めちゃくちゃだよ!
女の人が、ゆっくりと私の方にチェーンソーの歯を向けた。勢いよく回る歯は空気を切り裂きながら甲高い摩擦音を上げる。そして女の人は、そのチェーンソーを両手で持ち笑顔のまま一歩、また一歩と私の方に近づく。
「大丈夫だよ……悪いようにはしないから」
そういって近づいてくる女の人は、チェーンソーを肩の上までぐいっと振り上げる。
やばい。と私の中の本能が訴える。身の危険を感じた私はその場に自転車を置き、女の人から逃げようととした──のだが。
(あ、足が動かない!?)
恐怖のせいか、混乱のせいか。思うように身体が動かない。腰が抜け力が入らないというわけではなく、逆に筋肉が強張りすぎてしまい力が入り過ぎてしまっているのだ。
私は、それでもどうにか動かそうとリラックスさせるために試行錯誤する。だが足の力が抜ける様子はない。どうやらその試行錯誤が尚更私の足に無駄な力を加えているようであった。
そうやっている間にも、女の人は一歩一歩と近づいてくる。
(マズイまずい不味い!! このままじゃただの的じゃん!)
女の人までわずか数歩。元々そう遠くない距離だ。女の人のチェーンソーが当たる距離に近づくまでそう時間はかからない。今すぐにでも動かないと確実に切り込まれる。
(何か、何かきっかけがあれば!)
チェーンソーが当たる距離にまで近づく。にっこりと笑った女の人が、いっそうとチェーンソーを振り上げる。
神様! 門番さんでもいいから! 私を助けてよ!
心の中で私は叫ぶ。もう神頼みしかない。何かきっかけが起きてくれさえすればなんとかなるはずなんだ。私は心の中でひたすらに祈り続ける。しかし無情にもやがて女の人が両腕に力を入れ始めた。
少しずつ歯の位置が上がっていく。じわりじわりと上がっていく歯と比例するように私の恐怖心も高まっていった。今回の状況はさっきの事故とは訳が違う。確実に目の前に死が迫っているのだ。
一瞬空気が止まる。
そして女の人が振りかぶったチェーンソーを振りかぶろうとした。瞬間。
「バウッ!! バウバウバウ!!」
「ひゃっ!?」
犬の鳴き声に驚いたらしい女の人が、小さな悲鳴をあげる。
そしてそのまま腕の力が抜けたらしく、ふにゃふにゃあっとチェーンソーの歯は重力に従いぐいっと地面に引っ張られ結果としてチェーンソーを下ろしたような形になった。
私は声がした方を振り向く。どうやらさっき見たぽっちゃりした柴犬が吠えているようであった。
場の空気が一気に解ける。私は両足の筋肉が和らいでくるのがわかった。
「い、今だ!」
私は女の人に背を向け、元きた方向へと走りだす。
そして、さっき曲がった曲がり角をほぼ直角の最短距離で駆ける。逃げるなら今しかない!
駆け出した私の後方から、女の人の「あっ」という声が聞こえた
「……待って」
待てるか! 私は全力で駆ける。やがて女の人も走りだしたのか、チェーンソーの音が私の方に近づいてくるのがわかった。
全力で逃げる女子高生とそれを追いかけるチェーンソー女。
なんでこうなってしまっているのか。思い当たる節は確かに腐るほどある。けどこの世で、尚かつこの人に直接何かをしたか? と言われたら……何も思い当たるところはない。そもそもこの女の人とは初対面であるわけで。……あれ? もしかしてこの人が幽霊!?
そんなこんなを考えながら走っている間にも、後ろからチェーンソーの唸り声が響く。
小さな小川のせせらぎなんて、全部掻き消される。
ていうかそもそもなんで今日はこんなにインポッシブルでデンジャラスなんだ! 意味わかんないよ! たかだか1時間くらいの間に私の頭の中はめちゃくちゃだよ!!
うなーっ! と心の中で悶えている間にも、女の人はチェーンソーを抱えたまま迫ってくる。
スタートの位置も走りだす早さも違ったはずの女の人は、いつの間にかに私のすぐ後ろにまでつけていた。
「ちょ、足速っ!?」
女の人は、チェーンソーを持っているにも関わらず身軽であるはずの私よりも速い。
「止まって。私は怪しいものじゃないから」
女の人は、チェーンソーを振りかざしながらそう呟く。
「嘘つけ!? ただの危険人物じゃん!!」
私は至極まっとうなことを言っていると思う。
だが幾ら私のほうがまっとうだからといって私が有利になるわけではない。客観的に見ても主観的に見ても、私が獲物で女の人がハンターなのだ。純粋な運動能力も、手元にあるものも確実に相手のほうが上。このままでは確実にジリ貧である。
私は考える。どうすれば女の人を振りきれるか。せめて安全なところに逃げ込めるか……。
「……よしっ!」
私は息を整えた。
ぐいっと、目の前に見えた曲がり角を最短距離で曲がる。
「……そっち!」
女の人はそういって私の入った路地に入ろうとしたのだが……路地に入るのにもたついた様子で、私が路地に入ってから数秒遅れて入り込んできた。
「っ! 面倒なところに……!」
女の人がそう言って路地に入ってきた。当然だ、そうなる道をあえて選んでいるのだから。私が有利になり、女の人が不利になる道を。
私は住宅街の隙間にある、塀に囲まれた細く狭い路地に入り込んだ。交差点のない一本道で人とすれ違えば、半身にならなければ通れないほどに細い道。
手ぶらの私にとってはなんてことないが、大きなチェーンソーを持った女の人からしたら通りづらくて仕方がないのだ。つまり身体能力が劣っている私が今の状況で唯一有利になれるかもしれない道である。
だが、流石というべきだろうか。女の人の身体能力の高さはそんな道なんてもろともしなかった。細い路地を上手く体勢を整え走り、凄まじい追い上げで私との距離を縮めていく。……このままでは、いつか追いつかれてしまうであろう。
そこで私が何をしたか──といえば簡単な話である。
「インベタインベタァ!!」
私は曲がり角につくたびに最短距離で左、右とコンパクトに曲がる。
いくら直線で速く走れてもここは細い路地である。曲がり角はとてつもなく狭い。それこそ人が一人通れるかどうかというほどに。
そんな道を大きな道具を持って通るとどうなるか。当然のことながらいちいち角を曲がれる体勢に整えなければならなくなるのだ。
いくら直線で早く走れてもこれはどうしようもあるまい。私と女の人との距離は少しずつ離れていった。
後ろから女の人の声が聞こえる。
「っ! ……頼むから待って」
「だから、待てるかっての!」
路地を小刻みに曲がっていく。女の人とは角と角の間。つまり道一本分のところまで距離が離れた。この距離を保ったまま。もしくは今以上に距離を持てた状態で路地から抜ければ後はどうにでも逃げられる。そう私は感じていた。
しかし逆に言えば路地を抜ける前に追いつかれる。つまり私の体力の限界が先にきてしまえば私は女の人に捕まってしまうであろう。とも感じていた。
正直なところあまり土地勘の無い路地の中。このまま粘り続けたところで、いつになったら路地を出られるのかなんてわからない。私の体力と路地の長さ。その2つを比べる手段なんては今の私には存在していないのだから。このまま終わりがわからない路地を走り続けるというのは少なからずリスクがある。
それなら──と私は手段に出た。
後ろに女の人の姿が見えないことを確認したあと、目の前に迫っている曲がり角を目視する。そしてその角を最短距離で曲がった直後。
「えいっ!」
全身の重みが腕に伝わったあとのやんわりとした浮遊感。民家の塀を乗り越えた私は体勢を整え庭へと飛び降りる。ふわっとした感覚が私の足に伝わる。どうやら降りた先はベランダの前の小庭だったらしい。そして視界を上げると締め切られたカーテンと空いた駐車場。どうやら今は留守中のようだ。
もし足元が砂利でこの家の住人が在宅中だとしたら、もっと違う意味でピンチだったはずだ。どうやら私はこんな時だけ運がいいらしい。
そして私は身体を丸めて息を殺し、物音をたてないようにじっと身を固めた。
少し経ち、塀の向こうからチェーンソーの鳴る音と、女の人の声が聞こえる。
「っ……どこまでいった……!」
女の人は塀の反対側にいる私に気づかず、追いかけ続けているようで、やがて耳元まで迫ったチェーンソーの音は路地の先へと遠ざかっていった。
「た、助かった……」
思わず安堵の声を洩らした私は、へたりとその場に座りこむ。じわーっと出る汗と熱を感じながらふぅーっと長く息を吐いた。ころっと民家の塀にもたれかかる。これまでの緊張感から解放された私は大きく息を吸い空を仰いだ。
いつの間にか町を照らしていた夕焼けは夕闇へと姿を変えており、走り回っている中でそれだけの時間が過ぎているのだということを実感させられた。夕焼けの残り火の朱から夜の黒へと移り変わる空の中間には紫がかった空が広がっており、小さな明るい星がポツリポツリと張り付いている。そしてぼんやりと東のほうへ視界を動かすにつれてじんわりと星の数が増えていくのがわかった。
ぼーっ……とどれだけの時間眺めていただろうか。そうだ座っている場合じゃない、早くここから出ないと。そう思った私はよいしょっと立ち上がる。座っている間にもこの家の人が帰ってくるかもしれないし、それにあまり遅くなりすぎると両親だって心配するかもしれないしね。立ち上がった私はポンポンと制服についた土を手で払い、近くに女の人がいないか警戒しながら、この家の入り口があるであろう家の正面側を目掛け歩きだした。




