しゃくり上げながら頷くと、カナはホッとしたように「ありがとう」とわたしをそっと抱きしめた。
カナが、……そう、カナがわたし自身を求めてくれているのはよく分かったから、カナが、わたしに同情してプロポーズしてくれたとか、そんなことはまったくないって分かったから、お腹にあったもやもやと重いものがほんの少しだけ軽くなった。
「あのさ、オレ、どうやら手段を選ばず目的に向かって突っ走るところがあるみたいで……」
カナが困ったようにわたしの顔を覗き込んだ。
「……ハル、嫌いにならないでね?」
「……どう…して?」
どうして、そんなこと言うの?
そう聞きたいのに、息苦しくて、嗚咽が収まらなくてすべてを言い切れない。
でも、カナはわたしの言いたいことを汲み取ってくれる。
分かってる、ムリにしゃべらなくて良いよと言いながら、わたしの背中をさする。
「オレさ、明兄、じいちゃん、おじさんの、ハルを想う気持ちを利用したと思う」
……どういう意味?
「明兄が大学に入ってから、ハル、週の半分以上を一人で夕飯食べてるだろう?」
「……ん」
パパもママも平日はそもそも仕事で、わたしが夕飯を食べる七時前なんて誰かがいる日の方が珍しい。
土日でもママは普通に仕事が入るし、パパも会食やら出張やらで家にいないことが多い。
「寂しくない?」
問われて言葉に詰まった。
寂しくないと言ったらウソになる。カナはちゃんと分かっていて聞いているから。
そんなワガママ言いたくない。
寂しいから一人にしないで……なんて、子どもみたいなこと、言いたくない。
おばあちゃんに話した通り、ちゃんと分かってる。ママの仕事にはそれが必要なこと、パパが忙しいことも、忙しい中でもできる限りの努力をしてくれていることも、お兄ちゃんが地元の大学を選ばなかった理由も、そうすることを随分と迷ったことも、ちゃんと理解している。
だから、大丈夫だと思ってた。
……大丈夫じゃなきゃって思っていた。
だけど、寂しくないかって聞かれたら、心に浮かぶのは大丈夫なんて言葉ではなくて……。
「ハル、……泣かないでいいから」
「……ひっ、……く」
カナはわたしをきゅっと抱きしめる。
そうして、またわたしの背中を大丈夫、大丈夫と言うようにトントンと優しく叩く。
わたしの気持ち、カナには筒抜けだったのかな……。
「オレさ、本当は毎日でもハルんちに行って、一緒にご飯食べたかったんだ。けど、うちの親父、ほとんど帰ってくるんだよな、夕飯食べに。家族で食卓を囲むってのを大切に思ってるらしくて……。ごめんな」
「……カ、ナ……、わるっ、く、な……」
カナは何も悪くないよ。
誰も、悪くなんてないんだよ。
涙が止まらなくて、嗚咽が止まらなくて、ちゃんと話せないのにカナにはちゃんと伝わるんだ。
「……ん、そうだよな。別に誰も悪くないよな。けど、オレはハルが寂しい想いをしてるのは嫌だし、何よりオレ自身がハルと一緒にいたかった。ハルと毎日、ご飯食べたいよ? 結婚したら、普通にそれが日常になるだろ? そんな毎日を想像しただけでオレ、思わずにやけちゃうよ?」
カナがわたしを抱きしめる腕に力を込めた。
「ハルは誰も悪くないって言うだろ? けどさ、ハルを大事に思ってる人はみんな、ハルに申し訳ないって思ってるんだよ? 明兄はこうなることが分かっていて地元の大学を選ばなかった。おじさんも仕事とは言え、ハルを一人にしている張本人の一人だ。同じ家に住んでいるのに、って」
「……け、ど」
「うん。そう、ハルはそんな風に思って欲しくないよな。けど、みんな考えちゃうんだよ。自分の選択のせいで、ハルに一人で寂しい想いをさせてるって」
「だ、……けっ、ど」
「ハル、……オレ、だから、みんなのハルを想う気持ちにつけ込んだんだって。……みんな、普段からそんなことを思ってた訳じゃないよ?」
「……で、も……や、……だっ」
わたしの涙は未だに止まらない。
誰かを傷つけたりしたくないのに……、わたしのせいで辛い思いなんてさせたくないのに。
「……ごめん。ハル、けどさ、みんな……知っておくべきだと思うよ?」
「……カ…ナ!」
涙でくしゃくしゃの顔を上げると、カナが困ったように笑った。
その表情があまりに辛そうだったので、何も言えなくなった。
「後さ、ハル……これ聞いたら、もっと怒るよ……ね?」
「……な、に?」
「沙代さんのお母さんが亡くなった日の夜、ハル、調子を崩して、オレを呼んだだろ? そこで、同じようなことがあっても朝になるまで誰も呼ばずに我慢してるって分かって……」
……それは、後からママにたっぷり叱られた。
言わないで欲しかったのに。
「明兄やじいちゃん、おじさんにも、それを話した」
「……なん…で?」
「だって、結婚して同じ部屋で眠れば、朝まで我慢するなんてことなくなるじゃん?」
カナはわたしが怒ると思っているみたいで、眉を八の字に下げて困ったようにわたしの顔を見た。
それからわたしの表情がゆがむのを見て、
「……ハル、言っておくけど、同情なんかじゃないよ?」
と諭すように言った。
「ハルは一年前にオレが交通事故に遭った時、すっごく心配してくれたよね? 体調悪いのにずっとオレの病室にいてくれたよね?」
わたしはカナの腕の中で小さく頷いた。
思い出しただけで、今でもあの日の恐怖が背筋を走る。
一年前の春、わたしは意識のないカナの手を握りながら、泣きながらカナの目覚めを祈った。
「同じだよ、それと」
「……え?」
「大切な人が苦しんでいる、辛い思いをしているなら側にいてあげたいと思うし、少しでも楽になれるように何かしたいと思うのは、とても自然で当たり前な感情だと思う」
カナはやけにきっぱりと言いきった。
それから、また困ったように眉根を下げた。
「……で、オレ以外にもハルを大切に思ってる人はいっぱいいる訳で、オレ、 その人たちのハルを想う気持ちにつけ込んだ。もう高校生のハルを夜通し監視なんてできない。だけど、オレが結婚して、ハルと同じ部屋で寝ていたら、いつも一緒にいるんだったら安心だろって」
「……で、も」
だけど、それじゃカナばっかりがわたしのために、いつも何かしてる。
わたしはしてもらってばっかりで……。
「ハル、間違えないで? オレ、説得のために、この話をしただけだよ? オレだってハルが大事だから、おじさんたちと同じ気持ちはあるよ。……だけどね、それ以前に、オレ、とにかく、ハルとずーっと、ずーっと一緒にいたくって、ハルと結婚したくて、そのために、……申し訳ないけど、……卑怯だけど、みんなのハルを想う気持ちを利用したんだから」
はあーっと、カナは大きなため息を吐き、
「あー。幸せが逃げてく……」
とつぶやいた。
「おじさんにはね、それでも陽菜は嫁になんてやらんっ! って怒鳴られたよ。大事な娘をそう簡単にはやれないんだって。……まあ、そうだよね。オレがおじさんでも、こんな可愛い娘、手放せない」
カナはそう言って、わたしの頬にキスをした。
「ははっ、涙、しょっぱい」
カナはぺろりとほおをなめる。
「……やっ! カ、ナっ!?」
突然のカナの仕草に驚いて、……そして、ようやく涙が止まった。
「あのさ、オレがこんなにも弱みにつけ込んでも、ハルのためには結婚は最良の選択だって分かっても、おじさん、結婚なんて許したくなかったんだよ?」
それがなあに?
「同情な訳ないだろ?」
「……あ」
思わずカナの顔を見上げると、にこりと笑ってくれた。
「……でも、じゃあ、」
どうして、パパは結婚を許す気になったの?
「うん。……あのね、嫁にはやらんって言われたから、じゃあ、婿にしてください! って言ったんだ」
「……え?」
「オレが牧村になるから、おじさんの息子にしてって」
「……カナ?」
なんかとんでもない事を聞いた気がする。
「新居はハルの部屋で良い? それとも、新しくどこか借りた方が……って聞いたら、ここに住めって、即答」
カナの言葉を理解できずに呆然としていると、カナはくすくす笑って、わたしを抱きしめた。
「ねえ、ハル」
わたしの顔を覗き込み、カナは優しく、とても優しく笑った。
「オレね、実は、結婚の許可をもらうために結構頑張ったんだよ?」
カナはわたしの髪をそっとなでた。
「稼ぎもない若造が……って言われるよね、普通。だからね、ハルを養える男になろうと思ったよ? ハル、オレ、もうサラリーマンの生涯年収、稼ぎ終わった」
「え?」
「明兄に、投資、教えてもらったんだ」
「……お兄ちゃん…に?」
「面白かったよ? オレ、才能あるって褒められた。やめる気はないし、不動産も手に入れたから食うには困らない。ハルのために最高の医療だって用意できるよ? ……って、こっちはじいちゃんたちの力を借りなきゃムリだけどさ」
まだ頭が付いてこない。
サラリーマンの生涯年収? 不動産を手に入れた?
……カナが?
「そこまでして、ようやく、おじさんもじいちゃんも許してくれた。……おばさんは最初から反対する気もなさそうだったけど」
確かに、ママならそうかも知れない……。
「……どう?」
「え?」
「ハル、褒めて?」
「……え?」
「オレ、本当に、けっこう頑張ったと思うんだけど……。やっぱり、……ダメ、だった?」
前半得意そうだったカナは、後半でシュンと肩を落とした。
それがやけに可哀想で、思わずカナの背に手を回した。
「……ありがとう。……すごいね、カナ」
その瞬間、カナは一瞬息が止まるほどの力でわたしを抱きしめた。
そして、わたしが小さく咳き込むのを見て、「ごめんっ」と慌てて力を緩めた。
うっとりとカナに見つめられる。
「ハル……好きだ」
カナはとろけるような笑みを浮かべて、わたしにキスをした。
いつもなら、そのままスッと遠ざかっていく唇は、離れることなくわたしのそれをむさぼった。
何が起こっているのか分からないままの、カナとの初めての大人のキス。
キスの後、息が切れてはあはあと肩で息をすると、カナが慌てふためいて「ごめん!」と謝ってきた。
優しくそっと髪をなでられ、頰にキスをされ、それからまた抱きしめられた。
「ねえ、ハル」
カナは一度身体を離して、わたしの目をしっかりと見て続けた。
「オレと、……結婚して?」
優しい、優しい、カナの目が、顔が……気が付くと歪んで、ゆらゆらと揺れていた。
「………はい」
私の目からはまた大粒の涙があふれ出し、ぽろぽろ、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「ハルっ!!」
カナが大きく目を見開き、それからゆっくりと満面の笑顔を浮かべた。
カナに抱きしめられ、わたしもカナを抱きしめる。
カナのぬくもりが、カナの気持ちが、カナのすべてが愛しかった。
幸せで、幸せで、……幸せで、幸せで。
数ヶ月ぶりに心の平穏を手にしたわたしは、気が付くと、カナの腕の中で暖かい充足感に満たされながらゆっくりとまどろみ、穏やかな眠りの世界へと落ちていった。




