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よそ者の行き先

『オリヴィア、ハポネにはね』

 少女は、死に瀕した母をよく覚えている。彼女の目。声。骨と皮だけになってもぎらついた雰囲気だけは変わらない。窪んだ眼窩には妄執が宿っており、もはや一生忘れることは出来ないだろうと、少女は思っていた。

『ああ、そうなんだよ。ハポネには、カンノキには――――』

 母の遺した言葉だけが頭から抜け落ちていた。十年ぶりに思い出した彼女の声は相変わらず耳障りで、一度甦ってしまえば、カップにこびりついた汚れのようにいつまでも消えなかった。



「聞きたいことがありますが」

 この国に住む多くの人間は外国人に話しかけられた時点で萎縮し、警戒もするだろう。しかし貫木市では外国人観光客は珍しいものではない。道を尋ねたいのだろうと、親切心から話を聞いてやる者は多かった。そのうえで、尋ねてきたのが若い女であるならば警戒心も薄れよう。

「魔女を知っているか、あなたは」

「は」

 尤も、質問自体はまともなものではなかったが。

 まともではないものに、まともな対応をする必要はない。少女は一人で取り残されていたが、別の人物に声を掛け始めた。相手にされることはなかった。

 


 お父さんのところに行くからと、月美はスイカを家に残して出ていった。

 分かったと、スイカは用意してもらった朝食を食べながら、母親を見送った。独りきりになり、焦げ目のついたトーストを齧ると、涙が勝手に零れた。

 


 スイカの父、日章が倒れてから数日が経過していた。月美は見舞いに行くと言って日中は殆ど家にいない。とはいえ、病室に行ったとして彼女に出来ることは少ない。花の水を換えて、意識の戻らない彼に話しかけるくらいのものだ。

 日章は仕事場に着き、車から降りてすぐに頭から地面に倒れ込んだ。病院に運ばれたのち、過労だと診断された。それだけなら休めばいい。大したことはないはずだったが、頭の打ちどころが悪かった。日章は今もベッドの上で眠り続けている。命に別状はないとも言われたが、いつ目覚めるのかは誰にも分からなかった。



「お前さあ」と、美祈はスイカを見遣り、鬱陶しそうに口を開いた。

「寝てねーの?」

 平日の夕方、美祈は学校の授業が終わるとスイカと合流する。正門の前で待ち合わせることもあったが、七月に入って外はとみに暑くなり、前にも訪れた駄菓子屋で会うこともあった。

 今日はスイカが美祈を家に招いた。美祈は気まずいからと嫌がっていたが、家に誰もいないことを知ると、それならばと、不承不承ながらもやってきた。

 美祈は家の中では車椅子を使わない。リハビリという意味もあるだろうが、単純に邪魔だと思っているらしかった。彼女の足も全く動かないというわけではない。むしろ美祈は足が動かないことよりも傷痕の方を気にしている。

「うん、あんまり寝られないんだ」

 断割家のリビングで二人は向かい合うようにして座っていた。最初、美祈はスイカの家が新築で、綺麗なことにばかり目を向けていたが、スイカの顔色が悪いことにもすぐに気づいた。

「まあ、いつ呼ばれるか分からねえもんな。けど、いざって時にやばいんじゃねえの、とも思うけど」

「あのさ、美祈ちゃんはここから出て行こうって思ったことなかった?」

「え? ああ、あるよ。いつもそんなこと考えてる。別に貫木に思い入れとかも、ねーし」

「考えたんだけど、この街から離れたら中枢に呼ばれなくても済むんじゃないかな」

 ああ、と、美祈は思わず呻いた。彼女とてそのことに思い至らなかった訳ではない。ただ、自分の足が問題だった。

「よかったら、今度さ、一緒にどっかへ行こうよ。試してみたいんだ」

「……あたしとかよ? 邪魔くせえぜ、どこへ行くにしてもな」

「一人は嫌なんだ。だって、わたしだけ逃げてるみたいじゃんか」

「逃げたっていいだろ、逃げられるもんならさ。まあ、なんだ。じゃ、夏休みになったら涼しいとこにでも行くか。……おお、そういやさ、お前水族館行ってきたんだっけ? どうだったよ」

 何の気なしに尋ねてみたが、美祈は地雷を踏んだことを悟る。スイカの表情が暗いものになったのだ。

「言おうと思ってたんだ。けど、言うのが怖くて、嫌で、黙ってた。だから今日こそ言おうって、美祈ちゃんをうちに呼んだの」

 美祈にはスイカが何を言うのか察しがついていたが、黙っておくことにした。

「お父さんが、中枢で殺されかけたんだ。今は入院してて、まだ意識が戻らないんだって。……お見舞いに行ったの。でも、わたしは病室に入れなかった。お父さんの顔を見られなかった。だって、わたしがちゃんとしてれば、お父さんは辛い目に遭わなくて済んだんだよ?」

 だろうな、と、美祈は内心で思った。彼女はスイカを慰めようとは考えなかった。ただ、そうか、と、一言だけ告げた。

「思ったの。わたしって、ただちょっと、運が良かっただけなんだなって。本当はもっと早くにお父さんやお母さんが巻き込まれたっておかしくなかった。ううん、たぶん、きっともう巻き込まれてる。死ななくて、殺されずに済んでただけなんだよ」

「だったら、どうするよ? どうしたい?」

 美祈はスイカの目を見て、彼女が既に何をするのか決めているのだと知った。

「初めて中枢に呼ばれてから、戦って、生き残ればいいって思ってた。でも駄目なんだ。いつ終わるのか分からないなら、わたしたちは死ぬまで戦わなきゃいけないかもしれないってことだよ。解放してもらえる保証なんてないんだ」

 美祈は小さく頷き、話の続きを促した。

「上手に戦うことも大事かもしれないけど、あの世界のことをもっと知る方が大事なんだよ。それに、呼ばれなければ戦わなくても済むでしょ。中枢での戦いをゲームとは言わないけど、ルールを知らなきゃ駄目なんだ。……戦いだって、わたしはもうみんなと協力するつもりはなくなっちゃった。自分たちが痛い思いをしないように時間をかけてたら、巻き込まれて死んじゃう人も増えるよ、きっと。わたし、一人でもやるから」

 だから。そう付け足して、スイカは美祈を見据えた。

「選んで。美祈ちゃんがそういうの嫌だなって思うなら、今のうちにわたしから離れた方が……はいだだだだだだっ!?」

 美祈はテーブルに身を乗り出して、スイカの頬を抓る。

「ブッサイクだなあ、お前」

 スイカから手を放すと、美祈は元の位置に戻ってげらげらと笑った。

「友達でいて欲しくて、優しくして欲しいんだろ? あたしもだよ。寂しいこと言うんじゃねえって」

「どうして? わたしと一緒にやったって、辛い目に遭うだけかもしれないよ」

「誰と一緒にいたってよう、無茶苦茶なことさせられんのは変わらねえんだ。誰に後ろから刺されるか分からねーんだったら、お前にやられんのが一番マシだからな」

 スイカはふて腐れたような顔で美祈を見ている。

「そんなことしないし、わたし」

「ま、何にせよルールってのはあたしも知りてーからな。けど、手がかりなんかどこにもないだろ」

「ううん、たぶん、あいつが知ってる。だからそれまでは、わたし……」



 月美が家に帰ってきて、スイカが眠っているかどうかを確かめる。

 そののち、スイカはそっとベッドから降りて、家じゅうが静まり返り、灯りが落ちたのを見計らって外へ出る。

 時刻は午後の十一時過ぎ。……美祈には反対されたが、それでも、スイカはじっとしていられなかった。どうせ家ではまともに眠られず、いつ中枢に呼び出されるか分からない状況で父親を一人にすることに対し、強い不安を抱いていたのである。もちろん母親のことも気になってはいたが、秤にかければ動けない方を守るのが妥当だと判断した。

 夜の街に姿を溶かすのは、スイカにとって刺激的な体験であった。幼い心は反社会的な行為に昂ってもいたが、スイカはどこか冷めた目で自分を見下ろしてもいる。

 自分は家にいたくなかったのかもしれない。父親が心配だからと自分を誤魔化して逃げたのだ、と。

 月美は中枢のことを何も知らない。父親は、本当に過労で頭を打ったのだと信じている。スイカは、自分がもっとしっかりしていればよかったのにと罪悪感と後悔に心を苛まれていた。だから、何も知らない母の顔を見るのが辛かった。笑顔を向けられても上手く応えられなくなっている。

 これは逃げだ。前進的な行為ではない。自分が情けなくて、スイカはその場で立ち止まる。……彼女はここ数日で、駆除が行われたであろう場所を見てきた。戦いの爪痕が残る場所には近づきたくなかった。犠牲者のことを嫌でも考えさせられてしまうからだ。しかし、中枢のことを何か掴めればという思いで手がかりを探した。貫木小学校の通学路、病院、公園、河原。どこも人が寄りつかなくなっていた。

 シィドは以前、中枢で『中心地』という言葉を口にしていた。スイカは、化物が現れた地点のことを指すのだろうと予想している。現実での中心地からは人が減った。学校は未だ休校が解けず、件の、父親の日章が入院している病院もベッドの空きが目立つようになったと聞く。

 益になるような手がかりは見つからなかったが、共通点は見出せた。それは空気である。中心地と思しき場所は全て、中枢と似たような雰囲気があった。よく注意していなければ気づけなかったために、最初は気のせいだと思っていた。しかし泥に浸かっているような気持ちの悪さだけは間違えようがない。人が寄りつかないのは、人が死んだ場所だからという理由だけではないのだろう。中枢の残り香のようなものが人を寄せ付けないのかもしれなかった。



 日付が変わる頃、スイカは駅前の縁石に座り込んでいた。終電間際という時間もあってか、人の流れは活発な動きを見せている。彼女は、この中に何人のA.D.がいるのだろうと考えた。自分と同じ思いを抱えている者の存在を欲した。

 だが、このままここにいても心細くて寂しくなるだけだ。うろうろしていると警察官に補導されかねない。あるいは、悪意ある人間に近づかれるかもしれない。現実でのスイカはただの小学生で、まるきり無力である。中枢では化物を単独で打倒可能だが、こちらの世界では人間に殴りかかることすら難しい。

 月美に気づかれる前に家に戻るのが一番だろうが、家での居心地が悪くなってきたのを感じる。それは自分の心の問題なのだ。……夜の街を出歩いても仕方がない。父親を守るなら、中枢に呼ばれた時点で全速力で向かえばいいだけのことである。家にいれば家族の安全を確認出来た段階で動けるのだ。美祈はそのことを察して反対していた。つまり、逃げるなと言いたかったのだろう。スイカは心の中で彼女に対して毒づいた。

「………………!」

 向こうから大きな声が聞こえてくる。女性のそれの後、連鎖するかのように他の人間の声も聞こえてきた。

 ホームに目を遣ると、妙な位置で電車が停止しているのが見えた。誰かが飛び込んだのだとすぐに分かり、スイカはじっと目を凝らす。一人が死んだだけなら『ただの』自殺かもしれないが、中枢の駆除による影響かもしれない。もしそうなら、この近くでもっと多くの人が死ぬ。注意深く周辺を見回していると、肩を叩かれて振り向いた。

 そこに立っていたのは黒髪の少女であった。ショートパンツに明るい色のブラウスを合わせていて、露出度は高めだ。肌は少し浅黒い。顔立ちは日本人離れしており……否、スイカはそこで少女が外国人なのだと気づいた。少女はウェーブのかかった長めの黒髪に金のメッシュを入れている。スイカと少女は同じ背丈だが、少女の目つきは幼い顔には似つかわしくなく、酷く険しい。

 スイカは日本語しか話せない。困って愛想笑いを浮かべる。道を尋ねられているのかとも思ったが、少女は探るような目でじっとスイカを見据え続けていた。

「あ、あのー?」

「魔女を知っているか、あなたは」

 貼りつけた愛想笑いが掻き消える。スイカの凍った顔を認めると、少女はスイカに詰め寄った。

「何か知ってますか、あなた」

 宗教の勧誘にしては熱が入っているように思えて、そして何よりも魔女という聞き逃せない単語があった。

「顔と目が知ってると言っている」

 スイカも手掛かりを探していた。藁にも縋る気持ちはあったが、それにしてもこの少女は怪し過ぎる。急いでいるからと言って、スイカは背を向けて逃げようとした。しかし少女が回り込んで道を塞ごうとする。

「目が違う。あなた、少し普通ではない。私には分かる」

「……何が」

「魔女のこと知ってる。教えて欲しい。私は、その為に日本へ来たのだから」

 少女を無視して家に戻ろうと思っていたが、本当のことを、真実を知りたいという気持ちはよく理解出来た。スイカは近くの縁石に腰を下ろして彼女を見上げる。まっすぐに見返されていた。熱のこもった視線を受けて、少しどきりとする。

「魔女って言うと少し違うかもしれないし、信じてくれないかもしれないけど、わたしの知ってることでよかったら教えるよ」

「構わない」と言って、少女はスイカの前に片膝をつく。

 距離が近い。スイカはそう思った。



 少女はオリヴィア・エウラリア・ゴメス=アロンソと名乗った。スイカは一度で覚えられそうになかったが、辛うじてオリヴィアという部分だけは聞き取れた。

 オリヴィアはスペインから日本に来たらしい。この街に来るまでに日本語をある程度勉強していたようで、たどたどしいところもあるが、ゆっくりと話してやればヒアリングも出来ている様子であった。遠路はるばる大変なことだと、スイカは本心からそう思う。

 スイカが何から話したものかと悩んでいると、オリヴィアは自分から口を開く。

「この街、ヘン。よく人が死んでいるみたいだけど、短期間で死に過ぎている気がする。事故もいっぱいだ。学校。病院。教会。色々な場所を見た。土地も死んでいた」

 土地が死ぬ。なるほど言いえて妙だった。スイカは、自分と少女が似たようなことを考えていたのだと知る。

「オリヴィアちゃんもわたしと同じことをしてたんだね。でもさ、どうしてここに来たの? 日本って言っても色々とあるじゃんか」

「……『カンノキには魔女がいる』」

「え?」

 オリヴィアは立ち上がって、周囲を見回す。

「母が遺した言葉。私がもっと小さい時、そう言って母は死んだ。最近になって思い出して、どうしようもなく気になってきた。だから私は貫木へ来た」

 駆除は以前にも、貫木ではないどこかで行われていた。時期こそ不明だが、オリヴィアの故郷でも、今と同じようなことがあったのかもしれない。

「父が言うには、母はある日本人ハポネスと出会い、少し頭がおかしくなったそうだ。私はその人のせいだけではないと思っているが」

「じゃあ、その日本人が魔女なの?」

「私はそう思っている」

 ふと、スイカはある疑問に思い至った。何故、この街で駆除が始まったのか、という根本的な問題である。駆除自体は貫木以外でも行われているとシィドは言っていた。何か意味が、理由があるのかもしれない。

「それじゃあ、次はわたしが話すね」

 そう言って、スイカは自分の身に起こったこと。中枢と呼ばれる場所のこと。そこに現れる化物や自分たちA.D.のことなど、知っている限りのことを説明した。話を聞き終わったオリヴィアは鼻で笑った。

「スイカはうそつきだ。そんなこと、あるはずがない。日本人はアニメの見過ぎだ」

「今の話は信じないで、魔女は信じるの?」

「魔女は実在したし、今も存在している。魔女は、要は異端者だ。この世界に人間はいる。魔女もいる。けど、スイカの話したような怪物モーンストゥルオはいない」

「そだね。この世界にはいないよ、化物なんて」

 含みのある言い方にむっとしたのか、オリヴィアは眉を吊り上げる。

「証拠もないのに信じられるはずがない。私とスイカは会ったばかりだ。出会ってすぐの人間を信じられるわけがない。……ああ、そうだ。携帯電話は繋がらなかったとあなたは言った」

 スイカは小さく頷いた。初めて中枢に呼ばれた時に、ディスプレイに圏外と表示されていたのを覚えている。それからは外部との連絡手段にはなりえないと断じ、携帯電話の存在を忘れかけていた。

「写真は撮れないのか?」

「あ、う、ううん、たぶん、大丈夫なんじゃないかな。試してないから分かんないけど」

「試していない? ……っ」

 オリヴィアが聞き慣れない言葉を発した。スイカは汚い言葉を吐かれているのだろうと察してうんざりする。

「でも、そっか、写真か。うん、化物を撮ってきて見せれば、こっちでも分かってくれる人が」

「合成かもしれない。私ならそう思うが」

「水を差さないでよ」

「それから、中枢という場所のことをもっとよく見ておくべきだ。スイカは頭が悪いから、私の言うことは聞くべきだ」

 言い返そうとして咄嗟に口を開きかけたが、すんでのところで堪えた。スイカとて、自分が常に最善の行動をしているとは思っていないのである。

 しかし、と。スイカは改めてオリヴィアの姿を見遣る。彼女はまだ若い。同年代の少女が、母親の遺した言葉一つで海を越えられるものだろうか。それも、オリヴィアの母親が亡くなって何年も後になってからだ。

 オリヴィアはあまり表情を変えない。声も大人びていて、雰囲気もクールである。が、実際は行動的なのだろう。歯に衣着せぬ物言いといい、存外考えなしなのかもしれなかった。


 ――――衝動に駆られた、とか? でも、もっと前じゃなくて、あと何年後かじゃなくて、どうして『今』なんだろう。


 貫木で駆除が始まったから、人が集まってくるのではないか。この街に、常に人が流れてくるのは、減ったものを補充する為ではないのか。そんなことをスイカはぼんやりと考えていた。

「ねえ、オリヴィアちゃんはどうしたいの」

「私は本当のことを知りたい。母がどうして変わったのか。それだけを知りたい」

「ホントのことを……」

 オリヴィアと言う少女が何者なのか、スイカはまだ決めかねている。ただ、彼女の想いだけは真摯で、だからこそ伝わった。

「わたしも色々と探してたけど、手がかりはなかったんだ。けど、まだ探してない場所がある。心当たりはもう、今のところそこだけなんだけど」

「連れて行って」

「うあっ?」

 ずいとオリヴィアが詰め寄ってくる。スイカは後ろへ引こうとした。しかしオリヴィアは彼女の腰に手を回して、無理矢理に抱き寄せる。

「連れて行って欲しい」

「ち、近……ああ、もう、分かったよ。最初からそのつもりだったし」

「Gracias!」

 頬に口づけされて、スイカは短い悲鳴を上げた。



 翌日、月美に用意してもらった簡単な昼食を済ませた後、スイカはオリヴィアとの待ち合わせ場所である、彼女の宿泊しているホテルの前へと向かうことにした。

 家を出ると、門扉の前には車椅子の少女、不二美祈が待ち構えていた。スイカは彼女がいることには驚かなかった。昨夜、美祈にはオリヴィアと出会ったことを電話で報告していたからである。その時に待ち合わせ時間も伝えていた。彼女はタイミングを計ってきたのだろう。

「おせーじゃねーか、結構待ったぞ」

「あー、ごめん。一緒に来てくれるんなら、昨日の内に言ってくれたらよかったのに。学校は休みなの?」

「いんや、サボり」

 美祈は意地の悪い笑みを浮かべた。

「それよりさあ、キスされたんだって? いやー、外人ってやっぱそういうことすんだなあ。で、相手は? かっこよかった? ゴメスとかなんとかってやつなんだろ?」

「……ああ、うん。美祈ちゃん、全然話を聞いてなかったでしょ。男の子じゃないよ。女の子だって」

「えーーーー、つまんねーのー。じゃあもうあたし帰ろっかなー」

「キスくらいでテンション上がってるの? ふーん。そんなの、あんまり珍しいことじゃないのに」

「お前だってどうのこうの言ってたじゃねえか」

「や、だって女の子にされるのは初めてだったし」

「じゃあ男にはされたことあんのか?」

 美祈はスイカの服の袖を引っ張って立ち止まらせる。二人の視線が交錯した。

「教えて欲しい?」

「焦らすなや言えよ」

「あー、その顔は美祈ちゃん、ないんだなー。あー、そうなんだー」

 スイカは美祈の手をゆっくりと、わざとらしいほど優しく解いて歩き出した。



 オリヴィアの泊まっているビジネスホテルは駅の近くにある。スイカの家からは貫木小学校よりも少し遠いくらいで、徒歩でも二十分あれば着く距離だ。

「なー、言えよー。言えってばー」

「しつこいなあ」

 じりじりとした日差しの下、スイカは美祈を適当にあしらいつつ、信号が青に変わるのを待っていた。

 今日も空は抜けるように青く、太陽もずっとぎらついている。スイカはうなじに手を当てて、暑さに耐えかねたように舌を伸ばした。その時、身体に纏わりついていた温い空気が変質したのを感じる。彼女がハッとして振り向くと、美祈もまたスイカと同種の感覚を覚えていたらしく、嫌そうな顔をして『立ち上がった』。

「こっちに来るとよう、車椅子がどっかに消えちまうんだ。勝手な話だよなあ、マジでさあ」

「……中枢に、呼ばれちゃった……」

 空の色も変わらず、信号も赤のまま動かない。しかし世界は確かに変わったのだ。ここは既に先とは違う場所である。

 スイカは少しの間だけ茫然としていたが、変身して中空に舞い上がった。程なくして彼女の視界に蜘蛛の姿が映り込む。

「化物はどこに出たの?」

 垂れた糸にぶら下がったシィドは駅前を指差した。

「化物はホテル街だ。君たち以外のA.D.も何名か確認した」

「よっしゃ、決まりだな」

「うん。美祈ちゃん、ちょっとだけ化物をどうにかしてて。それで、まだ倒しちゃ駄目だから」

「あ? って、おぉい!?」

 美祈をその場に残して、スイカは飛翔する。高度が上がるにつれ、視界に入る景色も変わる。『魔法』によって強化されているのは身体能力全般だ。彼女は目を凝らし、眼下の病院と、自分の家を確認する。両親の姿は見られなかったが、好都合だとも思う。

「スイカ。敵に背を向けてどこへ行くつもりだ」

「シィドは嘘を言わないよね。けど、本当のことを何個も隠してる。それ、言うつもりはある?」

「私と君は一心同体だと言ったろう。隠し事など、ない」

「前回の駆除はどこでやってたの? もしかして、十年前のスペイン、じゃない?」

 シィドには感情がない。機械のように淡々と言葉を発する。少なくとも、スイカはそう思っている。何かを考え込むような素振りも、まるで人間味があるように見せかける為としか感じられなかった。

「正確には十一年だ。だが、当時、私は駆除の担当ではなかった。スペインという国だったかどうかは覚えていないが、この国以外のとある街で駆除があったのは確かだ。その時は三か月程度で完了したようだった。が、しかし、それを何故、君が知っている」

「……教えない」

 駆け引きするつもりはなかったが、スイカはシィドに全てを曝け出すことを避けた。そうして彼女は尚も高度を上げる。

「スイカ、どこへ行くつもりだ」

 シィドを無視して、スイカは雲の近くまで到達した。彼女は息を漏らす。どうして今まで気が付かなかったのだろうと、強く自分を詰った。

 貫木という街は完結していた。

 上空から見て初めて分かったのだ。道はある。線路はある。つまりその先が、続きがあるはずなのだ。しかし隣の街はいくら目を凝らしても見えてこない。

「……アレ、何?」

 貫木市を取り囲むようにして、暗がりがある。『そこ』に何があるのか、そもそもあの暗がりは何なのか。近づいてみないと確かめようがないが、明確な境目が存在していたのだ。この街と他の世界とを切り離すかのように、あるいは、この街から逃がさない為に。

「やっぱり、ここなんだ……! 貫木なんだ、ここだけなんだ!」

「……ああ、そうだとも。駆除に参加するのは君たちの街の人間だ」

 だが、と、スイカは違和感を覚える。どこか、違うのだ。街の様子がおかしいのは確かだが、出来の悪い人形を見ているかのような、鏡の中の自分を見ているかのような気分に陥る。

「シィド、教えて。中枢って何なの? わたし、もう嫌なんだ。わたしだけ戦わなきゃいけないならまだいいよ。けど、お父さんやお母さんまで危ない目に遭うなんて、そんなの、我慢出来ない」

「私には答えられない。分からないからだ。だから嘘でもなく、隠してもいない」

 スイカはシィドを見遣った。こいつを殺してやろうかとさえ思った。

「知らないことは答えられない。君を慰める為に適当なことを言ってもいいが、それでは納得しないだろう。そもそも、君は何を知りたいのだ」

「もう、ここに呼ばれずに済む方法だよ」

「それならば簡単だ。君は記憶を持ち越せるのだから、元の世界に戻り、街を出ればいい。そうして二度と近づかなければいい。違うかね」

 違わないが根本的な解決ではない。スイカ自身はそれでいいかもしれないが、駆除はずっと続くのだ。また、彼女が両親に『本当のこと』を話したとて、信じてくれる保証はない。信じなければ街を出ることもないだろう。

「そうやって一個ずつ、わたしの分かってることに付け足すようなことばっかり言うんだね」

「そうだな。私と君は一心同体だからな」

 このまま問答を続けても暖簾に腕押しである。シィドはスイカの知りたいことを言わないだろう。美祈に任せたとはいえ、これ以上化物を放置する気にもなれなかった。



 ホテル街の上空で立ち止まると、そこには背に針を背負った、大きな獣がいた。それを数名のA.D.が必死になって足止めしている。A.D.の中には美祈もいた。彼女も化物と戦っていたのだろう、全身が血に塗れている。尤も、美祈には傷一つない。負った傍から治っていくからだ。

「あっ、やっと来やがった!」

 美祈が空を見上げてスイカを指差す。

「ごめん、遅れちゃった!」

 スイカは携帯電話を取り出して下に向けた。美祈は咄嗟にピースサインを作る。

「待って、毛ぇ直すから!」

「美祈ちゃんのバカっ。撮らないよ!」

 オリヴィアに言われていたとおり、スイカは化物の姿を写真に収めることを思い出したのだ。場違いだとは分かっていたが、現実で中枢のことを信じてもらうには仕方がなかった。

「……ちょっとブレたかな。もう一枚だけ」

 フラッシュが何度か発せられ、スイカは、化物の姿が撮れたことを確認した。



 化物を仕留めた後、スイカは周辺の様子を確認していた。オリヴィアの安否が気になったのである。美祈にも聞いてみたが、そもそも彼女はオリヴィアの容姿を知らなかった。それだけでなく、戦っている時の美祈は頭に血が上っていて、自分と敵以外の殆どが目に入らなくなる。

「いや、知らねーし。つーかお前が見とけよな」

「そ、そうなんだけどさあ」

 中枢から現実へと戻る間に被害を確認する。今回は人的な被害は殆ど出ていないらしかった。少なくとも、スイカたちの目の届く範囲では誰も死ななかった。

「しかし死んだ人間はゼロではないぞ、スイカ。君が余計なことをしなければ助かったかもしれない命だ。忘れてはならない。君たちA.D.は戦うことが術であり、全てなのだ」

 命。生。死。麻痺しかかる感覚と神経。スイカは自分にも言い聞かせるように、大きく頷いた。



 昨夜、駅前で出会った少女、スイカとの約束の時間まであと十数分と差し迫った頃、ホテルの廊下から不審な物音が聞こえてきた。

 ベッドから降りたオリヴィアはドアに近づき、耳を澄ませる。火事だ、という大きな声が聞こえた。彼女はその意味を呑み込み、慌てて外に出る。廊下の先で、二人の男が争っているのが見えた。殴り合いには発展していないが、掴み合って何事かを喚いている。

 すると、ポロシャツの男が持っていたものを振りかざして、突き刺した。血が噴き出るのが見えて、オリヴィアは瞠目する。男が人を刺したのだ。彼女は訳も分からず立ち尽くして、刺された男が動かなくなるところを見届けた。

 凶行に及んだ男はオリヴィアの姿に気が付くと、彼女に向かって歩き始めた。

 スイカとの約束も気になったが、逃げなければ殺される。オリヴィアは我に返って駆け出して、ホテルの外に出ようとした。しかし出入り口周辺には人だかりが出来ている。不審に思いつつも、人垣を掻き分けて外に出た。振り向いて建物を見上げると、煙が上がっているのを認めた。火事というのは本当だったらしい。先の男が何故人を刺したのかは不明だが、オリヴィアは、ここに留まっているのは危険だと判断した。火事も、凶器を持った男も恐怖に値するが、何よりもこの近くにいることが命に関わると思えたのである。



 現実に戻ったスイカと美祈は待ち合わせ場所のホテルへと向かっていたが、いつの間にか、そちらの方向から黒煙が立ち上っているのが見えた。嫌な予感は往々にして当たるものである。二人は急いだが、件の建物はすっかり燃えてしまっていた。火の手は上がり続けており、警察と消防が道を封鎖している。近づくことすらも困難であった。

 その後、オリヴィアの姿を見た者はいないか確かめて回ると、外国人の少女が走り去っていった、との証言を得た。

 スイカは美祈と共に貫木市内、特に観光客の行きそうな場所を可能な限り回ったが、オリヴィアの姿を見ることは叶わなかった。

「ケータイの番号くらい聞いとけよォ! バーカバーカ」

「……すみませんでした」

「まあ、生きてるってのが分かったからよかったけどよ。縁があるんならまた会うだろ」

 暗くなってきた空を見遣り、スイカは息を漏らす。五月の末に中枢へ呼び出された。駆除の回数も十を超え、一か月が経っている。これから先、何度戦わされるのか。人がどれほど死ぬのか。考える度に気が滅入る。しかし、彼女は決して立ち止まるつもりはなかった。今日も、明日も、何処に続いているのか定かではない分岐路を進み続ける。

 ……この時のスイカには知る由もなかったが、この街のある場所で、彼女にとって転換点となる出会いがあった。今はまだ点でしかないが、いずれ必ず混じり合って重なり合うだろう。それがスイカの――――彼女らの好機になりうるかは、あるいは、彼女らこそが決めるのだろう。

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