全滅する
泡となって消える。
人体の内容物がしぶく。
苦鳴は唄うように。怨嗟は詩のように。
ここは何処か。問えば返るは無のみであり、己に巣食った何かが是だと答える。周囲一帯、自分以外に動くものは他にない。
ここは中枢。
我らはA.D.。
しかし真実だとは思えない。石毛瑠子はこの世界を中枢という名前で呼んでいなかった。自身をA.D.という存在だとも思っていなかった。彼女にとってそれらは些事である。重要なのは、ここが自分に優しいか否かなのだ。
不意に呼ばれて正体不明の化物と戦わされる。血煙が立ち上って、人体が飛散する。悲鳴が脳と耳を侵して、鉄臭さが鼻腔に溜まる。生と死が、人と魔が、日常と非日常が溶けて砕けて混ざり合う。酸鼻と混沌。極まった醜悪はもはや麗しいとすら思えてくる。一秒先に自分が両足で立っていられるかも分からないこの場所を、榴子は気に入っていた。少なくとも、貫木での自分の現実よりも、いいと感じていた。此処こそが自分の居場所だと思えた。
中枢でトゲの化物を倒した翌日、スイカと美祈はとある場所へと向かっていた(美祈はまた学校をサボったらしく、スイカはあまりいい顔をしなかった)。本来ならオリヴィアを連れて向かうはずだったが、彼女は見つからなかった。
美祈は車椅子を動かしながら、長い息を吐き出した。
「ガキん時から行ってたけどよ、まさかって感じだぜ」
「うん。前も言ったけど、やっぱり、ちょっとおかしかったんだよね。中枢に行った時と同じ感じだって言ったでしょ?」
「ああ」と、美祈はやり切れない風に答えた。
スイカと美祈は目的地である、『洲桃野商店』へと辿り着く。二人が以前にも訪れたことのある駄菓子屋であった。
「あの時は気のせいだと思ってたけど、他の場所でも同じような感覚っていうのか、そういうのがあってさ」
「で、ここもヤバそうな空気を感じたってことか」
焼けるような陽光に背を押される形で、二人を意を決して中へと足を踏み入れる。ここに巣食うのは鬼か蛇か。スイカは息を呑み込んだ。
昼間だというのに薄暗い店内には誰もいない。美祈は店の者に呼びかけようとしたが、奥から足音が聞こえてくる。カウンターに姿を見せたのは、愛想のいい笑顔を浮かべた少女であった。
「Hola! いらっしゃいませー!」
「……あれ、誰だこいつ」
オリヴィアだった。スイカは目を丸くさせて、彼女に対して小さく手を上げた。
「お、おらー? あれ? なんでいるの?」
オリヴィアはうんうんと頷き、昨晩のように冷たい目をしてスイカを見遣った。
「そうか。スイカはこんなしようもないお菓子が好きなのか」
オリヴィアの話はこうだった。
泊まっていたホテルが火災に遭っただけでなく殺人まで起こっていたらしく、その犯人に襲われかけたオリヴィアは急いで逃げた。勢いで貫木市内を徘徊していたところ、荷物を部屋に置きっぱなしだったことに気づいていったんホテルへ戻ったが、荷物どころか建物自体が焼けていてどうにもならなくなった。
貫木市で唯一の知り合いであるスイカを探したが見つからず、途方に暮れて歩いているところを洲桃野李という少女と出会い、困っているならと、彼女の祖母がやっている洲桃野商店へ連れて行かれて、一宿の恩を受けた。
オリヴィアが事情を話してみると、李の祖母、洲桃野うちはしばらくの間なら泊まっていってもいいと承諾した。オリヴィアは何もしないのは悪いと思って店番を買って出た、というのが事の顛末らしかった。
話し終えたオリヴィアはスイカをじっとりとした目つきでねめつけて、
「スイカが悪い。私を見つけてくれないから」
と、恨みがましく言った。
スイカは齧っていた麩菓子を落としかける。美祈はげらげらと笑っていた。
「な、縁がありゃあまた会うんだって。えーと、なんだっけ? ゴメス?」
「間違っていないけど、馬鹿にされているような気もする」
「わりーなゴメちゃん。で、いつものババアはどこにいんだ?」
「ウチなら昼寝している。じき、起きる。スモモが来るから」
ならば今の内だと、スイカは携帯電話を取り出した。
「昨日連れて行こうとしてたのは、ここなんだ。オリヴィアちゃん、このお店も、何か変だなって感じない?」
「うん。私の街にはない感じだ。客が来ないし」
「そういう意味じゃなくて……」
「ジョウダン。うん。ここも、どこかおかしい。だから私はここに来られたのかもしれない」
スイカは、以前にここも中心地となったのかどうか美祈に聞いていたが、彼女は『そんなもん知らねえ』と答えたのである。洲桃野商店も中枢と何かしらの関わりがあるのだろうが、今のスイカたちには知る術がなかった。
「オリヴィアちゃん、あのおばあちゃんが何か知ってるかもしれないよ」
「そうか? 私は、ウチは普通の老人に見えた。スモモだって普通の子だ。スイカとは違う」
どういう意味だと口を開きかけた時、店の出入り口から声がかかった。オリヴィアはぴくりと反応し、愛想よく微笑みかける。
店に入ってきたのは小さな女の子であった。彼女はスイカと美祈を見遣り、不思議そうに小首を傾げる。
「なんだ、スモモか。客かと思った」
「お客さんなんか全然来ないよ、ここ。……オリヴィアちゃん、この人たちは?」
「うん、スイカと汚いキンパツだ」
おい、と、美祈がオリヴィアをねめつけた。
「……もしかして、昨日言ってた魔女がどうとかってやつ?」
「シー、スイカはいい子だ。いい子だけど魔女かもしれない。色々と話してくれた」
今度はスイカがオリヴィアを睨みつける。中枢やA.D.のことを信じる者はまずいないだろうが、みだりに触れ回るのはどうかと思ったのだ。
李は事態を把握し切れていないらしく、あちこちに視線を彷徨わせた後、椅子に座って黙り込んでしまう。
「そっちの汚いのも魔女か?」
「せめて髪のことを付け足せよ。あたしの全部が汚いみたいじゃねーか。このチビが、どつき回して逆さに吊るすぞ」
「スイカ。こいつを殴ってもこの国では罪にならない。そうだな?」
「やんのかチビ助が、あァ!? タダじゃあすまねえぞコノヤロウ」
「××××! 買うぞそのケンカ、私が!」
ひっ、と、李が悲鳴を上げる。スイカは面倒くさそうにしながらも二人を止めに入ろうとした。が、彼女よりも先に店の奥からうちが姿を覗かせる。彼女はカウンターから身を乗り出していたオリヴィアを無言で見据えて下がらせた。
「うわー、ババアこええなあ」
「ふん、不二んところのアホ娘め。少し腕っぷしが強いからっていい気になるんじゃないよ」
美祈の表情が凍りつくのを認めて、スイカは嘆息した。
スイカたちは店の奥にある和室に通された。中央には背の低い卓が置かれており、縁側のある窓からは小さな庭が見えている。
「座りな」と、うちはスイカたちを促した。彼女に勧められて、各々が座布団の上に座る。
「私は、こうなると思ってたよ」
うちはスイカたちをじろりと見回した。
「おばあさんは……ああ、ええと」
スイカは何を聞こうか迷ったのと、うちの眼光に気圧されて何も言えなくなってしまう。彼女を見かねて、美祈が口を開いた。
「その前に自己紹介でもしとこうぜ。あたしはあんたらのことを知らねーし、その逆だってそうだろ? ってなわけで、あたしは不二美祈。中二。魔女ってやつかもな」
「そうか。お前はミノリというのか。私はオリヴィア・エウラリア・ゴメス=アロンソ。16才。魔女を探している」
一瞬、場が静まり返る。
「えっ? 16……? うっそだあ」
オリヴィアは眉根を寄せてスイカを見遣った。
「わたしと同い年くらいと思ってた」
「あー、ちっこいからな。つーか、あたしより年上なんかよ。マジか。笑えるぜ」
「何も笑えるところなんかないぞ」
大人びているとは思っていたが、実際に自分よりも大人だとは考えつかなかったらしく、スイカは未だに信じられない様子であった。
「……あ、ええと、断割彗架です。小学六年生。魔女、なのかもしれません。たぶん」
うちと李は目を合わせて小さく頷き合う。スイカは二人の行動を訝しげに思ったが、追及はしなかった。
「洲桃野うち。今年で九十。この店を」
「おばあちゃん、今年で八十でしょ」
「ああ、そうだったっけ。まあ、なんでもいいや」
「もう。私は洲桃野李です。小学五年生で、スイカさんの一つ下で、たぶん、同じ小学校だと思います」
全員が自分の紹介を終えたところで、スイカは携帯電話をポケットから取り出した。
「洲桃野さんたちには、今から話すことは信じられないことだと思います。だから、聞かない方がいいんじゃないかなあって」
「いや、いいよ。魔女のことだろ。だいたい、予想はつくからね」
そう言って、うちは茶を啜る(スイカたちには何も出していない)。
「予想って……何を知ってるんですか」
「先にあんたが言いな。ま、私は頭から否定する気はないから安心おし」
スイカは釈然としなかったが、中枢で撮った化物の写真を見せることにした。そもそも、最初から妙だと感じていたのである。異邦人が困っているとはいえ、初対面の人間を家に上げて、その上、泊めていく者がこの街に、この国にどれだけいるだろうか。洲桃野うちが心優しい人間なのだと言えばそれまでだが、きっと、それだけではないのだとも直感していた。
中枢やA.D.のことを出会ったばかりの人間に話すべきではないのだろうが、初対面だからこそ話せることもあるかもしれない。スイカはそう信じて、携帯電話のディスプレイを表にして卓の上に置く。ずい、と、オリヴィアが身を乗り出した。
「なんだ、これは」
写っていたのは件のホテル街である。画面の中央には巨大な、ヤマアラシのような獣がいた。見切れているが、スイカたち以外のA.D.の姿もある。
李とうちもその写真を見つめて、何とも言えない表情を浮かべた。
「うあ、怪獣ですよね、これ。CGか何かですか?」
「合成だな。こんなに大きなハリネズミがいるはずない」
「いや、これヤマアラシじゃねーの?」
「どっちでもいいよ。アホだね、あんたら。……で、これが何だってんだい」
スイカは写っているものをどう言ったものか迷い、やはり、いつものように化物と呼んだ。
「これが、わたしたちが倒さなきゃいけないものなんです」
「……この、写っている人は誰なんですか? なんだか、アニメみたいな服を着てますけど」
「それがA.D.って言って、ええと、魔法少女みたいな人なの。化物とA.D.は戦わなきゃいけなくて、わたしも、美祈ちゃんもそうなんだけど」
「こ、コスプレですか」
違うとは強く否定出来なかった。スイカは気を取り直してオリヴィアを見遣る。証拠を見せろと言ったのは彼女なのだ。
ふと、スイカは面々の様子を見遣る。確かに、うちも李も話をまともに聞いているように見えた。そして、この話をまともに聞こうとしている時点でどこかおかしいのだとも気づく。
「オリヴィアちゃん、これは嘘でもなんでもないんだよ」
「でも、化物なんか、いるはずがない」
オリヴィアは頑なであった。しかし、と、彼女は後になって付け足す。
「この写真、なんか、ヘン」
怪物。魔物。化物。妖怪。異形。幻獣。
不気味であり、正体が不明であり、普通ではないモノをそう呼ぶのなら、目の前にいるのは間違いなく、そうなのだろう。
事実、他者はそう呼ぶ。化物と。モンスターと。敵と。現世では目にすることが出来ない、この世ならざるモノを前にすれば誰だって取り乱す。……ただ、巫女服のようなものを着た少女、法師王樹だけは違った。彼女だけは、中枢に呼ばれて化物を目にした時ですら動じなかった。
ああ、またか。
王樹はそう思ったのである。常人では感知出来ない不可視の存在は、彼女にとって日常の一部だ。
法師王樹は、生まれながらにして異形を見る力が備わっていた。見えるのはただの霊とは違う。時に『彼ら』は人の姿をとらず、靄のような形であったり、けだもののような像でもあった。彼女はそれが見えることを当然だと思い、不思議だとは感じなかった。自分以外の人間にも見えると思っていたのである。
『ねえ、アレはなんて言うの?』
初めて見る動物を、これは何かと尋ねるような当たり前の所作で虚空を指差す。そんな娘を見て、王樹の家族は彼女を不気味だと、異常だと断じた。王樹は幼いながらも、その時になって自分が狂っているのだと気づいた。
以来、王樹は自分だけが見えるものについて口を開かなくなった。この十七年間、普通であろうとして、現実からは目を背け、目を瞑るようになった。いっそ盲目であれとさえ願った。
何も見たくない。何も見えなければいい。
願いは叶った。理不尽に呼び出される歪な空間でのみ、王樹の目は開かなくなった。視覚を遮断されても今まで以上に上手く動けるどころか、戦闘行動にすら影響はなかった。それ以外の感覚が鋭さを増して、輪郭だけが頭の中で像を結ぶ。
「キミちゃん、上だ」
「いえ、右にもいます」
見えなくても分かる。
化物は一体きりではない。この街――――この空間の至る所から自分たちを見ている。
「何匹いるんだっ」
隣にいる来光雫が苛立たしげに言った。彼女と共に行動するようになってから、化物退治は随分と楽になった気がすると、王樹はそう思っていた。
「早く倒して、私たちの現実に帰りたいな」
「……ええ、そうですね」
王樹は自嘲気味に笑んだ。ここが夢だとして、別世界だとして、自分にとっては現実と大差がないのだ。化物はこの世に、確かにいるのだから。
「写真が、変? や、確かにおかしなところはいっぱいあるけどさ」
そうではないとオリヴィアは首を振った。彼女はスイカの携帯電話を取り上げて、ディスプレイに指を押しつける。
「ここは、私の泊まっていたホテルによく似ている」
「……似てる?」
「うん。似てるけど違う。建物の高さが違う。スイカの撮ったやつは……五階建てに見える。けど、あのホテルは六階まであった」
「勘違いじゃねえの? そんな微妙な違い、分かるかフツー?」
「分かる。分からなくても分かる。ヘンだって思う」
美祈はオリヴィアの気のせいだと思っているらしいが、スイカは違った。彼女が最初に中枢へ呼び出された時、学校で妙な違和感を覚えたのを思い出したのである。また、前回に貫木市を空から見下ろした時にも同じようなことを感じた。僅かだが差異がある。中枢とは、貫木であって貫木ではない場所なのではないか。そう思い直したのである。
「中枢に、化物か」
うちは呟き、空になった湯呑に視線を落とした。
「話を簡単にまとめると、あんたらはA.D.って存在で、化物を倒さないと中枢という場所からは出られない。……自分で言っててなんだけど、阿呆みたいな話だ」
「でも、本当なんです。付け加えて言うなら、別に、呼び出されるのはわたしたちだけじゃなくて、普通の人だって巻き込まれるんです」
「いや、そうじゃないね。普通の人が、あんたらみたいな力を扱えるようになるんだろ」
「そうかもしれませんけど」
何かが引っかかったが、スイカはひとまず、その疑問は置いておくことにした。
「中枢で死んだ人はこっちでも死ぬんです。だから、事故や事件がいっぱい起きてるんですよ」
「私はあんまりテレビを見ないからねえ。李、ニュースで何かやってるのかい」
「うーん、どうなんだろ。学校の、車の事故の時はやってたよ。けど、もうそのニュースもやらなくなったみたいだし。あ、ホテルが燃えたってのは今朝もテレビで見たよ。なんか、殺人事件もあったみたいだけど」
「あー、それな。死体も何もかんも燃えちまって、結局、何も分かっちゃいねえんだとよ」
仮に何か分かっても、犯人の使った凶器や、狂気に及んだ動機だけだろう。スイカの知りたいことはそれではない。
「事故も事件も偶然が重なったということもある。行方不明者は毎年何万人も出ている。人が死に、いなくなることイコール、スイカたちの言っていることが本当なのだとは限らない」
「そりゃ、そうなんだけど」
美祈が頭を掻き、天井を見遣った。スイカも何の気なしに彼女の視線を追いかける。
「あの」と、場が静まった時、李が遠慮がちに口を開いた。
「それじゃあ、スイカさんたちは正義の味方ってことなんですか? だって、化物と戦って、巻き込まれた人たちを守ってるってことですから」
「つーか、やらなきゃやられるからやってるだけだと思うけどな。結果的に見りゃあ、人助けに繋がってるかもしれねえけどよ」
「でも、普通じゃあ使えない力を使えるんですよね。魔法少女って感じで」
スイカは言葉に詰まった。実際は魔法と言う力ではなく、自分たちは魔法少女ではない。ただ、戦闘に長けているだけなのだ。
「最初に言い出したのは誰か分からないけど、皆、自分たちのことをA.D.って呼んでるんだ」
地獄に仏と言いなさい。掃き溜めの鶴よりも、自分にはそちらの方が似合っているから。
そう言って、福城宵町は蔵加夏の言葉を訂正した。二人が初めて出会った時のことであった。
夏は宵町と共に行動している。一つ年上の宵町の方が自分よりも賢く、正しい選択が出来ると信じているからだ。
中枢で化物と殺し合う。恐ろしいことだが、夏は絶望していなかった。使い魔(宵町たちのグループはファミリアと呼んでいる)も『化物を倒せば戻れる』、『駆除自体も長くは続かない』と言っていた。勝ち続けて倒し続けて生き続ければ済む話である。幸い、夏にもA.D.の素養があった。指示を出す宵町がいなくても生き残られるだけの力がある。
いつ終わるか分からない殺戮行為。しかし夏は心を壊さなかった。
――――ボクが皆を守っているんだ!
夏を守っていたのはヒロイズムである。化物から弱者を守り、矢面になって身を晒すことを尊いと感じ、『魔法少女』であることに酔い、他者だけなく自らの心をも鎧っていた。
宵町は、A.D.とは武装する少女だと言っていた。夏もそうだと信じている。
「見えましたっ、ビルの上です!」
「了解よ」
一人だけではない。仲間もいる。戦うことに、心をすり減らすことに慣れてきた。しかし、今回は難しい相手である。敵は一体だけではない。貫木市全体に張り巡らされた目玉が敵なのだ。
目玉の能力は単純なものだ。触れると焼け焦げる光線を発し、時折、ぐるりと動いて方向を変えるくらいである。しかし光線そのものは脅威であり、数が多いのが問題だった。夏たちは既に二十の目玉を潰したが、未だ街中の至る所が光線によって破壊されている。化物全てを殺すまで戦いは続き、ここからは出られない。建造物だけではない。化物の狙いは動くもので、主に人間だ。彼女らも出来る限り一般人を庇っていたが、手が足りていない。
後背や真上、目玉の光線は死角から襲い掛かってくる。宵町のグループは、彼女の指示によって身を守ることを重視しながら転戦していた。
A.D.側の死者もゼロではない。今回は戦える者の数が多いが、その分だけ敵も強く、今までで最も手強い相手であった。
「でも、負けない。ボクは負けない。負けない。負けない。負けない」
夏は口に出して自分に言い聞かせる。戦いに酔い、心を鎧う。彼女は、自分が力を使える存在だということに誇りを抱いていた。魔法少女は自分だけでなく、皆の幸せを守る存在なのだと。
「A.D.ってのが魔法少女みたいなもんだとしてさ、じゃあ、A.D.ってどういう意味なのかって話もしたことはあったよ」
美祈は代金を支払い、適当な駄菓子を引っ掴んできた。話が長くなると感じ、気を利かせたのだろう。あるいは単純に腹が減ったのかもしれない。
「アームドールとかアシスタントディレクターとかなんちゃらドリームとか、いっぱい思いついたけど、合ってるかどうかは分かんないんだよね」
「annihilate destroy」
李はその言葉を口にした後、誤魔化すように笑った。
「なんか、怖そうな意味だね」
「全滅するとか、絶滅するとか、そういう意味なんです。……私、英語の塾に通ってて、色々と辞書とか読んでて」
「要は『A』と『D』の入った何かってことなんだな」
「見当はつくぞ」
オリヴィアは美祈の買ってきた菓子を口に入れたまま喋り始める。
「私はまだ信じていないが、A.D.というのが本当にいるなら、駆除というのが本当なら、スイカたちのやっていることはゴミをどうにかすることだ。dustman(掃除人)かもしれないし、demolish(破壊する・取り壊す)かもしれない」
「そう言われてみたら、dのつく英単語って、そういうのが多いような気もします。diminish(減らす)、deplate(枯渇させる)、decompose(分解する)decomposition(分解、解体、腐敗)……いっぱい思いついちゃいますね」
「デバイスとかな。あたしらは、言ってみりゃあ道具だ。誰に使われてるかは分からねーけど、自分の意志で勝手に動いて化物を駆除する。オートとデバイスでA.D.。おお、しっくりくるな」
「なんか楽しそうだよ、美祈ちゃん」
「んな顔で睨むなって。お前は何か思いつかねえのか。こういうのもきっかけになるかもしんねえぞ」
「わたし英語分かんないし、なんだっていいよ」
けっ、と、美祈はつまらなさそうに舌打ちする。
「だいたい、魔女だの魔法だの、そんなにいいもんじゃないよ」
うちはやれやれとでも言いたげに息を吐く。李は何か察したような顔になり、うちから目を逸らした。
「普通じゃあない力を魔法って呼ぶんだ。だけど『これが魔法だ』ってはっきりした定義ってもんが決まってない。あんたらのイメージするアンポンタンな力も、小難しい理屈の必要な力も全部まとめて魔法って呼べるだろうし、魔術、魔導、呪術や妖術。他にも幻術だの、神通力とかいう法術だの、スプーンを曲げる超能力だって広い意味では魔法になる。時代によっちゃあ、薬を作れるってだけで魔法扱いさ」
「あー? バアサンさ、つまり魔法ってなんなんだよ」
「さてね。人それぞれ、好き勝手に好きなものを魔法と呼んだっていいんじゃないかい。信じりゃあどうにでもなるさ。たとえば、自分で名前を付けてやりゃあいい。私はこういうもので、こういう魔法を使いますってな具合に。ちと意味合いは外れるが、マジカルモットーって言ってね、魔法や、魔法を扱う自分自身に自分だけの名前を付けるのさ。大概そうさ、イメージが出来れば強くなる」
スイカには、今のうちの言葉に心当たりがあった。シィドも似たようなことを言っていたからだ。
「必殺技は大事だって、雫さんも言ってたっけ」
「変てこな名前叫ぶのか? あたしはヤだな」
「大きな声で叫べば力が出るぞ」
うちはまた何かを言いかけたが、李が彼女を押し留める。
「おばあちゃんの話は長くなるから……」
「かもしれないけど、わたしたちには大事な話かもしれないんだ。もうちょっとだけ聞かせてもらってもいいですか?」
「ああ、いいとも。それじゃあ、次は魔女ってのが何なのかって話だけど……あんたらは自分らのことをA.D.、いわゆる魔法少女って風に呼んでる。まあ、けど違いはないんだよ。魔女もあんたらも、要は普通じゃない力を使う。そういった力を使うやつのことを魔女だの、魔法使いだのって言うんだ」
スイカは真面目に話を聞こうとしていたが、美祈とオリヴィアは既に興味を失くしているらしく、菓子を貪り食っていた。
「もともと魔女ってのは昔の西洋でね、人間に危害を加えると思われたやつのことを指すんだ。女が多いけど男だって中にはいた。男の場合は、魔法使いって呼ぶのが多いかね。魔女も魔法と同じで、これだと決めつけるのは難しい。だが、魔女狩りって言葉は習ったかい」
「学校では習ってないですけど、自分で、ネットとかで見ました」
「ああ、そうかい。だったら分かるね。魔女ってな、あんまりいい意味じゃあないんだよ。今でこそ、自分で魔女だって認めるやつはいるんだ。宗教的で、そいつらだって自分たちのことをウィッチとは言わない。ウイッカンとか、別の言葉で呼ぶんだ。『魔女』という言葉にはやっぱり悪いイメージが付きまとうんだろうね」
「悪い、ですか」
「私にはあんたらが正義の味方だとは思えないよ。所詮、魔女は魔女だ。A.D.だの魔法少女だの、呼び方が変わっても中身は変わらないんだからね」
その通りなのかもしれない。しかし、スイカはうちの言を鵜呑みにしたくなかった。今までやってきたことが悪と呼ばれてしまっては、自分も、巻き込まれた者もやるせなさ過ぎる。
「わたしも、わたしのことをヒーローなんかじゃないと思います。けれど、うちさんに……いえ、わたし以外の誰にも違うとは言って欲しくない」
「……へえ、そうかい」
「魔法も魔女も、定義がよく分からないあやふやなものだって言ってたけど。それってさ、自分次第で何にでもなれるってことっていいんじゃないんですか。人を幸せにする魔法があってもいいし、正義の味方になれる魔女がいたっていい。わたしは、そう思います」
そうでも思わねば、この先を戦い抜くことは難しくなる。中枢で力を扱うには確固とした想像力が不可欠であり、思いの強さが戦闘能力に直結するのだ。否定されて、折れて、砕かれて、弱まった心では戦えない。スイカはそう直感していた。
「それから、これは最初に聞くべきだったと思うんですけど、うちさんも李ちゃんも、何を知っているんですか。わたし、こんな話を聞いてくれる人を……その、まともだとは思えないんです」
うちと李は顔を見合わせ、うちだけがくつくつと笑い始める。
「ま、察しはついてると思うけど。スイカとか言ったかい。あんた、擦れてるね。何かを信じたいんなら、何もかもを疑わしそうに見る癖は治しときな。歳を食えば、どうにもならなくなっちまうからね」
「おばあちゃん、言うの?」
「ああ」頷き、うちはスイカたちを見回した。
「……孫はどうなるか知らないが、私は魔女だよ。中枢なんて場所は知らないけど、私は間違いなく貫木に根を張る魔女さ。そう思ってくれて構わない」
一。十。百。そこからは数えられなかった。目玉の化物を倒し続けていたA.D.たちだったが、貫木市全域に潜む化物の全てを未だ捉えられていない。
彼女らは一部の例外を除き、これまでは複数人で一体の化物と戦っていた。A.D.には力があるが、それでも単独で化物と対峙するのは負担がかかる。数の利を頼みにしてきた彼女らにとって、敵が複数いるというのは初めてであった。
殆どの者が分散して戦っている状況で、宵町のグループは二人一組になって街中を移動し、敵を見つけては打ち斃していく。
福城宵町は蔵加夏と共に貫木の住宅街方面へと向かっていた。建物の屋根から屋根へと飛び移りながら移動していると、下方から光の線が奔る。先に進んでいた宵町は咄嗟にその場から飛び退いた。
「宵町さんっ」
「下に一、他にもいるかもしれないわ」
奇襲めいた一撃だったが、宵町は焦らなかった。
彼女はA.D.の中でも図抜けた素質を持っている。傷の回復。身体能力の強化。想像と創造。基本的なスキルもそうだが、特に秀でているのは守りに関してだった。
宵町は十字架や傘などを好んで創り出し、得物として扱う。傘は一本きりではない。何本も同時に使うこともある。傘は広がって盾となり、閉じれば槍のように標的へと突き刺さる。彼女は攻防一体となった傘を扱うことで化物と戦い続けてきた。
建造物の外壁に異形が現れる。ぬるりと這い出た目玉は宵町たちの姿を認めるや否や、自分の体よりも太く、大きな光線を放った。
「いらっしゃい」
宵町は前方に何本かの傘を広げる。最初に光線と激突した傘は一瞬で燃えカスになったが、続く二本目、三本目が光の束を受け止めた。彼女はその隙を衝き、新たに傘を生み出して化物を見据える。
十を超える傘が雨霰と発射された。その内の一本が目玉を抉り地面に突き刺さる。だが、息絶える間際に化物は光線を放出していた。宵町の動きが一瞬間だけ止まるもすぐに立て直す。彼女は傘で自分を庇いつつ、別の建物の屋根へと逃れた。
肝が冷えて嫌な汗が額を伝う。宵町は目にかかりそうになった前髪を指で払った。短い悲鳴が聞こえて右肩に衝撃が走る。自分の腕が飛んだ。痛みよりも先に事実を認識し、彼女は失った部位を再構成する。
「蔵加さん、まだ……!」
夏は既に戦闘に入っていた。気付けば目玉に囲まれている。宵町たちの周囲の建造物がねめつけてくる。
宵町は中枢での戦いで、初めて背筋が凍るような思いをした。化物の存在でなく、目玉の放つ光線でもなく、ただ、視線が恐ろしかった。見られるという行為に対して恐怖を覚えたのである。
「おっ、おおぁ……!」
宵町の動きが鈍った。夏は彼女が動揺しているという事実に狼狽えかける。だが、とも頭を振った。
「ボクが、ボクがっ!」
「ああァ。そうだぜ、ナツぅ」
夏の使魔である、ヤモリのような姿をしたセンク・ビマワシハネ・プーキーがにやりと笑う。
「おめえがやるんだ。だーいじょうぶ、へーきだって。やれる、やれるとも。おめえならこいつら全部ぶち殺せる」
頷き、夏が虚空を睨む。そのすぐ後、地面が揺れて、割れた。彼女の前方にいた目玉の下から、巨大な、赤黒い泥のようなものを被った突起物が地鳴りと共に現れる。それは二つの目を見開き、大きく顎を開ける。正体は人の頭であった。
夏は広げていた掌をきつく握り締める。彼女の動作に呼応するかのように、ぱくりと、泥人間は目玉を喰らった。呑み込んだと同時、夏の呼び出した、頭だけの泥の塊が口を閉じる。
他の化物から掃射された光線は、新たに呼び出した泥人形が受け止めた。四散する泥土が夏の視界の端で跳ねる。彼女は両手を合わせて地面を蹴った。
「いただきます!」
それが合図だった。目玉を口の中に収めていた泥人形が地面の中に掻き消える。次いで、別の目玉の下に出現した。夏の呼ぶ人形にとっては天地など関係ない。壁面や、時には中空からも現れる。
「いいぜぇぇぇぇぇ、ナツゥゥ! もっと喰え、もっと殺せェ!」
夏は攻撃を避ける為に動き回って駆け回る。建物を盾にしつつ、目に入った化物を泥人形に喰わせる。また、自らも拳にはめたナックルダスターで目玉を殴り壊した。拳の届かない範囲の敵には長いステッキで対応していく。
「プーキー、次は!」
「真っ正面だ!」
肩に乗った小さな使い魔のプーキーは、口は悪いが指示は的確であり、夏のもう一つの目となってくれていた。彼女はプーキーを信用している。少なくとも、中枢では宵町の次に信じられる仲間であった。
「二匹いやがんぞ!」
左右には背の高い建物があり、逃げ場はない。夏は真っ直ぐ、姿勢を低くして駆けた。ぐんぐんとスピードを上げて、光線が発射されるよりも早く標的の下へと辿り着く。追い抜きざま、ステッキで目玉を叩き壊した。
「まだだァ、まだまだいやがんぞォ……!」
「ぎ!? あっ、あがぁ……!」
夏がおとがいを反らして叫ぶ。目玉は彼女の足元に隠れていた。意識の外からの攻撃は躱せず、夏の右足が焼け落ちる。刺されたような痛みが全身を駆けずり回り、彼女の意識が飛びかけた。
「まだ足一本だろうが根性見せろやナツゥ! それともおめえここで死にてえのかよアアアァァ!?」
プーキーの声に反応し、夏は足を修復しながら後方へと片足で跳躍する。光線が追いかけてきたが、泥人形を呼び出すことで何とか防いだ。
「どこにっ、いるの!?」
「あのバカでけえ建物だよ! やれナツ、全部喰らっちまえ!」
視界が塞がれている。夏は気力を振り絞って、今までで一番大きな泥人形を呼び出した。
頭部だけのそれは建物の上空から現れて、そのまま口を開いて降下する。建造物に張り付いていた化物が呑み込まれていった。泥人形がモノを含み、噛み砕き、飲み込みを終えるまで十秒弱。
「安心すんなや、後ろっからもだ! いつもみてえにそのまま掴め!」
息を吐く間もない。夏はプーキーの指示に従い、後ろを見ないままで泥人形を呼び出した。振り向きざま、拳を握って標的を呑み込む。瞬間、彼女の顔色が変わった。
泥人形の口から何かがはみ出している。夏はそれを、人間の足だと悟った。彼女は声を迸らせる。待って。止めて。しかし人形はいつものように獲物を食ったまま、地面の中へと引っ込んでいった。
「あ、あれ?」
「おー、やったじゃねえかナツ。ここいらの目玉どもはあらかた片付いたぜえ」
「……え? 今、ボク……」
プーキーは鼻で笑った。何がおかしいのか、夏には少しも理解出来なかった。
「いただきますって言ったじゃねえか。急に出てきやがって逃げ遅れる方がワリィのさ」
彼の言葉が答えであった。
他人を守るはずの自分が、守るはずの者を自らの手で捻り潰して、人形に食い殺させた。夏はステッキを取り落して声を荒らげた。
絶叫が響いていた。しかし、今の宵町には夏を助けてやれるほどの余裕がない。
殆どの敵は夏が始末したらしいが、新たな目玉が出現していたのである。宵町は傘を創造し続けていた。
傘は剣に、盾に、槍に。役割を変えながら化物を殺す。宵町は散発的な攻撃を回避していたが、焦りはあった。……まず、いつまで戦えばいいのかが分からないのである。目玉が無限に出てくるのならどうしようもない。もう一つは夏のことだ。彼女に何があったのかは分からないが、遠目で見る限りまともには戦えない様子である。
自分の身を守りつつ夏を庇わなくてはならない。苦しい状況だが、彼女を見捨てるつもりはなかった。
「キャロル、指示を」
宵町の声に応えたかのように、彼女の足元の空間が歪む。そこから、いつの間にか現れた黒猫が顔を洗っているのが見えた。この黒猫こそ宵町の使い魔、キャロルである。
宵町はキャロルを――――使い魔という存在を好ましく思っていない。だから彼女は、自分が呼ぶまでは決して姿を見せるなとキャロルに言いつけていたのだ。
「私を呼ぶなんて。随分と困ってるのね、ヨイマチ」
「多少はね」
言いつつ、宵町は十字架型のステッキで目玉を殴りつける。背後に気配を感じると、其方に掌をかざした。淡い光が塊になって標的にぶつかる。弾けたエネルギーが化物の存在を消失させた。
「上に二匹。傘を投げて」
キャロルの指示通りに傘を何本も飛ばす。その内の一本の石突き部分が目玉を貫通して彼方へと飛び去って行った。
「右に逃げて。左に何匹かで固まってる」
宵町は中空へと跳躍し、傘を生み出して足場にする。その上から光線が通り過ぎていくのを認めて十字架を投げつけた。回転の加わった投擲物が、ボーリングのピンを倒すようにして化物を弾き飛ばす。彼女が右手を掲げると、明後日の方へ飛んだはずの十字架が戻ってきた。
「……別に私がいなくても、どうにかなったんじゃないの?」
「目が」
キャロルは目を細めて宵町の顔を見上げる。
「目が怖いのよ、私」
「……そう」
それだけ言って、キャロルは宵町の足に自らの顔をこすりつけた。
「甘えたいのね、ヨイマチは」
「だからあなたたちって嫌いよ。私たちの何もかもを見透かしたような顔をしているんだもの」
「だって、一心同体ですもの。言ったじゃない」
にい、と、キャロルが嗤う。宵町は薄い笑みを浮かべて、下方に向けて傘を放った。その傘が光の中に溶け消える。化物に迎撃されたことに気づき、宵町が体勢を崩しながらで飛び退いた。
「数、増えてるわ」
まずい。そう思った時には遅かった。咄嗟に身を捩り、周囲に広げた傘を展開させたが悉くを光線に焼かれる。貫通した光線を受け、宵町自身の胴体にも大きな穴が空いていた。血を流しながらも回復に努めようとする。しかし、傷の治癒と傘の生成、目玉への反撃を同時に行えるほどの精神力は残っていなかった。
心の強さが中枢では力になる。そのことを宵町もよく知っていたが、長く、先の見えない戦いのせいで弱気になっていた。
「ヨイマチ、半端な真似はやめなさい!」
キャロルの怒号じみた指示も宵町の耳には入らない。乱れた意識が何本かの傘を生み出す。今度は彼女の右腕が飛んだ。持っていた十字架を取り落とす。鈍い音を聞きながら、
「まずは身を守るの! でないとあなた……!」
天を仰ぐ。
中空には何体もの目玉が海月のように漂っていた。それら全てが光を放つ。束になった一筋の線が空を切り裂いた。
直撃を受けた宵町は悲鳴を上げる。アスファルトに叩き落されたかと思いきや、自分が、先ほど手放した十字架の上に乗っていることに気づいた。すぐに逃げようとして起き上がろうとする。彼女の目が捉えた。自分というものがどこにもなかったということを。正確には、彼女の首から下が全てなくなっていたのである。
キャロルの姿もない。共に光線で焼かれたのか、いつものように逃げたのかは判然としない。宵町は気力を振り絞って肉体の回復に努めた。自分を見下ろす目玉が嫌で、怖くて、目を瞑る。
「…………っ」
助けを求めようとして口を動かしたが、声が出なかった。そして、この世界で誰かの手を借りようとした時点で、自分がどうしようもない状況に陥っているのだと悟る。
A.D.は不死身ではない。折れて力を使えなくなった者、心が乱れてまともに戦えなくなった者から死んでいく。傷ついた肉体は治り、失った部位は元通りになるが、
――――ママ、ママ、たすけて! おねがい! 私、もう……!
治すべき部位や、治そうとする意識がなければどうにもならない。
目玉の集中砲火を受けて、福城宵町の肉体は中枢から跡形もなく消え失せた。彼女の声も思いも、どこにも届くことはなかった。
自分を魔女だと言ったうちはスイカたちの反応を待っているようなそぶりを見せた。
「あんたも思っただろうけど、さすがに私だって自分のことを、心の広い、仏みたいな人間だとは思っちゃいないよ。普通なら見ず知らずのやつを家に上げやしないさ」
「ん? 別に私は、ウチと知り合いじゃないぞ。何故、私を拾ってくれたんだ」
「私には、と言うよりも洲桃野には古い知り合いがいてね。そいつはたぶん、男だとは思うが、何歳なのかもどこで生まれたのかも、名前さえも分からない。ただ、この店にもふらりと現れて、すぐに帰る時もあれば、何日も泊まっていくことだってあった」
「……知り合い、なんですよね?」
うちは小さく頷く。
「そのはずさ。この店は何十年も前に私がやり始めたけど、そいつはその時からここに顔を見せてた。洲桃野家の遠縁だとか言ってね。普通なら胡散臭くて追い返すところだけど、どうしてだか、不思議とそんな気にはなれなくてね」
「何十年もっつったら、今はそいつもヨボヨボのジジイか」
「……いや、あまり、顔は覚えちゃいないんだ。けど、歳を取ってるような感じはしなかったね。そいつと話していると、ふと、ああ、自分だけが老いてるんだなって、そんなことを思っちまうことだってあったからさ」
李はうちの肩を指で突いた。
「ああ、話は長くならないよ。その、私の知り合いはね、ここに来るたびにくだらないことを聞かせてくれたもんだ。自分で書いたらしい本だって幾つも置いていった」
あ、と、スイカは察した。
「そいつこそ、魔法使いってやつなんだろうね。私が魔女だの魔法だのに詳しくなったのは、そいつの話を飽きるくらいに聞いてたからさ。そいつは魔ってつくことには敏感で、あちこちを飛び回ってるみたいだった。そいつが十年くらい前だったか、スペインに行ったって聞いたことがある」
「スペインのどこだ。うちの知り合いは、なんという街に行った」
「どうだったか。けど、そいつの話を聞いてたからだろうね。貫木と似たような街だとか、面白い女と会ったとか……だからオリヴィア、スペインからわざわざこんなところまでやってきたあんたのことを捨て置く気が起きなかったのさ。これも縁ってやつだと、そう思ってね」
そいつだ。
自分たちをこんな目に遭わせているのは、そいつだ。
スイカは感情に飽かせて叫びたかったが、怒りを押し留める。現状、中枢のことを知っているのはうちの知り合いだけなのだ。
「……あの、本には何も書いていなかったんですか。中枢や、A.D.のこと」
「本にはあんたらの言うようなことは何も書いてなかったよ。けど、いつだったか、そんな言葉を口にしていたこともあったね。はっきりとは覚えちゃいないが、中枢……だったはずさ。A.D.の方は、もっと長いような気もしたけどねえ」
「そいつの連絡先とかは知らねえのかよバアサン。なあ、その魔法使いみたいなジジイを吐かせりゃあ全部何とかなるって話じゃねえかよ」
うちは緩々とした動作で首を振る。
「悪いけど、向こうから勝手にやって来るだけだからね。そもそも携帯電話すら持っていないかもしれないよ。今も生きてるのか死んでるのか、はっきりしないやつさ」
「だったら誰なんだよそいつはよう! 結局さあ、訳わかんねーことばっかじゃねえかよ、ぜんっぜんわっかんねえ!」
うぎゃあとか意味の為さない言葉を喚きながら、美祈は畳の上をごろごろと転がった。はあ、と、李は溜め息を吐く。
「おばあちゃんを魔女にしちゃったのは、その人なんです。私はまだ会ったことのない人なんですけど」
「あ、だからさっき、普通の人が力を使えるようになるとか……」
「生まれた瞬間から魔女と呼ばれるような人間なんていないんだ。誰かや何かに影響を受けちまって、そこで初めて魔道に入る」
「連絡先も居場所も分からないんですよね。今、生きているかどうかも」
「ああ。だけど、少し勘違いしていないかい、あんたら。私は何も、そいつが中枢だの化物だの、あんたらを陥れたとは思っていないんだがね。ただ、そういったことに興味があって知っていただけだろうさ」
その時、スイカは、オリヴィアがずっとうちの目を見ていたということに気づいた。彼女は人の話をあまり聞いていない。人の目を見て、その人物が真実を口にしているのかどうかを確かめているらしかった。
「ウチは魔女なのか?」
「ああ、そう思ってくれていいよ」
「では、魔法を見せて欲しい」
オリヴィアの言葉に、うちではなく李が困ったような顔を浮かべた。
「確かにウチは色々なことを知っている。しかし、魔法を知っている者が魔法を使えるとは限らない。魔女だと証明して欲しい。そうすることで、私もスイカたちのことを少しは信じられる」
「悪いけど、私は火の玉を掌から出したりするような分かりやすいものは使えないよ。薬なら作れるけど、専門は呪術だからね。いわゆるおまじないってやつさ」
「おまじない……では、私の母のことを何も知らないのか?」
「ああ、私はね」
「私の街でも、カンノキと同じようなことが起こった。そう考えてもいいのか?」
「私に聞かれてもねえ。ただ、そうだね。魔法や魔術を本気で信じてる連中も世界にはいるだろうさ。隠秘学結社なんてのもあるし、案外、そういった連中の仕業かもしれないよ」
スイカはそれは違うと内心で否定した。魔法を本気で信じている者がいたとして、この世界に魔法を使える者がいるとは思えなかった。人間や、街一つを好き勝手に出来る大掛かりなことなど、世界中の誰にだって不可能だろう。
「他人事みたいな言い方だけど、この街も、オリヴィア、あんたの街も選ばれたのかもしれないね」
「選ばれたって、誰に」
「そりゃあ、もちろん――――」
神などいない。
こちらに手を差し伸べるものもいない。救ってくれとも思わない。来光雫は、いるかどうかも分からないものに頼るほど愚かではなかった。自分をこんな目に遭わせたモノはどこかにいるかも知れないが、責任の所在を強く求めなかった。
ただ、射る。
駆けながら矢を番えて、放つ。
本来、その動作に意味はない。中枢で飛び道具を放つのに射法八節は必要ない。思い、念じるだけで力は飛び出す。雫が現実と同様に得物を構えているのは、染みついた習慣によるものであった。また、現実と同じように弓を放つことで自分自身を見失わずに済んでいた。
人の姿をしていないとはいえ、人間を襲う化物とはいえど命がある。それを奪えば心は多少なりとも傷ついていく。あるいは、慣れていく。血に慣れれば次は酔う。闘争によって心の均衡を保つことに繋がっていく。
雫は変わることを恐れていた。自分だけではない。周りの環境や他者の心でさえも変わって欲しくないと怯えていた。彼女は恐れるが故に鋭敏である。長い耳は敵の動きを音で捉える。
味方の動きでさえも聞き逃さない。共闘している石毛瑠子は少し遅れて雫の後ろについている。彼女はいつだってそうだ。瑠子は引っ込み思案で、戦いにおいても後手に回りやすい。積極的に打って出ようという気概は見当たらず、誰かの後ろで身を震わせているのが殆どだった。
ただ、瑠子には他のA.D.にはない力がある。
「……っ、クロちゃん!」
雫の撃ち漏らした目玉が光線を放った。攻撃を仕掛けた彼女ではなく、瑠子を狙った一撃は、確かに胸元を抉ったように見えた。だが、瑠子は少し身を固くしただけで怪我一つ負っていない。それどころか受けた光をそのまま目玉に返してしまう。一直線に伸びた光の筋が化物を呑み込んで消失した。
「すまない、矢が逸れてしまった」
「あ、あの、平気ですから」
瑠子は微笑む時ですら遠慮がちになる。……彼女の性質はともかく、能力は本物だなと、雫は思った。
A.D.には固有の力がある。基本的なスキルは皆に備わっているが、特定の人物にしか使えないものもあった。石毛瑠子の能力はその最たるものであり、一言で言い表すなら反射だ。相手の攻撃を受け止めて返す。先の目玉の光線然り、物理的な攻撃ですら跳ね返してしまう。この能力があるからこそ、気の弱い瑠子が今まで生き延びられたのだろう。雫はそう考えていた。
「先へ行こう。まだ戦いは終わっていないらしい」
雫は口笛を吹き、使い魔(雫らはマスコットと呼んでいる)の烏を先に行かせた。偵察能力に優れた彼女の使い魔、トレッチ・サ・スペンダースは敵を見つけるとその場で旋回して合図する。
「より取り見取りというやつだね」
雫は矢筒を持たない。弓はあるが、矢は自らの意志で生成するからだ。彼女は新たな敵の姿を認めると地面を蹴って距離を稼ぐ。中空に留まった状態での不自然な体勢から放たれる矢は、狙いを違わず目玉の中心を射抜いた。
使い魔のトレッチは旋回を続けて鳴いている。まだ敵がどこかに潜んでいるらしい。
「私が行きます」
駆け出した瑠子だが、向こう見ずな疾走ではない。反射の能力を活かして囮となるつもりらしかった。彼女が曲がり角に差し掛かった瞬間、光線が斜め後ろから発射される。瑠子はやはりそれを受け止めるも、目玉に返すことは叶わなかった。
だが、目玉の位置は割り出されている。雫は電信柱を狙って弓を引く。黄金色の矢が柱を貫通し、その裏にいた化物が体液を噴きながら動かなくなった。
目玉の数は多いが、一匹ずつ確実に仕留めれば問題のない相手である。光線は厄介だが相手は動かない。的に当てることなら雫にとって容易いことであった。
「……やっぱり、すごいですね」
「いや、君の力あったればこそだよ」
戦いの熱を会話で冷ましつつ、雫らは住宅街を抜けて団地へと辿り着く。雫は高い建物を見上げて息を吐き出した。気を入れ直そうとした瞬間、自分たちの上空にいたトレッチが甲高い声を上げる。彼は旋回を始めようとしたが、前方から数え切れぬほどの光線が飛び交い、その小さな体を貫いて灰と変えた。
トレッチが死んだ。雫は感傷に浸るつもりもなく、彼に対して親愛の情を覚えたこともなかったが、何故だか、大切なものを失ったかのように胸が鈍く痛んだ。
雫は意識して気持ちを切り替える。何棟もある団地中に敵がいる。彼女は何本もの矢を弓に番えて即座に射た。標的に当たったかどうかを確認しないまま、雫は遮蔽物に身を隠す。瑠子もその後に続いた。
「これは、さすがの君でも反射し切れそうにないだろうね」
「あ、その、ご、ごめんなさい」
「いや、気にしないで。数は多いけど、一匹ずつ行こう」
「わ、私が盾になります」
「無理はしないでくれよ」
言いつつ、雫は瑠子に期待していた。攻撃を避けながらではろくに狙いがつけられないからだ。相手との距離が開いている以上、飛び道具を扱える雫にしかやれないことである。
無論、瑠子もエネルギーめいたものを投げつけることは出来るだろうが、遠くの標的に命中させるのは難しいだろう。
一度撤退して他のA.D.と合流した方がいいかもしれない。そんなことを考えながら、雫は瑠子に続いて物陰から身を躍らせた。
団地に潜む目玉の駆除は、雫の大方の予想以上に上手く進んでいた。今日は異常に勘が冴えている。狙いをつけず、感覚で射ても当たるのだ。この時、彼女は初めて中枢での戦い方を理解したのかもしれない。
何より瑠子の存在が大きかった。彼女は囮、楯としての役割をきっちりとこなした。常なら誰かの背に隠れるような性質の瑠子だが、この日は雫の前に出て、目玉の光線を丁寧に捌いていく。雫が安心感すら覚えるような戦いであった。一時は空を埋め尽くしていた光の線も数えられる程度まで減り、最後に数匹の化物を残すだけとなった。
雫が機を見て矢を放てば、吸い込まれるようにして目玉に突き刺さる。発射寸前だった光線は拡散して周囲の建造物を巻き込んで焼け焦げた。
先が見えた。終わりが見えた。雫は前方に向けて弓を構える。飛んできた光線を躱して、四つの方向に矢を放った。思いの込められたそれは、各々の獲物に向けて疾走し、目玉の息の根を止める。化物どもの末期の反撃だったのだろう、二筋の光が彼女を襲ったが、雫はそれを難なく避けた。
「……終わったみたいだ」
瞬間、ぴくりと雫の耳が動く。
確かに聞こえた。破裂して炸裂する音の奔流が自分に迫っている。ありえないと心の底から信じかけていた。何故だと、彼女にではなく自分に問う。どうして信じたのか、と。いるかどうかも分からない神に縋るのも、あるかどうかも分からない絆に頼るのも同義である。
雫は、浅慮の代償として支払った、自らに空いた腹を見遣った。どくどくと溢れて止まらない。血が熱くて燃えてしまいそうな思いであった。彼女は傷口に手を当てて、すうと息を吐き出す。
「どうして、私を撃ったんだ」
「…………やっぱり、すごいですね」
「誤射なら、今のうちにそうだと」
振り返ると、瑠子は晴れやかな笑みを浮かべていた。彼女は指を鳴らす。目玉の化物が放っていたような光線が、瑠子の腹から飛び出した。それは触れた瞬間に雫の右腕を消し飛ばす。
雫は一も二もなく後方へと跳躍した。この段階で、彼女にはいくつかの疑問が生じていた。
誤射ではないとはっきりした。ならば何故、石毛瑠子が自分を撃ったのか。また、あの光線は目玉のそれだ。模したという可能性もあるが、彼女の能力は反射の筈だ。
答えを求める前に、雫は怪我の回復を試みる。だが、そうはさせまいと、瑠子が距離を詰めていた。彼女は、今までに見せたことのない速度で接近している。これでは弓を使う暇がない。雫は更に距離を取ろうとした。
「ぐっ……あ?」
跳んでから気づく。後背に、瑠子が作り出したであろう鋼鉄の壁が現れた。雫は背中を強かにぶつけて呻く。
動きの止まった雫に向けて、瑠子が光線を放った。彼女が一発撃つごとに、雫の一部が消し炭になって吹き飛ぶ。傷を負っても彼女は回復を続けていたが、瑠子も攻撃の手を緩めることはなかった。
瑠子は特に表情を変えることはなく、淡々とした様子で攻撃を続けている。雫は反撃、防御、回避……幾つかの手を考えたが、実行に移すことは難しいと判断した。傷を治すこと以外に力を回せば肉片一つ残らなくなるだろう。そうなれば回復どころの話ではない。
「お、オオッ、あ、アッ、アア」
ダメージを喰らうたびに、雫の身体が魚のように跳ねる。その内、足の回復が遅れた。体勢を崩した彼女はその場に倒れ込む。瑠子はすぐさま雫に駆け寄り、耳元で何事かを囁いた。
「私の力は反射なんかじゃあないんですよ」
雫の顔が歪んだ。驚きによるものではない。単純に傷が痛むのだろう。
「傷を治そうとしても無駄です。な、治そうとしたら本当に殺しますから」
「……なんだって?」
瑠子は雫の髪を掴んで馬乗りになる。いつの間にか握っていた短剣で彼女の肩を突いた。そのまま切っ先を乱暴に動かすと、雫が首を振って喚き出す。彼女は無意識的に傷を治した。
「堪え性がないんですね」
何度も刃を突き立てる。返り血に塗れた瑠子の顔に、やはり変化はない。
「い……っ、ア、がっ、ど、どうしてっ、な、なんで」
「あなたは私のことをクロちゃんと呼びます。それは、私が暗い子に見えたからですか? あなたは私をどういう風に見てたんです?」
「な、かまじゃないか……あっ、ひ、こんな場所だけど、いっしょにがんばろうって……!」
瑠子は答えず、雫の耳を切り落とした。瑠子は彼女の髪の毛をぐいと掴み、残った方の耳を舌で舐める。蛇のように長いそれが耳の中を這いずり回った。雫は嫌悪感に身を震わせる。
「ひっ、や、やだっ」
「別にそんな気はないんですけど、なんだか、変な気分になってきますよ」
雫の耳を舐め、甘く噛む。瑠子はそうしながら、彼女を強く抱きしめた。力が強過ぎて彼女の骨が何本か折れていたが、瑠子は何も気にしなかった。
「私たちって何なんでしょうね。傷だって治るし、なくなった腕だってまた生えてくる。中々死ねない身体になって……けど、私はそれじゃあ困るんです。別に死ななくてもいいけど、邪魔だけはして欲しくないんです」
瑠子の持っていた短剣が泡のように弾けて消える。入れ替わるような形で、彼女の手には小ぶりの鋸が収まっていた。
不揃いの刃が雫の柔らかな肉に食い込む。残っていた左腕の関節が少しずつ削ぎ落とされていく。瑠子は雫を抱きしめたままであり、鋸の刃は半端な個所を行ったり来たりしていた。
長引く苦痛を誤魔化す為か、雫は絶叫し続ける。やがて声は枯れ、凛とした響きを持っていた彼女のそれには媚の色が含まれつつあった。
「……わ、わたしが、何をしたというんだ」
鋸を引いていた手が止まる。瑠子は、ぐちゃぐちゃになった雫の傷口を指で摘まんだ。衝撃が全身に行き渡ったらしく、彼女はおとがいを反らして涙を流す。口元は涎塗れで、新鮮な空気を求めて必死に喘いでいた。
「化物を殺しましたね。この世界から、出ようとしましたね」
「あっ、ああっ、当たり前だ。私たちは、みんな」
「一緒くたにしましたね」
「ひいいいいいああああああああああっ!? あっ、お、オオぁ……ああっ」
瑠子は腕力だけで雫の腕をもいだ。失った部位を取り戻そうと、雫の身体が勝手に再生を始める。そのことが気に入らないのか、瑠子は雫の顔面を殴りつけた。彼女のつけているバイザーに阻まれて拳の骨が砕けても尚、瑠子は殴るのをすぐには止めなかった。
瑠子は、自分の望みを叶えるにあたって、来光雫や福城宵町の存在を疎ましく思っていた。A.D.が徒党を組み、効率よく化物を倒しては困るのだ。
「化物を殺せば元の世界に戻るっ、だったら、ああっ、だったら、殺さなければずっとここにいられるってことじゃないですかっ、私はっ、ここが好きなんですっ、ここがいいんです!」
殴りながら声を荒らげる。感極まった瑠子は、雫の上でぶるりと身を震わせた。完全に抵抗する意思を失ったのか、彼女は何事かを呟いた。
「くるっている? そう言ったんですか? 中枢なんて場所も化物も、それと戦う私もあなたたちもみんながみんな狂ってないって言えます? 狂ってて、壊れてるからこそ戦えるんじゃあないんですか。本当は私もあなたも狂ってる。……ねえ、いいじゃないですか、別に」
瑠子は睦言のように甘く囁く。雫は度重なる打擲によって聴覚すらを失いかけていたが、彼女の声は脳髄に伝わり、身体を痺れさせて、蕩かせた。
「ここも、私も、あなたも、狂ってるかもしれない。けど、どうせ戻ってもここでの出来事はだあれも覚えていないんです。だったら夢と変わらない。夢の中なら何をやってもどうだっていい。夢の中だから、何をやったっていい。そして私は夢から絶対に覚めたくないんです」
「……え、てる」
「ふふ、あ、ふふふふふ、いっぱい遊んであげます。あなたでいっぱい試してあげます」
瑠子は今までにも、死に、殺されたA.D.を見てきた。自分たちは心が折れるまでは戦える。A.D.は精神力が残っている限り、決して倒れない。
ならば折るまで。ならば壊すまで。心を砕けば肉体も後を追う。
「死にたくなかったら頑張ってくださいね。でも、それでも死んじゃったら」
ああ、ごめんなさい、と。
瑠子は謝った。口は三日月のように裂けて、歪な笑みで溢れている。雫も彼女の表情を、ひびの入ったバイザー越しに見た。それきり、来光雫が口を利くことはなかった。
うちが中座したあと、残った四人は同じタイミングで息を吐く。重たいそれが場に堆積して硬い空気を作った。
黙り込んでいた四人だったが、オリヴィアが声を潜めて言った。
「うちは何か隠している」
「だろうな」と、美祈が面倒くさそうに口を開き、李を見遣る。彼女は視線をあちこちに彷徨わせたが、逃げ場がないと悟った。
「……ごめんなさい」
謝ったということは認めたということだ。スイカは、うちや李がまだ全てを話していないことに苛立ちを覚える。
「スモモには悪いが、私はウチを締め上げてもいいと思っている」
「脅して話すタマかあ? あのババア、すげえ……あー、でもさ」
美祈は不自然なくらいの、気持ちのいい笑顔を浮かべた。
「李ちゃんさあ、お前を盾にすりゃあ、どうにかなるかもな」
「そういうの、今はやめとこうよ」
「い、今はって。……でも、そんなことされたら私だって、おばあちゃんだって黙ってないと思います。だって、私たちはまだ、皆さんのことを百パーセント信じてるわけじゃありませんから」
お互いさまってやつです。そう言って、李は美祈を見返した。
「別にいいよ。この状況がどうにかなるっていうなら、何を思われても。それにさ、中枢に連れて行かれたら自分から話したくなるかもよ」
スイカは思う。あの世界から、中枢での戦いから解放されるなら、人を殺したって構わないのかもしれない、と。
中枢には行きたくない。あの世界は確実に人を殺すのだ。
出たくない。
戻りたくない。
この世界から帰りたくない。
夢から覚めればまた現実がやってくる。
「ああ、くそ」
瑠子は、動かなくなった来光雫に跨ったまま毒づいた。腹が疼いたのだ。そこには彼女の使い魔がいる。瑠子が『喰ってやったのだ』。だから胃の腑に納まった彼は、主の赦しがなければ出られない。
その使い魔が声を上げている。終わりだと。夢から還れ。目覚まし時計が鳴っているぞ、と。
「よかったですね、来光さん。死なずに済んだみたいですよ」
瑠子は、もぎ取った雫の耳を咥えて、くつくつと笑った。やがてそれだけでは足りなくなったのか、高く、大きな声で狂ったように叫んだ。仮初の貫木で偽物の月光に照らされながら、石毛瑠子は確信した。この世界が魔法で出来ていて不可思議な力が実在するのなら、やはり、それは人を幸せにするものなのだと。