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水族館の夢

「美祈ちゃん、そっち行ったよ!」

「見りゃ分かるよ!」

 熊のような姿をした化物が、スイカの手から発射された炎の塊を受けて逃げていく。逃げていく方向に待ち構えていた美祈が、化物の眉間に跳び膝蹴りを喰らわせた。

 美祈が離れるや否や、遠方で控えていた他のA.D.たちが飛び道具を放つ。矢玉、火の玉の弾着で砂煙が舞い上がり、化物の姿が掻き消えた。



 六月も終わりかけた頃、中枢での駆除も十回を超えて、スイカは様々なことを学んでいた。

 中枢にはいつ呼ばれるか分からない。一週間後の時もあれば、翌日という時もある。誰が呼ばれるのかも分からない。美祈や雫がいる時もあれば、彼女らがいない時もある。スイカ自身も後から美祈に話を聞き、駆除がいつの間にか終わっていたと聞かされることもあった。

 中枢では時間が限られている。その中で、スイカは嫌がる美祈を連れ回し、他のA.D.との会話を試みていた。



「あら、また会ったわね。……やだ、キンパツもいるじゃない。そんな子を連れ歩くなんてやめた方がいいわよ」

 福城宵町。

 彼女は蔵加と松尾という少女と行動を共にしていることが多い。他にも仲間はいるようだが、その二人とは特に仲がいいらしかった。


「やあスイカちゃん。その後、調子は? まあ、生きているだけで充分か」

「雫、その子は」

「あり、もしかしてキミちゃん妬いてんの?」

 来光雫。

 彼女もまた、宵町と同じようにグループを作っている。巫女服を着たA.D.や、色々と大きな少女と一緒にいた。


「……あ、あの、ご、ごめんなさい」

 雫のグループには石毛と名乗る少女もいた。ウェーブがかった黒髪は肩のあたりまで伸びており、前髪は目元にまで達している。目の下の隈は深く、それを隠しているようにも見えた。暗い雰囲気を纏わせた石毛は、雫たちの影になるかのように付き従って行動しているらしい。


 中枢には他にもいくつかのグループがあったが、比較的大きなものは三つしかない。宵町、雫のグループと、銀色と呼ばれていたA.D.を中心としたグループだ。

 スイカは銀色のA.D.を見ることはなかった。スイカが駆除に参加するより前に、銀色が死んだからだ。中心的な人物を失った銀色のグループは瓦解寸前らしく、殆どの者が宵町や雫の方に流れているという状況である。

「こんなところでも派閥争いってやつをやってんだな」

「えー、だって女の子ってそういうの好きじゃん」

「人間同士で何やってんだかって思うよ、あたしは」

「……美祈ちゃんが言うかなあ、それ」

 三つのグループを除けば、後はスイカと美祈のように二人組で行動している者たちが多かった。

 中枢の仕組みを理解している者はいない。ただ、化物を倒せばそこから抜け出せるのは確かだ。駆除も回数を重ねるごとにA.D.たちは協力し合うようになっていた。別のグループに属する者同士でも、いざ化物を前にすれば手を取り合う。化物を打倒し、元の居場所に帰還するという目的は一致しているのだ。

 ただ、数が多いところに属するのは安心出来た。独りきりで、こんな場所で戦うのは心を少しずつ削られていくようなものである。自分だけではないと思うことで狂わずに済んでいる部分はあった。


「いや、全然一人で大丈夫だけど?」

 稀にだが、単独で行動するのを好むA.D.もいた。

 誰とも関わりたくない。一人が性に合っている。他人を信用出来ない。様々な理由はあったが、スイカの知る限り、単独で動いているのはパイナップル頭をした少女と、シカネコ・アゲハという少女だ。


「あれ? あんな人いたっけ?」

 中枢で化物の駆除が行われる度、新しいA.D.が生まれる。

「さあ、あんまし覚えてねーな。それよか、前に絡んできたやつ今日はいねえな」

「……あー、あの人は」

 化物との戦いで、息絶えるA.D.もいる。

 新たな出会いと別れを繰り返しながら、スイカと美祈は今日も生き延びることが出来た。



 現実。六月。土曜日。

 スイカは昼食を済ませた後、美祈と会う為に家を出た。貫木市にいる時、中枢に呼び出される前、彼女とはなるべく共にいるようにしている。一緒にいることで自分たちの置かれた状況について話し合えるからだ。また、中枢に呼ばれたとしてもすぐに二人で行動出来るとも考えていた。

 待ち合わせ場所の公園まで、スイカは徒歩で向かう。じっとりとした湿気は鬱陶しかったが、中枢の空気よりはマシだと思えた。



「おー、先に来てたんかー」

「あ、美祈ちゃん、こんにち……うわ、何そのカッコ」

 美祈は自分の服装を見回して、不満そうな顔をする。

「フツーだろ。ただのジャージじゃん」

「わたしより大人なのにダサい」

「しようがねえだろう、あんましワガママ言えねえんだからさあ。ジャージだっていいじゃねえか。ほら、動きやすいし。中枢でも戦いやすいじゃんよ」

 いやいやと、スイカは首を振った。

「向こうに行ったら変身するじゃん」

「あたし、しねーもん」

「しなよ。した方が楽になるって」

「……どういう意味でだ」

 美祈は車椅子を動かして、公園のベンチへと向かう。彼女はそこに座るつもりはないが、スイカが立ちっ放しだと可哀想だと思ったのだろう。

「まー、今更可愛いカッコになるのもどうかとは思うよ? 宵町さんなんか、絶対美祈ちゃんのことバカにするだろうし」

「ああ、福城な。忘れてた。あいつ、あたしと同じガッコに通ってんだ。いっこ下でよ」

「そうなの? ……そうだったんだ」

「昨日見てきた。中枢じゃああんな恰好だけどよ、まあ、やっぱフツーに過ごしてた。あたしらみたいに記憶があるようには思えなかったな」

 貫木中学校には宵町だけでなく、他にもA.D.がいるかもしれない。だが、見つけたとして、記憶を掘り起こして苦しめるような真似はしたくなかった。美祈は上手く立ち直ったが、他の人間はどうなるか分からないのである。

「さすがに、もう言いたくないかな、わたし」

「なんで? 仲間増えたら助かるじゃんか」

「だって恨まれたりしそうだし」

「……まあ、それもそうか」と、美祈は意味ありげに言って、スイカをじっと見据えた。スイカは目を逸らした。



 公園で話していた二人だったが、日差しに耐えられず、屋内に移動することにした。とはいえ、コンビニで涼むのも憚られる。

「美祈ちゃん、場所取るしね」

「うるせーよ」

 スイカは貫木市のことをあまり知らなかったが、美祈はこの近辺の地理には明るいらしい。屋根があり、日陰で涼める場所があると言い、勝手に進み始めた。

「わたしの家でもいいのに」

「ヤだよ。なんか気まずいし。……なあ、それよっかさ、中枢ってなんなんだろうな。あたしら、毎度飛ばされてる? みたいな感じだけどよ」

「中枢ってことは、大事な場所なんじゃないの?」

「誰にとって?」

 さあ、と、スイカは首を傾げる。……だが、忘れてはならないことだとも考えた。中枢が言葉どおりの意味なら、自分たちはそこを守る為に連れてこられているのかもしれない。駆除というのは、中枢を襲う外敵を、誰かの為に排除することなのかもしれなかった。

「あの化物の正体だって分かんないし」

「でもさ、案外、大したことないんじゃねえの? だってクマとかカニとかさ、あたしらでも知ってるようなもんばっかじゃんか」

「うーん。喋るようなやつが相手じゃなくてよかったかもね」

「まあなあ。あ、そういやさ」

 美祈は立ち止まり、右手をスイカに差し出した。彼女の人差し指には絆創膏が貼られている。

「あ、怪我してる。どうしたの?」

「火傷した。で、治らねえんだ。向こうだったらすぐに治るんだけどよう。魔法で……っていうのはアレだけどさ」

 スイカも、こちらの世界では飛べなかったことを告げようとして思いとどまった。恥ずかしかったのである。

「つまり、こっちじゃ魔法は使えないってことなのかな」

「だろうな。魔法か、使えりゃあ便利なんだけどなあ」

 使えたら使えたで問題が起きそうな気がするので、スイカは曖昧に頷いた。

「魔法って言えば、シィドがね、その人のお願いごとによって変化するとか、なんとか」

「人によって使える魔法が違うってことか?」

「うーん、得意、不得意が出てくるってことじゃないかな。ほら、わたし、空飛べるじゃん。でも他の人は飛べないみたいだけど、ジャンプ力はすごいでしょ」

 スイカは空を飛べる。他のA.D.も空中戦が出来ない訳ではないが、それは、飛ぶというよりも跳躍だ。身体能力を強化して、飛距離が伸び、滞空時間が長くなっているに過ぎない。あるいは、宵町のように道具アイテムを利用して空を飛ぶ者はいる。

「出来そうなもんなのにね」

「あー。あたしも試してみたけどさ、お前みたいにはうまくいかなかった。……って、んだよ、その顔」

「へー、試したんだーって思って。美祈ちゃんも可愛いところがあるなあ」

「うるせーっつーの」

 美祈は頭を掻き、再び進み始める。彼女はスイカに振り向かないままで口を開いた。

「あたしの願いってのは、なんとなく分かってる。足さえ自由になりゃあって、怪我が治ればって、心ん中じゃずっと思ってんだろうな。だから、向こうに行ったら足が動くし、アホみてえに怪我が治るんだ。ぶっ飛んだ腕だってさ、元通りになるんだぜ。トカゲみたいだよな」

「や、トカゲだってそうはならないと思うけど」

「おっ、知らねーの? うちに動物に詳しいやつがいるんだけどさ、脳みそや心臓だって治っちまうトカゲだっているんだぜ」

 きっと、美祈は得意そうな顔をしているんだろうなあと、スイカは微笑ましい気持ちになった。



 貫木小学校の通学路を離れて住宅街を抜けると、古色蒼然とした日本家屋が軒を連ねる場所に出た。スイカが美祈に連れてこられたのは、その中の一軒である。

 スイカは二階建ての木造家屋を見上げて、正面に視線を向ける。木枠にはめられた四つの硝子戸は全て開け放たれていた。中を覗くと薄暗く、雑多な商品が多数並んでいる。玩具もあったが、商品の多くは菓子類であった。

「もしかして、駄菓子屋?」

「おう。昔に通ってたんだー」

 店の前には看板、カプセルトイの自動販売機やアイスクリームの詰まったケースが置かれていた。出入りし易いようにする為か、側溝には板が敷かれている。

 美祈は車椅子を動かして、出入口近くに置かれていた脚立を退かす。彼女は店の中に入り、スイカもそのあとを追いかけた。

 中は存外広く、涼しい。床は打ちっぱなしのコンクリートで、寝そべったら気持ちいいかもしれないとスイカは思った。彼女は物珍しそうにきょろきょろと店内を見回していたが、美祈の指差す方向にある丸椅子を見遣り、そこにちょこんと座った。正面にはカウンターがあり、その奥には居住空間へ通ずるであろう出入口が見える。

「わたし、こういうお店来るの初めてだ。ね、お店の人はいないの?」

「呼んだら来るんじゃねえかな。呼んでみ、おい、ババアって」

「美祈ちゃん口わるーい」

 げらげらと美祈が笑った。スイカもつられて笑いそうになったが、奥から店の人間が出てくるのが見えて、堪える。現れたのは無表情の老婆だ。存在感というものが薄く、輪郭だけが薄暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。

 美祈も老婆の存在に気が付いたが、取り繕うようなことはしなかった。

「なんか買わねえとすげえ睨んでくるんだ、あのババア。冷たいもんでも買おうぜ」

「わたし買ってくるからさ、何がいい?」

「気ぃ利かさなくていいんだよ別に。アイスとかでいいからさ」

 スイカは苦笑して立ち上がり、外のアイスケースへと向かう。ふと、店の外に出た時に空気が違うような気がしたが、屋内との気温差のせいかと思い直す。

「あたしソーダ味がいいー!」

「はーい!」



 スイカと美祈は駄菓子屋の椅子に腰かけてアイスを食べながら、A.D.とはアシスタントディレクターのように馬車馬の如く働かされる存在ではないか(美祈の談による)、いやDはDreamのDだ、夢がある存在なのだと言い合ったりしている内、コンビニで涼んでいるのと何ら変わりないことに気が付いた。老婆は何も言わなかったが、内心では何を思っているのか分からない。

「ねえ、あの人、ずっとこっち見てないかな」

「あー? 万引きされないように見張ってんだろ。気にすんなよ。あのバアさん、ここらじゃ変り者で通ってるしな」

「……なんか、変な感じがする。なんて言うのかな。中枢に行った時と同じような?」

 美祈の顔色が変わった。スイカは慌てて首を振る。

「今、飛ばされたとかそういうのじゃないよ。なんか、ここの空気が中枢と似てるなって、そう思っただけ」

「うーん? そうなのか?」

 スイカの言を受け、美祈もここに長居はしたくないと言い出した。

「駅前まで行くか? つっても、何もねえんだけどな」

「電車に乗ったら水族館に行けるじゃん。あ、でもね、わたしね、明日、連れてってもらうんだー」

「へー、ガキだなあ。いまどきラッコとかペンギン見たって喜ばねえよフツー」

 恐らく、美祈はラッコとペンギンが好きなのだろうなと、スイカは邪推した。



 二人の少女が店から出て行くのを、老婆はカウンター越しにじっと見つめていた。彼女は窃盗を警戒していた訳ではない。彼女らの会話から漏れ聞こえる単語に興味を示していたのである。

 老婆は低く唸り、奥に戻ろうとした。

「おばあちゃーん! いるー!?」

「……ああ、おやおや」

 店内の陰鬱な空気を吹き飛ばすように入ってきたのは小さな女の子であった。彼女を見て老婆の表情が穏やかなものになる。

 少女――――老婆の孫の洲桃野李すももの すももはカウンターに近づき、適当な駄菓子を手に取った。

「学校はいいのかい?」

「今日は土曜日だよ。ボケたの? それに、どうせ当分は休校だし。一学期が終わるまでには始まると思うけどね」

 ああ、と、洲桃野うち(・・)は呟く。李の通う小学校の通学路では大きな事故が起きて、児童や保護者、教員が巻き込まれて死んだ。うちはテレビを見ないので詳しいことは知らなかったが、李から聞いていたのを思い出したのである。

「おばあちゃんちって一番落ち着くんだよね」

「そんなこと言ったってお菓子はあげないよ。ちゃんとお金を払いな」

「分かってるよ、ケーチ」

 それよりもと、李はうちの顔をじっと見つめた。

「なんかあった? おばあちゃん、難しい顔してるよ」

「そうかい? ああ、そうかもしれないね。少し、気になることがあったんだよ」

「もしかして魔法のこと?」

「ああ、そうだよ」

 うちは愉しそうに口元を緩める。李の気遣わしげな視線には気づかないで、くつくつと声を上げて笑っていた。



 夕刻、スイカは家に帰り、様子がおかしいことを察した。しんと静まり返っているのだ。不安を感じつつリビングに向かうと、キッチンに父親の日章はるあきが立っている。珍しいこともあるものだと、彼女は首を傾げた。

「ただいま、今日はお父さんが晩ご飯作るの?」

「ああ、おかえり。実は母さんが体調を崩してね。父さんが腕をふるうことにしたよ」

 日章はエプロンをつけて調理をしている。……すらりとした体型と優しげな彼の風貌を頼りなく思う者もいるだろうが、スイカにとっては自慢の父であった。

「大丈夫なの?」

「……それは、母さんの具合のことかな。それとも父さんの料理のことかな」

 両方と短く告げると、スイカは母親の様子を見に行くことにした。母親も心配ではあったが、明日の水族館へ行くのがご破算になったことに対し、落胆する。

 彼女の反応を窺っていた日章は柔和な笑みを浮かべた。

「スイカ、明日は父さんと二人でデートしようか」

「え、本当? でも、お母さんは?」

「風邪気味でね、家に一人でいる分には問題ないって言ってたけど、あちこち連れ回すのは危ないから。心配しないでも、母さんは行ってきなさいと言ってたよ」

 スイカは椅子に座り、考え込む。三人で行ければ何よりなのだろうが、日章の仕事は忙しく、休日を返上して働くことも多い。明日を逃せばいつになるか分からない。そう思っているのは彼女だけでなく、日章自身もだ。だからこそ、彼は母に許可を取り、スイカと二人で行こうと誘っているのだろう。

「最近、元気がなかったろ。引っ越してからこっち、父さんは家を空けることが多くて、スイカたちにずっとはついてやれなかったから」

 新しい友達は出来たか、学校は楽しいか、そんな会話すら日章とはしていないことを思い出して、スイカはその事実に今更気づいたことに寂しさを覚えた。また、事故のことを尋ねてこない父親の気遣いを嬉しく思った。

「じゃ、付き合ってあげよっかなあ。ね、お父さん、お母さんにお土産買って帰ってあげようね」

 日章は大きく頷くと、セットしていたタイマーの音に驚き、鍋を倒しかけた。



 翌日の日曜日はよく晴れていた。午前九時三十分。スイカと日章は、母、月美つきみに見送られ、日章の運転する車で水族館に向かった。

 ……貫木市の人口は十万人に満たない程度だ。特段、観光地として盛り上げようとする運動はないが、水族館だけでなく、展望用のタワーや大型のショッピングモールなど、名所となりうる施設は幾つかある。観光客の数は多くないが、その数が落ち込んだり、途切れたこともない。



 スイカは携帯電話で水族館のホームページを確認し、車中でじっくりと読み込んだ。頭の中ではどのように館内を回るのかをシミュレーションして、自分なりに組み立てたプランを日章に聞かせた。彼はにこにことしながら彼女の話を聞いていた。

 家を出てから数十分の後、車を駐車場に止めて外に出ると、スイカの鼻を潮の臭いがくすぐる。前に住んでいた街の近くには海がなかった。馴染みのない風景に、彼女は眼を細ませる。

 目的地の水族館は海にほど近いところに建てられていた。海浜公園にも近く、貫木市でも多くの人が集まる場所になっている。

 早く行こうよとスイカに急かされ、日章は苦笑しながら、彼女に引きずられることにした。



 アシカやトドなどの海獣。サンゴ礁を模した水槽には熱帯の魚。貫木周辺の海にいる魚。アマゾン、爬虫類、両生類、水辺の生き物、展示室など、水族館は三階まで渡り、幾つかのゾーンに分かれている。定まった順路はなく、好きなように見て回れるようになっていた。

 スイカは午後から始まるイルカショーを楽しみにしているらしく、イルカは頭がいいだの、超音波で会話するだのと、つい先ほどネットで仕入れたであろう知識を自慢げに話した。

 日章は彼女に手を引かれながら、大きくなったなあと思う。長い間スイカを見ていない訳ではなかった。引っ越してからは彼女の寝顔を見ることが多く、直接話すことは少なかったが、毎日必ずスイカと会うことを心がけていた。それでも、ふと思ったのである。印象が変わったような気がして、妙な違和を覚えた。

「スイカ、次はどっちに行く?」

「うーんとね、あっちにアンモナイトがあるんだって。見にいこっか」

「はは、楽しそうだなあ」

「来てよかったね。ね、お父さん」

 背丈が伸びたわけではない。心という不定で曖昧なものが成長したのかもしれなかった。きっかけは引っ越したことか、あるいは事故か。ともかく、スイカに何か考えさせ、感じさせる出来事が起こったのだろう。惜しむらくは、そのことを自分が知らないことだと、日章は溜め息を吐きかけた。スイカは楽しもうとしている。ならば自分は付き合うのみだとも思い直す。

「……これからもっと色んなところに行こうな。今度は母さんも一緒に」

「ん? そだね。わたし、今度はショッピングモールに行きたいな。ほら、あのおっきいとこあるじゃんか。テレビでもやってたとこ」

「ああ、行こうな。父さんな、仕事の方が一段落しそうなんだ。休みが作れたら……そうだ、旅行だ。旅行がいいな。スイカはどこか行きたいところがあるか?」

 日章がそう聞くと、スイカは何故か困ったような笑顔を浮かべた。

「急に言われてもなー。でも、ここから離れてどこかへ行くって言うのも、興味はあるかも」

「ああ、たまにはいいと思うんだ」

 日章は仕事にかまけて家庭を疎かにしているつもりはなかった。だが、ここ最近は気遣うような言葉を妻と娘にかけた覚えもない。独りで勝手に大丈夫だろうと決めつけていたに過ぎない。月美が体調を崩したのも、スイカの表情が大人びて、どこか陰のあるものに変化しつつあることも、全て自分の責任だとは思わない。ただ、これからはもっと一緒にいたいのだと強く感じた。家族が心穏やかに過ごせること、自分を含めた三人の笑顔が何よりの宝である。彼はそんなことを今更になって気づき、恥じ、自身を強く責めた。



 館内のレストランで昼食を終えた後、スイカと日章はイルカショーの行われる、館外に設置されたステージへ向かった。休日の為か人も多く、五分前に到着したのもあって、後方の席しか空いていなかった。それでも、イルカたちが跳ね、泳ぐところは充分に見られそうであった。

「じき、始まるね」

 青天がプールの水面に映り込んでいる。「ああ」陽光は煌めき反射する。ステージ上に若い女のトレーナーが現れる。「そうだね」ぞぶりぞぶりと音がする。観客席から拍手が起こる。「楽しみだね」音はより大きい音に掻き消され、色はより濃い色に塗り潰される。「ほら」水中から飛び跳ねたイルカたちへの期待感が膨らんで、喝采は一層大きくなった。スイカはこの中でただ一人、森羅万象の法則が捻じ曲がる瞬間を認識した。

「始まるよ」

 ああ、と、声を出す暇はない。

 何故、と、問い質す相手もいない。

 イルカが跳ねてまた水へと還る。その間に世界は一変した。

 空の色は変わらない。スイカも、先までとはどこも変わりがないようにさえ思えた。だが、プールに溜まった水は違う。透明度の高いそれが粘着性を帯び始めていた。中にいたイルカは身動きが取れず、鳴き声を漏らしている。観客席はざわつき、席を立ってこの場を離れようとする者もいた。館内からも悲鳴のような声が聞こえてくる。

 予兆などない。覚悟もしていたはずだった。

 しかし、どうして今なんだ。スイカは咄嗟に、胸に手を遣った。心臓が飛び出てしまいそうなくらいに脈打っている。日章は彼女の手を握り、席から立ち上がった。

「なんだ、これ? ……スイカ、ダメだ。帰ろう。何か、途轍もなく嫌な予感がするんだ」

「お父さん」

 スイカは口を開きかけた。予感ではない。確実に、これから嫌なことが起きるのだ。だが、それを説明している余裕も、理解してもらえる時間もない。今はここから、この水族館から離れた方がいい。同時に、戦わねば自分たちの現実には戻れないとも分かっていた。

「ひ――――!」

 観客席の前方から、押し殺した悲鳴が上がる。

 スイカたちはステージを見遣った。事態を把握し切れていないトレーナーが、液体の正体を確かめる為にプールへと手を突っ込んだのだ。

「あ、あぁぁぁぁぁあああああああ!? いっ、だ……ぁ」

 そして、溶けた。

 指先が掌が手首が腕が。液体に浸かった箇所は一瞬で溶解。今もなお溶け続けている傷口からは煙が上がっている。

 駄目だ、と、スイカは茫然とした。間違いなくパニックが起こる。

「スイカッ!」

 スイカは日章に手を強く引かれて、無理矢理立ち上がらせられた。彼は背を向けて出口へと駆け出そうとする。彼女だけが、それを目撃した。



 プールの中身はそっくり挿げ替えられていた。水ではなく、それはもはや酸である。強力な酸性の消化液らしきモノが、無機物有機物を問わず『襲い掛かっていた』。

 どろり、と。鮮血を含んだ液体が、手を伸ばすかのように観客席へと向かっている。プールの中にいたイルカは既に骨すらも溶かされて、トレーナーの女の身体の一部だけがステージ上で見え隠れしていた。

 だが、液体の進む速度は遅々たるものだ。人間が走って逃げれば容易に振り切れるだろう。その光景を見ていたスイカも、そう判断した。液体の中から、巨大な骨が姿を見せるまでは。

 子が親を呼ぶ。親が子を呼ぶ。恋人たちは手を繋いで逃げ惑う。彼ら彼女らをあざ笑うかのように、赤黒く濁り始めたプールから巨大な頭蓋骨が登場した。スイカはハッとする。特徴的なフォルムには見覚えがあった。館内に展示されていたクジラの骨格である。

 死に、朽ちたはずのクジラの骨が大口を開けた。頭が、胴が、クジラの巨体が次々とプールを埋め尽くす。やがて化物は上半身を持ち上げて、自らの頭部を水面に叩き付けた。

 触れると溶ける液体が飛散した。飛沫でさえ致命になりうるそれが、観客席へと降り注ぐ。……スイカが見られたのはそこまでだった。日章が彼女を庇い、自分の身体で覆い隠したからだ。



 今まで圧し掛かっていたものから重みが失われたような気がして、スイカは起き上がる。背中が濡れていることに気づき、手で触れてみた。

 周囲を確かめると、鼓膜を破壊せんばかりの悲鳴が嘘のようになくなっていて、観客席は鮮やかな紅色に染まっていた。それが人間の溶けた痕だと思い至るのに時間はかからなかった。

 ぐずぐずに溶かされた人体は、辛うじて『そうだ』と認識出来る程度にしか残されていない。一分にも満たない間に、百人近い人間が死んだ。

 スイカは背中に回した手を顔の前に近づける。先まで日章に掴まれていた白い掌が、べったりとした、鉄臭い血に塗れていた。

「お父さん……?」

 返答はない。日章は、スイカが起き上がった時に体勢を変えて仰向けに寝転んでいる。よかったと、彼女は胸を撫で下ろした。父親はまだ形がある。人の姿を保っている。周囲の『獲物』をある程度平らげて場所を移動したようだが、クジラの化物は未だ健在だ。一刻も早く逃げ出さねばならない。

 スイカは日章を揺さぶる。か細い呻き声が漏れ聞こえた。彼の身体から血が流れてくるのが見える。お父さんと何度も呼びかけて、スイカは、日章の背の肉が殆どないことに気が付いた。……スイカたちは観客席の後方にいた為に、前にいた観客よりも液体の飛沫を浴びずに済んだ。だが、全く浴びなかったわけではない。日章は確かに化物の胃酸を受けてしまったのだ。

 愕然とする。スイカはその場に崩れ落ちそうになるのを堪えて、歯を食い縛った。声は出さなかったが涙は自然と溢れてくる。

「わたしが、わたしが……」

「君のせいだとは思わない」

 ぬっと、スイカの頭上からシィドが降ってきた。彼女は涙目で彼を睨みつける。

 スイカは自身を責め苛もうとした。日章の言っていたとおり、早くこの場から逃げ出していればよかったのだ。素直に従っておけば父親をこんな目に遭わせずに済んだ。そうしなかったのは、スイカがA.D.であるからだ。ここを離れたい。逃げ出したい。同時に、戦わなくてはならないとも思っていた。

 しかし、出来なかった。父親の前で変身し、戦うことを拒んだのである。普通ではない自分を見て欲しくない。異常に慣れてしまった自分は嫌われてしまう。そう思って『普通の子』であろうとした。

 自分の迷い、躊躇いが日章を殺しかけた。どちらも選べなかった中途半端な覚悟が大事な人を傷つけた。スイカの息が荒くなり、その場で片膝をつく。そして彼女は縋るような目でシィドを見つめた。

「……ねえ、教えて。お父さんの治し方。この傷は、どうやったら治せるの?」

 シィドは糸にぶら下がったままで日章を見下ろす。

「そうか。彼が君の父親だったか」

「魔法、なんでしょ? わたしたち、魔法を使えるんだから。だから、お父さんを助けたいの! シィド、お願い……!」

「無理だ」と、シィドは短く告げた。

 スイカは瞠目する。

「なん、で? 魔法なのに、魔法なんだよね!? そういうのって、人を幸せにしたりっ、助けられるんじゃないの!?」

「君たちA.D.の多くは、自らに備わった力を魔法と呼ぶ。だが、実際は違うのだ。スイカ、君もそうだが、A.D.は傷を癒せる。無論、強弱も格もある。治癒、回復する能力が強ければ、フジ・ミノリのように失った部位さえも元通りにすることが可能だ。しかし、その対象は自分の身だけに留まる。要は、他人を回復する力などないのだ。それこそ他者を癒せる力こそ魔法と呼ぶべき代物なのだろうな。その点で言うなら、君たちに魔法は使えないのだと受け入れた方がいい」

 魔法ではない。ならばこの力はなんだ。自分たちは、何になったと言うのだ。スイカは握った拳を震わせる。

「気付かなかったか、スイカ。A.D.は力を使える。だがそれは、自分の為だけの、戦う為だけのものだ。相手を攻撃するだけの……」

 シィドの言葉は耳に入ってこなかった。スイカはとうとうその場に座り込んでしまう。日章の息は長くなさそうであった。

「スイカ。聞け。聞くんだ。一つだけ、手がある」



 優しい子なのだろうな。

 スイカを見遣り、シィドはそんなことを思った。思い返してみれば、彼女は涙を見せたことがない。中枢に来て泣いたことがない。初めてここに呼ばれて、クビナシに殺されかけた時も、その後も。


 ――――そうか。タチワリ・スイカは……。


 今は違った。スイカは自分の為ではなく、他人の為に泣いているのだ。

「スイカ。君の父親を救いたいのなら方法は一つだ。彼がここで息絶える前に、化物を仕留めて元の世界に帰るしかない。前に私は言った。化物を消去した時、君たちは元の世界に戻れる。そして、その段階で死んでいた者は現実でも死んでしまうと。だから、今ならまだ間に合うのだ。制限時間は短いが、ここでタチワリ・ハルアキが終わる前に化物を終わらせる。それしかない」

「……ほん、とうに?」

「……今のハルアキは無傷ではない。半死半生の状態で戻れば、現実でも何かしらのダメージを負うことになるかもしれない」

 それでも本当に死んでしまうよりマシだろう。そう告げて、シィドはスイカの反応を待った。

「分かった」

 立ち上がったスイカは既に変身していた。日常を脱ぎ捨てて、異常を身に纏ったのだ。

「わたしが、やる」

「私も人体については詳しくない。確実ではないが、タチワリ・ハルアキはもって数分といったところだろう。油断はするな。時間をかければかけるほど、向こうに戻った時の後遺症が」

「お父さんを看てて」

「――――お、ああ、分かった。気をつけろ、スイカ」

 頷き、スイカは地を蹴った。天へ飛び出していく彼女を見送り、シィドは思惟に耽る。

 恐らく、今のスイカでは父親を救えないだろう。彼女の素養、才能は本物だ。シィドは今までにも多くのA.D.を見てきたが、スイカはその中でも特に秀でている。この場所での戦いにも慣れてきて、様々な力を扱えるようになってきた。回数を重ねるごとに、時間をかけるごとに、彼女は更なる成長を遂げるだろう。

 しかし、その一方でスイカは他のA.D.と『不必要な』コミュニケーションを取り始めている。A.D.同士で協力し合い、化物を駆除することは悪くない。問題なのはスイカが他人を当てにするようになったことだ。馴れ合いは思いを鈍らせる。タチワリ・スイカを弱らせる。ぬるま湯のような環境では宝石すら錆びつき、輝きを失うだろう。

 だから、今のスイカでは無理なのだ。クジラの化物は巨大で、強大である。時間にして三分程度。それだけでは駆除は決して完了しない。シィドはそう考えていた。



 疾走はしる。疾走はしる。

 空の中を、スピードを上げて突き進む。風を孕んだ服がたわんで、まるで花が咲いているようだった。

 クジラの化物はすぐに見つかった。水族館の上に鎮座している。ここが自分の居場所だと言っているようで、スイカの怒りを加速させた。

 スイカは戦うと決めた。自分が何者であろうと、自分に宿った力は本物なのだ。敵を痛めつけて殺し尽くす能力が備わっている。

 シィドは言った。自分には才能がある、と。

 その時はふざけるなとも思った。それではまるで、自分に殺しの才能があるように聞こえるぞ、と。だが、たとえ鬼でも悪魔でも、父を救えるのなら何と呼ばれようと構わない。

「わたしが、やるんだ……!」

 眼下の敵を睥睨し、スイカは息を吸い込んだ。肺に空気を取り込むのと同時、イメージする。他の誰でもない、自分の手で片づける。誰にも頼らず、任せない。この手で、必ず、殺す。

「お前らみたいなのがいるからっ!」

 スイカの右手に銛が召喚された。彼女がイメージし、創造したものだ。得物の柄を両手で掴み、威勢のいい掛け声を発して急降下する。

 頭蓋を狙った、勢いをつけた一撃。乾いた骨は甲高い音を上げて砕けるはずだった。が、手応えは予想していたものと異なっていた。柔らかなものを叩いたような――――スイカはすぐに状況を確認する。

 骨だけだった化物には皮と肉が存在していた。とはいえ、身体の上面部分だけである。身体の下半分は先までと同じく骨だけで空洞を抱えていた。化物がスイカの攻撃を防ぐ為に生み出したのだろう。

 スイカは知らずの内に舌打ちしていた。一点突破を試みたが、衝撃は吸収されてしまっている。より強い力で二度目を放つしかない。そう思った彼女だったが、化物が潮を吹く。頭頂部から上がった噴気がスイカを叩いた。それだけではない。化物の体内から噴出したそれは、ステージで観客を溶かした時のような液である。

 両腕で顔を庇ったがスイカは直撃を受けた。潮を受けた剥き出しの皮膚が焦げ融ける。肉の焼ける音を聞く耳も、臭いを嗅ぐ鼻も蒸発した。四肢は煮過ぎた豆腐のようにぽろぽろと崩れ落ちる。美祈の能力には及ばないが、彼女の回復能力も凄まじい。肉体は再生を始めていた。しかし復元する端から酸の潮によって融解していく。耐え難い苦痛がスイカの身を襲い続けていた。痛みを紛わす為に絶叫する。その瞬間、口内に液体が侵入して内部から溶かし尽された。喉が灼けて掠れた声しか出ず、全身には一秒ごとに激痛が走る。彼女の目がうつろなものになった。

 この場から逃れればいい。潮の届く範囲から離れればいいのだが、考える頭すら溶かされて存在しないのだからどうしようもない。脳がなければ人間は考えられないのだ。

 意味を為さない言葉がスイカの口から溢れる。噴き上がる潮を無意識的に腕で防御した。液体に触れた部位が消失。彼女の顔半分が焼け爛れた。周囲には煙が上がる。五十パーセント以下になった思考回路を稼働させる。回転し、渦を巻いた思念が答えを求めて溺れかけている。

 痛い。熱い。苦しい。楽になりたい。こんなものを浴びては、人間などひとたまりもない。……ならば、何故自分は生きている。

「かっ、は……っ」

 肉体は治癒される。元に戻る。しかし苦痛はある。骨がくっついても砕ける音は耳に残る。皮肉が剥がれる際の激痛も四肢が吹き飛ぶ時の苦痛も脳が記憶し続ける。傷痕が消えても痛みは消えない。化物と対峙するA.D.でさえ絶望しかける。肉体ではなく精神が死ぬのだ。絶叫と発狂を何度も繰り返し、精神に異常をきたした者から死ぬ。

 だからまだ自分は大丈夫だと、スイカは目を開く。痛みは生きている証であり、生きたいという思いが残っていることを示唆している。

 スイカは薄れつつある意識を掻き集めて父のことを思う。彼はただの人間だ。だが、危険だと分かっていて、それでもなお日章はスイカを庇った。


 ――――お父さんは、こんな思いをしたんだ……!


 もはや人ではない自分を見た時、日章はどう思うだろうか。身体を焼かれる痛みよりも、スイカはそれを考える方が嫌だった。

 乱れた思考が一つの答えに行きつく。嫌なものは捨ててしまえばいい。この世から、自分の視界から消してしまえばいい。

 スイカは一瞬の隙を衝いた。四肢が残っている内、ものを考えられる部位が焼かれない間に、化物の頭上から退くことに成功する。苦痛はある。しかし時間がないのだ。先よりも強い想いと力が必要になる。

 噴気を見据えて、化物を見下ろして、スイカは大きく息を吸い込んだ。受けた痛みも熱も、その全てが怒りに変換されて四肢に伝わる。スイッチを切り替えろ。頭の中の自分がそう囁いた。



 巨大な化物が軋んだ。骨格だけのそれは頭を持ち上げようとする。だが、叶わなかった。何か、途轍もない力で抑え込まれているようだった。

 隣り合う骨同士が音を鳴らす。形は歪になり、無理矢理に捻じ曲げられていく。クジラの化物は苦し紛れに潮を吹き散らした。それすらもスイカには届かない。彼女は眼下の化物を見下ろしたまま動かなかった。

 苦鳴のような音が響く。骨だけの化物が壊れ始めたのだ。各パーツが反り返り、曲がり、折れて、急速に丸まっていく。まるで、不可視の巨人の掌に丸められているような有様であった。

 水族館の建物よりも大きかった化物は、みるみるうちに小さくなって玉になった。抵抗することは出来ないらしい。そも、意識があるのかどうかすらも定かではない。身じろぎすらせず、最期の時を待っているかのようだった。

 化物を見下ろすスイカは銛ではなく、箒を手にしている。彼女はそれをくるりと回し、穂の近くを握った。そうしてから躊躇わず突っ込む。

「死んじゃえ……っ、死んじゃえ!」

 古来、日本では、箒は魂を掻き集めて、邪なるものを払うとされた。スイカにとって眼下の球体は塵に等しい。だが、彼女は箒をイメージしておきながら掃くことを選ばなかった。必ず殺す。それだけを思い、柄の方を大きく振り被り、ど真ん中を目がけて打ち下ろす。

 憎い。悔しい。腹立たしい。込める思いは万感なれど、振るうはただの一撃のみ。

「お前なんかァ――――!」

 凄まじい風圧と共に、スイカの放った一撃は玉と化した化物に突き刺さった。鈍い音が鳴り、球体が弾ける。四方八方に飛散するのは化物の骨だ。雨雪の如く周囲一帯に降り注ぐ。彼女は頭に落ちてきた骨を握り締めて、磨り潰した。

 息が荒い。眩暈がする。スイカは自分の手が震えていることに気づいた。どうしてなのかは分からない。日章のもとに戻らねば、そう思ったが、気が遠くなるのを感じた。



「スイカ、スイカ? どうしたんだ、具合でも悪くなったのかい?」

 目を開けると、日章の顔があった。スイカは父親の笑顔を見るや否や抱き着く。背中に手を回して、どこも異常がないことに気づいて息を漏らした。

「おいおい、本当にどうしたんだ」

 日章はスイカの頭を愛おしげに撫でる。

「……お父さん、お父さん、ごめんね、ごめんね」

 イルカショーが始まった。観客が悲鳴のような歓声を上げる。スイカはその中で一人だけ嗚咽を漏らしていた。何度も日章に謝っていた。彼には何のことを言っているのか分からなかっただろう。中枢から戻ってきた者は、その場所も、そこで起きたことも、自分が死んだことでさえも、何も覚えていないのだから。

「お父さんは何があったか知らないよ。スイカが何かしたのかもしれないね。けど、スイカが父さんに謝ることなんかないんだ。何をしてもいい。何をしたって、父さんはずっとスイカの味方だ」

 スイカは泣きながら何度も頷いた。



 この日、スイカは日章にべったりとくっ付いたままで水族館を回り、陽が暮れる前に帰宅の運びとなった。スイカが事故には気をつけるようにとしつこく言っていたからか、日章は必要以上に速度を出すことはなかった。そんなことは無駄だと知りながらも、助手席に座っている間、スイカは祈るようにして手を組んでいた。

 無事に家に戻ると、月美の具合はすっかりよくなっていて、お土産のぬいぐるみを見ると嬉しそうに微笑んだ。三人での夕食はいつも以上に賑やかだった。

 全て、夢だったら、嘘だったらいい。

 しかし、この温かさと幸福までもがそうなら、自分の現実とは、なんだ。スイカは狂ってしまいそうだった。中枢での戦いも、自分の身体が焼けて、溶けていく様も覚えている。未だ日章がどうなるかも分からない。……中枢にはいつ、どこで、誰が呼ばれるのか分からないのだ。自分の家族が今まで巻き込まれなかったのは幸運に過ぎない。賽の目で同じ数を出し続けていただけなのだ。

 次は、誰が死ぬ。考えたくなくても、頭は勝手に回り出す。

 その夜、スイカは一睡も出来なかった。



 平日の朝、日章は早くに家を出て仕事場へ行く。

「スイカ……? 今日は早いんだね。父さん、そろそろ仕事に行ってくるから」

 スイカは日章を引き留めたかった。出来るだけ傍にいて欲しかった。だが、事情は説明出来ない。このまま何も話せないままではきっと後悔する。それを判っていながら、彼女は小さく手を振り、父親の背を見送った。日章が病院に運ばれたと聞くのは、間もなくのことであった。

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