抗菌薬
彼は語る。
その星には昔、魔法を使う者が、魔法使いと呼ばれる者たちがいた。
「君たちのせいだ」とシィドが言った。
「この星は君たちのいる星とは違う」とも言った。
「君らは魔法少女などではない。君らはA.D.だ。我々の為に自分たちの為に戦いたまえ」そう言って、シィドは笑った。
魔法使いはもう、地球にいない。
スイカが李に呼び出されたのは、洲桃野うちの葬儀が終わってしばらく経ってからのことであった。
中枢に呼ばれることはあったが、そこで李の姿を見かけることはなかった。あの理不尽の塊のような世界が、喪に服している彼女を慮っているのかもしれない。スイカは感傷に耽った。
李が待ち合わせ場所に指定したのは、貫木市内にある市立図書館であった。スイカはまだ図書館に行ったことがなかったが、李の教えてくれたとおりにバスを使い、数十分かけて図書館に到着した。
二階の奥にあるテーブル席が指定の場所であり、スイカがそこに着くと、既に美祈とオリヴィアの姿もあった。
「オラー、スイカ」
「おーらー。オリヴィアちゃん、ホテル生活って楽しい?」
「……意地が悪いことを言う」
オリヴィアは溜め息を吐く。彼女は洲桃野商店の世話になっていたが、うちが亡くなってからはスイカたちに金を借りて、ホテルに泊まっていた。
「今日、よかったらうちに泊まりに来なよ」
「お、じゃーあたしも行こっかなー」
「ええ? 二人も相手にするのは無理だよ」
スイカがテーブルに目を遣ると、古ぼけた表紙の日記帳があった。図書館の本でないことはすぐに分かった。
「揃いましたね」
李が日記を指でなぞる。その仕草が、以前の彼女と違い、どこか大人びたものに思えて、スイカは息を呑んだ。
「お婆ちゃんの遺した日記には、中枢という言葉も、A.D.という言葉も出てきませんでした。ただ」
前置きして、李は三人の顔を見回す。
「魔法使いと、そう書かれているところが、幾つか」
「……そいつは、前に婆さんの言ってた知り合いってやつか?」
「たぶん、そうだと思います」
李は日記帳を開き、何か所かをスイカたちに指し示した。オリヴィアは文字を追ったが、読めないので途中で諦めた。
「他には、『虫垂』や『投与』といった言葉も妙に目立ってます」
「おばあさん、病気だったの?」
「いいえ、腰を悪くしていた以外は健康そのものでしたよ」
オリヴィアは口の中で何事かを繰り返して呟いた後、険しい表情で日記帳をねめつけた。
「待て。中枢ではなく、虫垂と書かれているのか?」
「はい。間違いなく虫垂ですよ」
「では、私たちは、中枢ではなく虫垂に呼ばれているのではないのか? そもそも、誰があの場所を中枢と呼んだ? 私はスイカからそう聞かされたが、スイカは誰から聞かされたんだ?」
スイカは中枢という言葉を当然のように受け入れて、そう思い込んでいた。だが、改めて問われると間違っているような気さえしてくる。
「宵町っていう他のA.D.の人だよ。でも、その人も誰かにそう聞いたってだけで、合ってるかどうかは……」
「でもよう」と、美祈は自分の右腹部を手で押さえた。
「虫垂ってここだぜ? だったらさ、あたしらは誰かの腹ん中にいるってことになるんだぞ」
「実際、私たちのようなA.D.がいるんだ。魔法使いが実在しても不思議ではなくなった。あの世界がそいつらの腹の中だとしても、もう私は驚かない」
「第一、そのままの意味で使っているかどうかは分かりませんしね」
スイカを除いた三人は話し合っていたが、スイカ自身は、今知った事柄をシィドにぶつけてやろうと決めていた。
思えば、真実などどこにもないのかもしれない。
シィドは記憶を失くしたと言った。本当かどうかは彼にしか分からない。
誰かから聞いた話だけで動き続けた。その誰かが、誰なのかも分からないままで。
オリヴィアがそうだったように、自分もまた、真実に辿り着くのを恐れていたのかもしれなかった。
スイカは唇を真一文字に引き結び、どろりとした感情を吐露する。
「わたしたちって、馬鹿なのかもしれないね」
中天に坐した太陽を見遣る。瞬間、それが木端微塵に砕けて夜になった。
中枢。あるいは虫垂。ともかく、現実とは違う場所に呼び出されたと気づき、美祈たちは立ち上がった。
スイカは椅子に座ったまま、糸が垂れ下がって来るのを待つ。程なくして、図書館の天井からシィドが姿を見せた。彼は焦っているような様で、八本の脚を忙しなく動かしている。
「都合がいい。君たち四人が揃っているのなら」
「シィド」
と、スイカがシィドの話を遮った。彼女は自らの分身をじっと見据えて、うちの日記帳を指差す。
「……スイカ。君たちのやることは、戦うことだ。話なら後で幾らでも出来るではないか」
「出来ないよ。化物倒したらすぐにシィドは消えちゃうじゃん。そうやって後回しにしてさ、ずっと逃げようとしてたんでしょ」
「君が言うか」
「わたしだから言うんだ」
スイカは一向に動こうとする素振りを見せない。オリヴィアと李は焦れたが、美祈はスイカに倣って腹をくくった。彼女も椅子を引き、そこに腰を落ち着かせる。
「バケモン殺して欲しけりゃあ、さっさと言えよクモ野郎。喋れ。したらやってやらあ」
「どうなっても知らないぞ」
その言葉を肯定として捉えて、スイカは口を開いた。
「この世界は、何? 中枢って名前なの? それとも虫垂なの?」
「先に言っておく。名前に意味などない。君たちに何の影響も及ぼすことはないぞ」
「いい。話を聞かなきゃ諦めることだって選べないから」
分かった。
そう言って、シィドはスイカたちを認めた。
「この世界に名前などない。ただ、我々はここをゴミ捨て場とも呼んでいる。中枢でもいい。虫垂でも構わない。だが、気の利いたA.D.は虫垂とも呼んでいたな。誰かが聞き間違えて、中枢という言葉にすり替わっていったのかもしれない」
「……ゴミ、捨て場? なのに、なんで虫垂なんて呼ぶの?」
「一番大きな前提を話しておこう」
シィドはスイカたちを順繰りに指し示す。次いで、図書館の床を指した。
「この世界は夢でも幻でもない。ここも君たちの現実だ。そして。ここは君たちの星とは違う星なのだ」
魔法使いは実在した。
地球にも彼らは存在していた。
だが、時を経て魔法という力は意味を、意義を失いつつあった。魔法を扱う者たちは異能者として恐れられ、魔女というレッテルを張られて処刑された。
しかし、魔法使いは、魔法使いでない者を恨まなかった。
ただ、この場所、この世界――――この星には住めないと悟った。
「だから、地球にいた魔法使いは新しい星を創ったのだ」
「……嘘つけよ」
美祈はシィドの話を鼻で笑おうとした。
「星、だァ? そんなもん好き勝手に創られるもんか。魔法使いだか何だか知らねえけどよ」
「ミノリ。それでは、この場所を、出てくるバケモノを、私たちの使う力をどうやって説明するんだ。……なんとなく、そんな気はしていた。私は。空気からして違うんだ。逆に聞くが、ミノリはここがどんな場所なら納得するんだ」
美祈は髪の毛を掻き毟るだけで何も言えなかった。
「話を続けるぞ。魔法使いは星を創る際、幾つかの仕組を構築した。そのうちの一つが君たちA.D.だ」
「システムって、何の?」
シィドはスイカを見た。彼女は眉根を寄せる。シィドの瞳に悪感情が宿っていたのが見て取れたからだ。
「汚れだ」
スイカの肌が粟立つ。『お前たちこそがそうなのだ』と言われたような気がして、何も聞き返すことが出来なかった。
「汚れ。穢れ。所謂、放射能や排ガスを考えてもらうのが手っ取り早いだろうが、君たちの想像しているものは、君たちの想像している以上に地球という星を蝕んでいる。そう認識したまえ」
ああ、と、スイカは納得する。
自分がシィドを好きになれなかったのは、根本的に中身が違っていたからなのだと。
「元は地球にいた魔法使いたちが、汚れを除去する為に『星』を作り、A.D.などのシステムを構築した。そうして今は、我々は星の管理を代替わりで続けている」
「あなたたちは異星人、ということなんですか」
「かもしれない。しかし君たちと我々の『元』は同じだ。スモモノ・スモモ。君もそうだ。君も最初の魔法使いと遠い縁で繋がっている。遥か彼方だろうが、確かにその血は繋がっている」
スイカたちが、弾かれるようにして李を注視した。李は動じなかった。
「お婆ちゃんの知り合いというのは、本物の魔法使いだったんですね」
「……恐らくは。私は、ここしか知らないからな。地球に残った魔法使いの始祖というのもいるのかもしれない。あるいは、その血を色濃く引いた者が」
「その言葉さえ聞ければ、私は満足です。だって、お婆ちゃんは本物だったってことじゃあないですか」
「歪んでいるな」
シィドの言を受け、李は笑んだ。
「だが、汚れとやらを取り除くのはどうしているんだ」
「この星と地球との間に門を繋げている。目には見えないが、そこから地球の汚れと君たちを通して流し込んでいる。もちろん、通常は汚れだけをこちらに流しているが」
「今は違うんだね」
「そうだ。今は汚れを除去する為に『投与』している」
スイカはうちの日記帳に目を落とす。そして確信した。
「こちらで汚れの全てを抱え切れず、処理し切れなくなった場合、A.D.を投与する」
「てめえらがヤバくなったら、あたしらに尻拭いさせてるってわけかよ」
「何を言っているフジ・ミノリ。我々が君らの尻拭いをしているのだ」
「汚れだの駆除だの、てめえらが好き勝手にやってんだろうが。あたしらが一回でもそんなの頼んだかよ」
やめなよと、スイカが美祈を宥める。スイカは早く話の続きが聞きたかったのだ。
「シィド。ゲートって何? どうして私たちなの? どうしてこの街なの?」
「君たちである必要はない。君たちの街である必要もない。始祖がカンノキという街を選んだだけで、その街に君たちがいたというだけだ。そして恐らく、順序が逆なのだ。カンノキという街自体が鍵で、門で、戦場なのだ」
オリヴィアは小首を捻り、美祈は舌打ちする。二人とも何のことか分からなかったらしいが、李だけは違った。
「スイカさんは越してきたばかりだから知らないと思います。私たちは幼稚園や小学校でも習いますし、家族から、小さい時に貫木という意味を教わるんです。貫木は閂なんだって」
「閂って鍵ってことだよね?」
「扉が開かないように差し込む木材のことを言うんですが、鍵でも通じますね。錠という意味もあります」
「だったら、この街に貫木って名前が付いた時から……」
「あるいはその前から。この地は我々の星とを繋ぐゲートであることが定められていたのだ」
シィドは脚を動かす。スイカは、絡め取られたのだと錯覚した。
「地球にはカンノキの街以外にもゲートと繋がっている場所がある。心配しないでもいい。君たちはただ、他人よりほんの少し運が悪かっただけだ」
嘲弄するような口調に腹を立てたのか、美祈は立ち上がって椅子をけっ飛ばした。
「さっきから黙って聞いてればムカつくことばっか言いやがって! お前らもっ、なんで受け入れてんだよこんな話をよう!?」
「別に受け入れてないし、頭から信じてないよ」
「あァ!?」
スイカは美祈を一瞥して、再びシィドに目を向けた。
「話の邪魔するんなら、外に行ってればいいじゃんか」
「ざっけんなちくしょう!」
美祈は苛立たしげに床を踏みつけると、蹴飛ばした椅子を拾いに行って、元の位置にそれを戻して座ろうとする。彼女は椅子の脚が壊れているのに気付き、床の上に腰を落ち着かせた。
「続けろよ」
「……我々も自分たちだけで汚れを駆除している。気付かなかったかもしれないが、A.D.の中には星の住人もいたのだ」
しかし。そう前置きして、シィドは続ける。
「A.D.を呼ばねば立ちいかなくなる時もある。それが今だ。君たちを呼ぶには多くの魔法使いの力を使う必要がある。生きているものをゲートに通すのは困難極まるからだ。一方からだとバランスも悪い。今回の場合だと、カンノキの住人の『魔力』を使った」
「わたしたちの?」
「そうだ。一人一人は微々たるものだろうが、重ねれば少しは足しになる。そして。君らだけでは到底足りない。だから我々の始祖は地球に血を遺したのだ。彼らの血を、力を引き継がせるために」
「まさか、李ちゃんの家が」
シィドは低く唸った。
「本来ならスモモノ家の力を使い、A.D.を通す為のゲートを開いていた。だが、事情が変わったのだ。彼女らよりももっと強い力を持つ者が、鍵がいた」
「誰なんだよ、そいつは」
「名前も、姿も定かではない。ただ、こちら側からですら強い力を感知したのだ。使わない手はなかった」
「なあ。そんなに魔力ってのが必要になるのか?」
頷き、シィドは彼方此方を指差す。
「ここを虫垂と呼ぶ者がいたと言ったろう。我々がゴミ捨て場などと呼んでいる、この星のこの場所は、魔法使いが複数人で構成し、これに殆どの魔力をつぎ込んでいる。A.D.候補者たちをゲートで呼び出したのち、混乱を防ぐような意味合いで呼び出した空間をコピーして複製し、ゴミ捨て場に置いているのだ」
「だから、勘違いしたんだ」
スイカは周りを見回した。シィドの言ったことが本当だとするなら、自分たちはゲートを通って別の星に呼ばれたことになる。だが、彼女には明確な違いを見て取ることが出来ない。
「オリヴィアちゃん。やっぱりここって、さっきまで私たちのいた図書館とは違うの?」
「……はっきりとここがおかしいとは言えないが、あそこにある本の並びが違っているような気がする」
「だろうな。元来、魔法とは大雑把なものだ。コピーも完璧にはいかない。そも、カンノキのA.D.全てを、一度の駆除で呼び出せるかどうかも分からないのだ」
「みんながバラバラになってたってのはそういうことか」
「ああ。この場所はカンノキを模して造られたゴミ捨て場という風に我々は認識している。魂のない物質はコピー出来るが、人間は不可能だ。魂のあるものをコピーするのは死者を蘇らせることに近い。……コピーできないものには魂が宿っているのかもしれないな」
クジラの化物の時に言われたことを思い出し、スイカの表情が歪んだ。
「また、A.D.投与の後、虫垂での駆除が終わればカンノキの住人を地球に戻すことになる。この際に記憶を操作することによって、地球上ではこちらでの出来事を殆ど思い出せなくなる。これはせめてもの慈悲と思いたまえ。……だが、個々人によって差はある。スイカ、君がそうだ。君以外にも虫垂でのこと、化物のことを思いだした者はいるかもしれないだろうな。ただ、まともではいられんよ」
「雫さんも思い出したって言ってた」
頷き、シィドは間を取ってから話を再開した。
「再び虫垂に行くとここでの記憶が戻る。何度か繰り返すうちに耐性がつくなどして、記憶は徐々に継続されて持ち越されるが、やはり個人個人に差はある。多くの力を注いでいるのはこういったことが理由なのだ」
「後始末だのに手間ぁかけさせちまって悪いなあって、あたしらが思うとでも思ってんのか? 死んだヤツはどうなる。訳も分かんねえままに巻き込まれただけじゃねえか」
「前にも言ったかもしれないが、我々は関知していない。そもそもA.D.以外に用はないからな。地球には『化け物』がいないだろう? 化け物に殺された者は地球に戻った時点で齟齬が発生している。地球に存在しない『化物』に殺されたという齟齬がな。これはスイカにも聞いたことがあるが、事故死で帳尻を合わせることが多かったらしい。『化物』が『他の何か』に置き換わるのだ。死ぬという事実、結果は変わらないが、死因が……」
「そういう仕組みみてえな話が聞きたいんじゃねえよあたしは。てめえ、分かってきやがったぞ。そのクモの身体は本物じゃねえな? 作り物で、そいつを通して本物のお前があたしらを見てやがる」
シィドは返答しなかったが、美祈は確信を得たらしい。舌打ちし、だらりと四肢を伸ばした。
「安全な場所で、君たちを高みから見下ろしていると思うか? 違う。我々は最初からこの星にいて、虫垂で汚れを取り除いている。A.D.とは違うのだ」
「そんなの分かってる。わたしたちとシィドたちは違うんだって」
「そもそも、地球で汚れをどうにかすることは出来なかったのでしょうか」
「君たちが力を使うにはこちらの星の空気が必要なのだ。正確に言えば、汚れの含まれた空気が要る」
李は眉根を寄せる。
「汚れを取り除くのに汚れの含まれた空気が必要なんですか? それは、少しおかしいような気がします」
「それは君たちに才能がないからだ。君たち地球の人間の殆どは、本来ならなんの力も持たない。だが、虫垂の空気を吸うことによって力を扱えるようになる。ここの空気を体内に取り込み、分解することで力を発動しているのだ。だから、地球では力を使えない」
「……力を使うたびに空気を、汚れを少しずつ減らしていっていると言うことですか?」
シィドは頷いた。
「それじゃあ私たちが化物と戦う必要性を感じられません。力を使うことで汚れを取り除くことにもなるなら、無理に戦わず、ただただ力を使えば……」
「それだけなら我々だけでも可能だ。化物が出たからこそA.D.を使っている。急いで倒せ、早くどうにかしろと。言ったではないか。化物を倒さねば元の世界には戻れないと」
「矢面に立って危ない目に遭えってことですか?」
「だから、最初からそのように言っている。そもそも、この星が出来たのも君たちが戦わなくてはならないのも君たちのせいなのだ」
「……ああ、そういうことかよ」
美祈は腹を撫でつけて、つまらなそうにして言った。
「てめえらで汚れを引き受けてどうにかする。ヤバくなったらよそから人呼んで助けてもらう。こっちの星は地球の盲腸みたいなもんってわけだ。……いや、ちげぇな。もっとちっちゃい。ああ、だから虫垂って呼ぶやつが出たんだ」
「だったら、A.D.っていうのは」
「だから。言っただろう。最初から言っていたはずだ。君たちは決して、魔法少女などという存在ではないのだと」
シィドは嗤った。楽しそうに。おかしそうに。
「Antibacterial drugs。これが君らの意味で、役割なのだ。誰が言ったかは知らないが、自虐とはこのようなことを指すのだろう。巻き込まれた者が自らをそう呼称し、この場所を虫垂と名付けたに違いない」
「あ? ンだそりゃ?」
「抗菌薬のことですよ。病気を治すための薬です」
「薬……?」
「なるほどな。面白い」
「全然面白くねえよ! ふざけんなボケっ、最初っから言えってんだ!」
美祈はシィドを捕まえようとしたが、彼はするりとその場から逃れた。
「もういいだろう。さあ、戦え。化物の反応は」
「ねえ。投与って、つまり汚れってのをどうにかするってことだよね」
スイカは気だるそうに立ち上がると、面倒くさそうに戦装束に着替えた。
「……ああ、そうだ」
「根っこの部分の話なんだけどさ。どうして、魔法使いの人たちは地球の汚れを引き受けたの? だって、普通の人に追い出されたんだよ。そんな人たちの住む場所を何とかしたいなんて思うはずないじゃん」
「私には推し量ることしか出来ないが、良心、正義感があったのだろう。追い出されたとはいえ、自分の生まれ育った星なのだ」
「それって本心? シィドって案外、子供だね」
シィドは黙してスイカを見返す。
「きっと違うよ。投与するのが目的で、汚れを除くってのはどうでもよかったんじゃない? こんなことやってるのは、良心とか復讐したいって気持ちとか、そういうのがせめぎ合った結果でしょ」
「馬鹿な。復讐にしては遠回り過ぎる。そんな無駄なことをするはずがない」
「だからさ、この星とか仕組み自体が無駄なんだって。こんなこと出来る力があるんなら、汚れをどうにかするのに使えばいいんだ。なのに、わざわざわたしたちを呼ぶ為に力を使ってる。無駄って言うんならやらなかったらよかったんだよ。それに復讐したいって気持ちだけじゃないって言ったじゃんか。混ざってるんでしょ、色々。結果的にはさ、地球の為になってるのかもしれないけど」
ありえないとシィドは断じた。
「そりゃ、最初に星を創った人たちはいいんじゃない? 自分たちでこうしようって決めたんだから。けど、その人たちの子供は? 『どうしてわたしたちだけが』って思うに決まってんじゃん。そういう意見が出るかもって予測して、こういうことしたんじゃないの?」
「こういう、こと?」
「つまりこれって嫌がらせでしょ。いっぱい理由を言ったけどさ、結局、地球の人を巻き込んでやろうって風にしか思えなかったもん。ねえシィドさ、なんで今までこのことを言わなかったの?」
「何度も言ったぞ。今まで忘れていたのだと」
「違うよね。嫌なんだ、シィドたちは」
「……何を」
スイカは笑った。シィドを完全に見下すようなそれであった。
「やりたくないんだ。違う? なんだかんだ理由をつけてるけどさ、肝心なところは私たちを焚きつけて酷い目に遭わせてやろうって、そんな風に感じちゃう。だから私は信じてないよ。信用してない。シィドが言ったことが本当かどうかなんて、そんなの分からないし確かめようがないもん。唯一本当なのは、化物が出て、そいつを倒さなきゃどうにもなんないってことだよ」
「スイカ。君は相変わらず曲がっているぞ。だが、諦めないんだな? 戦ってくれるんだな?」
「もちろん。みんなは?」
スイカ以外の三人は光に包まれ、それが弾けて消えると同時に、戦いの準備を済ませていた。
スイカたちが変身したのと時を同じくして、法師王樹らA.D.は『虫垂』で化物の姿を確認していた。
街灯を照り返すぬらぬらとした体表。ぎょろりとした目玉。蠢くのは八本の触腕。ビルディングの隙間に潜り込もうとしているが、その巨体はこの世界であっても隠し切れない。重量に耐えかねた鉄筋造りの建物が唸りを上げて傾き、崩れていく。
其は巨大な蛸であった。
生理的な嫌悪感を催すフォルムに六原蜜の顔色が青いものになる。
だが、王樹を除いた彼女らは一様に目を見開いた。巨大な蛸の化物が消えたのだ。
『お前の願いは、なんだ』
すぐ近くには化け物がいた。死にたくないと少女は答えた。
『叶えよう。お前の願いを。解き放とう。お前の心を』
だから私を食べろ。少女の分身はそう言って、自らを彼女に喰わせた。
その時になって、少女は自分の願いに気が付いた。目を背けることを止めたのだ。
「……死にたくないから、食べるんだ」
口に出した言葉はすんなりと腑に落ちる。
命を食えば命が増える。命が増えれば死ななくても済む。少女はこの世の理を理解したような気になった。しかし、小さな命では意味がない。よりよい物を、より大きい物を欲するようになった。
図書館が崩壊した。足元からは地鳴りが伝わる。化け物に捕まるより早く、スイカたちは降ってくる天井の破片を吹き飛ばしながら、躱しながらで空を目指す。
「真下から来ンぞ!」
「分かってるから離さないでよ!」
スイカは美祈を箒に乗せて上昇した。オリヴィアと李は、トランポリンや魔法陣を出して二人の背中を追いかける。
空が近くなる。美祈は、スイカの頭上付近の瓦礫を殴り砕いて歓声を上げた。
スイカたちは移動するのに必死で、美祈だけが下を見ていた。割れた床から暗黒が顔を覗かせている。美祈は思わず息を呑み、冷や汗を流した。化け物との戦いを何度も潜り抜けて、慣れてきたはずだというのに恐ろしくてたまらなかったのだ。
黒い塊が手を伸ばしてくる。美祈はスイカたちを急かした。スイカは舌打ちして美祈をねめつける。
「落っことすよ!」
「下見ろバカ!」
「見るなっ。足がすくむぞ!」
四人を覆い隠さんばかりの塊が落下してきたが、オリヴィアの能力によって破片をすり抜けることに成功した。
李は中空に、四人が乗れる程度の大きさの魔方陣を敷き、自分たちを追いかけていたものの正体を確かめる。
伸縮する、黒く、長い影のようなものが見えて、陣の上にいる四人の表情が蒼褪めた。
無数の吸盤が付き、ぬらぬらとした粘液を滴らせる影は、蛸の脚か、あるいは肉で出来た触手のようにも見える。
何者かが何本もの触手を伸ばしている。巨大で長大なそれは、間違いなく獲物を探しているようであった。
「気持ち悪っ……近づきたくないんだけど」
「え? だったらあたし、何も出来ねえぞ」
「私もイヤだ。がんばれミノリ。困ったら石でもぶつけておけ」
美祈以外の三人は思い思いの飛び道具を召喚し、触手目がけて放った。美祈は彼女らに遅れて大岩を中空に生み出し、それを落下させる。
だが、A.D.の力がこもったエネルギーを喰らっても、触手は微動だにしなかった。
「アレが本体ってわけじゃあないみたいですね」
「先っちょ倒しまくっても意味がないのかな」
「でも小指ぶつけたら死ぬほど痛いじゃん? やってて無駄ってことはねえだろう……って、おお?」
一本の触手がスイカたちの方へ向かってきていた。李は新たな陣を構成し、上へと逃れる。スイカとオリヴィアもそこに跳躍して触手から距離を取ったが、美祈だけは元の位置から動かなかった。
美祈は腰を低く落とし、触手を真正面に捉える。彼女は、自分目がけて襲ってくる黒光りした太いそれを脇で挟んで固定した。
「つっめたっ! このヤロウ動くんじゃねえ……っ、ぞぉおおおおおおおおおおっ!」
「何してんの美祈ちゃんのバカっ」
「誰がフォローすると思ってるんですか」
小学生二人に叱責されながらも、美祈は触手を引き上げるのを止めなかった。
オリヴィアは下段の陣に降り立ち、美祈を手伝う。スイカと李は中空から、接近する触手を撃退し始めた。
箒がくるりと回転する。スイカは伸びてくる触手を回避しつつ、すり抜けざまに力を使い、標的に重力をかけて地面へ返した。
「早く! 二人で綱引きしてる場合じゃないんだよ!?」
「くっそう! おい李っ、お前がやれ! でかくなりゃあ一発だろうが!」
「いやです」と、李は即座に拒絶する。
「そんな気味の悪いもの、触りたくありません」
「私だってイヤなんだぞ! ワガママ言うな!」
李は器用であった。A.D.になり立てで戦闘経験も少ないはずだというのに、力を自由に使いこなしている。彼女は西洋の剣を携えて触手相手に立ち回っていた。また、呼び出す陣も足場や楯の代わりとなり、スイカたちを援護している。
触手の数は時間の経過と共に増えていたが、スイカたち以外のA.D.も追いついた。彼女らは飛び道具を中心に攻め、二、三名が空中戦を仕掛けはじめる。
其処此処で爆発が起こる。建物の破片と一緒に触手の肉片らしき部位が吹っ飛んだ。二十近い数の触手は片手で数えられる程度まで減っている。
ここを好機と見た美祈は先よりも力を込めて踏ん張り、一息に触手を釣り上げようとした。
「すごい顔だぞ、ミノリ!」
「あとで死なすぞっ。らあっ!」
爆炎の中、小さなシルエットが浮かぶ。
引き上げられた触手の先には一人の少女が付いていた。
「……捕まっているのか?」
「いや、ちげえ。あいつだ。あの女が」
否。
少女の腹から触手が生えていたのだ。
そして。スイカたちはその少女を見たことがあった。
石毛瑠子。
来光雫のグループに属していた少女であり、雫を戦闘不能に追い込んだ人物でもある。彼女は虫垂で多くの人を殺したが、その事実を知るのは彼女以外にはいなかった。
だが、法師王樹は瑠子を『見て』気付いた。およそ人間ではありえない禍々しさを纏った瑠子は、今まで戦ってきた化け物と変わらない。腹から触手の生えた姿はおぞましくない。黒く、腐っているのは中身だ。それが、おぞましくて、恐ろしくて仕方がない。
「やはり、お前か……!」
王樹は間違いないと断じた。雫をやったのはこの女なのだと確信した。
得物の錫杖が、しゃらりと澄んだ音を響かせる。王樹は、傍らにいた蜜が止めるのも聞かないで跳躍した。
錫杖から黒い霧が噴出する。触れたものの力を奪う王樹の能力だ。
だが、瑠子はその霧を喰らった。腹から伸びた二本の触手が霧を吸収したのである。驚愕の後、王樹は固まった。蜜が横合いから助けてくれなければ、伸びた触手に胴体を食い破られていただろう。
「リューコちゃんだよね、アレ」
「ああ。姿かたちは変わっても、その中身だけは変えられない。随分とおかしくなっているようだが、アレは間違いなく石毛瑠子だ。そして、雫さんをやったのはあいつなんだ」
「雫さんを……? でも、さっきの化け物がいなくなったのは、リューコちゃんがやったからだよね。けど、なんで私たちを襲ってるんだろう」
追ってきた触手を得物で弾き、王樹は瑠子をねめつけた。
「知らんっ。だけど、あの目を見ろ。私たちを仲間と思っていない。敵とも思っていない。たぶん、人間とも思っていないんだ」
「じゃあ、何? リューコちゃんって、いったいどうしちゃったの?」
蜜は不安そうに王樹を見遣る。王樹は何も答えられなかった。
王樹と蜜は瑠子から距離を取った。スイカは二人の背を横目で認め、ふうと息を吐く。
瑠子は不自然な体勢のまま中空に留まっていた。彼女はスイカのように空を飛べるわけではない。地上から伸びた影によって身体を支えているのだ。
「美祈ちゃ……やっぱやめとこ」
触手がどこまで伸びるか分からない。この場には多数のA.D.が集まっているが、空中戦を仕掛けられるのはその中でもごく一部だ。足手まといを増やしても意味がないと決めつけて、スイカは瑠子の上を取る。
先刻、王樹が瑠子に仕掛けた。二人は雫のグループに属し、仲間だったにも拘らずである。王樹には攻撃する理由があったのだ。そして。それは間違いなく雫に関することであろう。
「スイカさん。あの、どうしますか?」
魔法陣に乗った李が並んでくる。スイカは瑠子を指差した。
「前に雫さんっていうA.D.が殺されそうになったことが起きたんだ。その犯人が、あの人かもしれない」
「……? あの人って、人間、なんですよね?」
「今は、分からないけど」
少なくとも、スイカには瑠子が人間に見えない。人の姿をした化け物としか思えなかった。
「わたしたちを狙ってるのは確かっぽいよ」
シィドは言った。
化け物を始末せねば地球に戻れないのだと。
ならば。アレもまた化物なのだ。人の姿をしていようが、何であろうが。
「でも、人ですよ。化け物には、私には見えなくて」
「人でも化け物でもどっちでも変わんないよ。だって、敵ってだけなんだから。わたしたちを殺そうとしてるってだけなんだから」
だから。
そう高らかに声を上げて、スイカは降下した。
シィドは離れた場所から、A.D.と、化け物を喰らった石毛瑠子の戦いを見ていた。
瑠子は間違いなく人間である。同時に化け物でもある。彼女はただ、能力を使い、化け物を喰らっただけのA.D.なのだ。
先にいた蛸の化け物は仕留めた。この世界から消えている。しかし、A.D.たちは帰られない。この世界に新たな化け物が現れたからだ。
姿ではない。心根が。在り方が。石毛瑠子の願いこそが、この世界にとっての化け物に成り代わったのだ。
致命傷を受けても、生やした触手が何本引き千切られようと、瑠子は決して戦いを止めようとしなかった。彼女の肉体は他のA.D.と同じように、何度でも回復、復元する。心が折れない限り戦い続けるのだろう。
「……なんだ、これは。この感覚は」
爆炎の中、中空に坐していた瑠子の身体から歪な音が漏れ聞こえてくる。
啜るような。滴るような。潰れるような。産まれるような。……瑠子から溢れる異音は、シィドですら思わず聴覚を遮断しそうになった。
瞬間、瑠子の全身から触手が飛び出した。彼女の体内で生成されたそれは、宿主の肉を食い破って外の空気を浴びる。黒ずんだ肉の先端には瑠子の鮮血が付着していた。
「ひっ、き、ああああああああああっ!?」
触手は新たな血を求めて暴走する。四方八方に飛び出したそれは行き先を問わない。ただ暴れ狂うかのように蠢いて触れるものとぶつかり、砕く。あるいはA.D.の少女の腹を貫いた。
腹部を穿たれた少女の矮躯が空へと持ち上げられる。肢体はびくんびくんと跳ねながら。串刺しから逃れようとして少女は四肢をばたつかせた。
夜が食われている。空が蝕まれている。
瑠子のしなやかな触手がA.D.を捕えて離さない。虜囚の身となった彼女らは生きながらにして食われている。抵抗している者もいるようだが、何も出来ないままに貪られるのが殆どであった。
触手に捕まった者の中には美祈やオリヴィアもいた。空中を飛び回れるはしこいスイカや、小器用に立ち回る李は未だ捕まっていなかったが、それも時間の問題かもしれなかった。
「そうか。これは……魔法か」
重奏となった少女の悲鳴が掻き消える。触手が少女らを縛りつけたまま宿主の腹へと引っ込んだのだ。
「スイカっ、スモモ!」
瑠子が触手の殆どを腹に戻した後、オリヴィアは自らに絡みつこうとしていた触手を切り裂き、美祈を抱えて地上へと降り立っていた。
腹に収まったA.D.の安否は気になったが、オリヴィアが必死に呼びかけているのも無視できず、スイカは箒に乗って高度を下げ、彼女の傍に着地する。
「……美祈ちゃん?」
「傷が、治らないんだ」
地面に寝かされた美祈の額には玉のような汗が浮き出ており、彼女は涙を流して喘いでいた。見れば、脇腹や左足の一部が抉られている。
スイカは桃色の肉から目を離すことが出来なかった。
「回復するの、美祈ちゃんが一番上手なのに、どうして……」
「たぶん、さっきのやつにやられたからだ。他のA.D.も力を使えないようになって、リューコに引きずり込まれた」
常なら気丈に振舞う美祈も、今ばかりは他人の存在が目に入らないらしい。嗚咽と一緒にうわごとを口にしているだけだ。
このままでは美祈は死ぬ。スイカは瑠子を見上げた。……父、日章の時と同じであった。美祈が死ぬ前に化け物を殺し、地球に戻る必要がある。
遅れて李が美祈のもとに駆け寄った。彼女はスイカとオリヴィアを見比べた後、申し訳なさそうな表情で告げる。
「スイカさんたちは人を庇うことに向いていません。私が美祈さんを守りますから」
「分かった。私とスイカでアレをやる。いいな?」
スイカは頷き、オリヴィアと揃って跳び上がる。その瞬間、瑠子の身体から触手が湧いて出て襲い掛かってきた。
二人は触手を一本ずつ撃退したが、新たな触手は、触手同士で絡み合い、より硬く、より太いものになる。
「どけえ!」
スイカが両腕を広げた。左右から迫っていた巨大な触手は重力によって吹き飛び、すぐに地面へ縫いつけられる。
だが、触手の数は一向に減っていない。攻撃を回避し続けるも、ついに箒に絡みついた触手から逃れるべく、スイカは真下へ飛び降りた。彼女は短い手足を使って、接近してくる触手を弾き返す。
スイカの頭上から、束になった触手が迫ってきていた。彼女は李の見様見真似でオリジナルの魔法陣を中空に展開させ、それを蹴ることで方向を無理矢理に転換させる。また、残った陣は盾となって触手の侵攻を僅かに遅らせた。
地面に戻ったスイカは身の丈よりも大きな弓を生み出す。とても腕だけでは引けそうになく、彼女は足で押さえつけて、弦を体いっぱい使って引き絞り、敵に向かって矢を放った。風を切り、糸を引いて着弾したそれは、魔法陣を打ち破ったばかりの肉塊を花火のように弾けさせた。
一方、オリヴィアは触手を蹴りつけながら上へ上へと逃れていたが、細い触手に足首を捕まれて、無理矢理に引き摺り下ろされそうになっていた。
オリヴィアの窮地を認めたスイカは跳躍し、触手の表面を滑るようにして駆け上り始めた。
瑠子と目線が合う高さまで駆け上った時、スイカは確かに認めた。瑠子の腹にぽっかりと穴が空いている。しかし向こう側の景色は見えなかった。真っ暗だ。深淵が彼女の身に巣食っている。この中に他のA.D.がいるのだと考えると、もう、どうにもならないのだという気になった。
「オリヴィアちゃん! 手っ、伸ばして!」
上昇するスイカ。
落下するオリヴィア。
スイカは目いっぱい手を伸ばしたが、オリヴィアは諦めたように微笑み、伸ばしかけていた腕を戻す。
「バカ! バカばっかりじゃんか!」
交差した二人であったが、スイカは箒を呼び出してすぐにオリヴィアの後を追いかけた。彼女は触手に引きずり込まれて瑠子の腹の中に収まってしまう。スイカは躊躇わず、オリヴィアを助ける為に暗黒の中へと突入した。
目を開けても瞑っても変わらなかった。
周囲は真っ暗で何も見えず、何の音も聞こえてこなかった。
上下左右は既になく、自分がどちらを向いているかすら分からない。緩やかな浮遊と落下を繰り返し、スイカの感覚はずたずたにされていた。
「…………ッ!」
声を発しても自分の耳には届かない。ここに連れて行かれたオリヴィアの名を呼ぶが反応はなかった。
スイカが手にしていた箒はどこかへ失せ、変身すらも解けてしまっている。
この空間では、スイカはA.D.ではなく、ただの断割彗架でしかない。戦う力を削がれて、A.D.の皮を剥がされては何も出来ない。
それでもスイカは目を開け続けた。
そうして、見えるものがあった。暗がりの中、ぼうと浮かび上がるのは一人の少女。石毛瑠子である。先までの異形の姿ではなく、学生服を着た瑠子は泣き出しそうな顔で薄く微笑んでいた。他者にこびへつらうような笑顔を認めて、スイカは苛立ちを覚えた。
ここがあなたの世界なのかとスイカは問うた。
瑠子は答えず、口を開く。
『遊ぼう?』
「――――今のっ」
『いじめないで? ね? お願い?』
頭の中で声が響く。
耳を塞いでも無駄だった。脳に直接語りかけられているような気持ちの悪い感覚を受け、スイカは口元を手で覆う。
「やめ、て……!」
『お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い』
スイカは叫びながら、瑠子から距離を取ろうとする。だが、どこへ行こうが、どこまで行こうが、彼女からは逃れられなかった。
スイカだけではなく、ここに取り込まれた他のA.D.の前にも瑠子が現れていた。どの瑠子も同じようなことだけを繰り返し口にするだけで何も反応を示さない。
……ここは瑠子の中だ。彼女の世界なのだ。ここにいる者は瑠子の想いを強制的に流し込まれ続ける。
「あ、ああ……嫌、嫌っ、行って! 行ってよ! 私の前から消えてっ、消えて!」
拒絶は無意味であった。
力を、戦う術を失ったA.D.は嫋やかな少女でしかない。皮も殻も全て引っぺがされて心を蝕まれ続ける。
遊ぼう。
いじめないで。
仲良くしよう。
媚びた声には少女特有の甘やかさが含まれている。それはもはや一種の毒でしかなく、取り込まれた者たちは抵抗出来なくなりつつあった。
「分かった……分かったから、だからもう、やめて……」
涙は闇に消えていく。少女は瑠子を見上げて懇願した。
瑠子は破顔した。彼女に応えた少女は、泡のように溶けてなくなった。
闇の中、幾つもの泡が弾けている。スイカはそれを認めた。
「ね? ね? ね?」
スイカは、自分が瑠子に抱かれていることを不自然だとは思わなかった。時間も空間も曖昧になり、このまま彼女に従い、溶け合うのも悪くはない気分に陥りかけている。
遊ぼうと。
いじめないでと。
仲良くしようと。
瑠子はにっこり微笑んでスイカに問いかける。
「わたし、は……」
答えれば、瑠子のご機嫌を窺えば助かるのかもしれない。
「ね? ね? 一緒だよ」
ああ、と、スイカは息を漏らした。先まで胡乱だった彼女の目に光が宿る。
「私とあなたは一緒なんだよ。だから、同じになろう?」
一人は辛いでしょう。
孤独は辛いでしょう。
他人といるのは、他人がこの世界にいるという事実は、辛いでしょう。
だから、あなたと私と同じだ。
瑠子はそう言った。
「……ちっがうし」
スイカはくつくつと喉の奥で笑みを噛み殺した。
自分の浮かべているものとは別種のそれを認めるや、瑠子の表情が冷たく凝る。
スイカには分かっていた。瑠子は恐れていたのだ。自分以外のA.D.を。A.D.でない者を。自分自身ですらを。だから瑠子は他者の心を折るべく、この空間を形成した。しかし、強制的に流し込んだ想いが、記憶が――――他ならぬ瑠子自身が、スイカの心を奮い立たせた。
今、断割彗架は石毛瑠子を理解した。
スイカは瑠子の手を取り、彼女の目を見て言う。
「私とあなたは違う。孤立したんじゃない。させられたんでしょ。私はずっと他人を見下してたけど、あなたは見下されてたんだ。自分でさえも自分のことを見下して見てたからこうなったんだ」
「遊ぼう? ねえ、お願い。お願い。お願いだから、そんなこと言わないで」
「あなたの願いは吸収することなんだね。それって、命を食べるとか、死にたくないとか、そんなんじゃなくってさ、自分も皆と混ざりたいってことなんじゃないの?」
スイカは瑠子の手を振り解き、周囲を見遣った。自分の周りを多数の石毛瑠子が、彼女の想いが取り囲んでいる。
「吸収とか命を食うとかどうのって、自分のことを捻じ曲げてるだけなんだよ。あなたは本当のことに向き合わなかった。自分から逃げたんだ。わたしと同じじゃないよ。ちょっとだけ似てただけ」
ねえ。そう、スイカは優しげに問い掛ける。
「友達が欲しかったんでしょ? わたしと友達になりたかったの?」
「私、は……私は。お願い。お願いだから、ねえっ、お願いだから」
「絶対ゴメン。気持ち悪い」
「あ、ひっ、ああああっ、あああ!? あああああああああっ、いや、いやだっ、もう嫌ああああああああああアアァぁぁぁア!?」
石毛瑠子の心が砕けた。
彼女の世界がぱきりと割れて、暗闇に光が差し込む。
スイカはオリヴィアの姿を探して、彼女の方へと急いだ。……オリヴィアは瑠子と触手に囚われており、瞳からは光が失われている。それでも、オリヴィアはスイカの姿をしかと認めた。
「帰るよ。オリヴィアちゃん」
「スイカ。お前は、強いんだ。きっと。私が保証する」
「……オリヴィアちゃん?」
オリヴィアの足元から淡い光が漏れている。それは、泡だ。瑠子に吸収されるのを選び、同化することを選んだ者の末路だ。
「私は耐えられなかった。いや、ここに来た者の殆どが耐えられなかった」
「そんな……でも、まだ間に合うから!」
「ダメなんだ」
言って、オリヴィアは微笑んだ。
「私の最後の『魔法』だ。お前を助けることが出来てよかった。スイカ。後はよろしくお願いする」
「ダメだよ、オリヴィアちゃん」
「ありがとう。日本で出来た私の友達。お前のお陰で私は、もう、悔いがない」
「オリヴィアちゃん!」
スイカは浮遊感を覚えた。自分の真下に穴が空いている。外の景色が見えて、風が吹き込んできていた。
「Hasta luego、スイカ」
真白の光がスイカの視界を焼き、彼女は落ちた。
シィドは見誤っていた。瑠子はとうに折れている。彼女から生じる音は、力が変質し、創出される際のものであった。
A.D.は魔法使いではない。だが、地球から呼び出された彼女らの中には、星の住人をも超える力の持ち主が現れる。
そして。その音を発したのは瑠子だけではない。シィドは今、新たな魔法の存在を確認し始めていた。
地上に。虫垂という世界に戻った。自分以外には誰も還って来られなかった。
瑠子の身体から落下するスイカは手を伸ばす。箒を生み出して右手で掴む。落ちながら、再び戦闘衣装に身を包む。
「スイカっ、よく戻った!」
「シィド……オリヴィアちゃんたちは、どうなったの?」
スイカは中空で姿勢を反転し、箒の上に乗って高度を上げる。シィドは箒に捕まって、瑠子の姿を認めた。
「化け物の正体は汚れと、君たちの、我々の悪意なのだ」
「悪意?」
「そうだ。人を憎む気持ち。妬む気持ち。そのようなものも汚れに括られる。その二つがくっついて混ざり合い、より大きなものに膨れ上がる。その結果が、アレだ」
「じゃあ、石毛って人もオリヴィアちゃんたちも……」
「ああ。もはや打つ手はない。化け物だ。化け物になったものは人間には戻られない。地球には戻られない」
ここで殺すしかない。否、殺せ。
シィドはそう言っている。スイカはとうに決めていた。
「友達、なんだ。だったら、わたしが……!」
「スイカさんっ」
下から聞こえた声に目を向けると、李が巨大化の能力を使っているのが分かった。彼女は美祈を庇いながら、そこいらの建造物よりも大きくなる。
「李ちゃん。わたし、やるから……っ!? 何すんの!?」
李はスイカを引っ掴んで駆け出した。途中、足元にも人がいることに気づいて魔法陣を生みだし、それを階段代わりにして宙へと縦に昇る。
「どうして逃げるの!? オリヴィアちゃんがやられたんだよ!?」
「私の使い魔が言っています! すぐに分かるんです!」
雫は死ななかった。死ぬよりも辛い目に遭わされた。
蜜は死んだ。瑠子の触手に貫かれて、彼女に喰われて戻らなかった。
王樹は、自ら封じた瞼を力ずくで開いた。血染めになった網膜は何も映さなかったが、彼女には何かが見えていた。
化け物を、普通ではないモノを、本来なら目に見えないものを、この場所でなら他人と共有することが出来た。王樹にとって雫たちは大切な仲間であり、最後の縁であった。
それが崩れた。壊された。
「……あ、なんだ。お前ってそんな顔をしてたのか」
「よいのだな、主」
血の涙を流す王樹の傍に、ゾウの姿をした彼女の使い魔、カシュー・マシュー・トシューが現れた。
王樹はカシューの声だけは聞いたことがあったが、彼が姿を見せることはないと思っていた。たとえカシューが現れたとして、その輪郭は捉えられたとして、彼そのものを認めることは無理だろうと思っていた。
「お前。大きいんだな」
「主。よいのかと聞いている」
「……うん。いい」
もはや溢れる思いを止めることは出来なかった。そのつもりさえ微塵もなかった。
「では、始めるといい。君の願いを今、叶えるといい」
「ああ。分かった。お前も一緒になってくれ」
王樹の目玉から黒い霧が漏れ出る。霧は渦を巻き、少しずつ広がっていく。それは闇だ。法師王樹が今まで瞼の裏で見続けてきた、彼女の視界で、世界で、全てであった。
スイカと李は、中空から二つの闇が食み合うのを見下ろしていた。
石毛瑠子と法師王樹の想いが、願いが、互いを潰し合っている。それはスイカにとってあまりにも滑稽で、あまりにも悲しいものに思えた。
「ブラックホールとはまた違うかもしれませんが……」
二つの巨大な闇は周囲にあるものを吸い込み、巻き込み、取り込んでいる。そうしてまた大きくなり、別の物を喰らうのだ。たとえ人であろうと建物であろうと、何であろうと関係はなかった。
「アレに呑み込まれたら、どうにもならないよ」
「……駆除は終了しつつある。今、こちらでも少しずつカンノキの人間を地球に戻している」
「急いで」
「もちろんだ。しかし、注意せねば汚れも一緒に地球へ返すことになりかねん」
李は新たな陣を展開し、ブラックホールじみた瑠子たちから更に距離を取る。だが、巨大化した彼女でも負けてしまいそうな吸引力が襲い掛かっていた。
「まだ、私たちは帰れないんですかっ」
物が吹き飛ぶ。スイカたちの横をトラックや鉄塔、民家が通り過ぎていく。
李だけでは手が足りないと判断したスイカも魔法陣を生み出して風よけにする。
「あと少しだ。耐えてくれ」
やがて。スイカは見た。李も見た。
地表までめくれ上がって闇に呑まれる。虫垂という場の悉くが黒色に喰われた時、貫木市という殻が剥がれた時、二人は初めてこの世界を、この星を認識した。
青い星が見えた。
「……そんな、ことって。じゃあ、本当にここが」
スイカは、自分たちが星の海の中に浮かんでいるような――――実際、そうなのだと実感するまでに時間を要した。
「ここまでだ。スイカ、スモモ、また、会う日を」
スイカはシィドの糸を手で引き千切った後、眼下を見遣った。この星を食い尽くそうとしていた闇は掻き消えていた。自分たち以外には何もないことを理解したまま、スイカは、自分が地球へ戻ることを心の中では拒んでいた。