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 楽しい時は笑いなさい。

 悲しい時は泣きなさい。

 腹が立ったら怒りなさい。辛かったら逃げなさい。自分ではどうにもならないと思ったなら、誰かに助けを求めなさい。

『うん、分かった』

 娘は笑顔を浮かべた。

『でもわたし、大丈夫だよ』

 痛々しく、寒々しく、そしてどこか、空々しい笑みであった。

 


「ねえ、覚えてる?」

 返事がないことは分かっていた。それでも声を掛けることを止められない。そうだねと、いつものように優しい声音が返ってくることを期待しているからだ。

 スイカの母、月美は、日章の病室で過ごすことが殆どである。スイカの食事を作りに戻ることもあるが、お父さんのところにいてあげて、ご飯のことなら心配ないからと、スイカに送り出されてしまった。

 もともと、スイカは手のかからない子であった。器用で、聡く、物分かりがいい。手伝いを頼む前に自分から申し出る。わがままを言って困らされたこともない。学校の成績も悪くない。どこに出しても恥ずかしくない、自慢の娘であった。

「ほら、去年、あの子がいじめられてた時のこと。あなた、怒って学校に乗り込もうとしてたじゃない。でも、スイカは全然気にしてないって、平気だって笑ってた。ねえ、だから、私……」



 スイカはうんざりしていた。その理由はオリヴィアにある。彼女は先日、駄菓子屋で洲桃野うちの話を聞いた後、自分も中枢に行きたいと言い出したのだ。彼女曰く、自分の目で見ないと信じられないとのことである。

 だが、スイカにとってオリヴィアが自分たちのことを信じるかどうかはもはやどうでもいいことであった。

「やめた方がいいよ。嫌でも巻き込まれちゃうんなら、自分から行くことはないんだって」

「でも、私は中枢に行きたい。スイカたちのことを信じたい」

「信じるって、なんで」

「スイカを信じられたら、母のことが分かると信じているからだ」

「……あっそ」 

 学校。病院。水族館……オリヴィアは中心地となった場所を聞き、人の多い場所が選ばれるのではないかと推測した。彼女はスイカや美祈が止めるのを聞かず、中枢に行きたいが為に人の多い場所で過ごすことを決めたのである。

 何度かはオリヴィアの読みも空振りしたが、放置するのも後味が悪いと思ったのか、スイカは彼女と一緒に行動することにしていた。

「ミノリは学校へ行ったが、スイカは行っていない。学校が嫌いなのか?」

 今、スイカとオリヴィアはデパートの駐輪場の端にある縁石に座り込んで時間を潰している。外は暑いが、ウインドウショッピングにも飽きて、冷房に当たり過ぎて気持ちが悪いとオリヴィアが言い出したのだ。

「普通だよ。好きでも嫌いでもないから」

「不良だな」と、オリヴィアは覚えたての言葉を使った。

「友達はどうなんだ」

 スイカはじっとりした目つきをオリヴィアに向ける。

「カンケーないじゃんか、そんなの」

「私は学校を出たが友達はいたぞ。勉強は苦手だったが友達は好きだ。みんながいるから学校へ行こうという気分にもなった。故郷には友達がいる。帰ったらこんなことを話してやろう、そんなことを考える。スイカには、そういうやつはいないのか」

「いないよ。出来なかった。……だってわたし、転校生だし」

 言ってから、何の言い訳にもならないことに気づいた。スイカは缶ジュースを一息に飲み干して、足元の蟻を見つめる。

「おしゃべりする子も一緒に校庭で遊ぶ子もいたけど、その子のことを大好きだって、たぶん、言えない人たちばっかりで」

「そうか。じゃあ、スイカも私と同じだな。私もある意味転校生だから、スイカと同じだ」

「もしかして、慰めてくれてる?」

「いや、私は本当のことを言っただけだ。それを慰めだと思うのなら好きにしていい」

「……オリヴィアちゃんはホントのことを知りたいんだっけ。お母さんがどうして、ああなったのかって。お母さんのこと、好きなんだね」

 オリヴィアは苦い顔を浮かべた。

「嫌いなはずがない。だが、強く好きだと思ったこともない。私が小さい時に死んだからな。私が何かを思う間もなく母は死んだ」

「そっか」

「スイカはどうなんだ」

 問われて、スイカは黙り込む。

 オリヴィアは小首を傾げた。不思議に思った。ただ、『母親が好きかどうかを聞いているだけ』だと言うのに、答えに窮するスイカを見ておかしいと感じたのだ。

「わたしはお母さんのこと、好きだよ」

「うん、そうか。友達も大切だけど、家族も大切だ」

「そうだね」と、スイカは微笑む。どこか寂しげなそれにオリヴィアも気が付いていたが、何も言わなかった。



 目下、スイカたちは、現実では洲桃野うち、中枢ではシィドと、この両者から話を聞き出すことを目的にしている。どちらも一筋縄ではいかず、のらりくらりと躱されるのが常であった。

 しかしどのような意図があるのか、うちの孫娘である洲桃野李はスイカたちに協力的な姿勢を見せている。うちが古い知人から受け取ったという書物を隠れて読み、何かを探ると申し出たのだ。

 スイカはうちのことを李に任せた。身内なら駄菓子屋への出入りも自然であり、うちの口も少しは緩くなるかと考えたのである。

「で、わたしはこっちのお守りか……」

「ん? 何か言ったかスイカ?」

 美祈と合流するまでの間、スイカはオリヴィアに振り回され続けた。オリヴィアはあちこち行きたがるくせに、先日の火事のせいで荷物が焼けて一文無しである。彼女の飲み食いする代金も、電車やバスの運賃も全てスイカの懐からだ。ちなみに、オリヴィアは着るものすらあの日の火事で焼けてしまい、今は李の服を貸してもらっている。

「早く美祈ちゃんが来ないかなあって」

「ミノリは車椅子だろう。迎えに行ってやってもいいぞ」

「や、そういうことしたら、美祈ちゃん怒るよ。『余計なことすんじゃねーよ』って」

「困った時は人の手を借りればいい。ミノリは頭が悪いな」

 スイカは携帯電話をポケットに戻して長い息を吐き出す。駐輪場から移動してきた、屋上のベンチから見上げるフェンス越しの空はやけに綺麗に思えた。貫木市内を歩き回り、結局デパートに戻ってきたことで、肉体的にも精神的にも疲れ切っていた。

「どこまでも広がってるはずなのに」

 手を伸ばして虚空を掴む。見える景色は何処にでも、何処までも繋がっている。だが、スイカは黒色の靄を幻視した。

「空は広いなあ。オリヴィアちゃんの街まで、ずっと続いてるんだろうね」

「あはは、スイカがヘンなこと言った」

 スイカはだらりと体を伸ばす。すると、隣にいたオリヴィアが反転し、膝立ちになって大きく手を振った。どうしたのだろうとそちらに目を遣ると、赤い風船を手にした美祈が向かってくるのが見えた。

「……なんで?」

「私も欲しいっ」

「おーい! なあ! 風船もらったー!」

 美祈はにこにことしている。オリヴィアもつられたのか笑顔になった。

「いひひひ、いいだろー、薬局でもらった。ほら」

「いいのか?」

 美祈はオリヴィアに風船を渡して、ポケットから安全ピンを取り出す。

「大事に持っとけよー、ゴメちゃん」

 風船に夢中になっているオリヴィアはピンの存在に気づかなかったが、スイカはしっかりと見ており、耳を手で覆った。

 その数秒後、甲高い破裂音が響いてオリヴィアの顔から笑みが消える。彼女は持ち手の糸を握り締めて、げらげらと笑う美祈を見つめた。



 肩で息をする二人を見遣り、スイカは溜め息を吐く。

「風船くらいでケンカすることないのに」

「他人事みたいに言うなっ」

「ひ、は、ひひゃははははは」

「笑うなバカ!」

 取っ組み合いの喧嘩の末、美祈は車椅子から引きずりおろされたが、それでも彼女は笑っている。

「あー、くそ、スイカは引っかからなかったなー。マジでちょこざいだぜお前」

「子供なんだから」

「ガキでもいいよう、別に。ぶっすーとしたツラしてるよか、なんぼかマシだろ」

 スイカの目が険しいものになった。美祈が自分のことを揶揄しているのが分かって、少しだけ腹が立ったのである。

「だってしようがないじゃんか。こんな状況で呑気に笑ってなんかいられないし」

「そうか? 辛い時だからこそ笑うんだと思うぞ、私は」

「……だって、そんなこと言ったってさ」

 心がささくれ立っているのかが分かった。スイカは感情を爆発させないで堪える術を知っている。彼女は冷静になろうと努めて、縋るように空を見上げた。

 その瞬間、泥のような空気が身を包む。

 吸い込むことにも慣れたそれが体の中に入り込むのを感じて、スイカは真っ直ぐに空を見た。逢魔が時が姿を変えている。空には夜の帳がおりて、星が散りばめられていた。

 戦いの音も、悲鳴も、魂が砕ける音もまだ聞こえない。しかし時間の問題だ。ここに呼ばれたということは、化物と戦うことに他ならない。

「中枢……!」

 スイカは中枢に呼ばれた時、シィドを呼び、他のA.D.と化物がどこにいるのかを彼から聞くようにしている。それから病院で日章を確認し、病室に月美がいなければ彼女を見つけてから戦闘へ移ることを決めていた。

「お、オ? そうか、これか。これが」

 だが、今回はオリヴィアがいる。彼女を放っておいては何をするか分からない。

「これが中枢なのか。しかし、全然同じようにしか見えないな」

 スイカが、オリヴィアをここに置いていくか、どこか安全な場所まで連れて行こうか考えている内、当の本人はフェンスに顔をくっつけて、面白そうにそこら中を見回していた。

「遠足に来たんじゃねえぞ」

「……ミノリ、足は? 車椅子はいらないのか?」

「あァ、ここじゃあ必要ねえんだよ。しっかし、どうすっかなあ。なあ、おぉいスイカ、こいつどうするよ?」

「まさにそのことを考えてた。どうしよう。わたし、お父さんとお母さんも見に行きたいんだけど」

「あー、そっか。じゃあお前は先に行ってろよ。あたしがゴメちゃんを連れて……」

 美祈が話の途中でスイカを突き飛ばした。彼女はそのまま、飛来する何かを鷲掴みにする。それは黄金色の矢であった。

「……何、それ。撃たれたの?」

 尻餅をついた状態で、スイカは美祈の握っている矢を指差す。

「ん、何かあったのか?」

 すわ化物かと身構える二人だったが、気配はない。空気が張りつめていくのを感じながら、ゆっくりと息を吐いていく。

「このままじゃ動けないよね。ね、オリヴィアちゃんを見てて」

「お前はどうすんだ」

「わたしは」

 スイカは目を瞑り、左の胸に手を当てる。心に決意の炎が宿り、四肢からは淡い光が放たれる。時間にして一瞬にも満たない間に、輝きの触れた部位が消失して変化した。先まで彼女が着ていた服は影も形もない。

 中枢での戦闘準備、変身を終えたスイカは地を蹴り、真上に跳躍する。高い場所から、射掛けてきたモノの姿を探そうとしたのだが、その必要はなかった。幾つもの鈴の音が重なり合って聞こえてくる。狙われたのはスイカではなく、美祈だった。



 階段の方からではなく、それは、デパートの壁面部分を駆け上がるようにしてスイカたちの前に姿を見せた。

 その正体は化物ではなく、巫女服のような戦闘衣装に身を包んだ法師王樹というA.D.である。

「お前たちか?」

「あァ!?」

 美祈が答える前に、王樹は持っていたステッキを振った。錫杖型のそれにはたくさんの鈴がついており、一斉にけたたましい音を鳴らす。

 王樹のステッキからは音だけでなく黒い霧が噴き出ていた。美祈は躱そうとするも、オリヴィアを庇った為に霧を足で受けてしまう。途端、彼女はがくんと崩れ落ちそうになった。

「てンめえ人違いもいいとこだろうがっ、やるんならあたしじゃなくて化物やれよボケが!」

「……答えてもらうぞ。お前たちが」

 王樹が美祈に近づこうとした時、真上から風が吹いてくる。急降下したスイカの蹴りを、王樹は後方へと退くことで避けた。

 デパートの屋上に着地したスイカは王樹をねめつける。

「話をしようって態度じゃないよ、法師さん。目が見えないから手元が狂ったとか、そういうことでもなさそうだしね」

「断割彗架と不二美祈、だったか。その隣にいるのは……誰だ」

「誰だっていいだろうが、いいからさっさとどうにかしやがれよ! なんだってんだ今の黒いやつはよう、全然足に力が入らねえぞコラァ!」

 王樹はステッキで地面を何度か叩いた後、小さく頭を下げた。

「分かった、そのままで聞いてくれ。A.D.同士で殺し合うつもりは、私にはない」

「はあ? てめえから先に仕掛けといてそりゃねえだろ」

 立ち上がりかけた美祈だが、後方から足音が聞こえてきてそちらに目を向ける。現れたのは六原蜜ろくはら みつというA.D.で、雫や王樹らと常に行動している少女であった。

 蜜は状況が把握出来ていないのか、小首を傾げて立ち止まっている。オリヴィアは彼女と王樹を交互に見遣って、美祈の服を掴んだ。

「新手か?」

「ええと、ミキちゃん、これって、何? もしかして、化物とじゃなくて、この人たちと戦ってるの?」

 スイカは王樹と蜜の様子を観察する。どうやら、先の攻撃は王樹の独断専行らしかった。だが、このままA.D.同士で戦うとなれば、蜜は間違いなく王樹の味方をするだろう。大人しくして、全員の頭が冷えるのを待つのが得策だと、スイカは判断した。

「いや、私は話をしたかっただけだ」

「……あ、雫さんの」

「アアアアァァァァ!? ざっけんなやボケがっ、なあにを和やかにしてんだクソが! ゴチャマンしようってんなら相手になるって言ってんだろうがよォ!」

「え? いや、ミノリ?」

 しかし美祈はヒートアップしたままだった。彼女は自らの足を文字通り切り捨てて、黒い霧に覆われていた部位を投げ捨てる。新たな足を構成すると、戦う気を失くしかけていた王樹へと向かって、一切の躊躇を見せず鼻先に拳を叩き込む。噴き出る血を見ながら、美祈は更にいきり立った。

「冷静ぶってんじゃねえぞオラァ!」

「お、お前……っ、やめ……」

「やめるわきゃあねえだろテメェが頭下げるまではなァ!」

 蜜は、しこたま殴りつけられている王樹を助けに行こうとするが、スイカが彼女の行く手を阻む。

「……私たちでケンカしてる場合じゃないよ、スイカちゃん」

「でしょうね。けど、何も言わずに仕掛けたのは法師さんです。こんな場所で、ろくな説明もなしに無理矢理やろうって言うつもりなら、何が起こっても、何を思われてもおかしくないでしょ」

「だからって見てられない」

「一歩間違えれば、A.D.じゃあないオリヴィアちゃんに当たってたんです。美祈ちゃんが怒るのも無理ないし、一発返す権利はわたしにだってあると思うんですけど」

 鈍い音と怒声を背に、スイカは蜜を睨みつける。自分より年下の少女と言えど本気だと伝わったのか、蜜は仕方なさそうに肩を竦めた。

「今回はミキちゃんが悪いか」



 美祈と王樹の殴り合いは数分にも及んだ。疲れ果てた二人はフェンスに背を預けて座り、尚も睨み合っていた(とはいえ、王樹は目が見えないのだが)。

「満足した? 美祈ちゃん、オリヴィアちゃんが引いてるよ」

「あー……まあ、だろうな」

 スイカは屈み込み、王樹の鼻を摘まんだ。

「これで許したげる。さ、化物が来ない前に事情を話してください」

「……雫さんがやられた」

「やられたァ? あの仮面女がやられたって、死んだってことか?」

「いや、でも、死んだも同然だ。現実での雫さんがどうなったのか、私には確かめる術がないからな」

 王樹は立ち上がり、殴られた箇所を摩って治癒する。そうしながら、嫌そうに口を開いた。

「前回、お前たちはここに来て、目玉の化物と戦ったか?」

 スイカと美祈は顔を見合わせ、揃って首を振る。そうか、と、王樹は残念そうに呟いた。

「手強い相手だった。数が多くて、熱線のようなものを飛ばしてくるやつだった」

「そいつに、雫さんが?」

「違う。雫さんは……」

 言いよどみ、王樹はしまいに泣き出してしまう。スイカたちが困っていると、蜜が王樹の頭を撫でて、彼女の後を引き継ぐ形で話し出した。

 自分たちが雫の『残骸』を見つけたこと。彼女は化物の攻撃ではなく、明らかに人の手によって痛めつけられていたこと。息はあったが返事はなく、まともな状態ではなかったこと。……蜜は意識的に感情を込めないように話していたが、最後の方は怒気を隠し切れないでいた。

「もちろん、化物がやったかもしれないしA.D.がやったとは限らないよ。けど、雫さんほどの人が普通の人にあそこまでやられるなんて考えられない」

「だったらA.D.が人を……同じA.D.を襲った、か」

 むしろ、今までにこういった事件が起こらなかったのがおかしいくらいだ。スイカはそう思っていた。A.D.同士の争いはともかく、以前の美祈のように、力を持った者が一般人を襲うことは有り得る話である(美祈の場合は未遂で終わったが)。

「誰がやったか目星はついてんのか?」

「私たちも、福城さんたちのグループも二人一組で動いてたんだけど」

「ああ、雫さんと一緒に行動していた人が分からないんだ?」

 残念ながらな。そう言って、王樹は血の混じった唾を吐き捨てる。

「そもそも、雫さんはこの中枢でも顔が広かった。グループの仲間か、初対面のA.D.というのもありうる。だから誰と行動していたかは絞り切れない。だが、雫さんと一緒に動いていた者が犯人であろうとそうでなかろうと、そいつがきっと何かを知っている」

「恨み買ってたとか、そういうのは思いつかねえのかよ」

「中枢では化物と戦うだけだ。雫さんが短い間に、殺されかけるほどの恨みを買うとは思えない」

「恨みなんざどこで買ってるか分かんねえもんだぜ。現実で誰かから恨まれてたとかさあ」

「かもしれないが、現実の雫さんのことは殆ど知らないんだ。そうなると、いよいよ手がかりがないな」

 雫はシィドも指摘していたように優秀なA.D.だ。彼女ほどの力があるなら並のA.D.は退けられるだろうし、容易に逃げられる。ダメージを負っても回復すればいい。しかし実際は、雫は四肢を欠き、身体中を無茶苦茶にされた状態で発見されている。

 スイカは思惟に耽った。……雫を痛めつけたのは彼女と同等かそれ以上の手練れで、雫と同じグループの誰かと言う可能性が高い。後ろから武器を突き立てるような真似でもしないと雫には仕掛けられないだろう。また、雫をやったのは中枢や化物との戦いに慣れた者だとスイカは考えた。普通なら化物に目がいく。それを倒さねば中枢から出られぬからだ。化物や、現実へ帰還する以外のことを考えるには精神的な余裕がなければ無理だろう。

 雫のグループに属した、中枢での戦いを何度か生き延びた者。雫をやったのはこの条件に当てはまる人物の可能性が高いと踏んだが、スイカは、王樹たちにはそれを伝えなかった。何故なら、二人のうちのどちらかが犯人という可能性もあるからだ。この場で揉めるのはスイカにとって面白くない。

 そしてもう一つ、スイカは犯人の条件を頭の中で挙げた。

 雫をやったのは非常に執念深く、螺子の外れた人物である。恐らく、雫もダメージを負うたびに回復していたに違いない。犯人はその都度、彼女の心を折るようにして何度も何度も痛めつけたのだろう。それこそ、雫の心が壊れてしまうまでだ。

「……ああ、話し過ぎたな」

 王樹はあらぬ方を見つめてステッキを手に取った。

「とにかく、A.D.だからと言って油断しないことだ。ここには化物以外にも恐ろしいやつがいるみたいだからな」

「あんたらは?」

「聞こえないのか? そら、化物が見えるぞ」



 夜の空を赫々とした鶏冠が切り裂く。人家よりも大きな体躯の猛禽が翼を広げる。羽撃きが風を裂き、新たな風を生んだ。

 嘴から覗く炎は後方へと流れていき、化物の身体を覆う。流線型の紅蓮が周囲の空間を呑み込みながら突き進んだ。

 一切の感情が宿らない眼が獲物の姿を確かめる。奇怪な、甲高い声が響き渡った。鳥の化物は貫木市内に聳えるデパートへと突っ込む。

 上階のレストラン、その窓際にいた男性客は席から立ち上がって逃げ出した。事態に気づいた他の客や店員も、店の外へと逃れようとする。

 化物は嘴から窓に突っ込み、盛大に破片を撒き散らした。体全部は入らない為か、頭だけを建物の中へと侵入させると、腰が抜けて逃げ遅れた女性客に狙いを定める。鋭い嘴で女の頭部を突くと、呆気なく弾けてしまった。痙攣を繰り返す女を鬱陶しく感じたのか、化物はそれを口に銜えて、天井や床へと強かに叩きつける。やがて完全に動かなくなったのを確認し、ゆっくりと食事を始めた。

 だが、建物の内部からは人の声が聞こえてくる。鳥の化物は酷く空腹であった。新たな餌を求めて、女の死体を銜えたまま、自らの身体をゆっくりとデパートの中へと入り込ませた。



 スイカたちは空を飛ぶ化物を見るのは初めてだった。それが屋内へ侵入したのを確認して、ひとまず、スイカは安堵の息を吐く。ここが戦いの場所となるなら、自分の家や病院とは離れているからだ。

「法師さんたちは化物を追うんですよね? 先に始めててください」

「逃げるつもりでは……ああ、なるほど」

 法師はオリヴィアはの存在を認めて、小さく頷く。

「その子を逃がすなら早い方がいいぞ。正直、さっきのやつに逃げられれば追いかけるのが面倒だ」

「スピードもあったしねえ。ま、気をつけてね。また会えたら会おっか」

 手を振りつつ、蜜と王樹はフェンスを飛び越えて化物のあとを追いかけた。残されたスイカは美祈を見つめる。

 仕方ねえなあと言う風に屈むと、美祈はオリヴィアを手招きした。

「いったん逃げっから、とりあえずおぶされ」

「……さっきのやつらもA.D.で、あの、アラビアンナイトみたいな鳥が化物なのか?」

「そうだよ、早くしろよ」

 オリヴィアはつかつかと歩いて美祈の後ろに立つと、彼女の頭を軽く叩いた。

「もう、さっきみたいなことはしない方がいい」

「あ? どれのこと言ってんだよ?」

「自分の足をあんな風にするなと言っている。お前らは怪我が治るかもしれないし、なくなった足だって光って戻る。でも、そうして戻った体は本当に自分のものなのか?」

 その問いに、美祈も、スイカも答えられなかった。

「いや、いい。私は戦えないのに余計なことを言った。ミノリ、よく分からないが、よろしく頼む」

「……あァ、しっかり捕まってろよ」

「駄菓子屋に、洲桃野さんのところに行こう。あそこならここから離れてるし、もしかしたらあの二人も巻き込まれてるかもしれないから」

 頷き、美祈は跳躍してフェンスの縁に立つ。オリヴィアは目を丸くさせていた。

「すごいなミノリ。オリンピックに出てみろ。金メダルでオセロが遊べる」

「嫌味かっつーの。それよか、スイカもオリヴィアも他のやつに気をつけろ。A.D.だからって気ぃ抜いたら、マスク女みたいにやられちまうからな」

「特にオリヴィアちゃんはね」

「子供扱いする……う、わ、ひっ、ぎゃ……!」

 美祈がフェンスから中空へと飛び出す。オリヴィアは彼女の背中でぎゃあぎゃあと喚いていた。



 スイカらと別れてデパートの中へ入った王樹と蜜は、すぐに化物に追いついた。件の鳥は既に何人かを喰らっており、蜜は咄嗟に目を逸らした。

「六原、さっきは泣いたりして済まなかった」

「ええええ、いきなり何を言い出してるのかなこの子は」

「雫さんをちゃんと見たのは私じゃなくて六原なのに、辛いことを話させてしまった」

 蜜は王樹を見遣った。その時、彼女は生きながらにして腹を啄まれる男と目が合い、きゃあとか言いながら顔を逸らす。

「うーん、まあー、私、グロイのもそこそこ平気だし? 怖いもの見たさって感じで。……それより、さっきはなんで雫さんの矢を使ってたの?」

 ああ、と、王樹は呟き、黄金色の矢を生み出して、それを握った。

「あの二人のどちらかが雫さんをやったんなら、これを見て少しは反応するかもしれない。そう思ったんだ。けど、さっきのバカも断割彗架もシロに近い」

「ミキちゃんがそう言うんなら間違いないっぽいね」

 二人の会話を断ち切るかのように、男の断末魔が木霊する。

 どうか恨んでくれるなよ。そう思いながら、王樹は床を蹴って化物へと向かった。



「バカ! バカシィド!」

 洲桃野商店へのみちすがら、スイカはシィドを呼びつけた。彼女の声に応じたのか、するすると、糸にぶら下がった蜘蛛が中空から降りてくる。

「藪から棒だぞ、スイカ。……うん? 今日はフジ・ミノリと、見知らぬ者がいるな。君の友人か、スイカ」

「ああ、そうだ」と、スイカではなくオリヴィアが返事をした。

「私はオリヴィア・エウラリア・ゴメス=アロンソ。arańa、お前は?」

「私はドアパンチカ・ラクサック・ルゥシイド。さてスイカ、早速だが化物は」

 スイカはシィドの胴体を手の甲で軽く叩く。彼は慌てた様子もなく、叩かれたところを前脚で摩った。

「何をする」

「どうせ何を聞いても答えないと思うけどさ、そろそろホントのこと喋ってくれてもいいんじゃない?」

「何のことだ」

 スイカは、洲桃野うちと出会ったことや、彼女の古い知り合いの話をかいつまんでシィドに聞かせた。

 そも、スイカは最初に言ったように答えを期待していない。ただ、呼びつけて叩いただけでは可哀想かもしれないと思って、適当に話を聞かせただけである。

「私は前から何も隠していない。嘘を吐いた覚えもない。ただ、知らないだけだと言っている。何故ならばスイカ、君たちが使い魔だのマスコットだのと呼ぶ我々は、君たちA.D.の力、その一部を借りて生まれたものなのだ」

「……は? 何それ、どういう意味?」

「我々は君らの分身のようなものだ。何度も言ったろう、一心同体だと。そして、A.D.が強ければ強いほど、我々は引っ張られてしまう。たとえば記憶だ。スイカ、私は君の記憶に引っ張られている。あるいは塗り替えられたと言ってもいい。だから、教えたくても教えられないことがある。知っていることしか話せないのは、そういったことが原因の一つでもあるのだ」

 目の前の蜘蛛が自分の分身だと、スイカはすぐには信じられなかった。ただ、シィドはいつも嘘を言わない。

「そんなん今まで言わなかったじゃん」

「聞かれなかったからだ。君はいつも何か話せと言うが、具体的なことを聞かない」

「……じゃあ、今まで話せなかったのって、つまり?」

「うむ、思い出せないのだ」

「つっかえねえなあ、オイ。やっぱあたし、自分のやつぶっ殺しといて正解だったわ」

 納得はいかないが合点はいった。スイカはまだ完全にはシィドを信じられていないが、やはり彼を脅しても無駄なのかもしれないと思い直す。

「よく分からないが、別のA.D.のナビに聞いたらどうなんだ?」

 話を聞いていたオリヴィアは気楽そうに言った。

「雫さんのグループの人たちは警戒してるかも。あ、でも宵町さんなら……」

「どうだろな。あいつもあいつで、とっくに知ってんじゃねえの? A.D.ん中に人殺しがいるってよ。つーか、知らなくても警戒はされると思うぜ」

「八方塞がりじゃんか!」

「いや、あたしにキレられても」

 洲桃野商店が見えて、スイカは速度を上げる。

「我々は君たちの『やる気』を出させるのが仕事だ。嘘も隠し事もする必要はない。しかし、真実とは知って得することばかりではあるまい。戦うにあたって君たちを迷わせる余計な事柄かもしれないぞ」

「やっぱりなんか知ってんじゃん」

「思い出せたら言うだろう。ただ、やはり……」

 もういい。会話を打ち切り、スイカは一人だけで目的地へと向かった。彼女の背を見つめていたオリヴィアは、誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやく。

「自分のことを信じられていないのだな、お前は」



 洲桃野商店にはうちも李もいなかった。オリヴィアはこの店の品揃えや商品を置いている位置が違うと指摘する。

「やはり現実とは違う。ここは中枢という場所に違いないらしい」

「は、ようやく信じたかよ」

「オリヴィアちゃんはここで待ってて。わたしたちは戻るから」

「戻って、さっきのと戦うのか?」

 スイカは頷いた。そうしないと現実に戻れないからだ。そうしないと殺されるからだ。戦わねば生きられないなら、そうするしかない。

「こっちには来させないようにするから。それじゃあ、また後で」

 それだけ言って、スイカと美祈は店を出て行く。二人の姿はすぐに見えなくなり、オリヴィアは彼女らの飛んでいった方をじっと見つめていた。



「絶対大人しくしてねーぞ、あのチビ」

「でも一々見張ってるわけにはいかないじゃん。わたしはお守りに来たんじゃなくて戦いに来たんだからさ。ここが危ないって釘は刺してんだし、勝手なことしてもわたしはもう知らないよ」

「友達甲斐がねーやつでやんの」

「……美祈ちゃんはさ、足引っ張る人を友達とか、そういうのを友情って言うんだね」

 美祈は舌打ちして足を止めた。スイカは彼女に倣わず、むしろ速度を上げる。

「友達って、別にそんなんじゃねえよ!」

「何がっ」

 スイカの声には苛立ちが混じっていた。本人ですらもその理由ははっきりと分かっていなかった。

 美祈はスイカの横に並び、偉そうに指を差す。

「一緒に喋ってメシ食って、そんだけでも充分じゃねえか。足がどうとかそんなもんはカンケーねえよ」

「それは美祈ちゃんの考え方でしょ」

「いいや、大多数だよ。うちらくらいのはやつはな、だいたいそう思ってんよ」

「そんなことないもん」

「あるって! お前のが少数派だろ!」

「少ないから違うって否定するの!?」

「アホっ、なんでお前はそう可愛げがねえんだよ!」

「お人形さんみたいにぶりっこしてれば満足するっての!?」

 二人の言い争いに辟易としていたらしいシィドは、徐に上を指した。大きな影が緩やかに周囲を覆う。スイカらの真上を鳥の化物が飛んでいた。

 スイカは咄嗟に立ち止まり、光の礫を化物に撃ち込む。鳥の腹や翼に当たったが、大した効き目はなさそうであった。

「他のA.D.が見えない。臆したか? あるいは」

「死んじまったってやつか。いいぜえ、あたしらだけでもやってやらあ!」

 美祈が建物の屋根を蹴りつけて上空へ飛び出す。しかし高度が足りなかった。鳥の化物はまるでA.D.の限界を知っているかのような位置を飛んでいる。握り拳を自分の太ももに叩き付けた彼女は、苦し紛れに光弾を作って撃ち出した。

「……想像力が足りない。フジ・ミノリはいつもああだ」

「だったら、わたしがやるしかないじゃん」

 降下する美祈を中空で追い抜くと、スイカは更に高度を上げ、化物の腹にアッパーを見舞う。声は漏らしていない様子だったが、化物の動きが僅かに鈍った。

「スイカっ」

「邪魔はしないでよ美祈ちゃん!」



 オリヴィアは洲桃野商店に一人で残っていたが、そこから鳥が見えた。デパートから逃げてきたのかもしれない。彼女はふうむと唸り、この場所も百パーセント安全な場所ではないと悟る。

 スイカにはここにいるように言われたが、それはここが安全だからという理由だ。その理由がなくなった以上、留まる必要性も感じられなくなった。何よりも、オリヴィアは中枢という場所をもっと知りたかった。彼女にとっては化物を倒すことが最優先事項ではない。母親の死や、彼女の遺した言葉の真意を知る為にここに来たのである。

 オリヴィアはすぐに洲桃野商店を出て、化物のいる方とは逆になるように移動を始めた。目的地はないが、一所にじっとしているよりはましだと思っていた。落ち着きがないとも言えるが、彼女は行動的である。

 貫木の街をぶらついていると、オリヴィアは人の数が少ないことに気づいた。化物に怯えて隠れているのかもしれないが、人の生きている気配というものが殆どないのである。人家を外から覗いてみても、テレビは点いているが住人が見えない。


「もしかして、あなたも困ってます?」


 塀の上によじ登っていたオリヴィアが振り向くと、髪の毛の長い少女が儚げな笑みを浮かべているのが見えた。どこかの学校の制服を着た彼女はじっとオリヴィアを見つめている。

「困っていると言えば困っている」

「あ、じゃあ、一緒に避難場所に来ませんか?」

「避難場所?」

「この近くに公民館があるんですけど、みんな、そっちに集まってるんです。私は逃げ遅れた人を探してて、そこに誘導する係で」

 なるほどとオリヴィアは得心した。化物も台風や地震と同じで災害のようなものだ。ただ、寄り集まっても何も解決しない。結局、災害が過ぎ去るのを震えて待つことしか出来ないのだ。

「……行くだけ行く。案内して欲しい」

「はい、じゃあついてきてくださいね」

「うん。私はオリヴィア・エウラリア・ゴメス=アロンソ。お前は?」

「あ、私は」

 前を歩いていた少女は立ち止まり、振り返る。

「石毛瑠子って言うんです。よろしくね、オリヴィアさん」

「そうか、リュウコか。ところで、リュウコは魔女か?」

 瑠子は歩調を緩めるとオリヴィアの横に並び、彼女を無言で見下ろした。

「私は魔女を……母の知る魔女を探している。ここではA.D.とかいう名前のはずだ」

「魔女。へえ、おとぎ話ですか?」

「何を言っている」と、オリヴィアは空を指で示す。

「化物が空を飛んでいるが、ここは現実だろう。夢でもなんでもないんだ」

「夢ですよ」

 瑠子は存外強い口調で言い切った。オリヴィアは不思議に思い、彼女の横顔を見遣る。感情が読み取れなかった。

「そう思うのも無理はないが」

 そこから瑠子は口を利かなかったが、公民館の前に辿り着いたところで、彼女はようやく口を開いた。

「さ、中に入ってください。外で一人でいるよりかは安全です」

 頷き、オリヴィアは一歩前へと踏み出す。


『――――――』


「……? リュウコ、今、変な声がしなかったか?」

「さあ、私には何も聞こえませんでしたよ」

 うん、と、オリヴィアは小首を傾げた。

「何故隠す? お前はさっきもそうだった。A.D.という言葉に反応したくせに、知らないように答えた」

「ええ、そうですか? 気のせいですよ」

「そうか? ……あっ」

 オリヴィアは目を押さえる。ゴミでも入ったのか、急に熱を感じたのだ。

「どうかしました?」

「いや、なんでも……」

 気のせいでも幻聴でもない。声は確かに聞こえた。それが何を意味しているのか、誰のものなのかは知らないが、オリヴィアはどうしてか、瑠子に従うのは危険だと判断した。

「ごめんリュウコ、人を待たせているのを思い出した。私は行く。ここまで連れてきてくれてありがとう」

「あ、ちょっと、危ないですよ?」

 オリヴィアは公民館に背を向けて、化物のいる方へ――――スイカたちの方へと、何者かにせっつかれるようにして駆け出した。



 オリヴィアの姿が完全に見えなくなった後、瑠子は公民館に戻った。入り口のドアを潜ると足の裏がぐちゃぐちゃに汚れてしまったが、彼女は全く気にしていなかった。

「あーあ、惜しかったなあ」

 ひたりひたりと瑠子は歩く。

 屋内の其処此処から水音だけが聞こえてくる。人の声はしない。そこらに骸だけがあった。男は太い杭によって串刺しに。女のものらしき黒焦げの死体は十字架に張りつけられている。息をしている者は一人たりともいなかった。

「魔女は火あぶり。吸血鬼には杭。けど、本当に化物だったとしても焼かれたり心臓刺されたりしたら死んじゃいますよね普通」

 瑠子は通りすがりの、串刺しになった男の死体に話しかける。瑠子は答えが返ってこないことにいらついて、男の頬をA.D.としての力を込めて本気で打った。途端、死体の顔面が爆発して周囲に肉片が弾け飛ぶ。瑠子の身体にも返り血や肉の一部が付いたが、彼女にとっては殴った拳の骨が折れて皮から突き出ていることですら些事なのか、すぐに治癒することも、服を変えようとする素振りも見受けられなかった。

 カーペットの敷かれた奥の広間は血の海になっている。その中に幾つもの小さな死体が転がっていた。死体のどれもが、手足、五指の爪を一枚一枚丁寧に剥がされている。目玉には百を超える針が突き刺さってどろりとした液が垂れていた。徹底的に、執拗に甚振られた痕がある。ある意味、平等だ。老若男女関係なく、全員が同じように痛めつけられて、死体ですらも弄ばれている。

 全て、石毛瑠子がここで行った。彼女が公民館に集まっていた者たちを皆殺しにした。特に理由はない。強いて挙げるなら、どの程度で人体が損傷し、絶命するのか。男女で苦痛を訴える際に差異はあるのか。老若ならどうだ。……試したかったのだろう。

 ここにいた者たちと瑠子は初対面であった。ここにいたから殺した。仮に、この場所に現実での友人や家族がいたとしても瑠子は他の人間と同様に殺していただろう。

 今この時、死体に囲まれて血の海に居座る瑠子の胸中にあったのは罪悪感ではない。先の少女、オリヴィアを逃がしてしまったという後悔だ。

「外人さんはどんな風に痛がるんですかねー。あの子、何人なんだろ。逃がした魚は大きいとか言うけど、美味しいのかどうかは分からないですよね」

 ですよね。もう一度問うも、声の行く先は虚空だ。答えはない。答えるのはいつだって腹の中にいる自分だけだ。



 大気すら震わせる声が鼓膜に食い込む。羽ばたきが風圧を生み、近づくものを竦ませる。だが、スイカは歯を食い縛って標的をねめつけた。揺らされた三半規管を無理矢理に立て直して宙を滑る。

 星が瞬く。スイカが駆ける。夜の闇を二つの線が飛び回る。

 化物の鳴き声も風の音も自分の叫びですらも満足に聞き取ることが出来ない。聴覚を失った状態で、スイカは渾身の一撃を以て化物の頭部を粉砕する。

 手応えは感じられた。砕ける肉も飛び散る血も確認した。しかし、化物はまだ息絶えていない。化物の身体を覆っている炎が蠢き、欠損した部位へと集う。

 不死鳥という言葉がスイカの脳裏を過ぎった。化物はA.D.と同じように傷を癒し、失った部位を取り戻している。

 させるものかとスイカが宙を蹴った。今、戦えるのは自分だけなのだと彼女は確信している。大多数のA.D.は自由自在に空を飛べず、雫や宵町といった優秀な者がいない。そも、最初から他人に頼るつもりもない。断割彗架はこの手で、自分だけで化物を屠ると決めている。

「オオおあぁぁぁぁアあああああああああああァッ!」

 獣の吼え声が迸った。スイカの全身が化物の腸を抉り貫く。だが致命傷には至らない。傷口はまたも炎が癒していた。

 一度で駄目なら二度、三度。スイカは休むことなく攻撃を続ける。化物の回復も追いつかなくなり、遂に片翼をもがれて地上へと落下する。その瞬間、彼女の背に強かな衝撃が伝わった。ダメージこそなかったが驚愕が身体を鈍らせる。

 停止した間に、幾つもの火焔と爆発が見えた。他のA.D.が地上から砲撃を繰り返しているのだ。彼女らはスイカの存在に気が付いているだろう。スイカ諸共、化物を打倒しようとしている。

 そのことはスイカにも分かった。彼女はぎりりと歯を食い縛り、地上を睨んだ。

「わたしの、邪魔を……!」

「――――――ッッ!」

 一瞬の隙を衝かれ、亜音速に近しい速度で衝突された。化物の嘴がスイカの矮躯を吹き飛ばして右半身の肉を奪う。彼女は声すら上げることが出来なかった。

 今までの攻撃や地上からの砲撃で、翼だけでなく片目すら失っていた化物も、スイカの――――A.D.の肉を喰らったことで即座に回復する。

 スイカはその光景を見上げていた。傷口から発せられる痛みも熱も、宙を浮遊する感覚も、どこか他人事のように思えて仕方がなかった。他のA.D.に攻撃されたことも化物に喰われたことも中枢に巻き込まれたことも、何もかもを――――。



 ☆彡 ☆彡 ☆彡



『なんだよその目さあ。お前ってなんかムカつくんだよな』

 そうかなあ、ごめんね。

『ねー、なんかスイカちゃんこわくない?』

 そんなことないよう。

『また用事ー? ホントは私たちと遊びたくないんじゃないの?』

 そんなことないってば。

 そんなことないから、どうでもいいことで煩わせないでよ。


『んだよ断割さあっ、言い返してみろよ!』

『びびって声も出せないってやつじゃない?』

『ヘラヘラしてんなよムカつくって言ってんだろっ』


『スイカ、何かされたのならお父さんに言いなさい。お父さんが守ってやるから』

 ありがとう。

『ああ、スイカ、可哀想に……』

 ありがとう。けどね。


『私たちってトモダチだよね?』

 うん。

『そう。スイカは誰とでも仲良くなれるものね』

 うん。

『スイカちゃんと会えてよかったな』

 うん。

 うん。

 うんって、さっきからそう言ってるじゃない。


『スイカには、そういうやつはいないのか』

『正義の味方ってことなんですか?』

『お前がちょっといいやつだなって分かった』

 ああ、そう。そうなんだ。

 友達とか家族とか、そういうのって――――。



 ☆彡 ☆彡 ☆彡



 ――――くだらないや。

 墜落する。

 スイカはどこにも手を伸ばすことはせず、あるがままに全てを受け入れた。……上から目線で物事を捉えて何が悪い。誰とも仲良く出来なくて何が悪い。そんなことを思いながら、ゆっくりと目を瞑った。



 スイカは変身を解いて落下を始めている。彼女は意識を失っているのか、身じろぎ一つしなかった。

「あんのバカ、何やって」

「あの子をっ、あの子を助けてやってくれ!」

「……あ?」

 美祈はシィドが声を荒らげたことに対して驚いたが、気を取り直して駆け出した。彼女の後ろをシィドが追いかける。

「私には分かる、分かるのだ。ああ、スイカの心は折れてしまった! あの子の強い心がぽきりと折れてしまったのだ!」

 スイカもろとも化物に向けて攻撃を始めるA.D.を邪魔しながら、美祈は人家の屋根から屋根へと飛び移る。距離から見て、スイカの身体を確保出来るかどうかは半々であった。

「スイカっ、くそ! せめて変身したままにしとけってんだ!」

 変身を解いたということは戦う意思を手放したということに他ならない。生身で地面に激突すればスイカの身体は二目と見られないほどに壊れてしまうだろう。最悪の想像を振り切り、美祈は自分の身体を痛めつけながらも速度を上げて疾走する。

「フジ・ミノリ、上だ!」

 美祈が空を見上げると、鳥の化物が飛来するのが見えた。

「邪魔しようってのか!?」

「駄目だっ、誰か、誰かスイカを! あの子を助けてくれ!」



 兎が跳ねる。

 跳ねて自分を呼んでいる。

 路地裏から路地裏へ。奥から奥へ。オリヴィアは右目を手で押さえながら、兎の後を追いかける。一歩進むたびに眼球が疼く。眼下から炎が噴き上がるかと錯覚した。

「……お前は、なんだ?」

 兎は答えない。ただ跳ねて、オリヴィアを導くように先を進む。彼女は答えろと叫んだ。答えを欲した。

 兎は立ち止まり、赤い目でオリヴィアをじっと見つめる。彼女は察した。目の前のそれは何もかもを知っているのだと。この白い塊は、自分の中から現れたものなのだと。

「お前も、スイカのクモのようなやつなのか?」

 足を踏み出す/赤いマフラーが首に纏わりつく。

 一歩踏み出す/モノクルが痛んだ目を覆う。

 更に前へ/真白な手袋がはめられる。

 立ち止まる/羽根が生える。これがA.D.なのかと理解する。

「お前は――――」


『オリヴィア、あんたの母さんはね、あんたを産んでからおかしくなったんだよ』


「お前は……」

 知っていた。

 分かっていた。

 母の手に抱かれたことがないことを。母の目が自分を映していなかったことを。母が自分を呼んだことがなかったことを。母が自分を愛してくれていたのかどうか、それだけが唯一分からなかった。分かろうとしていなかった。

 愛も、情も、何一つとして渡されなかった。オリヴィアはこの出鱈目な場所に、母が自分の為に何かを遺してくれているのだと信じたかった。声でも言葉でも物でも何でも構わなかった。大事なのは、遺してくれていたという事実だけ。

 そんなものはないと知っていながら、オリヴィアは強く求めた。誰よりも真実を欲していた彼女は、とうの昔に突きつけられていたそれから目を逸らして、回り道をし続けていたのである。

 とんとんと、いつの間にか隣にいた兎が地面を何度も蹴っている。

「分かっている」と、オリヴィアは返した。

「分かっているんだ」

 もう一度繰り返して、オリヴィアは空を見上げた。自分の母も、この世界に足を踏み入れて、同じように空を見つめたのかもしれない。そう思うと、胸がきゅっと切なくなった。

「……スイカ?」

 鳥の化物が見える。空の中に炎が咲いている。それらから逃れるようにして、一人の少女が地へと落ちていく。オリヴィアの足は独りでに動いていた。

「スイカっ」

 身体が軽い。風を切る感覚が心地よい。先までの自分が自分でないように思えて、ここに来てようやくオリヴィアという存在はこういうものなのかと認識。兎は彼女の前を跳ね続けている。

「私はもう逃げない。もう迷わない」

 まっすぐに最短距離を駆け抜ける。ビルであろうと壁であろうと、障害物を全て暴いて『すり抜ける』。

 オリヴィアの願いは『真実の究明』であり、見ることと暴くことに長けていた。A.D.としての力が開花したオリヴィアは物質をすり抜けられる。その力を彼女は自覚しかかっていた。

「そうか!」

 間に合うかどうか。ぎりぎりの瀬戸際、オリヴィアの使い魔が高く跳ねた。彼女は地上を走ることを止めて中空に視線を遣る。瞬間、真紅のカーペットが天へと伸びた。オリヴィアは自らが創ったスロープに飛び乗り、速度を上げて突き進む。

「スイカ! 手を伸ばせっ、こっちだ!」

 オリヴィアは足りないと判断した。スイカの身体を掴んで包むようにして、カーペットが意志を持っているかのように蠢く。柔らかな布が落下するスイカをキャッチして、オリヴィアは安堵の息を吐き出した。

 中空で球状となったカーペットのもとに急いで駆け寄り、スイカの安否を確認する。彼女は胡乱げな目でオリヴィアを見ていた。

「天使……?」

 む、と、オリヴィアは自分の服装を改めて確認する。

「私もA.D.になった。おそろいだな」

 スイカは厭世的な笑みを浮かべた。オリヴィアは何だか腹が立ったので、彼女の頭を強く叩いた。



 スイカを地上に下ろしたオリヴィアは、すぐに美祈と合流した。二人は上空を見上げて、火炎を受けても微動だにしない化物を認める。地上にいるA.D.の多くが遠距離からの攻撃を繰り返していたが、効果のほどは推して知るべしといった有様だ。

「ミノリ、私たちも行かなくていいのか」

「今はいいよ。あいつら、スイカをダシにして楽してやがったんだ。もっと苦労すりゃあいいんだよチクショウ」

「それであの化け物が多くの人を殺したらどうする」

「そんくらい分かってる。けどな」

 スイカはぼうとした様子でその場に立ち尽くしている。シィドがしきりに何か話しかけているが、彼女は一切の反応を見せなかった。

 美祈はそんなスイカに詰め寄って彼女の顔をじっとねめつける。

「殴るの? 命を粗末にするなとか言っちゃってさ」

「そうしよっかなあって思ってたけど、殴られたそうな顔してるからやめとく。ンだよそのツラ。やる気が出ないんだったらチューでもしてやろうか、アァ?」

「別に、やる気がないとかって訳じゃないよ。やらなきゃやられて、ここから出られないんだし。わたし、死にたくなんかないんだよ」

 けれど。そう言ってスイカは美祈を見返した。

「そんなのどうだってよくなる時だってあるよ」

「今は? 今はどうなんだよ。まだくだらねえこと並べんならあたしだって怒るぞ」

 ふ、と、スイカは好戦的な笑みを浮かべる。

「全部やりまくってやりたい気分。……ね、いけるとこまでついてきてくれる?」

「もちろんだ。うん、スイカ、それでいいと思う。甘えるな。甘えてはいけないんだ」

 オリヴィアはスイカに手を差し伸べた。スイカは彼女の手を見遣るだけで、握ろうとはしなかった。

「馬鹿野郎チビ助、ここは一人じゃ辛過ぎんだよ。甘えたっていいじゃねーか」

「違うな。ここは一人きりで自分と向き合う場所なんだ」

「甘えるなって、友達にも、家族にも?」

「そうだ」とオリヴィアは頷く。

「大丈夫だよ」とスイカは答えた。

「わたしには『ない』から」

「……どういう意味だよ、それ。それじゃあまるで、あたしらが」

 頭に血が上った美祈をオリヴィアが制する。

「母は私を愛していなかった。だけど私は母を愛している。……スイカ、そんな目をしないでもいい。家族を愛することにも誰かと友達でいるのにも免許はいらない」

 ああ、と、スイカは気づいた。ともすれば、オリヴィアは瞳に獣のようなぎらついた光を宿していたが、今は違う。凪のように静かで、穏やかだ。

「見つけたんだね。オリヴィアちゃんの本当のことを」

 美祈は二人のやり取りをよく分かっていないらしかったが、分からないなりに自分で勝手に納得した。

「諦めてねえんならそれでいい。じゃ、もっかいやんぞ。オリヴィア、さっきのじゅうたん出せ。アレを使えばあたしでも上へ行けるからよ」

「自分でやれ」

「ねーねー、わたしは?」

「好きにしろよ。まともに飛べんのはお前だけだぜスイカ」

 スイカは化物を見上げて変身を始めようとしたが、シィドが彼女の邪魔をした。

「何さ」

「自棄になってはいないようだ。少しだけ安心した。ころころと変わる心、私には新鮮だが」

 オリヴィアが真っ赤な絨毯を創りだして空へと浮かべる。その上に彼女と美祈が乗り、スイカを見遣った。

「……自覚するのだ。君の思いを。君だけの願いを。そうすれば君は」

「分かってる。そのはずなんだ。だから、わたしは」

 光がスイカの体を覆う。玉響にも満たない僅かな時間の後、光が掻き消えて彼女は戦う準備を終えていた。その手には以前にも使ったことのある箒が握られている。

「何度だって飛んでやる」

「ああ、君になら出来るさ。何だって出来る。そう信じたまえ」

 スイカは箒に跨り、中空へと浮遊した。

「そうか。お前は飛ぶんだな、スイカ」

 美祈とオリヴィアに見送られる形で、スイカが一足先に空を翔けた。



「だから、私」

 病室の月美は日章の手をそっと握った。

「あの子が怖いのよ。スイカが、怖いの」

 吐露したのは日章が意識を取り戻していないのかもしれなかった。月美は涙と一緒に、言葉を零し続ける。

「最初からスイカは誰のことも相手にしていないの。対等じゃない。けど、誰にだって平等なの。だからあの子はいじめられてた時だって、本当に何も気にしていなかった。私たちに心配をかけちゃうとか、そんなことを考えてなかった。『全部どうでもいい』って思ってたのよ、きっと。誰とでも仲良くなれるってことは、血が繋がっている人も、クラスメートも、初対面の人も、全部同じに見てて、感じてるってこと」

 月美は知っていた。スイカが夜に家から抜け出していたことを。しかし咎められなかった。彼女が自分から逃げようとしているのと同じように、自分もまた実の娘の視線から逃げようとしていたのだ。

「あの子にとってはみんな同じ……切り捨てられるし、割り切れる。躊躇いさえ覚えずに関係を断ち切ってしまう。私、自分が情けなくって、あの子のことが心配よ。友達の一人も出来ないんじゃないかって。この世に、スイカと仲良くできる子なんて、いないんじゃないかって」

「…………」

「……あなた?」

 月美は動きを止めて一点を注視する。いつの間にか、自分の手が握られていることに気づいたのだ。



 赤い線が宙へと伸びる。その上を美祈とオリヴィアが駆ける。鳥の化物はスイカよりも彼女らに狙いを定めて動き始めた。両の咢が開かれて、獲物を呑み込もうとして荒れ狂う。

「ミノリ止まれっ、頭からぶつかるぞ!」

 オリヴィアは方向を転換したがったが、美祈は止まらなかった。両の拳を打ち合わせて化物を真正面から捉える。

「どうして道を譲んだよ、あたしが!」

 化物は伸びたカーペットを喰らいながら突き進む。美祈は尖った嘴に一撃を加えて化物の頭部へ飛び乗った。オリヴィアは彼女に続き、高く跳躍して頭ではなく背へと飛び移る。

 焔が躍った。化物は二人を振り落そうとして体を揺らし、炎を使って攻撃を始める。バランスを崩した美祈が化物の身体から落ちかけた。オリヴィアは彼女を助けようとするも炎に行く手を阻まれる。

「なろォ食う気かてめえ!」

 美祈が落ちる。落下した彼女を、化物は嘴で銜えて掴んだ。下半身を呑み込まれた美祈は声を荒らげた。生きながらにして自らが食われている。その感覚と恐怖に負けじと、何度も化物を殴りつけた。

 鳥の頭部に到達したオリヴィアは巨大な安全ピンを創り、化物の頭へと突き刺した。その痛みと衝撃に、化物は美祈を吐き出す。

「うわマジ……助けろスイカ!」

「えらそうに!」

 化物の周囲を飛び回っていたスイカは急転換して美祈のもとへ向かった。落ちかけた彼女の手を掴むと、今度は化物の方へと上昇する。

「お礼は?」

「うろちょろしてねえでお前も仕掛けろよ!」

「だってあいつも動き回るし飛んでんだもん!」

「そうかよ!」

 スイカは化物の真上を取り、美祈はそこから降りて鳥の背へと再び着地する。

「だったらよォ! オリヴィア羽根だ、そいつをぶっちぎれ!」

「それからどうする!?」

 美祈はスイカを指差した。

「わたしが仕留める!」

「分かった!」



 皆、誰しも願いというものを抱いている。

 その願いが実現するかどうかは誰にも分からないが、今、断割彗架という少女の願いは成就されようとしていた。……否、既に彼女の願いは叶っていた。

 スイカの願いは空を飛ぶことではない。空を飛ぶことでその願いは叶っていた。

 くだらない、つまらない。そう言って他者の上に立ち、他者を見下す。それがスイカの強い想いで、願いでもあった。

 ただ、自覚したくなかった。自分を『嫌な子』だと思いたくなかった。しかしスイカは自らの想いを、願いを、中枢という場所で確認した。


『自覚するのだ』


「してたよ、とっくに!」

 スイカは急降下して、地上にいるA.D.たちを風圧で吹き飛ばした。呆気にとられた彼女らを見下ろして、スイカはぺろりと舌を出す。そうしてから化物へと向かう。

「してたんだ! お母さんのお腹にいた時から!」

 自分を嫌な奴だと信じていた。

 自分には何でも出来ると思っていた。

 だから、こんな自分は誰とも仲良く出来ないのだとも思い、信じ込んでいた。だが、違う。もう終わった。

 風を孕みながら切り裂いていく。スイカは箒に跨っていたが、これでは自由に動けないと、細い柄の上に立った。両足でバランスをとりながらぐんぐんと上昇していく。

 同じ目線。同じ位置。そこに美祈とオリヴィアの姿があった。



 ドアパンチカ・ラクサック・ルゥシィドはスイカの記憶や感情に引っ張られている。彼女の力によって中枢にいる彼もまた、主と同じ気持ちを抱いていた。

「ああ、そうか」

 シィドは地上からスイカを見上げる。

「嬉しいのだな。楽しいのだな。スイカ、君の願いは、酷く歪なものなのだろう」

 A.D.としての素養があり、力が強い。それは決して良いことではないのだろう。普通に生きていたのではありえない事柄を現実だと認識し、ありえない事物を召還する。他者を見下す全能感こそがスイカの才能であるならば、それはきっと現実の世界では役に立たないもので、歳を経るごとに薄れて、いずれは消えてしまうものなのだ。

 今だけなのだ。スイカがA.D.として戦えるのは今、この瞬間だけなのかもしれない。明日になれば夢から覚めて、自分はなんと小さく無力なのだろうと、本当の現実を受け入れてしまうのかもしれない。

「だがスイカ、君の願いはもっと単純なんだよな」

 シィドは八本の足で自分の胸を押さえた。

「ああ、君は、友達が欲しかったんだな」



 化物の翼が千切られて、地上へと点になって落ちていく。空に留まれずに化物の体躯が緩やかに落ちる。

 美祈とオリヴィアは、上ってくるものを一筋の流星かと錯覚した。

「退いてっ、二人とも!」

「後は任せたなんて言わないっ、そいつを叩き落せ!」

「あたしらには当てんなよっ」

 炎が噴き上がる。失った部位を癒そうとして化物が放ったものだ。

 美祈たちが化物から離れたのを確認したスイカが速度を上げる。箒に乗った状態で化物の腹に激突して、尚も上昇し続ける。

 鳥の化物から翼が生え始めていたが、風圧のせいだけでなく、スイカの能力で自由には動けなかった。

「こいつっ、こざかしい!」

 化物の炎が蛇のように蠢いてスイカに纏わりつく。彼女は熱と痛みに耐えながら、この街の一番高いところを目指した。

 思いと願いを一緒に連れて雲間に突入する。その先には満天の星空以外には何もない。最高に気分が良かった。スイカはぐるりと反転して化物を、空を、街を、人を、自分以外の何もかもを見下ろした。

「地球大気だって抜けちゃうぜ、こんなの」

 このまま飛んで大気圏を抜けて宇宙に行けば、もっと高いところから見下ろせる。地球という星ごと何もかもを見下せる。そうしたならばどんな気分を味わえるだろう。そこまで夢想したところで鳥が鳴き声を上げた。

「……忘れてないよ」

 夢は夢で、願いは願いだ。いつまでも胸に秘めておくのも悪くはない。いつか忘れてしまったとしても決して悪くない。スイカは下にいるであろう美祈たちのことを思い、箒から降りて化物の背に急降下で着地する。鋭い、一点を貫いた蹴りを受けて化物が血を吐きだした。

 スイカは以前の、クジラの化物の時を想起する。……シィドは言った。君の願いは空を飛ぶことで叶うものなのだと。オリヴィアは言った。ここは自分と向き合う場所なのだと。自分のことだ。スイカも知っている。

「落ちろ、落ちろっ、落ちろ!」

 スイカの周りの空間が歪んだ。風ではない。不可視の巨人の剛力ではない。彼女が、化物を重くしているのだ。断割彗架の能力は飛行だけではない。重力すらも操作することが出来る。水族館のクジラはスイカの力によって無理矢理に丸められたのだ。

 もはや化物が翼を羽ばたかせることはない。双翼も身体も歪に捻じ曲がって地面へ叩きつけられるのを待つだけだ。

「落ちろっ! 落ちて潰れろ!」

「――――――ッッ!!」

 飛んで見下すだけではない。スイカの願いを成就するには、相手を引き摺り下ろして地面に平伏させればそれでもいい。雲を抜けて街の灯が見える。化物の垂れた頭は、まるで許しを請うているようにも見えた。

 スイカは目を見開く。自分を呼んでいる声が確かに聞こえる。

 二棟の建物から二つの影が翻った。美祈とオリヴィアだ。二人も、スイカと同じように化物の背に乗っている。何故だか、スイカはそのことが嬉しくてしようがなかった。

「おあっ、ンだこりゃめっちゃ体重てェ!」

「真下、叩き落して!」

「了解だ!」

 スイカたちが一斉に、足に力を込める。化物は衝撃と重力に耐え切れず、建物と衝突して、薙ぎ倒すようにしながら落下した。転がって地面と激突し、肉体の回復を試みるが無駄だった。五体が満足でもスイカの操る重力によって常に押さえつけられているようなものなのだ。まともには動けない。

 めきめきと音が鳴っている。化物の骨が軋み、身体が捻じれているのだ。押し潰されるのを避けようとしてもがき、足掻いているらしいが、生半な力ではスイカに対抗出来なかった。

 スイカは電信柱の上から化物を見下ろし続ける。その視線は刃のように鋭かった。視線に込められているのは彼女の想いと願いだ。『他者を見下ろす』。願い自体は歪かもしれないが、彼女のそれは本物だ。今はただ、折れず曲がらず決して砕けず、しっかと屹立している。

 スイカと化物との力比べは終わりを迎えていた。化物の身体の彼方此方から鮮血が止めどなく流れている。脚も翼も何もかもが接地したままで、鈍い音だけが鳴っていた。上から放射されるエネルギーが化物の身体を圧迫し続ける。

「……ミノリ。私はとても嫌な予感がするぞ」

 破裂寸前の風船を見ているかのような気分に陥ったのか、オリヴィアは身震いした。

 何が。美祈がそう尋ねる前に、高く、長い音が響く。化物の全身が、オリヴィアの危惧していたとおりに破裂したのだ。内容物が辺り一帯に飛び散る。噴き上がった血は雨のように地面を叩き、スイカたちにも降り注いだ。

 しばらくの間、三人は無言であった。そのうち、スイカは顔面に付着した血を指で拭い、ふっと微笑んだ。

「ね。なんか、こういうのもいいね。友達って感じがして」

「……ざけんなてめェ。好き勝手やりやがって、あげく血塗れじゃねーかあたしら」

「ああ、その通りだ。スイカなんか嫌いだ」

「ええー、だったらさ、わたしって何なの?」

 美祈とオリヴィアは顔を見合わせて、スイカの言を鼻で笑う。

「可愛げのないガキ」と、二人は声を揃えて言った。



 医師や看護師が忙しなく病室を行き来するのを、月美はぼんやりとした意識で見ていた。

 月美は自分の手をそっと頬に這わせてみた。まだ日章の手の温もりが残っている。彼が生きているという証左を今更ながらに理解して、月美は涙を流した。

 夫が帰ってきた。ならば、自分は娘と向き合わねばならない。自分もスイカも互いと向き合う時が来たのだ。だが、と、月美は物憂げに息を吐く。スイカに友達が出来るかどうか心配になったのだ。彼女は転校すると聞いた時も文句ひとつ言わなかった。今になって思えば、それはとても寂しいことなのだろう。

「……スイカ」

 あの子に友達が出来るとしたら、それはきっと彼女と同じ価値観の持ち主だ。あるいは、天使のような子かも知れなかった。

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