私も町中で言われたら全力で逃げると思う
おじさんは気持ちを落ち着かせようとしているのか、深くて重い深呼吸を何度も何度も繰り返す。深く深く。重く重く。心なしか部屋の空気まで重く、冷たいものになり緊張感が張り詰め始めたような気がし始めた。
そして、そんなおじさんの様子を見ていた私の方まで、何だか胸が締め付けられような。そんな感覚になっていった。
もうどれくらいだったろうか。30秒かもしれないし、10分かもしれない。何度も何度も深呼吸を繰り返しいたおじさんが、すぅーっ。と長い息を吐く。
どうやら決心を決めたようだ。
私も思わず生唾を飲む。そして決心を決めたらしいおじさんは……拳をぐっと握りしめたあと、和やかな顔で確かにこう言った。
「僕はね……真性のドMなんだよ」
「…………え?」
部屋に張り詰めていた緊張感が一瞬にして消えさったのが確かにわかった。
女の人が、腕で口元を覆う。あれ? 聞き間違いかな? なんかこう不穏なワードが聞こえたような?
と混乱する私にもう一度。たしかにはっきりとこう言った。
「ドMなんだよ」
聞き間違いじゃなかったね?
私は、思わず聞き返す。
「えっと、その……マゾ的なMですか?」
「そう、マゾスティック的なMさ。元々病気で死んだのもそれが原因なんだ。こう、いたぶられた箇所が炎症を起こしてね。それがきっかけで死に至ったんだ」
「は、はぁ」
おじさんの言葉に熱がこもり始める。
「それで僕は死んでしまったわけだけども、何というか気持ちは死ぬにも死にきれなくてね。ずっっっっとフラフラと彷徨っていたのさ」
「そ、そうなんですね!」
「……っ!! ……っ!!」
私の横で女の人が、声を殺して笑う。頼むからそこで震えるのはやめてくれっ!
私は、思わずしどろもどろになりながらもおじさんに回答を求めた。
「ということは……えぇっとそのぉ……おじさんの未練ってのは何……ですか?」
確かにドMとはいったものの、それのお陰で死に切れないと言ったんだ。きっとほら。もう少しまともな最後がよかったとかのはずだよね?
そんな私の期待心を他所にやら。おじさんの心にもう迷いはなかった。
「頼む!! 最高の罵声を浴びせながら僕のことを思いっっっっきりぶん殴ってほしい!! いたぶられたことが原因? ふざけるんじゃない!! 僕はいたぶられながらながら逝きたいんだぁぁぁぁぁぁっ!!」
多分私は涙目になっていたと思う。生まれて初めて出会った本物のヘンタイ。混乱してうまく回らない頭。手には即死間違い無しのハンマー。
結論は早かった。
私が頭で考え終わるよりも早く、気がついた時にはおじさんに向かって私は、全力でフルスイングしていた。
「へっ、へ、へ、変態だぁぁぁぁあぁあああぁぁあぁああっっっっっっ!!!!」
「ありがとうございますぅぅ!!!!」
おじさんの後頭部を確実にハンマーが捉える。
ドスッ! という鈍い感覚が伝わる……こともなく私は思いっきりハンマーを振り抜いた。
「おーっ……ナイススイング……」
女の人が、ポツリとつぶやいた。
正気に戻った私は、おじさんが座っていた場所をゆっくりと見つめる。
しかしハンマーを振り抜いた先には、おじさんの姿なんて既になく、部屋の中は私と女の人だけになっていた。
そのまま二、三秒程、そのまま固まっただろうか。しゅるしゅると力が抜けていった私は、思わずハンマーを手放した。コロンという間抜けな音が部屋の中に響く。
そして思わず私はペタンと床へと座り込んだ。
「はぁっ……はぁっ……」
「上出来上出来。よくやったじゃんか」
女の人の乾いた拍手の音が、部屋の中を反響する。それは本当に私のことを認めているような。そんな拍手だった。
私は荒れた息を落ち着かせ、女の人に質問を投げかけた。
「今のは……今のは一体何が起こったんですか?」
女の人がにこやかや顔で答える。
「簡単な話、昇天したんだよ。どんな形であれ未練を叶えてから……まだ説明してなかったけど、殴るなり焼くなりの儀式を終えた霊は、ここの横にある死界への門に行くんだよ。普通の霊と同じだな。そんであのおっさんはっつーと、今頃その門にならんでるだろうな」
「そう……なんですか」
私が……おじさんをあの世に持っていった……のか。
「……まぁそう変な顔をするんじゃない。理由がどうであれ、これが死んだあとの正しい道だし、幸せだ。子どもが大人になるのと一緒だよ」
それに。と女の人が話を続ける。
「繋魂使になるってことはあれを見届け続けるってことでもあるんだぜ? だからさ、早く慣れとかなきゃこれから先、厳しいぞ?」
つーことで! と女の人が背伸びをする。
「で、どうだ? だいたい流れ……つーか概要は分かったかな?」
「……あのおじさんが変態だったということはわかりました」
女の人が豪快に笑う。
「まぁまぁまぁっ、そんだけわかりゃ上等だ。ほら? 最初の繋魂使が『いやー、ちょっと無理っすね』っつったのがわかったろ?」
「ええ。気持ち悪いんでちょっと無理っすだったんですね」
「そういうこった。繋魂使は君ぐらいの年頃の子が多くてね。ほら、大抵の子はあんなこと言われたら逃げ出すよね?」
「確かに……私も町中で言われたら全力で逃げると思います」
「だろ? だろ?」と女の人はケタケタとひとしきり笑ったあと、まぁまぁまぁ。とこう続けた。
「今日やったことはさ。また後日、先輩から教わると思うからそっちで詳しく覚えてくれよな。今日やったことは本当大雑把なもんだからな」
そう言って女の人はにひっ。と笑う。私も安心したのか、ぎこちなかったかもしれないけど笑い返した。
そして私は、ふぅーっ。と息を吐く。
「……けど、本当よかったです……もう人を思いっきりぶん殴るなんてことしたくないでさからね。たまたまあのおじさんが変態だっただけで」
「え? 何言ってんの?」
「?」
「え、いやいやいや。なんか勘違いしてるっぽい……よね?」
「え? ……勘違いですか? な、なにを勘違いしてるんですかね?」
「いや、ほらもう人をぶん殴りたくないとか言ってるけど……未練うんぬん抜きにして、あのハンマーは霊を昇天させる度に使うもんだからね?」
「……えっ? つまりはというと?」
「だから霊を昇天させるたびにあれを使うわけで……君はあと三年間、ハンマーで霊をぶん殴り続けるんだよ? オーライ?」