14.プロポーズの意味2
目が覚めると、自分の部屋の天井が目に入った。
倒れた後、自室のベッドに寝かされた。何度か吐いた後、きっとまた入院だと思いながら意識を失った。
……そっか、入院しなくて良かったんだ。
それなら、新学期早々お休みという事態は避けられるかも知れない。まだ、一週間近い猶予がある。ゆっくり休めば調子も良くなるかも知れない。
黄昏時の日差しが、部屋を朱に染める。
あれから何時間寝ていたんだろう?
……熱い。喉が渇いた。
いつの間にか熱が出ていたみたいで、枕は氷枕に変わり、両脇にも冷却用の氷パックが挟まれていた。
「陽菜、目、覚めた? 水飲む?」
部屋にママがいた。
そうか。わたしのお誕生日だったから、今日はお休みだ。
「……ほし、い」
喉がからからで声がかれる。
酸素マスクが外され、
「はい。ゆっくりね」
と吸い飲みを口もとに差し出された。
ごくりごくりと水を飲むと、ようやく人心地ついた。
「……ありがとう」
そう言うと、ママは酸素マスクをまた着けてくれる。
「……ごめんね。今日、」
「疲れが出たのね。二月から、頑張って通学していたものね」
……疲れなの、かな? それなら良いんだけど。
「そうそう。指輪は外して、机の上に置いてあるからね」
言われて、ようやくカナの言葉を思い出す。
「八月のオレの十八の誕生日が来たら、ハル、……オレと結婚してください」
思い出すと、何故か心がザワザワと揺れた。
左手に触れると、確かに何もなかった。
言われなければ、思い出すこともなかったのに……。
思い出したくなかったのに……。
だけど、ママは沈黙を何と取ったのか、わたしを安心させようとするかのように優しく言った。
「心配しなくても大丈夫よ?」
「……な、に?」
「パパも私も、反対はしないから」
……え?
想定外の言葉に、あまりに驚いて何も言えなかった。
「広瀬さんご夫妻も了解しているし」
……なんで?
「陽菜が望む通りにして良いのよ?」
ママはわたしの驚きと沈黙をどう取ったのか、優しくわたしの髪をなでた。
……まるで、わたしが結婚を望んでいるとでも思っているかのように、ママは優しく笑った。
☆ ☆ ☆
翌朝、出社前にパパが寄ってくれた。
忙しいのに、わたしの氷枕を新しいのに替えてくれて、それから、いっぱい頭をなでられた。まるで小さな子どもにするみたいに。
「ずっと、パパだけの娘でいて欲しかったのにな」
と、パパはポツリとつぶやいた。
……パパ?
「響子さんと結婚した時には、彼女の両親はもう他界されていたからなぁ」
と、パパはまたつぶやく。
それから、意を決したようにわたしの目をしっかりと見つめた。
「……陽菜が、好きにして良いんだぞ? 結婚したからって、陽菜がパパの可愛い娘だってことには何も変わらないんだから」
わたしが何も言えないでいるのを体調が悪いからだと思ったのか、感激しているからだと考えたのかは分からない。
パパはそう言うと時計に目をやり、再度、わたしの頭をぐりぐりとなでてから、
「行ってくるね」
と部屋を後にした。
わたしは行ってらっしゃいという言葉すら、口にすることができなかった。
その次に来たのはお兄ちゃんだった。
お兄ちゃんは、朝食を乗せたトレーを手にしていた。
「陽菜、調子はどう?」
サイドテーブルのティッシュと水差しを勉強机に移動し、替わりにトレーを置く。
お兄ちゃんはダイニングで済ませたみたいで、トレーにはわたし用の卵がゆだけが乗っていた。
パパやママのように何か言うのかと思っていたけど、お兄ちゃんは何も言わなかった。
「食べさせてやろうか?」
お兄ちゃんは土鍋から、お茶碗におかゆを移しながら、そんなことを言った。まるで小さい頃みたいに。
「……うん」
思わず頷くと、お兄ちゃんは嬉しそうに、おかゆを混ぜて冷ましてくれた。最後に、ふーっと長く息を吹きかけて冷ます姿を見ると、不覚にも涙が浮かんでしまった。
小さい頃は、よく、こうやって食べさせてもらった。
「どうした?」
「……何でもない」
ただ、お兄ちゃんがここに一緒に住んでいた頃を思い出しただけ。そして、懐かしくなってしまっただけだから。
ほほ笑みを浮かべると、
「なら良いけど。……しんどかったら、言うんだぞ?」
と、わたしの頭を優しくなでた。
せっかく用意してもらったのに、数口食べるだけで精一杯だった。
そう言えば、とお兄ちゃんが言った。
「後で、叶太が来るって」
わたし、きっと困った顔をしていた。
お兄ちゃんはそっとわたしの頭をなでた。
「……今日は、会ってやれ」
いつもだったら、「追い返してやろうか?」くらいは言うのに?
なんで?
……なんで、今日に限って、そんなことを言うの?
「お兄ちゃんも……知ってたの?」
固い声、硬い表情のままに聞くと、お兄ちゃんは少し迷った後、
「ああ。知ってた」
と言った。
心の中がもやもやして、お腹の辺りにもやもやが溜まってしまって、……出てこない。
「あれ、取ってもらえる?」
勉強机の上にあるローズピンクの紙袋を指さす。
ママが言っていた、カナがわたしにはめた指輪が入っている紙袋。
「ああ。もちろん」
お兄ちゃんは、スッと立ち上がると、無造作に紙袋を取り、
「はい」
と、わたしに手渡してくれた。
「ありがとう」
サイドテーブルに置こうとして、朝食のトレーが残っているのを思い出す。
お兄ちゃんがわたしの動きに気付いて、トレーを勉強机に移し、元々置いてあったティッシュケースや水差しを戻した。
わたしは紙袋をサイドテーブルに置いた。
十時過ぎに、カナが来た。
いつもはカナを見ると、心がほんわか暖まる。
なのに今日は逆に、お腹の中に渦巻く重くて暗い何かが、重苦しくて仕方がなかった。
「ハル、おはよう」
カナはいつものようにわたしの側に来て、わたしの顔を見て嬉しそうに笑った。
「おはよう」
声が固くなるのを止められない。
カナを嫌いになったんじゃない。そうじゃない。
だけど……。
「……ねえ、なんで、カナがわたしにプロポーズすること、……みんな知ってたの?」
気が付いたら、思わず口に出していた。
「え?」
「……パパもママも、わたしが望むなら、好きにしていいって言うの」
カナの顔を見ることができずに、うつむいて唇を噛み締めた。
「誰も……驚いてなかった」
「ハル」
「……知らなかったの、わたし……だけ?」
「え…と、それは……」
カナは答えない。
答えないのが、一番の答えって、本当にあるんだね。
そっか、わたし以外、みんな知ってたんだ。
「……ねえ、なんで、パパやママが、結婚していいって言うの?」
視線を上げて、カナを見る。
「わたし、まだ高校生だよ? なんで? どうして、わたしが何も言ってないのに、結婚なんて許してくれるの!?」
大きな声で一気に言うと、息が切れた。
まだ熱も下がっていない。体調が万全じゃないのを思い出す。ハアハアと、自分の呼吸の音がうるさくて、耳をふさぎたくなった。
カナがいつものように、わたしの背中をさすってくれる。気遣うように優しく、優しく、背中をさすってくれる。
触れられるのは、嫌じゃない。カナのことは、やっぱり大好きだ。
だけど……。割り切れない思いが、どっしりと身体の中に居座っている。
カナは長い沈黙の後、
「ごめん。……ハルに一番に話さなきゃいけなかった」
うつむいたわたしの顔を覗き込んで、そう言った。
だけど話して、どうなるというの?
「ハル、本当にごめんね」
カナは心底申し訳ないという顔で、ひざまずいて、わたしに語りかける。
「ハル、改めて言わせて……」
ねえ? なにを言うの?
もう、言わないで。聞きたくない。
「オレが十八になったら、結婚して欲しい」
わたしの心の声は届かず、カナは昨日に引き続き、その言葉を口にした。
カナがわたしを想ってくれているのは知っている。
とってもとっても大切にしてくれているのも、分かってる。
……だけど、だけど、
「カナ、ごめん。……できないよ」
「ハル?」
「考えられない」
「ハル、あの……急なことで驚かせたとは思う。けど、」
もう言わないで。
聞きたくないよ、カナ。
驚いたとか、そういうことじゃない。結婚できる理由なんて、どこにもないんだよ?
わたしは、カナが贈ってくれた指輪の入った紙袋を手に取り、カナの胸に押しつけた。
「えっと、ハル……」
鼻がツーンとして、じんわりと涙が浮かんでくる。
必死で堪えているのに、こぼれ落ちそうになる。
もう、聞きたくない。
なにも聞きたくない。
カナがわたしの肩に手を触れた。
「ハル、『今は』考えられない……って思っておくね」
顔を上げるとカナの悲しそうな顔が見えた。
そんな姿を見ると、申し訳なくて仕方なくなる。
「ごめん。オレ、先走ったかも知れない。けどね、本気だよ。オレはハルしか考えられないし、朝も昼も夜もいつだってハルと一緒にいたいと切望してる。堂々とハルのパートナーを名乗りたい」
カナはわたしの頰にそっと手を触れた。
「愛してる。大好きだよ、ハル」
カナは優しくほほ笑んだ。
いつもの天真爛漫な笑顔じゃなくて、それはムリに作った笑顔で、わたしの胸をえぐる。
「……わたしも」
わたしも、愛してる。
その想いは言葉にならず、代わりにこらえきれず我慢していた涙があふれ出した。




