記憶を遡ってみると
「津池。帰り、事故るなよ」
「はーい」
「そぉんじゃねぇ香菜〜っ」
「バイバーイ!!」
帰りのHRを終えた私は、先生の気持ちのこもってない注意や、友達のやけに陽気な挨拶にいつも通り返事を返しながら、肩まで伸ばした髪をなびかせ自転車に乗って正門を飛び出した。
正門からの短い傾斜をペダルから足を離したまま駆け下り、勢いよく左折。そしてその坂で得た惰力を活かしたまま学校の外壁沿いを丁度いいスピードで駆ける。
ふと空の方を見上げると「今日はいい天気だなぁーっ」だなんていうひとり事が思わず出てしまうほどに綺麗な夕陽が、のんびりしていた今日一日を象徴するように町を鮮やかな燈色に照らしていた。
当然、その夕焼けの光は均等に町を覗いていくわけで、上から羽織った紺色のブレザーの表面をじんわりと暖めるのと同じくして、私の自慢の愛車のことも例外なく照らしてくれていた。その光の中の一部は車輪につけられた反射板で屈折し、灯したばかりの街灯のように小気味よく光をちらつかせる。
周りからすれば甚だ迷惑な光ではあるのだが、乗っている本人からしてみれば反射板の光をちらつかせているこの時間は少しだけ楽しめる時間だったりする。無論、人に光を浴びせるのが楽しいとかっていうサイコチックな楽しみなんかでは決してなく、夕陽に照らされ校舎の塀に落ちた私と自転車の影の中で反射板だけは屈折させながらも光を透過させていて、まるで静かな湖面に映り込む陽射しのように影の中で輝いているのだ。その光はどこか儚く機械的で私にとっては凄く綺麗なものに感じられた。そういう訳で、それを眺めるのが少しだけ楽しみなのだ。
私。こと『津池 香菜』は、生まれてからずっと住んでいる『豆ノ(の)戸市』にある『私立 洞緑学園』に通う普通の高校二年生である。
特にやんちゃという訳でもなく、見た目は子供で頭脳は大人という訳でもなく、平々凡々なところにおり、流行に乗っかり生きている。そう至って普通の高校生なのだ。
そんで彼氏いない歴=人生であり、女友達とつるんどけばいいよね!? という駄目ルートへと着々と歩みつつあるる高校二年生でもある。
……べ、別に泣いてなんかないんだからね! いつでも彼氏なんて作れるし!
「……多分」
涙を拭った私は学校の塀から、目の前へと視線を上げた。
学校の前にある大通りには、ピカピカの新入生を祝おうと桜の花びらが咲き誇っており、その桜の花の甘い香りと学校の近くにある少し古いパン屋さんの芳ばしい香りが私の鼻孔をくすぐり、心の中を少しだけ幸せにしてくれた。
そうだ、今度メロンパン買って帰ろうかな。──いや思い立ったら今日だ。そう感じた私はパン屋の目の前に自転車を横付けし店内を覗きこんだ。
やがて衝動買いのメロンパンを咥えた私は、大通りを抜けた先にあるアーケード街に入る。手を繋いで歩く親子に店じまいを始める青果店の店主、そしてやるきの無いティッシュ配りのアルバイト。たくさんの人々がそれぞれの時間を過ごしていた。
さすがに人が多いので自転車を降りて歩いていると、知らないおばさんから「おかえり」だなんて言われて「むごごごご」とか言いながら軽く会釈を返す。口元におばさんからハンカチを当てられたことは言うまでもあるまい。
そしてアーケード街を抜けて、通りに出た私は再び自転車に乗る。
当たり前だけど一年前は全部新鮮だったんだよなーっ。だなんて考えながら、私はルーチンと化した道をゆっくりと駆けた。
今日は四月六日。ちょうど私が高校に入学してから一年になる日。
なーんにもイベントが無かった一年間は何もないなりに楽しかった気はするけど、もう高校生活の三分の一が終わったのか。とか考えてしまうと少しだけ複雑な気持ちになったりする。
この一年間「ねぇねぇ、彼氏出来たぁ?」「できなぁーいっ!」なんていう軽い話を、何度友達と泣きながらしたかもわからない。それに皆でキャンプに行こうって約束したことが何度もあったけど、なぁなぁで流れちゃったんだっけ? 今年の夏にでもやるのかな? だなんて考えながらしばらく走ると、やがてこの町で一番長い坂の上に辿りつく。
そこから見える夕焼けは均等なはずの夕焼けをちょっと多めにぶん取って、いや下手したら独り占めしてるんじゃないか? と疑ってしまうほど夕陽の光を集めており、その朱く染まった坂道と夕焼けは『すごく綺麗』というこの一言に限る。
文句無しに感情を揺さぶってくる朱色の坂と陽は、嫌なことを全部忘れさせ、幸せをもっと増幅させてくれそうな、それくらいに燦々と輝いているのだ。そしてそんな景色であることから、口コミが人を呼び、終いには全国版の観光雑誌に掲載されてしまったほどに有名で綺麗なスポットでもある。
そんなこともあってかこの辺の学生の間では恋人の聖地だなんて言われており、現に坂の中腹。つまり私の目下にはおびただしい数の。そう、おびただしい数のカップルがたむろしていた。
私に一緒に見るような相手はいないけどねっ。へっ!
そんな野暮な事を考えている内に、自転車の前輪が坂道に差し掛かる。「おっ、来た来た」というひとり事を言い終わるかどうかというタイミングで、後輪が坂道に乗った。
重力という武器を得た自転車がシャーッ!!という音を立て勢いよく加速していく。自転車の速度と比例して、向かってくる春風が私の顔を割と強く拭い、ブレザーの中を暴れ回る。そして一通り暴れた後の風は私の横をすき抜けて行き、結果として私と自転車だけが前に前にと進んでいく。そんな感覚を私は楽しみにしてこの坂を駆け下りているのだ。勢いよく風をきるほどのスピード。つまり今のままでは間違いなくブレーキは効かないであろうという程の速度と事故が起きてしまうかもしれないという緊張感。この二つが私の中の何かをゾクゾクとさせているのだ。スピード狂と思われてしまうかもしれないが、このスリルは最高に堪らない。
集められた夕焼けが私の頬をススっとなぞる。
そして自転車は更にグングンと加速していき、私のテンションが最高潮に達したところで、ひょこっと一匹の黒猫が道端の路地から顔を出した。急ブレーキをかけて避けようとしたのだが、今の速度では当然間に合わない。
「あっ、あぶない!」ととっさにハンドルを切って体勢を大きく崩した私は、自転車ごとこの町で一番長い坂へと勢い良く放り出された。一瞬の浮遊感と目まぐるしく回る視界。生まれて初めて宙に放り出された私の身体は、主を失った操り人形のようにめちゃくちゃになった。
やがて、ぴちゃっ。という地面にうちつけられる音と今までに味わったことの無いほどの衝撃が私の右半身を襲う。視界はとうにブラックアウトしており声なんて出やしない。ただただ生臭い匂いが鼻孔の内外から感じられ、体の内側から何かが溢れだしてくる感覚が腰のほうから伝わってきた。怖いとか痛いとか考える間なんて無く、あれ? 私今どうなってるんだろ? というそんな疑問がふと頭の中に浮かんだ。
しかしプツンと切れた私の意識はその疑問を解決することも無く、そのままどこかに消えていったのだった。